序~終わりの始まり~
初投稿です。
神秘は科学と超自然現象に分けられた。それでも信仰はあり見えなくなってしまった者たちに祈りを捧げ人々は今も時代を歩んでいた。
頭の上で蛍光灯が不快な羽虫のように鳴っている。
「なんで、ここになんだ」
溜息と共に頭を振った…ここは首都のベッドタウンまでも行かない中途半端な位置にある路線価通りの普通の賃貸マンション。五階にある部屋の玄関…部屋番号を確認すると紛れもなく俺の部屋だ。
振り返り通路の手すりから下を覗けば幹線道路には車が走り、ひとつ隣の部屋の窓からはテレビの音が聞こえ、どこかの家の遅めの夕餉の匂いが漂いこれが現実だと言っていた。
背中に汗が流れて行くのは、十月にしては暑い日の所為なのか、目の前の事象に対してなのかは判断がつかなかった。
開け放ったドアの内側に、もう一度目を向けると黒い闇が広がっていた。
今朝出かけて行く時に開けておいたカーテンも見えなければ、その先の窓を通して向こう側に対で立っている矩形のマンションの明かりも見えない。
手を伸ばそうという気にならないのは、本能の警鐘それとも染み付いた慣習か…内装の変更依頼をした覚えもないし、停電の知らせも届いてはいなかったはずだ。
半歩下がってタバコを取り出し火を点け煙を吐いた。部屋に流れていく煙は溶け込むように見えなくなった。
「自宅に仕事を持ち込みたくないのだが」
答える相手のいない質問を虚空にしてみた。待つこと三分。変化のない事に嫌気がさし始めたところで空腹だったことを思い出し部屋に見切りをつけ食事に出かけることにした。どんな状況であっても自分の生活習慣を崩すことはできないという強迫観念めいたものが自分の中に住み着いて二十年が過ぎていた。
丁寧に鍵を掛け、もう一度閉めたドアを見つめてみた。
「さて、晩飯はどうする?」
しかし、ドアからの返事は無かった。
昨晩、朝食、昼食の献立を思い返しながらエレベーターに向かった。
「中華でも食べるか」
エレベーターまで約二十五歩を歩き答えを出した。エレベーター呼び出しパネル横の灰皿に吸殻を落としボタンを押した。禁煙が声高に叫ばれている昨今、灰皿を設置しているなど珍しい事だった。良い管理組合だと考えながら一階に下り、エントランスを抜け中庭からもう一度自分の部屋を見上げてみた。
外から見たところ俺の部屋には別段変わった様子はなかった。何かの飛行物体が衝突していたり謎の生物が住み着き、その居住空間を外にまで広げているという事もなかった。
窓があり、ベランダがあり昨日から取り込みしていない洗濯物が、だらしなくぶら下がっているのが見えた。右手で頭を掻きながら目線を下げると、目の前を斑猫が、こちらを嘲笑するように見ながら椿の垣根に漫然と歩いていった。
気持ちの中だけで頭を振り、人通りの少ない駅に向かう道を十五分程歩いて通り沿いにある馴染の中華屋に入った。決して中華料理店ではない。
古いまま何年使っているのか分からない、ぼろぼろの暖簾をくぐると店内も長年の油煙とタバコの煙によって煤けた内装が変わらずであった。
「いらっしゃい!」の声も聞こえず、客を一瞥だけで丸椅子から腰も上げない店主に向かって「マーボ定食」とだけ言った。気だるげに見ていたテレビを横目に見ながら「チッ」と舌打ちが返ってきた。
汚れの少なさそうなカウンターの丸椅子を選んで腰掛け油の飛び散った跡の目立つスポーツ新聞を手に取った。
必要以上に大きな音を立てながら店主が中華鍋を振るっていた。今日は虫の居所がいいらしい。鍋を火に掛けたまま具材を入れ見ているだけで放置するという行為が当たり前なのに今日は五徳の上で中華鍋が動いていた。
