第214話 ジワジワと近づく
今住んでいるオルブライトの屋敷よりもこのヴァールブルクの屋敷で過ごした時の方が長い。それでも気兼ねなく過ごせるのはオルブライトの屋敷だ。このヴァールブルクの屋敷は歴史的には古い、故にどこか厳格な雰囲気で温かみがない。その屋敷に今は安堵を覚えている。
影による術は消えた、そう思っていたけれどアイリーネ以外の時は止まったままで動き出す気配もない。
そしてアイリーネ自身も先程使用した神聖力のためか体がひどく重く感じられる。
手をかざし呪文を唱える。
『祈りを捧げます、浄化して』
浄化の呪文を唱えても時は止まったまま動かない。
自分だけが世界から切り離されたような感覚に不安ばかりが募る。自分の持ち札が効かないのであれば打つ手はないと途方に暮れる。
――どうしよう、ユーリ、イザーク様、お父様。
どうすれば元に戻るの?
泣いても解決出来ないのはアイリーネ自身がよく分かっていたので、涙が溢れないように必死で我慢する。
何度目かの浄化の呪文を試したあと、静寂の中にコツコツと靴音が響いてきた。
初めは聞き間違いではないかと思えたが、今も変わらず聞こえており、自分以外にも動ける人がいたのだと、溜まった涙を拭うとアイリーネの顔に笑顔が戻った。
しかし目を凝らしても廊下の奥から歩いてくる姿に見覚えはない。
上下を黒い服に身を包んだ、長い髪を束ねた眼鏡をかけた女性。その顔は無表情で隙がない。
私以外に動ける人がいて喜んだのは間違いだったかも知れないわ。だってどう考えてもおかしいもの。
魔力の高いユーリや神聖力を持つお父様でさえ時が止まっている、それなのに動けるなんて。人を無闇に疑ってはいけないけれど、この人は私の味方ではないのかも知れないわ。
疑うような視線をアイリーネに向けられて女性は少しだけ眉を上げた。
「始めまして――ジェーンと申します」
「………」
警戒しているアイリーネは答えない。
するとジェーンは手を叩きながら高笑いをした。
その様子にアイリーネの不信感はさらに募っていく。
「まあ、警戒しているのですね?愛し子は無垢ゆえに状況が読めないと思っていましたわ」
「時を止めたのはあなたですか?」
ジェーンの眼鏡の奥の瞳が不気味に光った気がした。
「知ってどうするのですか?どうする事も出来ないのに。愛し子と呼んでいたところで妖精王は助けてくれないでしょうしね……」
ジェーンが再び声をあげて笑うと音のない公爵邸にジェーンの笑い声が響きアイリーネの耳を支配していく。
「あなたの目的が知りたいのです。もしかして……愛し子が嫌いなのですか?」
その言葉にジェーンの眉間を寄せる。
ジェーンは何も語らない。沈黙が答えと言うならば肯定なのだろう。
沈黙が続く中、しびれを切らしたのはジェーンだった。ジェーンはため息を吐くと数歩アイリーネに近づいた。
「嫌い?そんな言葉では終わりません。憎い、別にあなた個人がどうこうと言う事ではありません。愛し子という存在自体が憎くて憎くて仕方がない」
「……ルシア様を手に掛けたのに、それでも今なおその想いは変わっていないのですね」
「何!?――妖精王はそんな事まで話したのか」
アイリーネはコクリと頷いた。
「私個人には恨みなどないのなら、どうして私なのでしょうか。他国にも愛し子は存在します。数は少ないですが私は唯一無二の存在ではありません」
「……ここがアルアリアだからだ。全てはこの国から始まった。もういいだろう?」
また数歩ジェーンが近づいた。
すかさずアイリーネが後ずさっても身長差ゆえか知らず知らずの内に二人の距離は近づいていく。
「もしかして直接あなたに手を出さないと考えておいでですか?死なない程度なら……問題ない。最後の仕上げは人の手で行わないと妖精王の怒りを引き出せないですがね」
そう言ったジェーンは満面の笑みとなった。
「――っ」
アイリーネは息を呑み、また数歩後ずさる。
本当は逃げ出したいくらい怖くて仕方なかったが、時を戻してもらうまではそうもいかないと必死で耐えていた。
「さぁ――」
ジェーンが素早くアイリーネの手を掴もうとした瞬間――
「そこまでだ!」
二人の間に勢いよく何かが飛び出してきて、二人の間に距離が出来た。
目の前には毛の長い太った猫。猫なのに息を切らしている。全身の毛を逆立てて威嚇しているようだ。
「……もしかしてカルバンティエ様ですか?」
思いもしていなかった救世主にアイリーネはただ驚く。
「いかにも。待たせたね、おチビちゃん」
猫はジェーンを警戒しながらも振り向き答える。
「いえ、お会い出来て嬉しいです」
辺りを見渡して見ても時が動き出した気配はない、それでも目の前の猫の存在一つで希望が見えてくる。
嬉しそうにアイリーネは微笑んだ。
反対にジェーンは不機嫌そうにすると舌打ちをした。
「貴方様が出てくるなんて反則ではないですか?」
「そうかな?妖精王のように制限があるわけじゃないからね。誰にも咎められないと思うけど」
口調は軽くとも決して警戒は怠らない、ジェーンから目を逸らさずにカルバンティエは答える。
「………」
「どう?このままやり合うのかな?いくら君の魔力が多くともこれだけの術を使えば魔力の消費も早いでしょ?君に勝算はあるのかな」
ジェーンは踵を返すとその姿を影に変え逃げ去っていく。
「待って――!」
「おチビちゃん、追う必要はない」
ジェーンは術を解いていない、このままではユリウス達の時は止まったままだと、アイリーネは手を伸ばしてジェーンの後を追おうとした、それをカルバンティエに止められる。
「ですがユーリ達の時はまだ止まったままです。術を解いてもらわないと」
「大丈夫だよ、この術は術者が遠く離れた場合は術が解ける。それに魔力の消費が多い分、長くは保たないよ」
「そうなのですか?」
カルバンティエは目を細めて頷くと尻尾を立てて近づいてくる、そしてアイリーネの足元に擦り寄って来た。
本当は抱えようと思ったけど、太った猫は抱き上げることは難しいので代わりに姿勢を低くして頭を撫でると嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。
今の姿は本当の猫のようだとアイリーネは笑った。
そして間もなくして雷鳴が轟いた。
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