7.スイと猫
薄暗い廊下を白い姿が横切った。
見慣れないその影に彼女は思わず目を擦る。城で目にするはずのない姿だったから。きっと見間違いだ―。
「どうした、マナ」
隣から訝しげな声がかかる。
「いいや、なんでも…」
首を振って彼女は答える。目を凝らした先には、何の変化も見られない。見間違いだったのだろう。
「多分気のせいだ」
ひっくり返りそうになる声を必死になだめて、ようよう言葉にした。顔を顰めて己の喉を押さえる。しゃべるのは得意じゃない。ふと油断した拍子に「地声」が出てしまう。
「そうか?何かいたのか?」
しつこく尋ねる声に目を向ければ、金色の目とぶつかった。
ぼさぼさに伸びた緑色の髪、肌は同じく緑の固い鱗に覆われ、口元からは長い牙と長い舌が覗いている。蛇のような―いや、実際こいつは蛇だった、とマナは思う。数多ある種族の中で、蛇の系統に属する男。
爬虫類特有の光沢のある鱗状の皮膚に、首筋にうっすらと浮かぶ蛇腹のような薄い切れ目。人の姿では必要ないはずなのだが、時折「しゅっ」という音を発するのは最早単に癖になってしまっているものらしい。
「猫だよ、猫。白いやつ」
嫌な奴、と思いながらマナは言う。しゃべるのが得意でないことを、長年の付き合いである相手が知らないはずはない。それなのに取るに足らないことをわざわざ話させる相手が気に入らなかった。
「ふぅん?そりゃ見間違いだな。お前はオレみたくよく見えないから」
金色の目をぱちぱちと瞬かせ、言う。
蛇系の魔物は、己が「最強と名高い龍の系統に近しい」と誇りにしている節がある。そのため往々にして他の魔物に対して尊大な態度をとるものが殆どだ。
傍から見れば両者の力量の差は歴然としているだけに、「かえって醜悪」という痛烈な批判もあるのだが。もちろん、マナもその意見に賛成である。
「ネルムだって見えちゃいないだろ。匂いで認識してるだけだ、たかが蛇のくせに偉そうに!」
思わずむっとして、マナは相手の鼻面を軽くはたいた。
「痛っ、何しやがる!羽もろくろくしまえないような半人前が!」
ネルムと呼ばれた蛇の男は、打たれた鼻を押さえて喚いた。素早い動きで、鼻を打ったものを掴む。それはマナの手ではなく、漆黒の皮膜の羽だ。
「触るな!自分も半人前だろ!!」
ネルムの手を振り払って、マナは言い返す。後半は言葉にならない。声にならない、というべきか。
マナの鋭い牙の並ぶ口から発せられた言葉は、甲高い「音」となって周囲に広がり、調度品や窓にはめ込まれたガラスをガタガタと揺らす。強力な超音波である。
ネルムは両耳を塞ぎ、歯を食いしばってマナを睨みつける。
「にゃあっ」
一触即発の空気の中、聞き慣れない悲鳴がした。
二人同時に振り向くと、角の向こうから白い物体がよろよろと出てくるところだった。
おぼつかない足取りはどうやら超音波にやられたものらしい。
耳を垂らし、白い頭をしきりに振っている。柔らかそうな純白の毛並み。長い尾と、丸みを帯びた手足の四足獣。
「「ネコっ」」
二人同時に叫ぶ。
その声に、当の猫はびくっと体を強張らせた。
怯えるように二人の方を向き、その姿を目に留めるや否や―脱兎のごとく走り出した。
「あっ逃げる!」
「やべぇぞ、捕まえろっ」
なぜここに猫が、と信じられない思いでマナは「叫ぶ」。
超音波の攻撃に猫の動きが鈍くなる。耳をぺたりと寝せて、よろめいた。
そこにすばやく近寄ったネルムが、しなやかな動きで猫の首根っこを鷲掴んだ。
先ほどまでの争いはどこへやら、息の合った連携で猫の捕獲に成功する。
「猫…だな」
「ああ猫だ…でもどうしてここに…」
すっかり目を回している猫は、空中に吊り下げられても抵抗せず伸びていた。
ぶら下げたまま、まじまじとマナは覗き込む。
真っ白な猫だった。焦点のあっていない両目は青く、ぐったりとのびきっているものの、その肢体はしなやかに細い。