しばらく三面記事に目を流して速読訓練していると「…」無言のまま、ふて腐れた表情で店主が盆に載ったマーボ定食をカウンター上に置いた。
今日は茄子か…この店は品書きに『マーボ定食』としか書いていないので店主の気分しだいで豆腐・茄子・春雨と適当に出てくる。まあ、何が出てきても同じ味なのだが…俺も店主に習い、ふて腐れた表情で食事を開始した。
適当に咀嚼して食事を終わらせ、タバコに火を点けたところで携帯が呼び出し音を発した。当たり前のように主人が舌打ちをする。
三日前、主人の携帯がテレビの音に負けない大音量で鳴り響き、大声で怒鳴りながら喋っていた時に目の前のカウンターで食事をしていたのが、同じような時間に週二回は利用している俺だったという事などは記憶には無いらしい。
ディスプレーの表示を確認し、保留にしてカウンターに料金を置いた。
「ごちそうさん」
鼻の頭だけを動かしてカウンターに置いた金に返事をしていた。後ろ手で引き戸を閉めて保留を解いた。
「それで、シオン?」
通り沿いに聞こえる虫の声に急かされるように歩を進め、ネクタイの結び目を緩めながら街灯の照らす歩道を自宅のあるマンションへと向かった。
「さっさと出なさいよね!なに?隣に新しい女がいて、都合が悪かったとでも言うの?」
耳元に怒声が響くのは、電話を保留にしておいたからなのか、それとも女性特有の日なのかは判断がつかなかった。
「だったらよかったんだがな、生憎と俺はシオンが思っている程、モテはしないんだ」
シオンを思い浮かべながら返事をした。腰まである艶のある長い黒髪、切れ長だがきつさの無い瞳、今時の若者特有の足の長さ…。
「そんなのわかってるよ。社交辞令って言葉知ってる?」
なるほど、社交辞令か…。
「で、今日はどうした」
「どうしたもこうしたも、純生ちゃん家に来たら、カギは開けっ放し電気も点けっぱなしで、何処に行ったんだかと電話したの」
「なるほど。鍵が掛かっていなくて灯も点いたままで、所在不明を心配して電話をかけてくれたのか、ウチのお姫様もやさしいな……ちょっとまて、シオンは俺の部屋の中に居るのか?」
「居るから言ってるんでしょ?」
先程食べたマーボ定食の辛さと苦味が、口の中で神経に障った。胃のムカつきは可能性を考慮しなかった自分の浅はかさに呆れてなのか…。
「いや、そうではなくてな、何か変じゃないか俺の部屋」
「ん?相変わらず、何もなくて寂しい部屋だよね。前に来たときに持ってきたゲーム機で遊んだ様子もないし、DVDに至っては封も開けてないじゃない。まだ都会にも仙人が住んでるって実感したよ」
まだ、仙人が住んでいたほうがましだった。扉を開けたらそこは真っ黒でしたよりかは…。
「部屋の鍵が開いていて、灯が点いているんだな」
「だから、そう言っているでしょ?」
「わかった。すぐに戻る」
「そう?じゃあ、待ってる」
携帯を背広のポケットに仕舞いながら考えた。もちろんフルスピードだ。
シオンには部屋の中に異常が感じられない。しかも鍵が開いており丁寧に灯までつけてある。部屋には異常が無いのだから早く帰ってこいという作為的なまでな状況を作り上げている。
俺を狙ってのことなのか?それとも油断を誘っているのか?アレが出現するのに何かしらの切っ掛けや、状況が必要かは判断に悩むところではあったが、今までも何度か経験しているので慌てなかっただけのことだった。戻り次第それなりの対応をとるつもりでいたのだが…大体、今日シオンが俺の部屋に来ることになっていることを知らなかった…いや、聞いていなかった。
まれに憑依され操られることはあっても、先程の会話のように感情が表に出ることはない…力を使い、俺の部屋の空間だけを別物に変えるという行為が此方側の者では出来ないはずだ。
