02 薔薇の精霊
薄暗い。
昼間なのに、まだ朝方のような雰囲気だ。
仮に朝ならばこれから明るくなっていくだけのはずなのに、そんな気がしない。
(この場所はもしかしたら)
(昼を知らないで、朝と夜だけを繰り返しているんじゃないだろうか)
スルドはそんな理不尽な考えを抱いた。
ともすれば強すぎる東国の陽射しが届かない、ここは異国。それとも、異世界。
(不思議な感じがする。それは本当だ)
高い生け垣は、まるで侵入者をじっと見守っているようだ。そんな気がすることは確かだった。だが、そんなのは気のせいに決まっている。
(そうさ)
(怖くなんてないさ)
自分の勇気に満足をして、少年はきた道を戻ろうと考えはじめた。もともと、お使いでやってきているのだ。寄り道は褒められたことではない。
(うん?)
しかし、そのときであった。
(向こうは何だろう)
少年は、薔薇の生け垣が造る迷路がふっと途切れている場所を見つけた。少し空間を置いてから、暗い緑と紅朱の壁は先へと続いている。
スルドはひょいと、その隙間をのぞき込んだ。
のぞき込んでしまった。
その瞬間、彼は心臓が止まるかと思った。
薔薇の植えられていない、四方数ラクトの草の上。
人が、倒れていた。
とっさにスルドの内に浮かんだのは、ここの薔薇自体がやっぱり魔物で、美しさに釣られてやってきた人間を食べてしまったのではないか――という、妖怪譚のような空想だった。
だが、そんなことのあるはずもない。
薔薇は薔薇だ。ただの植物だ。どんなに不気味でも、どんなに美しくても、人間を取り殺したりはしない。
「お、おい」
思い切って彼は声を出した。ただの植物だと思うのに、彼の言葉に薔薇たちが耳をそばだてているような感じがした。
「どうしたんだ? 大丈夫?」
彼はその人物が気分を悪くして倒れているのではないかと考えた。
だが、その考えには違和感がある。
「ん……」
かすかな声がした。スルドはまたしても、心臓が痛む気持ちを味わった。先ほどの血管が縮むような凍る思いと違い、今度は一気に血圧が上がり、鼓動は大きく跳ね上がった。
「だあれ……」
(薔薇の――)
そこにいたのは、薔薇の精霊だった。
(いや、そんな馬鹿な)
スルドは首を振った。
(ただの……女の子じゃないか)
薔薇に守られるようにして眠っていたのは、彼と同年代ほどに見える少女だった。
伝説に謡われる黄金の川のように、長い金の髪が揺れる。濃い蒼をした瞳はゆっくりと開かれ、ぼんやりと瞬かれた。薔薇の色をした短い下衣は少しめくれており、若く健康的な張りを持つ脚が、眩しいほどに白く伸びていた。
浅黒い肌を持つ東国人にとって、白い肌というのは異質な感じを思わせるものだ。
珍しいと言い立てるほど目にしない訳ではないが、町なかにいれば「違う存在」として自然と目につく。
彼と同じか少し年上に見える少女は、しかしただ「肌が白い」という理由で彼の目を釘付けにしたのではなかった。
たとえ西へ行き、誰も彼もの肌が白かったとしても、スルドはほかの誰にでもなく彼女に目を奪われるだろう。
少女は、美しかった。
精霊だと――人間ではないと、思うほどに。
「誰?」
うたた寝から目覚めた少女は、まだ夢と現実の間をさまようように、横になったままで再び問うた。
「あ、ス……スルド」
彼は名乗ったが、この名前は少女にとって、何の意味も持たない音だった。
「誰なの」
少女は繰り返し、そこでゆっくりと身を起こした。
「何か届けものなら、玄関はこっちじゃなくて向こうよ。バチルカを呼ぶといいわ。受け取りの署名でも必要なら、バチルカからもらうのね」
覚えのないその名は、おそらくラギータ家唯一の使用人のものだろう。それは少年にも推測ができた。
「あ、いや、違……」
何も違わない。スルドは、その通りのことをしにきたのである。
なのに、どうしてか否定の言葉が口をついて出た。
「違う? では、何の用事なの?」
少女は気だるげに、胸元まである長い髪をかき上げた。その動作に、小振りの乳房が揺れる。
スルドは気づいてしまって、身を固くした。
袖のない、薄い上衣の下に、彼女は何も身につけていないようだった。
「――スルド」
彼の名を思い出したように呼んで、少女は地面に座り込んだまま、上目遣いで彼を見た。
「それでは、手にしているそれは、私に持ってきたのかしら?」
「あ……いや」
もちろん、そうではない。これは女主人に頼まれたものだ。
「ええと」
彼はごくりと生唾を飲み込んだ。
「き、君は?」
「リティリーザ」
少女は答えた。
「私は、リティリーザ・ラギータよ」
当然と言えば、当然だったろう。彼の目の前にいる少女リティリーザは、この薔薇の館ラギータ家の娘だと名乗った。
「これは、君の」
君のお母さんが、町の装飾師に頼んで。
スルドは、そうしたことを言おうとした。言おうとしたのだ、本当に。
「――これは、君のために」
だと言うのに、実際に出てきたのはその言葉と、それから細長い箱をリティリーザに差し出す動作だった。