猫など見るのも触るのも嫌いなマナの目からみても、綺麗な猫であった。
「紛れ込んだのか」
ネルムの言葉に、マナは首を振る。
「こんな上階まで誰も気づかないなんて、おかしい。」
大体魔物は気配に敏感だ。それが猫相手なら尚更。
おかしいおかしいと思って観察していると、赤い首輪が目に入った。血のように真っ赤なリボン。先端には小さな鈴がついている。
そこから奇妙な気配がして、マナは首を傾げた。
どこか懐かしいような、けれども少し寒気のする気配。リボンから放たれるそれが猫のそれを上手く隠しているような気がした。
「まぁいい、処分しておくか。」
騒ぎになる前にと、ネルムが片手をかざした。鱗に覆われた手のひらに、卵大の火球が生まれる。
「ネルム…待って」
リボンの気配が気になる。何故だかざわざわと落ち着かなくて、マナはネルムの腕を取る。
「なんだよ、」
「感じない?この気配、なんかおかしい…」
マナが言いかけた時、何かが目の前を横切った。
「つッ」
「ネルムっ?!」
ネルムが己の手首を掴んで身を屈めた。掴んだ指の間から赤いものが滴る。
マナは、咄嗟に傷つけた正体を目で探したが、あたりにそれらしいものはない。一体何が、と周囲の敵を探ろうとして―
「気をつけなさい」
不意に第三者の声がした。
落ち着いた、冷静な声音。敵意のようなものは感じられない。
振り返ると、少し離れた所に細い人影が佇んでいた。水色の長い髪、金の瞳の凍える美貌。
「キーラル様!?」
さっと二人の顔が青ざめる。
エルに仕える魔物の中で1、2位を争う実力者、スイ・キーラル。言葉を交わすどころか顔を見ることすら滅多にない、二人にとっては雲の上の相手だ。次に待っている己の運命を思い、二人の緊張と恐怖は一気に跳ね上がる。
「それはエル様のものです。傷つけることは許しませんよ」
彼らの胸中を知ってか知らずか、スイは言葉の割りに目立った感情も見せず、淡々と言う。
それが指すものを悟って、マナはネルムの手元に視線を走らせた。ネルムも同様に慌てて己の手元に視線を走らせる。
先ほどの手首への衝撃で、件の猫はネルムの足元に落下していた。そのままぺたりと床に尻餅をついたまま、なんというか…ぼんやりとしているようだ。
猫ってもっと俊敏な生き物じゃなかっただろうか…?
あまりの緩みきった姿に、思わず状況も忘れてマナは思う。
「まったく…手間のかかる」
小さな呟きがして、猫の体がふわりと宙に浮いた。
猫はようやくじたばたと空中でもがき始めた。しかしその努力もむなしく、小さな体は空中をすべるように進み、たたずむ人影の手元に移動する。空中に浮いたままなのは、やはりスイも猫に嫌悪を抱いているせいなのかもしれない。
「エル様の魔力…少々弱いのかもしれませんね」
猫のリボンに目を止め、独り言のように言った。
「…っ!申し訳ありません。気づかず…っ」
ようやく「奇妙な気配」の正体に思い当って、マナの血の気が更に引く。いくら滅多に顔も見られない相手とはいえ、自分が仕える主の気配一つ読めないなどと、失態以外の何物でもない。
反射的に頭を下げた姿勢のまま、マナは心臓の暴れる音を聞いていた。恐らく隣では、手首の痛みも忘れてネルムが同じように頭を下げているに違いない。
そんな二人に、冷たい一瞥をくれてスイは緩く首を振った。
「咎める気はありません。以後気をつけなさい。」
言いおいてスイは踵を返す。二人は頭を上げることができないまま、靴音が遠ざかるのを待った。
やがてその気配が遠くなったころ。
脱力してしゃがみこんだマナに、ネルムが思いだしたようにぽつりと言う。
「なあ、もしかしてさ…」
「…何?」
見ればネルムは己の手首の傷を確認しているところであった。どうやら出血は止まったらしい。
