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【20】シルヴェストル、灯台へ

「殿下、リュディーヌ嬢の意識がありません! 水を持ってきます!」


アルフはそう言うと、階段を駆け下りて行った。

リュディーヌ嬢を横にしなければと抱えると、あまりの軽さに愕然とする。横抱きにして狭い螺旋階段を下りるのは難しかったがなんとか階下に下り、粗末なベッドにリュディーヌ嬢をそっと寝かせた。

ちらとリュディーヌ嬢に目を遣り、掛け物がゆっくり上下しているのを確認してからアルフのところへ行く。


「殿下、どちらの樽にも水がありません。持ってきた大樽を運ばないといけないようです」


一階に小さな水場があった。大きな樽がありその上に柄杓がある。半分開くようになっている蓋は開いており、中身は空っぽだった。


「樽を運んで来よう」


雨の中、島への入口で停めた荷馬車へ荷物を取りに行く。馬は森の中に繋いであった。

灯台に停めてある台車で細い道を行くが、強い雨と風に恐ろしい思いがした。

朝だからいいものの、これが夜ならば、風雨の中この海の上の道を歩く勇気は持ち合わせていない。


大きな樽をアルフと二人がかりで台車に載せ、アルフが引っ張り自分は押した。

こんなことを、リュディーヌ嬢が一人でしていたのだと思うと、いろいろな後悔が雨と一緒になって自分を叩いた。


どうにか樽を灯台の中に運び入れ、柄杓でコップに水を入れる。

ティースプーンを探したが見つからず、コップだけを持ってリュディーヌ嬢のところに戻った。

自分のハンカチを取り出し、人差し指に巻いて水に浸した。それをリュディーヌ嬢の口元に持っていく。乾いて皮がむけてしまっている唇に、そっと湿らせたハンカチをあてた。


こんな場所に彼女を送ったのは紛れもない自分だ。

王籍から抜けると決めてからの数か月は、エヴァリストにすべてを委ねるために膨大な仕事をこなさなければならなかったとはいえ、一度はここに来て現状を把握すべきだった。せめてアルフに頼むべきだったのだ。

だがアルフも従来の仕事に加え、灯台のある土地のことや王都を離れるための手続きなど煩雑なことに追われていた。

行き来だけで四日かかるとあって、自分もアルフも城から離れることはできなかったことが何より悔やまれた。


厳しい修道院より自由だと思っていたが、修道院なら人目が多くあり、このように衰弱しているのに放っておかれることなどなかっただろう。自由というのは、衣食住が満たされている先にあるべきものだ。