アレは触れるまでもなく人の造ったもので無い事は経験から判断できる。陽の部分を全て吸い込んでしまう物だ。生きる者の力の源を全て吸い取り残るのは生きる屍でしかなかった。
扉が開いていたと言うが鍵はシオンに渡してある以外は作っていない。見た目は普通の鍵に見えるが部屋に張ってある結界を開ける為の物だ。もちろんシオンに渡した鍵をコピーすることは可能だが、それは物理的に鍵を複製したことでしかないはずだ。
俺は、そのシオン自身についても、よく分かっていない。知っているのは携帯の番号、シオンと言う名前…字面すら知らなかった。二十二歳という年齢に普通の家庭で育ち不自由なく暮らしているということ。月に二・三日適当な理由をつけ、俺のところに外泊する以外は素行も良く。大学でも、そこそこの状態で居られると聞いていた。まあ、本人の主観で話している以上、話半分でもおつりが来るピロートークだと思うが…。
出会いは他愛も無いものだった。二月も終わろうという寒い夜、部屋の前で膝を抱えて蹲まっていた。何故、俺の部屋の前だったかというと、ただ単に灯りが消えていたからだと本人の談であり。深く理由も聞かず扉が開けにくいので中に入れたというのが俺の言訳だった。ペットは禁止だが女子大生は禁止と管理組合からは言われてないのでかまわず入れたのだ。
部屋の中で、だらだらと過ごし俺が寝ている間に帰って行った。気まぐれに猫が俺の部屋に迷い込んで来たぐらいの気持ちでいたが、その後も気が向くと、やってくるようになった。
「あなたの居ない時、中に入れないから鍵を頂戴?」別段、中に入られても困る事もなかったので予備の鍵を渡した。しばらくして、そろって眠るようになり、なるようになってしまった。
部屋の中にシオンが居るだけで心安らぎ熟睡が出来た…実は初恋であり一目惚れだった…泳ぐ魚のように、スカートをひらひらとさせながら家事をこなすシオンを飽きることなく見ていた。「?」視線が合いこちらを向いたときなどは気恥ずかしくなりそっぽを向いたりしたが、小首を傾げて優しく微笑む姿は愛おしかった。
シオンの家族に自体が発覚した時には、結婚を申し込もうと考えていた。シオン自身がどう考えているか聞いたこともないので、独りよがりの感が否めないが、自分の気持ちを伝えることを上手く出来ない俺の最大限の行動だと考えていた。
ただし俺自身が表のままなのか裏をさらけ出してかは、自分の中での最重要課題だったわけだが…速足で歩き自分の部屋の前まで来た。
「さて、迷宮に誘われるか現世で惑わされるか」
考えを口に出し、ズボンのポケットから何時でも煉珠が取り出せるようにしながらドアノブを慎重に回した。
「おかえり~」
意に反して明るい玄関先に、のんびり口調のシオンの声が聞こえた。
「あ~、またマーボ定食だ~」目がいいのだろう。スーツの胸元にある小さな染みを見つけ指差し、スリッパを鳴らしながらシオンが寄ってきた。
「ああ、いつも通りだ」ポケットから手を出し、シオンの後ろ側に見える部屋に注意を払いながら答えた。
「また、染みを作ってきて、ホント気をつけない人」
さっさと脱ぐように指示されて上着を渡すと、洗面所で染み抜きを始めた。その後ろを通り過ぎ、廊下を慎重に進みドアを開けリビングに入った。
「ねえ、さっき言ってた事なんだったの?」
相変わらず物の少ない部屋の中を注意深く見回し、閉めてあるカーテンを摘んで窓の外を見ていると、ドアの向こうからシオンが顔を出したのが窓に映った。
「いや、別に…」
「ん?歯切れ悪いなぁ、ほかの女でも連れ込んでたか?」
ハンガーに上着を掛け、「にゃはは」と笑いながら近寄ってきて、肘で小突き始めた。
「それぐらいなら、良かったんだけどな」
答えながらも視線だけは周囲を見渡した。