「この間触れが来ただろ。エル様が珍しい生き物を飼うって。」
「ああ、使い魔にするんじゃないかって噂の…」
その時二人の脳裏に浮かんだのは、先ほどの白い猫。
俊敏さに欠ける、どこかぼんやりとした印象の、獣。
「あの、猫?」
「たぶん…」
偉い人の考えることはよく分からない、と二人は揃って重い息を吐いた。
「怪我は?」
空中に猫を浮かべたまま、スイ・キーラルはそっけなく尋ねた。案じるというよりただの確認のような、事務的な口調で。
「ない…です。…すみません…」
応じるのは浮かべられたまま移動させられている猫、言わずと知れたスノウである。
エルからの外出許可が下りて3日。魔物ばかりの城をすぐさま探索する勇気のないスノウは、つい昨日まで相変わらずの生活を送っていた。
外に出たい、あわよくば逃げたい。そんな気持ちは山々だったのだが「猫なんぞ八つ裂き」という当初のエルの脅しがしっかり利いていて、どうしても恐怖が先に立つ。だが、いつものようにスノウに小魚(煮物)を持ってきたアイシャが窓辺で悶々としているスノウを見て、言ったのだ。
「お前、そのまんまじゃ太るんじゃねぇ?」
「…っ!!」
食事が低カロリーとはいえ、確かに上げ膳据え膳。しかも本来人間であるスノウには縄張りを散歩する、なんて習性もない。外出禁止も手伝って現在運動不足な自覚はあった。
このままじゃいけない、そう思い勇気を振り絞って運動、もとい探索に出た結果、こうしてスイの世話になっている。
スノウはそっと溜息をついて、スイの表情をうかがった。
スイは相変わらずの冷静沈着な面持ちで、その胸中はさっぱりわからない。
だがスノウにはスイが不機嫌である確信があった。
理由は簡単。
エルが猫を己のベッドに連れ込んだことである。
ばれるや否や、アイシャは予想通り火を噴かんばかりに怒り、その矛先はこれまた予想通りスノウだった。ベッドに猫の毛が散れる、とまるで姑のような小言から始まり、猫の与える悪影響(偏見)を延々とスノウに言い続けた。「そんなこと言われても」というのがスノウのもっともな言い分だったが、発言したところで火に油を注ぐだけなので、黙ってやり過ごす。
一方のスイは、不穏なオーラを全身から放ちながらも、何事もなかったかのように普段どおりにエルと会話していた。それはそれで…むしろアイシャより怖い、とスノウは思った。
もう二度とゴメンだと、スノウは固く誓ったのだが。
スノウが誓ったところでどうにもならないのが現実である。
気づけば寝てる間にエルに拉致されている毎日が続いている。こうまでされて目覚めもしない呑気な自分が情けないが、そこはエルが何かしらの魔法を使っているのだと無理に納得していた。
「あのー…さっき、あのひと達…その、えらくびくびくしてたけど」
「そうですね。それが何か」
「スイは…」
呼びかけてふと口ごもる。
呼び捨てて大丈夫だろうか?アイシャの烈火の如き怒りっぷりが思い出され、躊躇う。チラリとスイを伺って目立った反応がないことに少し安堵して、言を継いだ。
「スイは、その、偉いの?」
言ってから「この聞き方はまずい」と気づいたが、口からでた言葉は戻らない。尋ねたいのはこの城におけるスイの立場なのだが、どう尋ねればいいのか、また尋ねてもいいものなのかわからず、結局微妙な言い回しになってしまった。更に機嫌を損ねやしないかと内心冷や汗をかきながらスイの反応を待つ。
「…ええ、そうなるでしょうね。少なくとも彼らよりは”偉い”立場にあります。」
ややあって、あっさりとスイが頷いた。
「私はエル様の兵を指揮する立場にありますから。」
「指揮する…スイは軍人なの?」
「それを言うなら、すべての魔物は軍人になりますよ。私たちはすべてがすべて、戦うために生きる種族ですから。」
感情をめったに表さないスイの瞳が、このときばかりは誇らしげに煌いた。
