【14】日記に書いた名前
家族のことを考えるのをいったん止めて、シルヴェストル第一王子殿下に命じられた灯台守の日誌を書くことにした。
といっても毎日が変わりのない生活なので、別段書くべきこともない。
朝になって蝋燭を消して眠ったこと、昼頃起きてパンを一切れと前日に森で摘んだ赤い実を食べたこと、海岸で海藻を拾って干したこと。
そして夕方蝋燭に火を点し、暗い海を見ていたこと、ガラスの無い窓に白い海鳥が止まったことなどを書いた。
海鳥は灯台にたくさんやって来る。そのおかげでずいぶん賑やかだ。
灯台の窓からも外でも、海鳥たちの鳴き声や毛づくろいをする様子を見聞きするのは楽しかった。青い空と海に、白く自由な海鳥が飛ぶ姿をいつまでもみつめていた。
ここへ来てそろそろ五か月、いろいろなことに慣れてきた。
明日は物資が届けられる日とあって、物資の残り具合を確認していく。
水はもうほとんど無かった。桶をいくつか並べて雨水を溜めてある。そちらを洗濯や掃除や、身体を拭くことに使っている。
パンは毎日二切れを朝と晩に分けて食べていて、あと二切れ残っている。
最初から硬めのパンなので、もっと硬くなった今もそれほど気にならない。
ここに初めて来るときにシルヴェストル殿下が積んでくださった焼き菓子は、大事に食べていたけれど七日目くらいにカビが生えてしまって、慌ててその日に全部食べた。
毎回、物資の中に何らかの焼き菓子が入っているが、とっておくことはせずに少しずつだけれど毎日食べるようにしている。
伯爵邸で過ごしていた時、それほど甘い物が好きだったという訳ではないが、ここでは甘い物はとても貴重で何より特別な物になった。
食べ物を長く持たせる方法が知りたくて、そういうことに関連する本が欲しいと思い始めていた。
王宮図書室で、シルヴェストル殿下に不敬にも八つ当たりのようなことを言ってしまったことを思い出した。
国の第一王子殿下でありながら、私のような犯罪者を出した家の者にも優しい方だったのに。
アルドワン家の従者たちの紹介状に、一つ一つサインを下さった。それをお願いした私でさえ、無茶を言っているという自覚はあった。
ただ、何の罪もなく長年勤めた場所から放り出されてしまう使用人たちに、どうにか救いの手を差し伸べてもらいたかった。
心のどこかに、被害者である公爵家だけが尊重されたのだということに、ぶつけられない悔しさもあった。
エディットとイヴリン嬢の『口論の末』ならば、イヴリン嬢もエディットに何か言ったはずなのに、『判明しない』ことは被害者の有利とされたかのようだ。
私への聞き取りも、あまり気分のよいものではなかった。
エディットが『言いたい放題の子供のような令嬢』といったような証言に『間違いはあるか』とだけ聞かれた。
間違いはないのだ。
だが、正しくもない。
エディットは『言いたい放題で子供のよう』なのではなく、すべてにおいて理屈が通らないことを受け入れられず、そう思ったことを口にしてしまうだけなのだ。
例えば面と向かって悪口を言われたら、真っ向から言い返す。
『あなたって山猿みたい』と言われれば、『山猿を見たことがあるのか』と返す。相手が『見たことは無いけど』と言えば『見たこともないのに何故私を山猿と言ったのか、何を以てして知りもしない山猿に見えたのかあなたは説明しなければならない』と返す。
たいていこの辺りで相手は逃げる。だがエディットはさらに追い詰める。
そして相手が泣くまで説明を求め続けるのだ。
これはエディットだけが悪いのだろうか。
エディットに『山猿みたい』と言ったことはたいてい咎められない。ただの感想だとでもいうように。
『泣くまで追い詰めた』ということだけが取り上げられる。
聴取でも私はそこをうまく言えなかった。
私の立場で『イヴリン嬢もエディットに失礼なことを言ったはずだ』とは言えないのだ。
本当にそうなのかはその場に居なかった私には分からない。
だが、これまでのエディットを見ていると、何もない相手にいきなり悪意をぶつけることはないと、それだけは断言できる。エディットは基本的に他者にそれほど興味がない。
だから最初は相手が悪いと私には分かる。
だけどそれを主張することはできない。
そんなやり場のない思いを、シルヴェストル殿下にサインを戴くことで、間接的に『こちら側だけが悪いわけではない』と仄めかしたい気持ちもあった。
絵本の他に何か望む物はないかと聞かれたあの時、殿下に対して腹を立てたわけではない。
むしろ逆で、私を憐れんで優しくしてくださっていると分かってしまうから、悲しみと惨めさからあんな物言いをしてしまった。
シルヴェストル殿下は、絵本の王子様がそのままそこに居るような方だった。優しく美しく、穏やかな方だ。
殿下に命じられた灯台守日誌とは別のノートに、自分だけの日記をつけている。
そこにシルヴェストル殿下のことをそっと書いていた。
紹介状に戴いたサインが、流れるようなとても美しい筆致だったこと。
自分が失ってしまった名前『Ludine・Ardouin』と、シルヴェストル殿下の手で書いていただけたら、どれだけ幸せだろうと……。
あの絵本には、主人公が窓を拭く場面が出てくる。
暗くて寒い外から、明るく暖かい窓を拭く。
私はガラスの入っている窓のある部屋まで階段を降りて、ガラス越しに暗い海を眺めた。
そして息を吹きかけて曇ったところに、『Ludine・Ardouin』と、私を孤児院から引き取った父から貰った、本当は失くしたくなかった名前を指で書く。
もしもシルヴェストル殿下が私の名前を書いてくださったら、宝物にするのに──。
そんなことも、日記に書いた。
そして、『Sylvestre・Charroux』と、殿下のお名前を自分の文字で書いてみた。
紹介状に書かれていた殿下本人の手による署名にまったく及ばない拙い文字に悲しくなりながら、日記にその名を記したことに嬉しくもなった。日記を開くと殿下のお名前がある。
それは何と言えない温かさを私にくれた。
一人きりの孤島の灯台で、私は自由に好きなように書きたいことを心のままに綴ることが唯一の楽しみだった。