「なによそれ!まさか、本当にほかの女ができたの?私という者がありながら…うううぅ…」
着ているTシャツを捲り上げ、顔を押さえながら、下手な嘘泣きを始めていた。白く透き通るような腹が見えた。
「いや、そんなことよりな」
視覚でも、その他の感覚器でも異常は感じられないのでシオンに視線を返すと、見計らったように勢いよくTシャツを元に戻した。
「そんなことなのかよ!おいっ!」
早速の突っ込みが来たが、とりあえずスルーしておいた。
「部屋に入ったとき何か変じゃなかったか?」
「べつに?鍵が開いてて、電気が点いている以外、特にはなかったよ?」
切り替えの早いシオンは、顎先に人差し指を当てすぐに答えた。
「そうか」目を合わせないように、下向き加減にワイシャツの袖を捲った。
これは、どう言う事なのだろうか?あれほどのモノが消えてしまうなどとは…。
「どうかしたの?」顔を覗き込んできた。ふわりとシオンの体から香りが流れてきた。軽いフレグランスというより、シオン自身から発せられているようだった…出来るだけ、いつものように無表情を装った。
「何か隠してるし~」
相変わらず鋭い。微妙な変化を動物的感で見破るのがうまい。使いこなせれば、なかなかの使い手になると思うのだが、黙っておいた。
「おい、本当にナオンか?」
言い方…前世紀のおっさんか、おまえは…。
「いやな、出かけるとき部屋の鍵を閉めたはずなんだが…勘違いだろう」少し周りを見渡して頭を振った。
「へえ~純生ちゃんみたいに細かい人が、鍵を閉め忘れ?いやいや雨が降るね、これは」
シオン自身からも、変わった雰囲気を感じられないので究明することを放棄する。物事を考えすぎるのは、学生時代にやめたことだ。
「で、今日はどうした?週末でもないのに」
「うん、なんか臨時休校だって。もう少ししたら連休なのに」
「何日間なんだ」
「にゃはは、それがさ、学校の計らいでこのまま秋休みに突入だって!いやいや、もうけたね!」
シオンお前は間違っている。自分の学校を考えてみろ神道系のお嬢様学校だろ?きっと早く始まるぞ…そう思ったが、浮かれているシオンを見ていると言う事が躊躇われた。
「で、早速報告がてらに、お泊りにきました!」ビシッ!と、効果音が聞こえそうな最敬礼をしていた。
「あのな、お嬢さん。貴女は、そんなに浮かれているのはかまわないが俺は会社勤めだぞ?」両手を腰に当て、溜息を吐くように肩を下げた。相変わらず、こちらの予定を無視した行動であった。
「どうぞお構いなく。勝手知ったる他人の家ですから」
「それで?ソファーの横にある荷物はなんだ?」顎先で示した先にあるダンボールは全部で三箱あった。
「もちろん、この休みを過ごす私の荷物ですわよ。身の回りの物と、純生ちゃんが好きそうな服が入ってるの」
色々と服の種類を言っているが、俺にはわからない単語のオンパレードであった。
「家の方は?」
それほど厳しいとは聞いていないが、外泊をするためには何かしらの言い訳が必要だろう。
「友達と北海道にある学園の関連施設に、リフレッシュを兼ねた体験学習と言ってありますわ」
なるほど、アリバイは完璧…か。
「ご予定はいつまででしょう。お嬢様?」右手を胸の位置に当てて、丁寧にお辞儀をしてみた。
「一週間程ですわ。オホホホォ」俺の態度を見て大袈裟に振る舞いながら、手の甲を口元に当てて笑った。
「だがなシオン?俺は、明日から出張なんだ」
「へっ?」笑ったままの格好で、鳩が豆鉄砲食らった顔をしていた。なかなか愛嬌があるかわいい表情だった。
「ちょっと!そんな予定聞いてないわよ!」
もちろん話していない…このところ、頻繁に遣り取りをしていたメールの返事を返してこなくなったのは、シオン?お前の方だぞ?