スノウは少し意外な面持ちでスイを見つめた。見たところ、武人というより文人といった風情のスイである。長くずるずるした衣服をとってみても、およそ戦闘向きではない。勿論、そういう状況になれば衣服などいくらでも替えるだろうが。
「アイシャも私と同じ指揮官です。アイシャ・ヴォルグ、と聞けばこの辺りで知らぬ者はいませんよ。」
「え、そうなの?」
確かにスイが武人というよりはしっくりくるものがある。その口ぶりから相当な有名人…指揮官なのだから当然と言えば当然なのだが。
だがあのアイシャにそんな役職が勤まるとは、と当人が耳にすれば怒り狂うこと間違いなしの感想を抱く。
それに、とスノウはアイシャを思い浮かべた。
アイシャの性格はひどく戦闘向きだ。好戦的で短気。けれど外見はスイ同様、決して筋骨逞しいわけではない。雰囲気こそ粗暴だが、それらしく装えば文人といっても差し支えのない容姿をしているのだ。
そんな、一見すると他の魔物より脆弱に見える彼らが、あれだけの魔物を従え統率しているという事実はスノウに小さな衝撃を与えた。考えてみれば「長」たるエルですらあの外見なのだ。
魔物の強さが外見に左右されないのなら…やはりこれまで「人間」の世界で得た情報はその殆どが誤解に満ちているものということになる。
「二人とも強いんだね」
口調だけは呑気なスノウの相槌に、スイは緩く首を振った。
「私たちなど雑魚と変わりありません。魔王に侍るものたちに比べれば、私たちのそれなど児戯に等しい。」
謙遜、ととるにはあまりにもその声が真剣で。
「魔王…」
「そうです、あなた方が倒そうとしている存在。我らの王です。」
スノウは記憶のページを手繰る。メリルやフレイに散々教えられた情報だ。
すべての魔物を従えるという、強大な力を誇る魔王。不毛の地に屹立する巨大な岩山、その頂に聳える漆黒の城が、虚空城と呼ばれる魔王の居城だ。
果たしてそんな場所など存在するのか。存在するとしても城など―或いは「王」など存在するのか。限りなく伝承に近い、それでもその王さえ倒せば勝利できるという僅かな望みに縋って、多くの勇者が目指したもの。
そうか、「魔王」は実在するのか。
安堵半分、不安半分でスノウは思う。
「魔王の元に集うのは、貴族の中でも選ばれたごく一部。兵士は100万とも1000万とも。」
「貴族って?」
「私たちにも階級があります。そうですね、人のそれと同じように考えてもらっても構いません。人の世界に王や貴族、兵士がいる―同じようなものです。人と違う点といえば…ここでは力がすべてであるということ。」
スノウの体が下降を始め、思わずきょろきょろと辺りを見回す。
「この先なら大丈夫でしょう。」
言って、スイはスノウを床に下ろした。ひんやりとした感触に、訳もなくほっとする。
「スイも…貴族なの?」
ここで立ち去られてはたまらない、とスノウは勢い込んで尋ねる。折角の機会だ。情報は得ておくに越したことはない。次の機会はいつ巡ってくるとも知れないのだ。
「ええ、そうです。私やアイシャは下級貴族…エル様のような上級貴族にお仕えしているものが殆どです。」
「エルは上級貴族なんだ…」
なにやらよくわからないが、何となく階級的には上のようだ。無意識に呼び捨てたことに、スイは大した反応も見せず、淡々と続けた。
「私たち下級貴族は数千、上級貴族は数百存在します。その更に上に六将軍が存在します。」
「六将軍って?」
「魔王の軍勢を指揮する、王に次ぐ実力者です。彼らはそれぞれ己の軍団を持っています。そしてその軍勢に加わるのが上級貴族…つまりは下級貴族や魔族、魔人、魔獣を従えた軍勢です。」
「…ええっと…」
聞きなれない言葉が次々に飛び込んできて、うまく整理ができない。
