5.アイシャと猫
「くそ、面倒くせぇな」
ぶつぶつ文句を言うのは、スノウの「エサやり係」に任命されたアイシャである。
その手には小魚の干物が詰まった袋。そこから白い椀状の入れ物に移し替えようとして、脇からぼろぼろとこぼしていた。
その光景をあくびを噛み殺しながら、スノウは見るともなしに眺めていた。
スノウの座している場所は、部屋の窓際である。
午後の柔らかな日差しは、例えようもなく心地よい。
ご飯なんていらないから寝たいな…と緊張の欠片もないことを考え、伸びをする。
スノウが猫生活を送り始めて、早一週間が過ぎようとしていた。
元々、勇者としての自覚はおろか人としての自覚も危ういスノウである。
当初こそ今後を憂えて食事どころではなかったスノウだったが、変わり映えのない猫生活が続くにつれ、こうして呑気に食事を待つ程度には馴染んでしまっていた。
食事は日に2回。
この書斎のような部屋からの外出を禁じられているスノウに、エルとアイシャが交代で運んでくる。食事の内容は「小魚の干物」のみで、贅沢を言える状況ではないといえ、ここ最近はさすがに少々飽きてきていた。
まだ蛇やトカゲや或いは小型の魔物なんかではないだけ、マシだとは思っていたが。
最初、エルが「エサやり係り」を決めると言い出した時、スノウが思い悩んでいたのは「いかにしてエルの弱みを握るか」という勇者としては卑怯なテーマについてであった。
当面の命の危機は去ったものの、スノウにも猫にされた現状が「窮地」であることは十分に分かっていたし不安でもあったので、一刻も早くとの思いがあった。
エルの話は耳半分―正直なところ食事がどう、なんてことを考えているだけの余裕がスノウになかったこともある。だから食事を運んでくるのがエル以外、という可能性は全く思いつかなかったのだ。
従って、エルが「仕事があるから」と存外マジメな理由で、「エサやり係」を決めるという話になり、スノウの背は一気に凍りついた。
エルならばまだいい。猫にした張本人なのだから、間違ってもどうこうはすまい…その筈である。しかし、他の連中となるとそうはいかない。
果たして、呼び出された魔物二名は、勢い良く拒否を表明した。
「猫なんて放っておけば適当に食べますよ、虫とか鳥とか!」
と、アイシャが吐き捨てれば、
「猫の餌はわかりません。一説によると飛竜も食べるとか」
そんな餌は調達しかねます、と水色の髪の青年、スイが冷静に拒絶した。
「さすがに竜は食わないだろ、なぁ?」
エルはにこにこと笑いながら、スノウに同意を求めた。
ちなみに飛竜とは、龍の種類の中では比較的小型ではあるが、人ひとり丸呑みできる程の大きさである。猫の手に負えるような代物ではない。
スノウは勿論必死に首を振った。首元で鈴が鳴るが、それを気にする余裕もない。
龍のナマ、もしくは丸焼きなんて与えられても困る。
「お前たち何か勘違いしてないか?コレは猫の姿をしているだけでヒトに変わりないんだぞ。ヒトの食いそうなものでいい訳だし…それに猫といったらサカナで十分だろう?」
なんでもないことのように説明するエルが、スノウにはとても常識人に見えた。魔物にヒトの常識を求めても無駄だと思っていただけに、軽い衝撃を受ける。うっかり後光すら見えてしまい、スノウは慌てて目をこする。
「まぁ猫嫌いのお前たちに任せきりにするつもりはない。俺の不在時だけでいい。他の世話は俺が責任をもつ。」
きっぱり宣言する様はまさに飼い主の鑑。
ただし、飼われているのが他ならぬ自分だと思うと―スノウはこの日何度目かのため息をつく。
「…そこまで仰るのでしたら…いらっしゃらない時だけ、ですよ…」
顔をゆがめながらも、アイシャが譲歩を示す。仇とばかりに睨みつけられ、スノウは縮こまった。
「それでも、無理です。」
スイは譲らなかった。
「私にはできません。貴方の命に逆らう罰ならばいかようにも受けます。
…どうかお許しください、エル様」
まっすぐにエルを見詰めた後、深く頭を垂れる。その全身に纏った冷えた空気に、思わずスノウの背筋が寒くなった。ぴりぴりとした緊張が肌に突き刺さる。
「わかった。じゃあ不在時の餌やりはアイシャに頼もう。…そう難しく考えるな、スイ」
唇に優しげな笑みを履いて、エルはぽん、とスイの肩を叩いた。
「…はい」
顔を上げたスイの表情は相変わらず冷静で、切れそうな空気だけが消えていた。
スイの猫嫌いは相当のものだ。
スノウはそう結論付けて、なるべくスイには近づかないことを心に誓ったのである。
そんなこんなで一週間。
不在時だけと言っていたエルだったが、これがなかなか多忙であるらしい。
気づけば初日を除き、ほぼ毎日アイシャと顔をあわせている状態だ。
意外と面倒見の良いアイシャは、毎回文句と罵詈雑言を並べながらもせっせとスノウの世話を焼いていた。
ちなみに現在彼が必死に格闘している椀も、アイシャ持参の品である。
よく見れば何かの頭蓋のようだが…スノウはあえて気づかぬフリでいる。