「せっかく、こうしてかわいいシオンちゃんが尋ねて来てるのに!明日から出張?誰の断りでそんな予定を決めたんだ!おい!」胸倉をつかむ勢いで近づいて来た。
「だから、会社員だと言っておろうが。上司に意見できるのは、間違った事を言われたときだけだ」
「その予定自体が間違っている!」弾窮する勢いで拳を突き上げていた。
表の顔しかまだ見せられないので、この言訳しか思いつかない。いずれ、話してやらないといけないのだろうが、その時シオンは、どのような反応をするのだろう…。
「それでも、予定は変えられない…すまんな…」艶やかな黒髪の頭を撫でるように軽く叩いた。
振り上げた拳を震わせながら、目には大粒の涙がせり上がっていた。
「せっかく…あそこに行ったり、こんな所で遊んだり…いっぱい予定作ってきたのに…」
だから、会社員だと言っているだろう…。
「で、出張は何日まで?」キッ!と、目を吊り上げながら聞いてきた。
「とりあえず、一週間」
「はあ?とりあえず?」ポカンという形容が似合う表情で呆れていた。
「先方次第では、予定が延びる」
「そうですか…では、あなた様の上司の電話番号と、相手様の電話番号を…吐きやがれ!この野郎!」本当に胸倉を掴まれた…しかし、今までも口では色々と言っていたが、こんなにも性急な態度を取るのも珍しい…。
「落ち着けシオン…早まるんじゃない…俺が死んでしまう」
素早い動きで、きれいな襟締めをするシオンにすぐにギブアップした。暇なときに運動がてら、護身術を教えたら興味を持ち始め、何時の間にか合気道を始めていた。なかなかの腕前で、体術の苦手な俺を、あと数年したら追い抜いてしまうかもしれなかった。
「ハァハァ…で、言う気にはなった?」興奮冷めやらぬ状態で聞いてきた。
「だからな」
さて、どうしたものかと考えていたらFAXが鳴った。給紙していないのでメモリーされるはずだ。ディスプレイで確認した後は、すぐに消去するのが当たり前になっていた。
「ちょっと待てシオン。仕事の連絡かもしれん」
今まさに掴みかからん状態で、視線だけはFAXに注いでいるシオンを手で制して、ディスプレイを覗き込むと、やはり会社からの連絡であった。
『如月課長へ、明日の出張は取りやめとなりました。引継ぎは五課の飯田氏に願います。また、別件にて指示が部長よりございますので後ほど連絡願います。 三鈴』
取りやめ?予定変更などというのは珍しい。まあ、飯田に任せておけば問題はないと思うが、それよりも別件というのが気にかかった。
指先でメモリー消去をしながら振り返ると、ニヤニヤ顔のシオンが覗き込んでいた。
「おやおや、変更ですか~いやいや、大変ですな~」
この変更が吉と出るか凶と出るか…。
「そうだ、シオン。ちょっと買い物を頼まれてくれないか?」ハンガーに掛けてある背広の内ポケットから財布を取り出し言った。
「えぇ~これから~」不平たらたらだった。
「お前の好きなカンパリも買ってきていいから…」それとなく振る。
「サー!イエス!サー!」直立不動で答えていた。
「明日の朝食と今晩飲むものを適当にーー」
「行ってまいります!」すでに俺の手からは財布が消え去り、砂塵を残す勢いで飛び出していった。
どうせ飲み始めたら三十分で寝てしまうくせに…肩をすくめながら携帯を生体認証で開き、ネクタイを解きながら耳に当てると無音状態だ。暗証番号を打ち込み通話状態にして秘書課の直通番号を押した。プププッと音が聞こえ、呼び出し音のないまま相手の声が聞こえた。
「はい、秘書課です」
「七課、如月だ」
「課長、FAXをお読みになったのですね。明日の出張の件に関しましての資料は、五課の飯田氏に手渡してあります。後は、課長の指示待ちです。飯田氏はまだ課のほうに居られます。お繋ぎしますか?」
一切の抑揚なしに淡々と話すロボットのような三鈴の声が相変わらずであった。
「ああ、頼む」
「お待ちください」
保留音が聞こえ回線が切り替わった。
「はい、五課、飯田です」
いまだに新入社員の声色を残す飯田の声が聞こえた。
「如月だ」
「あ、先輩!明日からの出張の件は聞いています。先方の資料も三鈴さんから預かっています。相変わらず綺麗な女ですよね~先日だって、課の講習会で―――」
お前も相変わらずだな…こんなに軽口で、一方的に喋り捲る奴だが、仕事に関しては間違いなくプロフェッショナルだ。
