ぬるい包丁
私は逃げた女も男も殺してやろうと包丁を握りしめて立っていた。
すると戸を叩くものがあった。間が悪いことこの上ないなと思って居留守を決め込んでいると、鍵が回って戸が開いた。
戸の外には色の白い美しい女が立っていた。女は黙って私の持つ包丁を見ている。私は取り繕うようにしてまな板の上のにんにくを刻みだした。台所ににんにくの匂いが広がる。女は長い髪を揺らしながら微笑んでいた。小さい顔に似合わない真っ赤な紅を差していた。
「お水をいただけるかしら」
女は勝手に寝室に上がり込んでベッドに横になる。むき出しになったふくらはぎがとても白い。ずいぶんぞんざいな態度だなあと思うが水を汲んでやる。コップを渡すと彼女はそれを一息に飲みほした。口からこぼれた水がむき出しの鎖骨にこぼれて玉になっている。女の足はなぜか土で汚れていた。
女の肌は白く瑞々しくて触れると暖かいだろうなと思われた。右腹を下にして寝転がっている女。黙ったまま私の顔を見つめている。早く帰ってほしいような、このまま側にいてほしいようなよく分からない気分になっていた。
「隣にきて」
ベッドの片側を叩いて女は笑った。私は無抵抗に女の隣に横たわる。女の赤い唇が寄ってくる。反射的に瞳を閉じると、女はまぶたに指を触れた。そして親指と人さし指とでまぶたをこじ開けると、そこへ舌先をちょこんとあてた。眼球から電気が走った。私は驚いてベッドから飛び起きた。胸の内側で心臓が暴れる。そんな私を見て女はクスクスと笑った。
逃げた女と男の声が外から聞こえてきた。すぐに台所から包丁を持ちだして外に飛び出す。家の外には靄が掛かっていて一寸先も見えない。舌打ちをしながら手探りで通路を確認する。いきなり後ろからにゅっと腕が伸びてきて首元に巻き付く。白く滑らかな腕。女の腕だ。彼女の体温が首元に伝わってくると急に眠たくなってきた。
「ツユクサにくちづけを」
女はそう言ってしきりに私の眼球に舌を這わせる。女の舌先が触れる度に白い光が頭の中を右から左、左から右へと走り過ぎる。何か訳の分からないことを耳もとで囁きながら私の身体全身を撫でさする女。私はもう眠くてたまらなかった。女の唇が私の唇に触れた。ぬるぬると生臭い感触。逃げた女も男もどうでもよくなっていた。
いつの間に眠っていたのだろうか。起きると女の姿はなかった。口元を拭うと赤い紅が手の甲に付着した。手を洗おうと流しに行くと逃げた女と男が折り重なって倒れていた。二人とも頭から血を流している。ひっと喉の奥に悲鳴が引っ掛かって尻餅をつく。女の背中には家の包丁が刺さっていた。
とんとんと戸を叩くものがある。この惨状を見られたらことだと思うのだが、腰が抜けて動けない。やがて鍵が回って戸が開いた。
戸の外にはあの女が立っていた。女は黙って部屋に入ってくる。外が寒いのか唇が紫色をしている。靴は履いていなかった。
女は死体を見つめる。逃げた女の手にはツユクサが握られていた。女は血まみれの花に唇を這わせる。そして死体の目玉を舐めていた。逃げたいと思うのだが全身の筋肉が重く痺れている。女は振り返り私を見て笑った。真っ赤な紅を差していた。舌先を蛇のように出しながらにじり寄ってくる。声にならない悲鳴を上げて私は気を失った。
気がつくとベッドの上に横たわっている。薄暗い部屋の中には女の姿はない。恐る恐る流しを覗くとまな板の上に包丁とひからびたにんにくスライスが置き忘れてある。死体など転がっていなかった。
三角コーナーににんにくを捨てて包丁を手に取る。柄が暖かい。とんとんと戸を叩くものがある。耳もとがざわざわと騒ぎ出す。やがて鍵が回って戸が開く。