曇天山の風船
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
む、つぶらやくん、あれ見えるか?
風船、だよねえ、たぶん。ちょっと珍しくなってきたんじゃないか、あの手の飛んでいく風船。中身はヘリウムガスなんだっけか。
伝聞だけど、ヘリウムガスを積んだ風船は最大で高度8000メートルあたりまでたどり着くという。空を飛んでいるとはいえ、エベレストレベルまでひょいひょいと身体を運び、その後に気圧さなどで弾けてしまうのだという。
これ、なかなかすごい所業だと思わないかい? 神話とかオカルトと絡めるとさ。
人がなかなかたどり着けない場所は、神様やあやかしの住む場所とされるのは古今東西で様々に語られていることだ。山の高所などは、その最たる例だろう。
そこへやすやすと踏み込んだ風船たちは、何を見ているのだろうね? 人であれば、えっちらおっちら上ってくる気配を察して。航空機たちであれば、その発する音を聞いて、姿を隠してしまうやもしれないもの。
それがひょっこり現れる風船であったならば……うっかり、その身体をさらすことがあるかもしれないね。
少し前に父から聞いた話なんだが、耳に入れてみないか?
父が子供だったとき、友達から不思議な話を聞いたのだそうだ。
ときどき、いつも見る山の向こうに、ずっと高い山の影がそびえたっているのが見えるのだと。
富士山か何かか? と父は尋ねてみたらしい。当時、住んでいたところは遠方に富士山をとらえることができたからね。雲にかかることも多いその御姿がたまたま見えただけかと思ったものの、違うと返される。
それは富士山よりもずっと高くて、山々の背後にそびえ立ち、湧いた雲の向こうにてっぺんが隠されて見ることができないのだという。
山は晴れの日に見ることはできない。目にするのは決まって、雲が空を満たす曇天の時なのだと。
もし昔からあるなら、父をはじめとする多くの人がとっくに気づいているはず。
友達の話だと、その山らしき高いものを見たのは二か月前がはじめてだったという。条件を満たす曇天の日は、今日までで数えるほどしかなく、友達も目にできたのは数回だけ。
父も友達から話を聞いてから、目にしたのは一週間後のことだったとか。
それは確かに富士山ほどの遠方にありながら、天高くそびえ立っているのが分かった。いつも見る自分の風景にないものだから、ちょっと意識すれば容易に判別がついたらしい。
かの山のてっぺんを覆いつくす雲は、よく見るとその近辺だけ緩やかに渦を巻いているように思えたのだとか。
そして、その山らしきものは唐突に消える。少しでも空のどこかしらに晴れ間がのぞくと、まばたきする間にかき消えてしまう。まるでいたずらの見つかった子供が、あっという間に退散してしまうかという逃げっぷり。
その性質を知ったのならば、なるほど。ただの山じゃあないなと、父にもすぐ見当がついた。そして、雲の向こうのてっぺんに何があるのかを探ってみたいと考えたんだ。
徒歩をはじめとした移動手段じゃあ無理だ。ここから3ケタのキロメートル離れている富士山と同じくらいの遠方にあるなら、直接おもむくことはできない。
ならば、空を飛べるものならどうだ、と父と友達は考えた結果、風船を思いついたのだそうな。
折よく、アイデアを考えた数日後。家の近くで新しいデパートの新装開店のお祝いだかで、ヘリウムガスの入った風船を配っているところに出くわし、二人して風船をたっぷりもらってきたらしい。
もちろん、その風船を使って自分たちが浮くなどというメルヘンなことは考えない。このたっぷりとある風船たちをかの山へ向かって飛ばし、探ってもらおうと考えたんだ。
――ただ風船を飛ばして、カメラもなにもつけないんじゃ調査もくそもないだろう?
ふふ、それは父も話をしてくれたときに笑っていたよ。完全に若気の至りで、メルヘンは遠ざけてもロマンとバイアスを捨てられていなかったと。
あの風船たちのうち、一つだけでも戻ってきてくれやしないか……などと、曇天の空へ風船を大量に飛ばしながら、父と友達は思う。それぞれの風船に、自分たちが飛ばしたものだという目印をつけていた。
それから一週間ほどが経つ。
風船を飛ばした日からは晴れた日が続き、かの山らしき影は一度も目にしていない。
父が学校から戻ってきて、宿題へ取り掛かろうとしたタイミングで鳴り響く電話の音。出てみると例の友達で、風船が戻ってきたのだと興奮した様子で伝えてきた。
お互いの家の中間地点にある公園で待ち合わせ。先に来ていた友達の手には、すっかりしぼんだ風船がひとつ握られていた。
かなり薄くなっているためか、風船は全体的に白みを帯びていたが、友達が飛ばしたものであることを示す、へんてこキャラクターの模様が描かれている。
「持ってみ?」と促されて、受け取る父はその意外な重さに、ずんと腕ごとよろめいてしまった。
液体、固体などが入っている気配はない。だとしたら気体なのだろうけれども、これほどまでの密度に重さが集まっているものなど、父にも友達にもさっぱり想像がつかない。
風船の口はがっちりととまっている。飛ばす時と変わらない輪ゴムがそこにあった。そもそも風船が変色するほどの大冒険を経ていたなら、このようなゴムが無事であるとも考えづらいのだが。
友達はあらかじめはさみを持ってきていた。それでもってゴムを解くことなく、ちょきんと風船の端を切ってやる。
中から何が出てくるか……父と友達はそれを見届けるべく、目をこらしていたのだけど。
ふと、二人の前を漆黒が覆った。風船から飛び出してきた、真っ黒い布地のようなものが、目の前へいっぺんに広がったんだ。
そこに映し出された画面は、最下部を雲が覆っており、その上に広々とした真っ白い台地が見えたらしい。
そこには黒々とした身体を持つ小人らしきものが羽を生やし、何十、何百と飛び回っている景色だったとか。その彼らの飛ぶところより上は暗闇ではあるものの、星らしきものの光はみじんもなく。宇宙とは別のところだと、二人は感じたとか。
そしてその雲間から、この風船がぬっと顔を見せたところで、二人の見せている画面は唐突に途切れてしまう。
目前がぱっと、いつもの景色に変わるも、二人が見回した先にはあの画面で見た、羽ある真っ黒な小人たちが四方へ飛び去っていくところだったという。
彼らは家といわず、車といわず、電柱といわず、あらゆるところへ接したところへ瞬時に溶け込み、見えなくなってしまったとのことだ。
それ以来、父と友達があの曇天の下で見えない山を見ることはなくなってしまう。限られた期間ということもあって、二人のほかに目にした人も錯覚として片づけるようになっていってしまったとか。
しかし、父と友達は思う。あの小人たちは、いやひょっとしたらあの山らしきものは風船を通して、この地上へ引っ越してきたのではないかと。
彼らがいたためにこれまで、そしてこれからも何が起こるか分からないかもしれない、とも。