配属の課については、実力がものを言う所であり、一課から始まり最後が七課だ。一つの課で長く居る者もあれば、俺のように課の移動という名の昇進をしていく者もいる…飯田は五課に配属されて二年が経ったはずだ、ここの所、少し停滞気味だな…。
新規で入って来たときに、やたらと俺のことを気に入り、今でも暇さえあれば、やれ麻雀だの飲み会だと言って、俺のことを引っ張り出そうとした。
「なあ、飯田よ。お前さんのお喋りを聞く為に、わざわざ電話をかけたわけじゃないんだぞ」
「あ、失礼しました…」
少し落ち着きのなさが有るが全体的な評価で言えば、一つの仕事の責任者としての資質はあるだろう。
「早速だが不穏な動きはない。前回の下見で特に気がついたこともない。サポートは?」
余計な口を挟ませないように一気に話した。
「美樹ちゃん…田中さんです」
田中か、頭の中に小柄で童顔の愛玩動物のような容姿が浮かんだ。
「田中なら問題ないと思うが、臨戦態勢の時、即座に気を練れるようにしておけよ。力は強いが術の発動が遅いのだからな、お前は…田中の力自体は、結界の強化でしかないのだから」
「いやだな先輩。もういくら何だって新人じゃないんだから、五課に配置されて二年ですよ?」
お前ほどの力があって、まだ五課に居る自体が駄目な証拠だとは口には出さなかった。
「先日の訓練所で失態は、俺の耳にも届いているぞ」
「え?いやですね、その件に関しては…」
訓練所にて行われる新人研修の場でコイツは、演舞を執り行っているときに封印してある岩戸に向かって術を放ち、妖を外に出してしまった前科の持ち主だ。神力が、なまじっか強いだけに力場の強いところでは、その力が増幅されてしまい、思わぬ結果を出してしまうこともあった。
「あれはですね。気を練っている時に、質問をされて振り向いたところに、たまたま封印の岩戸があっただけです」
「たまたまな。その呼びかけ自体が、封印されていた妖の声だとも気づかなくてか?ご丁寧にも封印の注連縄まで切ったそうじゃないか」
「えっと、それは…」
その後、術士二十名で、やっと封印をしなおしたと聞いていた。
妖が出てきた瞬間その場に結界を張り動きを封じ込め実害を出さなかった事は認めても良い力の持ち主として評価されているが、その事を当人には五課の課長も話していないはずだ。
今回の出張をこなせば、次回の人事では六課の配置になるだろう。それだけの実力は各課長が認めていた。
「ところで、田中はまだ居るのか?」
「はい、居ますが変わりましょうか?」
「ああ、頼む」
保留音がしばらく鳴った後、アニメ調の声が聞こえてきた。
「三課、田中ですぅ~」
「相変わらずだな…」
この様な人物がなぜ、退妖という仕事に就いたのかは未だ謎である…一部ではハッキングの天才とも部長の恋人とも囁かれていた。
「ああっ!如月課長~おひさしぶりですぅ~」
「おまえも元気そうだな」
「はい~美樹ちゃんは元気ですよぉ~明日からの出張もおまかせください~けほけほ…」
どうやら、自分の胸を叩いて咳き込んだようだ。こんな風だが、結界を張る力だけに関しては、全体の課の中でも一・二位を争う実力の持ち主だ。
「田中よ。明日からの出張先では、今着ているような服装では行くなよ…」
「ええっ!如月課長に、いま美樹ちゃんが着ている服が見えるんですかぁ~?さすが高位神力者ですねぇ~」
ちがうぞ、田中。お前の服装がどんな風なのかはいつも見なくてもわかる…目立たぬ服装で居ろというのにフリフリのロリータ調の格好だからな…。
「明日は、政財界の方が多数なのだから最低限のマナーとしてスーツで行け」
「え~美樹ちゃん、スーツなんか持っていませんよぉ~」
ここにも、頭痛の種が居た。
「俺の方から三鈴に頼んでおくから、それを受け取って着て行け。業務命令だ、わかったな」
「うううぅ…わかりましたぁ~」
かなりの不満があるようだが致し方ない。いつもの格好では明日からの警護に支障をきたす。
「では、三鈴に取り次いでくれ」
「は~い。ではまた今度ぉ~」
最後まで腑抜けた感じが伴う奴だ。
「はい。秘書課、三鈴です」
「如月だ」
「課長。田中さんのスーツは準備できていますので、後ほど手渡しておきます」
さすが、こちらの考えを見抜いている。部長が、是が非でも手放さない理由がわかる気がした。