上級貴族はエルのような魔物、下級貴族はスイやアイシャ、その下に先ほど危うい目にあわされた魔族…魔人だか魔獣だかは分からないが、そういった類の魔物が連なっているのだろう。
その上級貴族だというエルの更に上に、六将軍と呼ばれる存在がいる。上級魔族はエルだけではない筈だから、彼らの軍勢は芋づる式に増えていくことになる。
そういった存在が、恐らく6つもあるとなると―魔王の軍勢や如何に。
「…わぁ…すごー…」
たかだか一介の「勇者」が対処しきれるものではない。
世界中の国が兵を出し合って、それでも尚勝利は難しい。何せ相手は雑兵からして「魔物」と人々が恐れる存在なのだ。
「…あなたが見ているのは氷山のごく一部。わかりますか、勇者。
これが人間が戦いを挑んでいる相手です」
ふと顔を上げると、スイの金色の目とぶつかった。アイシャが燃え盛る炎の色なら、スイは年月を重ねた芳醇な林檎酒を思わせる、透明な色。
「私たちの半分も生きない身で、倒せますか?」
スノウはぱちぱちと瞬きをして考える。
スイはこういいたいのだろう。自分たちにすら勝てない人間が、そんな大軍を相手に勝てるはずがないと。だから戦いは無駄なことだと。
確かに、そうだと思う。
漠然とした情報に翻弄されて、ただ「魔王」を倒すのだと言われ続けてきた。がむしゃらに―それこそ犬死とも呼べる犠牲を払ってきた人間。
けれどここにきて初めて、「魔王を倒す」ことが現実感を帯びてきた。
魔王を倒すことはすべての魔物を敵に回すこと。
「そうだね。そう…思うよ」
スイが静かな瞳で見返した。その言葉を予期していたかのように。
「俺だって死にたくないし…今の話を聞いたら、尚更勝ち目ないって思うし。」
犬死にしか思えない。それはスノウの紛れもない本音でもあった。
次々と送られる勇者は一人も戻らず、仲間たちは命を落とす。
人を救うため。救世主となるため。魔王を倒すため。その大儀のために、儚く死んでいく。
魔王を倒せばどうにかなる、などと本気で信じているはずはない。魔王の存在すら怪しかった状況で、「勇者」は何のために命を捨てる必要があるのか。
それは記憶を失い、旅をしていく中で常々スノウが思っていたことだった。
小さな街を救い、少しずつ魔王に近づいていく。そう誰もが言っていたけれど、そんな確証はどこにもないことも誰もが知っていた。いつ終わるとも知れない、先の見えない戦い。
そんな日々を当然のように選んでいるメリルやフレイが不思議で、できることならスノウは選びたくないと思っていた。この身が勇者でなければ、と。
「だけど…引き返すことはできないよ」
スイが少し目を瞠った。
「何故です」
「選んだんだ、この道を。その想いを俺が無駄にするわけにはいかないんだ」
きっと「スノウ」には勇者の道を選んだ理由があった。
選ばざるをえない事情か理由か、強い想いがあったに違いない。でなければごく普通の青年が、あえて血なまぐさい戦いに身を投じる必要などないはずだ。
騎士や兵士、並いる強豪を押しのけてまで「勇者」になる必要など―ただの一介の庶民だった「スノウ」にはなかったはずなのだ。
「スノウ」が抱えていた強い想い。それを知らない「今の」スノウが勇者をやめてしまうわけには行かない。「スノウ」が必死で得た「勇者」を簡単に捨ててはいけないのだ。
「意外ですね」
ぽつりと落ちた呟きに、スノウは我に返った。
「…えっ?」
「正直、あなたにそれだけの覚悟があるとは思いませんでした」
「へっ?覚悟っ?」
覚悟なんてない。それがあったのは記憶を失う前のスノウである。
「その姿のあなたからは想像もつきませんが…それなりに誇りと自覚がおありのよう。」
スイはスノウから急に興味をなくしたように、視線を外す。
褒められているのか貶されているのか判断つきかねて、スノウは瞬きを繰り返す。スイの誤解を解くべきかもしれない、と思い直して口を開く。
