第184話 マリアとマリアンヌ
ヴァールブルク公爵家に一台の馬車がやって来た。
最近この家の公女であるマリアの新たな家庭教師となった女性を乗せた馬車だ。
馬車を出迎えたマリーは中から降りてくる人物を眺めた。スタンドカラーの白いのシャツに黒のロングスカート、長い髪は束ねられ眼鏡をかけている。見るからにカヴァネスといった女性、マリアにはジェーン先生と呼ばれている。ジェーン先生に教えを請うようになったマリアは明らかに成長していた。カーテシーを始めとした挨拶から食事に関するテーブルマナーまで貴族の令嬢なら身につけていて当たり前のマナーの最低限をマリアは習得することが出来た。
しかしマリーには少々気になる事があった。
マリアはワガママな令嬢であったがジェーンが来てからは落ちついたように見える。それだけ聞けばいい事ではないかと思われるだろう、しかしマリーにはまるで嵐の前の不気味さのように感じられて仕方ないのだ。
そんな、ジェーンをマリアの部屋まで案内すると扉をノックした。
部屋の扉をコンコンとノックする音が聞こえる。
どうぞと応えるとマリーの後からジェーン先生が現れた。先生は今日も同じ様なスタイルだ。可愛くもお洒落でもない、隙のない服装。戦闘服のようにも見える。
「マリアさん、お久しぶりですね」
「はい、先生」
そう言ってマリアはカーテシーを披露した。長年培ったものではない、完全に付け刃だ。それでも最低限であっても合格ラインに達したマリアを見てジェーンは満足そうに頷いた。
「きっとマリアさんの意中の方も褒めてくださいますわね」
ジェーンの言葉にマリアはピクリと肩を動かした。
意中の方……イザーク様。イザーク様が私を褒めるなんて天地がひっくり返ってもないだろう。私はイザーク様に好かれていない、理由はきっと私があのマリアンヌだという女性だからだ。だから私を好きになってくれる事などないのだ。どれだけ私が努力しても変わったとしてもムダだということだ。
「先生……私はもう諦めようと思います。私が好かれないのには理由があるのです。私にはどうすることもできない理由があるのです……」
「マリアさん?」
「無理なものは無理なんです!どうしようもないのです!それなのに、報われないのにずっと想い続けるなんて私には出来ない」
マリアは大きな声で自分の気持ちを吐露した。
「それに……」
マリアンヌの夢を見てから少しづつマリアンヌの生い立ちを夢で見るようになっていた。
マリアンヌは生まれこそ高貴な身分であったが孤独だった。家柄が釣り合わない者とは遊んではならないと友達もいない、両親は政略結婚で仮面夫婦。マリアンヌが生まれるとお互いに愛人を囲っていた、マリアンヌは高価なドレスも宝石も好きなだけ手に入った。しかし、欲しいとねだったぬいぐるみは必要ないと一喝され美味しそうに見えた庶民のお菓子も手に入らなかった。
そんな制限がある生活の中で将来の伴侶だと父から紹介されたのがイザークだった。同世代の誰よりも輝いて見えた。彼を教えている教師陣の誰もが優秀だと言い、加えて膨大な魔力。礼儀正しく所作だって優雅、それから外見。マリアンヌはすぐにイザークに夢中になった。マリアンヌは夢見た、イザークの隣に立つ自分の姿を。その夢は僅か二年で打ち破られた。愛し子が現れたから、そもそも正式に婚約を結んでいたわけでもないのでどうする事も出来なかった。
マリアは思う、マリアンヌはただ寂しかったのではないかと。だからこそイザークに執着していたのではないかと。
マリアはロジエから色々と学ぶ内にこのように考えられるようになった。広い世界に目を向けられるようになった。
今のマリアには優しい父がいる、マリアの事を一番に考えてくれる母がいる。だからこそマリアはマリアンヌのようにイザークを妄執していない。
「だから……」
マリアは変わろうと思う、そう伝えようとした。
「今さら何を言うつもりですか?」
低く冷たい声、マリアはハッとジェーンを見た。
「先生?」
ジェーンの見た目はいつもと変わらない。
それでもいつものジェーンとはどこか違う。
「あなたはすでに一度やらかしている。だからこそ今回あなたの兄となった彼にあれだけ嫌われているのだから。やはりあなたは無知だ」
心底可笑しいと言うようにジェーンは笑っている。
その光景は不気味でマリアは思わず後ずさりする。
マリアに近づいたジェーンは逃さないとばかりに、マリアの腕をキツく掴んだ。
その痛みにマリアが顔を歪めてもジェーンの手は緩まない。
「覚えていないなら、思い出させてあげましょう。あなたがどんな人なのか」
ジェーンはそう言いながらマリアの頭に手をかざした。
ジェーンの手のひらから金色の光が放たれると、マリアはその光にのみ込まれる。
「何?何よこれ?知らない、私じゃない。違う!」
マリアの頭の中に知らない光景が次々と浮かんでくる。記憶にないはずの光景だがマリアの身体が震えだした。アイリーネに対する暴言に暴力は執拗でマリアの姿は醜悪で見ていられない。自分がそんな人間だと認められない。
「やめて!私じゃない!だって私は――」
「ええ、今のあなたじゃない」
ホッとしたマリアの頬に大粒の涙が伝う。
よかったと間違いだと身体の力が抜けて膝から崩れ落ち、両手で顔を覆うとさらに泣き出した。
「あれは一度目のあなただ」
「一度目?」
マリアは何を言っているのか分からないと困惑しながら顔を上げてジェーンを見つめた。
「今は二度目。だからもう後戻りすることなど出来ないのですよ」
そう言うとジェーンはマリアの首に黒い宝石のついたペンダントをかけた。
「あなたは何も考える必要などない。あなたは変わる必要などない。これがあなたの役割なのだから。今さらだし、もう遅いのですよ」
もう遅い……
そうなのかな?ジェーン先生が言うならそうなのかも……
でも羨ましかったの、私もあの輪に入りたい。
暗いのも寂しいのも嫌だから、だけど叶わないなら壊すしかないのかな。
お父様は怒るかしら、私が悪いなら遠慮なく叱るお父様だから。お母様は泣くかしら、私のことを愛してくれているからどうしてだと泣くだろう。
抗いたいのに暗闇から黒い手がいっぱい伸びてきて私を捕まえる。嫌だと振り切って前に進もうとしても黒い手は離してくれない。抗っても無駄だと何かが囁くから、そうなのかも知れないと抵抗を止めた。
先の事は考えようにした、もうどうにもならないから。蓋をするように、考えるのを止めた。
マリアの首元で光る黒い宝石を満足そうに見つめたジェーンはそのままヴァールブルク家をあとにした。
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