第204話 うたかたの夢の副作用
「……では、お手をどうぞ。アイリーネ様」
「は、はい……」
そう言ってイザーク様が手を差し出したので自分の手を添える。練習のため音楽はなく徒広い部屋の中に靴音のみが響いている。イザーク様のリードは正確でお手本のようだ。イザーク様の真面目な性格を表しているのだろう。
イザーク様と私には身長差がある。意識して上を見上げてもイザーク様と目は合わない。今までならタイミングを見計らったかのように私を見つめると優しげな笑みを浮かべていたのだが、最近のイザーク様は今のように目を合わせることがなくなった。私と目が合うと不意に逸らされることもあった。
私が何かイザーク様にしてしまったのだろうか。
ティータイムや食事の際にシリルが話を振れば返事はするものの、元々無口なイザーク様は雑談に加わる様子もなかった。気まずいまま靴音だけが響いているのは苦痛で時間の感覚が狂っているのか長く感じられる。
イザーク様が急に動きを止め、ため息をつくとホールドしていた手を離した。
「……私が相手ではお嫌なようですね、ここまでにしましょうか」
「そんな違います、嫌ではありません」
私が必死に否定してもイザーク様は聞く耳を持たない。今までのイザーク様ではあり得ない言葉、低い声色に怯みそうになる。
「そうでしょうか、いつもはもっと楽しそうに踊っておられますよ。今日は集中も出来てませんよね」
「嫌とかではなくて――」
イザーク様が一礼をして部屋を出ようとしている。
このまま終わらせるのは嫌だと私は大きな声で反論した。
「嫌なのは私じゃなくてイザーク様の方じゃないですか」
イザーク様は歩みをピタリと止めた。
振り返ることはなく顔は前を向けたままだ。
「私が……ですか?」
「私が何かイザーク様の気に障ることをしてしまったのでしょう?最近のイザーク様は私を避けているもの、目を合わせるのも嫌なのでしょう。私が何かしたなら謝ります、教えて下さいイザーク様」
「アイリーネ様……」
イザーク様が立ち止まったままこちらへ振り向いた。イザーク様がどのような表情でいるのか知るのが怖くて両手を握りしめると俯いた。
もしもイザーク様に冷ややかな目線でみられていたら?煩わしそうに見られていたら?そう思うと顔を上げるのを躊躇する。
イザーク様の次の言葉を待つのが苦痛で沈黙に耐えられなくて気がつけば自ら言葉を発していた。
「もしイザーク様が私の護衛であるのが苦痛なら他の聖騎士の方に変更してもらいます」
「……アイリーネ様は……アイリーネ様は私よりも他の聖騎士の方がいいと言われるのですか」
心做しかイザーク様の声が沈んでいる様に聞こえてきて、大袈裟なくらい激しく首を横に振る。
イザーク様が傷ついている。
イザーク様よりも他の聖騎士の方がいいと誤解を与えたのかも知れない。そうではないとちゃんと自分の言葉で伝えなくてはいけないわ。
「そうではないの。私は今まで通りイザーク様に護衛騎士として側にいてほしいと思っています。生まれて来てからずっと一緒に過ごして来た家族みたいなものですもの。だけどここ最近のイザーク様は私のことを……」
「アイリーネ様……」
言葉に詰まり俯いたままの私にイザーク様が歩みよって来た。イザーク様は私の正面に立つと片膝を立てて俯く私を見つめた。
「アイリーネ様、泣かないで下さい。私が全て悪かったのです」
イザーク様がそう言って私の頬を拭っていく。
「私の態度がおかしいとアイリーネ様が思われたのは、私の個人的な問題だったのです」
「……個人的な問題ですか?」
私の問に応えるようにイザーク様は頷くと語りだした。
「……うたかたの夢に遭遇したのです。諦めていたものがこの手に戻り、泡のように消え去った、ただそれだけの事なのです。本来ならば感謝しなくてはいけない出来事を私は残酷だと受け取ってしまった……ゆえに気持ちの切り替えが出来なかったのです、申し訳ありませんアイリーネ様」
「………」
イザーク様に具体的に何があったのか私には分からない。イザーク様は皆よりも大人で落ち着いている、剣術大会では優勝するほど強い。そのイザーク様が気持ちが切り替えられない程の出来事が私が眠っている間にあったということなのだわ。
「私が至らなかったばかりにアイリーネ様にはつらい思いをさせてしまい、申し訳ありません」
そう言って悲しそうに微笑むイザーク様を見ていられなくて、何とかしてイザーク様を励ましたい、と思い私は言葉を紡いでいく。
「イザーク様が至らないだなんてそんな事ありません!だってイザーク様は優しくて強くて、いつも冷静に判断できて――」
「買い被りですよ、アイリーネ様。私はそんなに凄い人間ではありません。ごく平凡な人間ですよ……」
自虐気味に笑うイザーク様に私は焦りを覚える。
こんなイザーク様は私の記憶の中にはない。
どんな言葉を重ねてもイザーク様に届かない、そんな風に思えてくる。
いいえ、諦めてはダメ。
イザーク様をこのまま放置するのはよくないもの。
意を決して息を吸い込むと一気にイザーク様に向けて語りかける。
「いいえ、イザーク様は強いです!剣術大会で優勝したではないですか。それに優しいです、だって多くの人が私に背を向けて悪い噂が立った時も罪人として断罪されても私のことを案じてくださったじゃないですか!?」
「――アイリーネ様?待って下さい」
「えっ?」
イザーク様の声は震えていて、顔色が一層と悪い。
イザーク様の変化に私は何かイザーク様の気に障るような発言をしてしまったのではないかと焦る。
「アイリーネ様、断罪とはどういうことですか?そんな事実は――ありませんよね」
「あっ――」
イザーク様に指摘されて気がついた。
そうだ、あれは一度目の話、二度目の私は知らないはず。
心配かけるのが嫌だったから内緒にしていたけれど、こんな形で知られてしまった。
「アイリーネ様……説明していただけますか……」
「…はい」
今まで私と目を合わせるのを避けていたイザーク様は今度は視線を外そうとはしない。
言い逃れは出来そうにない。
これ以上秘密にしていても話が拗れるだけだろう、それならば正直に話した方がいいはずだわ。
「……分かりました」
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