「部長は」
「直帰されていますので、携帯に連絡をするように承っています」
「わかった、連絡してみる」
「はい、失礼いたします」
こちらの返答を聞かずに切れてしまった。まあ、いつものことだが…。
時計を見ると、そろそろシオンがコンビニを出る頃だ。急ぎ部長に連絡を取る。二度ほどの呼び出し音のあとテノールの声が聞こえた。
「剣持だ」
「如月です」
「ああ、変更の件は聞いているな?」
「はい。変更内容は」
「如月は、各務と言う名は聞いたことがあるか?」
記憶領域の中に該当する名前は一件しかない。
「あの、各務慶蔵ですか」
「そうだ、各務慶蔵…各務財閥の六代目当主にして政財界の立役者だ」
「その各務慶蔵が何か」
「うむ、君に変更までしてやって貰いたい事なのだが、その各務慶蔵の孫に当たる各務紫苑と言う名の娘
が居る…紫に御苑の苑と書くそうだ…」
「紫苑?」
「うん?どうかしたかね?」
「いえ、何でもありません」
自分の疑問に訝しんだ部長だったが、先を促すように否定をした。
「この娘は、実は皇女なのだ。今度の約定会談では重要な役割を担っているのは君にもわかるだろう。その娘が友達と北海道にある学園の関連施設に体験学習に明日から出かけるそうだ。その警護に当たってほしい」
皇女…冥界との約定会談の際、顕界のただ一人の代表者として会談に臨む人物であり、その正体は一部の上層部でしか把握していないはずだ。
「それで、警護の期間は、いつまでです?」
「先方の予定では、一週間だそうだ」
「わかりました。ところで、本人はまだ自宅に居るのでしょうか?」
「いや、何でも友達の家に泊まり、そのまま施設に向かうと聞いている」
「それで、現在の警護は」
「警護はつけていない」
「警護がない?どういう事ですか」
「ふむ、君が不審に思うことはもっともだ。皇女ともなれば、最重要人物として警護されてもおかしくないのだが、どうやら彼女が持っている霊符にかなりの力があるらしい」
「霊符?」
紙で出来た式符ではなく、精神力によって顕在化し使える札の事だ。
「何でも、三種の神器と繋がっているとのことだ」
「そんなに強力な霊符があるのなら、私の必要はないのでは」
「このところの、霊障や事象を警戒してのことだ。それに事情が事情なだけに生半可な警護を付けられな
いのだ」
「事情ですか…わかりました。それで現在、本人が居る場所はどこでしょう」
「ああ、それだったらもうしばらく待っていれば帰ってくるんじゃないか?先ほど、鼻歌交じりで出かけていったからな」
頭に浮かんだ疑問が確信に変わった瞬間であった。
「なっ!」ベランダに飛び出し、下の中庭を見るとエントランスと中庭を結ぶ扉に寄りかかり、ロマンスグレーの紳士が手を振っていた。彼こそ、携帯で話をしている当人であった。
「これは、どういう事でしょうか!」噛み付かんばかりに携帯に向かって声を荒げた。
「おいおい、落ち着けよ如月。いつものクールなお前がどうしたんだ?」
「落ち着いていられますか!」
「なに、私も先ほど二課の報告でわかった事なんだよ。昨日、荷物を発送しているのを確認して調べた結果、送り先は北海道の施設ではなく、お前さんの自宅だってのは驚いたがね…」
含み笑いが聞こえてくる…どこまで調べたんだ…。
「ああ、それから彼女と君の経緯は、今後報告してくれれば構わないぞ。私も若い者たちの内情まで根掘り葉掘りしたくないのでな」
「なっ!」体温が高くなるのが、自分でもわかった。
「ああ、彼女が戻ってきたぞ。では、明日からの定時連絡だけは忘れないように。それと、本当に北海道まで行くのだったら心して当たってくれ…だから、事情でと言っただろう?」
含み笑いの後に、プッと回線が切れる音がした。携帯を睨み付けてから無言でテーブルに置いた。
「ただいま~」
暫らくすると、玄関から暢気な声が聞こえ、シオンが走りこんできた。
「ねえねえ、純生ちゃん!見てよこれ!また新製品が出てるの!」
買ってきたばかりの新製品のカクテル缶を、見せびらかせ上機嫌だった。
気を練り、式神をシオンに向けて放った。音もなく瞬時にシオンにぶつかる…はずだが、その前に一瞬にして燃えた。やはり強力な霊符が力を打ち消していた。
「な、なによこれ!ちょっとどういうこと!」
目の前で、発火現象が起こり驚いているシオンに向かい俺は言葉を発した。