ここには膨大な時間の自由があっただろうが、衣食住がどれ一つ満たされていなかった。

……彼女はいつから飲み食いしていないのか。

台所には空の水の樽が二つ、空の小鍋が一つ置いてあった。パンを三つに切ったものがそのまま残っていたが、固い表面に白いカビがあった。

これでは修道院どころか、重労働の鉱山のほうがまだ良い環境と言える。最低限でも温かい食事は出るし水が飲めないことなど無いだろう。

私は何をはき違えていたのか……。

何の罪もないリュディーヌ嬢を、重罪を犯した咎人よりも酷い環境に置いたのだ。

ただの一度もこの灯台を自分の目で確認することなく、頭の中で考えただけのことがうまくいくと思っていた。そのせいで、リュディーヌ嬢は……。


──何が、恋だ。


石の壁に自分の頭を打ちつけたい衝動に駆られるが、とにかく水を口に含ませなければ。

少しハンカチを絞るようにして、唇に水を垂らすが、リュディーヌ嬢に意識が無いため、水は口元からそのまま垂れてしまうだけだった。

自分の目に涙が浮かびそうになるが、そんな余計な水分を流している場合ではない。


「リュディーヌ嬢、ごめん、ごめんね」


シルヴェストルは泣きながら子供のように謝って、指先に少し力を入れて彼女の口を無理に開けた。

そこにハンカチに浸した水を絞るように垂らす。

何度かそうしているうちに、リュディーヌ嬢の睫毛が揺れてゆっくりと目が開かれた。


「……シルヴェストル、殿下……?」


「リュディーヌ嬢! 気が付いたのか、気分はどうか、水は飲めそうか!?」


「あ、あの……」


「殿下、そんな畳みかけるように言ってはリュディーヌ嬢もお困りです」


「あ、ああ、すまない……。その、意識が戻ってよかった」


「……シルヴェストル第一王子殿下、この度は、大変な失礼を……申し訳、ございません。いかなる処分も、お受けいたし、ます」


「待ってくれ、何について謝っている。大変な失礼とは何だ。リュディーヌ嬢を処分などっ……」


「殿下、私はもっと水を持って参ります」


アルフは何かを察して部屋を出て行った。未婚の男女を部屋に二人きりにしてはならないという、そういうことはこの場には必要ないように思えた。そもそも扉もない。


リュディーヌは肘をついて起き上がろうとした。

シルヴェストルの前で、横になっていていいはずもない。

自分が横になっているベッドの前で、座っていた椅子からリュディーヌの枕元まで来て膝をついているのがあのシルヴェストル殿下だという事実に、ただ驚いている。

リュディーヌは思ったように身体を起こすことができず、バランスを欠いて崩れた。


「リュディーヌ嬢! 無理に起き上がろうとしなくていい」


「……も、申し訳、ございません……」


「もう何も……謝らないで……」


シルヴェストルは、なおも身体を起こそうとするリュディーヌを抱きとめた。

腕の中で項垂れているリュディーヌは、夏が過ぎて枯れてしまったひまわりの花のようだった。こんなに細く軽くなるまで追い詰めたのは他ならぬ自分だ。謝らなければならないのは自分なのだと、シルヴェストルは言いたかった。

シルヴェストルはベッドに腰を掛けて体勢を変え、そのまましっかりとリュディーヌを抱きしめる。リュディーヌは何も言わずシルヴェストルに身体を預けていた。


「食料は、いつから足りなかった?」


「……パンはまだ残っておりましたが……あのように不敬なことばかり綴った日記を、殿下にお渡しするはずの日誌と、間違えて託して、しまい……そのことを思うと、何も喉を通らず……おりました……」


「あの日記が、不敬!? ……あれは……なんていうか、恋文じゃないか……僕は嬉しかったんだ。生まれて初めて、心が躍るような気持ちになった。まさか、あれのせいで、リュディーヌ嬢は心を痛めて……こんなふうになってしまったというのか……」


シルヴェストルは、自分を『僕』と言っていることに気づいていなかった。

そもそも今の言葉が口に出ているとさえ、思っていなかった。

これは王子として居なければならない時には決して出ない、誰にも見せなかったありのままのシルヴェストルだった。

その時、腕の中のリュディーヌの身体が硬く強張った。


「……お離しになってください、ずっと、湯浴みもしていなくて……殿下が、汚れてしまいます」


リュディーヌは恥ずかしくて消えてしまいたくなった。

夢にも出てきたシルヴェストルに抱きとめられているという、すぐに現実と感じられない状況だったリュディーヌは、シルヴェストルの言葉で羞恥心から我に返った。

灯台にやってきてから一度も湯浴みはできなかった。溜めた雨水で身体を拭くだけだったのだ。きれいではない自分が恥ずかしくて、シルヴェストル殿下の視界から消えたかった。


「お水をお持ちしました!」


絶妙なタイミングで計ったように戻って来たアルフだったが、もちろんやり取りに耳を傾けていた。


「殿下、リュディーヌ嬢をクッションにもたれかかるようにして差し上げてください」


シルヴェストルは大きなクッションを支えにするようにしてリュディーヌを座らせ、リュディーヌに水の入ったカップを受け取った。


「……ありがとうございます」


リュディーヌは身体を起こしてから少し経ったおかげか、頭がふらつくのが治まりしっかりとカップを持って自分で飲むことができた。


「水を飲むことができたようで少し安心した。動けるようであれば、朝のうちにここを出たいのだ。森の外に家を用意した。これからは、この灯台の灯りを守ることをリュディーヌ嬢一人に押し付けることなく、共に守っていくことにした。細かいことは家に行って落ち着いてから話したいと思う、一緒に来てもらえるだろうか」


これからはこの灯台で一人ではない……。

リュディーヌはアルドワン伯爵家に居た時、自分は孤児院から引き取られた子供であるということにぬかるみに足を取られたように捉われ、常に孤独を感じていた。

父母に優しくされてもどうしてもその感覚が拭えず、ずっと孤独を感じて生きてきた自分ならば、灯台にて一人で生活するとしてもどうということでもないと思っていた。


孤独はとても恐ろしいものだった。

自分を取り巻く『音』の中に、『言葉』が無いということがこんなにも不安に感じるものだとは知らなかった。

空も海も黒い絵の具でキャンバスを塗りつぶしたような黒で、空と海のその境すら判らない。波の音が地を這い足元から登ってきているのに、同時に頭からもかぶせられたようになり、身動きが取れなくなる。

本物の孤独とはこういうものだった。

海に落ちればその瞬間に黒い波が自分を咀嚼し、私という人間の存在など最初から無かったことになるのが夜の海だった。

だから必死で蝋燭の灯りを守った。

誰かを少しでも安心させられるように。

海の上の誰かと孤独を分け合って、明るい朝を待てるように。

それを、これからは一人でやらなくてもよいようになる……。

リュディーヌは重い荷物を肩から降ろしたような、そんな気持ちになった。


「……はい、承知いたしました」


リュディーヌは、自分は孤独に耐えられる人間だと思い上がっていたことを、シルヴェストル殿下に謝らなければと思った。



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