01 出来心
それを目にせぬように。
それに近寄らぬように。
その声を聞かぬように。
さもなくば――。
緊張した面持ちで、浅黒い肌をした少年は黒く塗られた柵状の門を開けた。
キィ、と甲高い音が耳障りだった。
少年は少し顔をしかめ、門をくぐると丁寧に閉めた。キィ、と蝶番はまた鳴いた。
それから彼は正面を向き、ごくりと生唾を飲み込んだ。
柵の外から目にしたことならば幾度もあるが、足を踏み入れたのは初めてだ。
その額に浮かぶのは、東国の強い太陽のために生じる汗か、それとも不安による冷や汗だったろうか。
(何も……)
(怖がることなんて、ない)
少年は深呼吸をひとつすると、改めて一歩を踏み出した。
『――どうしたんだよ』
『婆ちゃん』
彼がたまに配達に行く装飾品の店で、店番の老婆が具合悪そうにしていたのを見たのは、ほんの少し前のことだ。
「どうしたんだよ、気分が悪いのか。お医者でも呼んできてやろうか」
「ああ、スルド。大丈夫だよ、少し目眩がしただけさ」
老婆はそう言って手を振った。
「ただ、届け物は明日にしなくちゃならないね。歩くのが億劫だよ」
「何だ」
少年は笑った。
「そんなの、俺が行ってやるよ」
気軽に、スルドは言った。
「いつも注文をもらってるお礼代わりにさ」
「いい子だね、でも、駄目だよ」
老婆は首を振った。
「危ないからね」
「何だよ」
彼はまた笑った。
「いっつも、婆ちゃんが届けてるんだろ? 俺が危ないことなんて、あるはずないじゃないか」
スルドは未成年だが、成人として認められる十五の誕生日まではあと半月もない。立派な男になるところである。と、少なくとも本人は思っていた。
「あ、もしかして」
ふと、スルドは首をかしげた。
「つまりは、俺なんかに高級品を預けるのは心配だってこと?」
まさか売り飛ばすとは思わないだろうが、うっかりなくしてしまうのではなどと、子供にするように案じられているのかと思った。
「いいや、可愛い坊や。そんなことはあるもんか」
老婆は苦笑いのようなものを浮かべて首を振った。
「お前はいつもきちんと仕事をする、いい子じゃないか」
「じゃあ、やるよ。やらせてくれよ」
少年は意気込んだ。
「俺の婆ちゃんは、早くに死んじゃったからさ。婆ちゃんたちには親切にするって決めてんだ」
スルドは手を差し出した。老婆は少し黙って、有難うよと言った。
「それじゃ頼もうかね」
「任せといて」
にっと少年は笑った。だが、老婆は笑わなかった。
「いいかい、スルド。これだけはよく聞いておくれ」
真面目な顔で、彼女は彼に告げたのだ。
それを目にせぬように。
それに近寄らぬように。
その声を聞かぬように。
ふるふるとスルドは頭を振った。
心配することはない。「婆ちゃん」は、ちょっと心配性なだけだ。まるでここが魔物の館のような言い方をしていたが、そんなものであるはずがない。そう思った。
ここは、ちょっとばかり古くさくて、不気味な感じはあるけれど、ただの家だ。
普通と違うのは――この、庭園。
偏執的な庭師が作り上げたものか、たった一種類の薔薇だけが、狂ったようにこれでもかと植えられている。
花の季節だった。
真紅の花々はこれでもかと咲き乱れて、ラギータ家の庭園を派手派手しく染め上げていた。
だと言うのに、「明るい」という感じがしない。
高く延びた木枝は初夏の陽射しを遮り、年中太陽に照らされる東国の町のなかで、ひっそりとした影を作り続けていた。
(そうだ、それだけだ)
(日影なら、涼しくていいじゃないか)
怖ろしく思うことなんて、何もない。
スルドは足早に、玄関へと向かっていった。
老婆の指示は、余計な興味を抱くことなくまっすぐ戸口に向かって、この広い館にひとりだけいる使用人を呼び出し、女主人に頼まれていた首飾りの箱を渡したらすぐさま踵を返して門を出て行くように――というようなことであった。
何も見るなと。
何も訊くなと。
(婆ちゃんはもしかしたら)
彼は思った。
(ここの女主人が怖いのかな)
ラギータ家は、代々女が家督を継ぐと言う。それは過去に家を興したのが女だったことに由来するが、スルドはそんなことを知らない。男勝りで怖いおばちゃんが住んでいるのではないかと考えた。
きっとそうだ、と決めつけると、彼は少し安心した。
この薔薇の迷路を歩いていたところで、魔物が襲いかかってくるはずもない。当たり前だ。
そこで少年は、意味のない反骨心を抱いた。
自分はこの場所を怖がってなどいない。その証拠に――。
(この薔薇庭園を散歩するくらい、俺にはどうってことない)
(怖がりのジンカリーに、あとで話してやろう)
同じ店で働く友だちは、ラギータ家の薔薇園は不気味で近づくのも嫌だなどと言って、その付近に配達があるとスルドに頼んできたりする。庭園に怖いものなど何もなかったと教えてやれば、安心するだろう。
それに、ちょっとした自慢でもある。肝試しを成し遂げたかのように「スルドはすごいねえ」と言われるだろうと考えれば、心が弾んだのだ。
反骨心。冒険心。――出来心。
それが、少年の道行きを決めた。