「シオン…いや、各務紫苑…」
その名前を聞いた紫苑の体がビクリと硬直した。
「え?なんで、純生ちゃんがその名前を…」
それは、俺が聞きたいことだった。
「なぜ、黙っていた?なぜ自分が各務だと…いや、皇女だと言わなかった」凄むように一歩近づくと紫苑も一歩下がった。
「だ、だって、名乗る必要なかったし、純生ちゃんも聞かなかったし…」
確かに紫苑の姓については質問したことがなかった。ただし、それは紫苑が皇女だったことで変わってしまった。
顕界と冥界の狭間においてもっとも重要な立場にあり。今度の約定会談を滞りなく成立させるに当たって自分の立ち位置を知らない訳がなかった。
それなのに、ふらふらと表を出歩いているとはいったい何を考えているのか?しかも、北海道だと?まあ、それは自宅を出る口実に過ぎないことは、分かっているのだが…。
「え?え?どういう事?純生ちゃんは、何を知っているの?」
思索にふけって口を利かなくなった俺に対して紫苑は疑問をぶつけてきた。
「俺は、表向きは西欧物産商事の社員としているが、本当は公安調査庁調査第三部第七課に所属している。」
調査第三部…公安調査庁には実在しないはずの部門である。科学的物理的に対応が困難な事象があれば活動し、通常は要人警護が主な仕事である…驚愕という言葉が似合う表情をしている紫苑がそこにいた。
「純生ちゃんが、公安第三七課に…リーマンで課長ではなく…」
どうやら、納得が行ったようだ。
「ああ、そうだ。で、さっきのが式神というわけだ。もちろん、紫苑が持っている霊符に対して効力がないのは、分かっているがな」
驚きの表情が消え去り、落ち着きを取り戻した皇女本来の光を宿した瞳がそこにはあった。なるほど、こういう気を発するものなのか…上から見下ろすような威圧感とは違う高貴な力だった。
「そうですか、あなたが七課の敏腕ガードだったのですね…」物言いまで皇女のものになっていた。
「話には聞いておりましたが、まさかこのような形でお会いするとは、夢にも思いませんでした」すっかり落ち着いた紫苑は、その場に背筋を伸ばし正座をして俺と対峙した。
部屋の中に音は無く。聞こえるのは天井から照らす蛍光灯のうなりだけだった。カーテンを開け放った窓ガラスに、二人の姿が写っていた。
「貴方の部屋の前に居たのは偶然ではありません…力を持つ貴方になら分かると思いますが、波長が合ったのです。掛け値なしに気を許せる相手が、ここに住んでいるというのを感じました」
それは、俺が初めて紫苑に会ったときに感覚そのものだった。そうでなければ、今でも孤独な生活を送っていただろう…人と違う自分に対し、言訳を考える事をやめた結果、孤独が待っていた。
寂しいとか悲しいとは思ったことはない。仕事に打ち込んでいるときには、そのような感情が表に出てくることはなかった。人は一人でも生きていける。自分の縄張りだけを守っていれば…自分の立場所さえ確実なものにしていればと考えていた。
ただ、紫苑と出会ってからは、周りの者に「課長はこの頃、丸くなりましたね」と言われる様になっていた。職場の中でも最低限の人付き合いしかせず。会話も上司への報告と部下に命令するだけ。人には頼らず、自分で出来ることは全てをこなしてきた。立場上、無下には扱われてはいないが慕われてもいなかった…飯沼と田中を除いては…。
「だがな、紫苑…君は皇女だ。自分の立場がわかるならば、何故こんな軽率な行動をとっているんだ」
一瞬目を伏せた紫苑は、まっすぐこちらを見て言った。
「皇女は巫女の上に立ち岩戸を封ずる者…しかし、疑問があります。五十年に一度の会談の後に祈祷を施し岩戸を封ずる…本当にそれだけで約定が締結されていることになるのでしょうか?私は、自分の時間が許す限り各地にある門を見て回りました。石動の門は、見た目は閉ざされているのですが封印に破れがある箇所が多く見られました。先代様が閉ざされてから五十年…その間にどれほどの妖がこちらに出てきていることか…貴方にもお分かりになると思いますが、各地でこの数年多くの霊障が見られます。私は、そのような門を一つずつ封印しているのです。封印を施すときの体力、精神力の消耗は計り知れません。負を………………
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