「それでしたら私が口を挟む必要もありませんね。どうぞ今の話は忘れてください。」
立ち去りそうな気配を感じて、スノウは慌てて呼び止めた。
「すっ、スイっ」
「…なんでしょう」
渋々といった調子でスイが振り向く。
「その…どうして俺に、そんなこと…」
いくら軽んじられていても、スノウは「勇者」。人間であり敵であることに変わりはない。
「単なる気まぐれです。」
放り投げるように言って、スイは少し首を傾げて言葉を継ぐ。
「あえて理由をつけるるなら…安穏と敵地で過ごしている勇者に少々苛立った―こんな所でしょうか」
さらりと言ってあるかなしかの笑みを口元に履く。珍しい表情の変化だったが、セリフがセリフなだけに素直に感動もできない。
「…っそ、そうですか…」
尻尾をぴんとたてて、スノウは思わずあとじさる。
「スイ…もしかしてまだ…その、怒ってるよね?」
「どれですか?」
何がではなく、どれが、とくるところが恐ろしい。そう問われても思い当たる節はそれほど多くはないのだが。スイはどれに怒っているのだろう。或いはスノウの気づかぬどれかに怒っているのだろうか。
「あー…ええと、悪気はないんだよ。ただ目が覚めたらいつもエルのところにいるっていうだけで…」
とりあえず、最も可能性が高そうな案件について弁解する。何せ、毎回スノウには弁解の余地が与えられていないのだ。こんな状況でもとりあえず自発的行動ではないことを説明しておきたかった。
「―ええ、わかっています。あなたにそんな度胸があるとは思っていません。」
「そう、よかった…」
胸を撫でおろして…ちょっと切なくなる。
「あれほど妙な行動は控えてくださるよう申し上げているのですが…時期が時期ですし」
「時期?」
「……忙しい時期なのです。」
少し躊躇う素振りを見せて、スイが言葉を濁した。あまり聞かれたくないことらしい。
スノウはやたら忙しそうなエルを思い出す。そういえば最近忙しいのだと本人も口にしていた。
大方「仕事」とやらが忙しいのだろう。エルも大変だ…などと呑気に考える。
「では私はこれで。私も制圧に加わらねばなりませんので。」
「あ、うん。ありがとうスイ…」
ふとスイの言葉に引っかかりを覚える。
踵を返して足早に去っていく水色の後姿を眺めながら、スノウはぼんやりと考える。
スイは「制圧」と口にした。それはつまり戦いを―恐らくは人間との戦いを指すのだろう。
人間と魔物との戦い。
ついこの間までスノウはそこにいた。人間側の希望として、魔物を倒すために。
勿論、実際に倒していたのはメリルやフレイや、多くの仲間と派遣された軍兵士たちであったけれど。
それがまるで遠い日のことのようで。
自分が何者なのか、何をしているのかわからなくなる。
倒すべき魔物たちの城に、こうして存在する自分は一体「何」なのか。
自分の感情の中にぽかりとした空洞があることに、スノウは気づいた。
己の情けなさや不甲斐なさを痛感し、悔い、罪悪感に苦しめられる。それが普通の「勇者」の心理なのだろう。スノウにもその感情が全くないわけではない。だが、希薄なのだ。頭ではそれらを理解しているのに、強烈な感情が伴わない。まるでガラス一枚隔てた向こう側にあるような、近くて遠い感情。
こうしている間にも、メリルやフレイは戦っているのに。
そう思っても、心は揺れない。
『お前は俺じゃないだろう?』
いつかの悪夢が胸の内で蘇る。
勇者を志した若者。正義感溢れる、勇者。
果たして、それは本当に「自分」だったのか。この現実こそが悪い夢なのではないだろうか。
「…本当に、俺…なのかな…」
ひとり取り残された薄暗い回廊で、スノウは虚空をみつめて呟いた。
更新間隔がだいぶ開いてしまいました…すみません(^^;)
しばらくは説明っぽい話が続きます。