【最終話】輝く海をみつめて
「大丈夫か。熱湯はかからなかったか?」
「はい、服に少しかかりましたが、何ともありません」
「それにしても何も無くて良かった。一人にしてしまってすまなかった」
「ここに誰か来るなど、思いもしませんわ。お茶を淹れたら、蝋燭のところへ参りましょう」
リュディーヌは気丈に振る舞っていたが、柄杓を持つ手が震えていた。
「僕がお茶を淹れよう。そこに座っていて」
シルヴェストルが茶を淹れ、互いにカップを持って螺旋階段を上がっていく。
蝋燭のすぐ近くは暖かいが、テーブルがある場所はガラスの無い窓の下で、冷たい風が入ってくる。
シルヴェストルは階下から掛けるものを持ってきて、リュディーヌの肩から掛けた。
「……僕も一緒にくるまってもいいかな」
「……はい」
恥ずかしそうにリュディーヌが言うと、シルヴェストルは隣に座り直し、掛け物に一緒にくるまって、海が明るくなるまでいろいろな話をした。
「リュディーヌ嬢、この絵本を僕に読んでもらえないだろうか」
「……はい、あまり面白くないかもしれませんが」
リュディーヌは静かに『1月1日の明るい窓』を読み始めた。
不思議な声だ。少し掠れている感じがあるのに透明で澄んだ声をしている。
シルヴェストルはその声をとても心地よく聞いていた。
リュディーヌの声で聞くと、この仄暗い話がそれほどには聞こえないから不思議だ。
「……マイーヤは窓を拭くように言われました。
家の外から窓を拭くなど、おかしなことです。
それでも妹の言うことは絶対でした。
マイーヤは母の形見のショールを頭からかぶり、
首から冷たい空気が入らないようにぎゅっと結んで外に出ました。
真っ暗な外から家の中を見ると、とても暖かです。
テーブルに1月1日のごちそうが並んでいました。
マイーヤは食べたことがないので、そのごちそうがどんな味なのかは分かりません。
でもあのリボンが結んであるものがとり肉ということは知っています。
鳥のことは知っています。
空を自由に飛んでいる鳥です。
きっととり肉を食べたら空を飛べるようになるのかもしれません。
マイーヤは少しだけ、とり肉を食べてみたいと思いました。
でもそれは、無理なことだというのも知っています。
マイーヤはたくさんのことを知らないけれど、知っていることもあるのです……」
頑張って明け方近くまで起きていたシルヴェストルだったが、これまでの疲れもあったのか、いつのまにかリュディーヌに寄りかかって眠ってしまっていた。
──私は夜起きていることに慣れているけれど、シルウィ様は違うものね。
シルウィ様と、その名を心の中で呼ぶことにもまだ抵抗が少しある。
でもその名を口にすると、温かい気持ちになった。
こうしてひとつの掛け物に一緒にくるまっているなど考えられないことだけれど、心地よいぬくもりにずっとこうしていたいと思う。
リュディーヌはシルヴェストルを起こさないようにそっとその居心地の良い場所から離れ、一人ドアの外に出た。
水平線がうっすらと白くなっている。
まだ朝日は昇っていないが、もうすぐだ。
頬を撫でる風が冷たいが、不思議と寒いという感じはしなかった。
リュディーヌは海に向かって話し掛けた。
「お父様、お母様……。愛しく思う人がいます。とても力強く、私に幸せをもたらしてくださるお方です。ただそこに居てくださるだけで暖かくなって、でも胸の音がうるさくなって、その手が持つ古びたカップさえ愛しくて……。
ねえエディット、私、恋をしているのかもしれないわ……こんな気持ちになるのは、初めてなのよ……」
何も心に留めておけないエディットは、私がそう言ったら何と応えてくれただろう。
どんな正直な言葉を私にくれただろうか。
こんなにも、飾らないエディットの言葉を欲しいと思ったことはなかった。
当たり前のように、海はただ穏やかに水面を揺らしているだけで、欲しい言葉は貰えなかった。
その時、ドアが開いた。
「リュディーヌ嬢! どこへ行ってしまったのかと……眠ってしまってごめん」
リュディーヌは、眠ってしまったことを謝るシルヴェストルにぎゅっと胸を掴まれた。
立派なところも素敵なところも尊敬できるところもたくさんあるのに、しゅんとしているその姿が何より愛おしく思える。守られるだけではなく、守りたいという不思議な気持ちになった。
この方となら、真っ直ぐにどこまでも一緒に歩いていける気がした。
「シルウィ様、夜明けです。海が明るくなりました! 海鳥が飛んでいます」
シルヴェストルが外へ出ると、初めて見る、朝を迎えた海がそこにあった。
少し風があり細かな波が朝日に照らされ白く光っている。
その海面を、海鳥が飛んでいく。
ただ美しいだけではなく、清廉さを湛えたその姿に、シルヴェストルは思わず背筋を伸ばした。
真っ直ぐな一本道だった自分の道から、道なき道に逸れてしまったのだと思っていたが、今はこの灯台までその道が続いていたのだと思えた。
迷惑などという言葉では言い表せられないほどの自分の翻意から生じたことを、これから誠実に少しずつでも返していきたい。
王宮の椅子に座らなくても、人の為にできることは多くあると信じて。
隣に居るリュディーヌの頬が朝日に光っていた。
「……美しいな……」
「そうなのです、朝の海の本当の美しさは、夜の海を見た者にしか分からないと」
「いや、リュディーヌ嬢、君が……美しいよ……」
「リュディーヌと、お呼びください……」
「リュディーヌ……この道を共に歩いていこう」
「……はい、シルウィ様」
シルヴェストルはリュディーヌの肩を静かに抱き寄せた。
白い海鳥を目で追うリュディーヌの頬に、シルヴェストルはそっと唇で触れる。
こんなにも誰かを、共に過ごす一瞬を、愛しいと思ったことはなかった。
驚いたリュディーヌの紫色の瞳が、ほんの少し細められ恥ずかしそうな微笑みを浮かべた。
その微笑みは煌めく朝日を跳ね返す水面のようだった。
「あの海鳥の中に、とり肉を食べて空を飛べるようになったマイーヤがいるかな」
「きっといます。ほら、あの鳥かもしれません!」
リュディーヌは遠くを指さした。
小さな柵の向こう側にもまた『生』があるのだと、シルヴェストルの瞳も白く自由な海鳥を追いかけた。
シルヴェストルとリュディーヌの道はこの灯台で一つになり、ここからずっと長く続いていく。
おわり
「暗い海に灯りを点して」、こちらで完結となります。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
青波鳩子(*´ω`*)