【24】溢れた涙と笑い声
「遅くなって申し訳ございません」
シルヴェストルはワンピース姿のリュディーヌが薄っすらと化粧をした顔に見惚れ、カタンと音を立てていきなり立ち上がった。
だが何のために立ち上がったのか自身でも分からず、そのままリュディーヌを席に案内して椅子を引いた。
「……すまない、あまりに可愛らしくて、驚いてしまった」
「本当ですね。荷馬車の馭者が少年だと信じていたとは思えないほどに」
正直すぎたシルヴェストルの言葉に、敢えてアルフはそう続けた。
「これからダンが料理を出してくれることになっているが、そのダンもホルスもネリアも、みんなで同じテーブルで食事をすることにしたのだが構わないだろうか」
「もちろん、そうしてもらえたら嬉しいです。皆と一緒のテーブルで食事をいただけるなんて、夢のようです」
「それなら良かった。では用意ができ次第運んでもらいたい。私は食後の皿洗いをすることになっているんだ」
「ついこの前まで第一王子として傅かれていた方とは思えない手際で洗うのですよ、これが」
アルフが笑った。
「私ももちろん手伝います!」
「リュディーヌ嬢、ありがとう。一緒にやろう」
ダンとホルスが皿を運んでくる。ネリアが大皿からサラダを盛り付けてくれた。
「鴨肉のパイ包み焼きです。リンゴも入っています」
「これを僕はとても楽しみにしていたんだ」
シルヴェストルが、ダンがパイを切り分ける手元を嬉しそうに見守っている。
アルドワン伯爵家に良いことがあると、決まってこの料理がテーブルに載った。
思っていることを全部言わずにいられないエディットは、ひと口食べるたびに美味しいと言い、お母様に『黙って食べなさい』と優しい目で叱られていた。
それでもひと口ごとに『リンゴが甘酸っぱくて美味しい』『パイがサクサクよ』と言ってしまうエディットに助け舟を出すように『鴨のお肉が柔らかいわ』とリュディーヌも感想を言って、エディットと一緒にお母様に叱られた。
お父様は困ったような笑顔を浮かべながら『まあ今日は祝いだからなぁ』と、とりなしてくれた。
リュディーヌはそんなことを思い出して涙が浮かびそうになるのを、ここで泣いてはいけないとなんとか堪えていた。
「本当に旨いな……。リンゴの酸味が鴨の甘辛いソースに良く合っている。鴨肉も柔らかくて……これは旨い……パイが音を立てている」
シルヴェストルの言葉に、ダンが心から嬉しそうな笑顔を浮かべた。
毒見係が先に食べてそれから運ばれてくる、冷めてしまった料理しか口にしてこなかった。
何かのパイ包みが出されても、パイ生地はいつもしっとりしていた。こんなふうにナイフを入れるとサクッとそこから湯気が立つような料理を、シルヴェストルは食べたことがなかったのだ。
「これは本当に旨いですね」
アルフの皿からすぐにパイが消えて、ダンが慌ててもう一切れ載せると、シルヴェストルもすかさずダンに頼んだ。ホルスもネリアもそんな三人を見て微笑みながら食べている。
リュディーヌはついに堪え切れなくなって、涙を落とした。
鴨肉のパイ包み焼きの美味しさと、いつかの記憶と、そして今このテーブルで楽しそうに食べている人たち。すべてがリュディーヌの心を揺さぶった。
父母が亡くなっても、エディットが毒杯を受けたと聞いても、灯台で孤独に耐えても、どんな時も涙を堪え、決して落とすことはなかったのに。堰を切ったように涙が次から次と溢れて止められなかった。
「……リュディーヌ嬢……」
「……申し訳、ありません、こんな幸せなことが……あるのだと……夢に、見ていたような、暖かいテーブルで……パイ包みは、とても美味しくて……懐かしくて……」
シルヴェストルは初めてリュディーヌが感情を溢れさせるのを見て、膝のナフキンを無造作にテーブルに置いてリュディーヌの傍に行った。その震える背中を優しく撫でる。
これまで辛いことが連続で高波のように押し寄せていただろうに、リュディーヌは誰かに寄り掛かることなく一人でずっと耐えてきたのだ。灯台へ送ってしまった自分もそんなリュディーヌを傷つけた。
シルヴェストルは泣かないでとは言わなかった。
悲しみを全部出してしまえば、空いたところに温かいものを受け入れることができるだろう。謝罪の気持ちと悲しみに寄り添いたい気持ち、すべての思いを込めてリュディーヌの背を撫でる。
「お嬢様、泣くほど美味しいと! ありがとうございます!!」
ダンが言うと、アルフが笑った。
「私も泣きそうになったほど旨いですからね」
リュディーヌはハンカチで涙を押さえ、
「ごめんなさい、本当に泣くほど美味しいわ。たくさん食べられないことに、また泣きそうになるけれど……」
そう言って笑顔を見せた。
シルヴェストルはポンと軽くリュディーヌの肩に触れて席に戻る。
『忘れるところでした!』と席を立ったダンが、ジャガイモのグラタンを持って戻って来た。好物を他にも作ってくれていたのだ。
リュディーヌは胸もお腹もいっぱいになって苦しさを覚えたほど、この家での初めての食事を楽しんだ。
泣いてしまったことで、何かリュディーヌの胸を塞いでいた硬いものが融けていくように思えた。エディットや両親のことを思うと、自分だけがこんなに幸せでいいのかと感じる。それでも少しずつ、それも許されるのではないかとも思い始めていた。
「本当に一緒に行くというのか。今夜はゆっくり休んだ方が良いように思うが」
「灯台守は私のお役目ですので、今夜もしっかり灯りを点そうと思います」
広くないキッチンの洗い場で、リュディーヌはシルヴェストルが洗った皿を受け取ってはクロスで拭いている。
アルフが言ったように、本当にシルヴェストルは手際良く皿を洗っている。
「灯台には馬で行くことになるが大丈夫だろうか」
「はい、馬には乗れます。馬車に乗るよりもたぶん上手くできます」
リュディーヌがそう答えると、シルヴェストルが喉を見せて笑った。
「リュディーヌ嬢も冗談を言うのだな」
「まっ……真面目に申し上げましたのに!」
「分かった、座るだけの馬車より上手に馬に乗れるのなら安心だ」
アルフは皿洗いをする二人を部屋の外からそっと見守っていたが、シルヴェストルがあんなふうに笑うとは思ってもみなかった。そもそも声を上げて笑うなど、アルフが知る限りではこれまで全くなかった。
また、リュディーヌ嬢も食事中に泣いてしまったことで最初は皆に謝って小さくなっていたが、むしろ泣いたことで表情を取り戻したようにも感じられた。
泣いてしまうこと、声をあげて笑うこと、そんなことを自分に許してこなかったのかもしれない二人は似ているとアルフは思った。