気づいてしまったが最後、二度と椀に顔を突っ込む気にならなくなるのは明らかだった。
「おい勇者!…じゃなかった、猫!」
アイシャが怒鳴る。別に他に魔物はいないのだから「勇者」でも一向に構わないと思うのだが、と思いつつスノウは首を向ける。
「用意してやったぞ、食え!呑気にまどろんでんじゃねぇぞっ」
そうアイシャが喚く傍から、スノウは欠伸をする。白い尾をぱたぱた揺らし、だらしなく寝そべる様は堂々としていて、いっそ人間のときより貫禄がある程だ。
「お前、猫の方が性に合ってるんじゃねぇか?」
「…そんなこともないと思うけど…」
再び出そうになる欠伸をこらえつつ、スノウが返した。一部の魔法が解かれていることは、アイシャもスイも既に知る所である。
アイシャは鼻で笑って「どうだか」と肩を竦めた。
スノウはもう一度伸びをして、窓際から離れアイシャに近づく。
「おい、あんまり近づくな。」
椀をずずっとこちらに押し出して、アイシャが釘を刺した。
「…別に何もしないけど」
何かをするより、される方が心配だ。
「うるさい。言ってるだろ、オレ達は本能的に嫌いなんだよ」
「魔物は皆そうなの?」
椀を覗きこみ、小魚に噛み付く。
「さぁな。下等な連中は知らねーけど、少なくともヒト型取れる位の高位の奴は大体なぁ…」
ヒト型。アイシャの言葉に僅かなひっかかりを覚えて、スノウは首を傾げる。
「ヒトに姿が近いと強いの?」
「そりゃあな。変身能力っつーのはまんまそいつの力を現すのさ。ヒト型になれるやつは大抵他の姿にもなれるぜ?」
アイシャがにやりと口元を歪めると、鋭い牙が覗いた。スノウは小魚(干物)をばりばりと咀嚼しながら、再び質問する。
「アイシャは、本当はどんな姿なの?」
「…お前に呼び捨てにされると、やっぱ腹立つなぁ…ヘタレ猫の分際で!」
眉間に深い皺を寄せ、アイシャは獰猛な唸り声を上げた。黄金色の双眸は紛れもない殺気を放ち、今にも飛び掛ろうとする獣のように爛々と輝いている。
「…嫌?」
「嫌に決まってんだろ!何で主でもない人間の…しかも勇者の、へたれの、猫野郎に呼び捨てられなきゃいけない!」
火を噴く勢いでまくしたてるアイシャの前で、スノウは呑気に小魚を齧っていた。
一週間前であったなら、確実にへたりこんで気絶していただろう。それだけの迫力と殺気が、アイシャから放たれていた。
けれど伊達にスノウも一週間を過ごしていたわけではなかった。
当初こそ怯えまくっていたスノウだったが、こういうやりとりが日常化すれば慣れもする。
アイシャはとかく短気で喧嘩っ早い性質なのだが、言動とは裏腹に分別はしっかりついている相手なのだ。だから毎日のようにスノウを怒鳴りつけ脅しても、実際に手を出すことはほぼない。
スノウを嫌い、憎く思っていても主人であるエルに任されている以上、決して危害を加えることはないだろう。
この一週間でそれを学習したスノウは、唯一の情報源としてアイシャに質問しまくり怒らせるという日々を送っていた。
「じゃあ…アイシャ、さん?」
だから、動じることなく呑気に譲歩してみる。
「却下!」
「アイシャ様」
「…それも却下だっ!」
「じゃあ…なんて呼べばいいの?」
スノウは無邪気に尋ねる。猫の姿なだけあって、愛らしさと無邪気さは三割増しである。ただし、魔物には通用しない武器であったが。
「――呼ぶな」
沈黙の後、アイシャが言った。眉間に皺をを拵えて。
「そもそもお前と馴れ合うつもりはない。だから名を呼ぶな。わかったな、ヘタレ猫?」
傲然と言い放つ様は、まさしく王者の風格。
―――――あ。
唐突にスノウの脳裏に閃いたイメージ。声なき声が、スノウに耳打ちをする。
「アイシャ、狼なの?」
その途端、アイシャから表情が消えた。
「…な、」
アイシャが唇をわななかせた。双眸に浮かぶ色の意味がわからず、スノウは不安に駆られる。本気で彼を怒らせてしまっただろうか?
「…ええと…ごめ…」
「なんでわかった!!」
謝罪しようと口を開いたスノウを遮って、アイシャが詰め寄った。その勢いのまま、アイシャの目の高さまで抱え上げられる。だが興奮のためか、当のアイシャはといえばスノウを抱え上げたことに気づいていないようだ。
「え。…な、なんとなく…そう思って…」
あまりの気迫にしどろもどろにスノウが言う。本当にただの勘なのだ。理由などない。
「すごいな、お前!」
てっきり怒られるか脅されるか、あわや命を落とすかと怯えていたスノウだったが、意外な賛辞に唖然とする。
「…はい?」
「見破ったのはお前で二人目だ!すげぇ!やっぱお前って勇者なんだな!」
これは…どうとればいいんだろう?
呆然とスノウはなされるがままになっていた。アイシャは何故だかやけに嬉しそうである。正体がばれることは、そんなにうれしいことなのだろうか?
褒められて悪い気はしないスノウだったが、別段褒められるようなこともしていない、と思う。
とりあえず下ろしてほしかったので、スノウは「にゃあ」と鳴いてみた。
抱え上げていたアイシャがぴたりと止まる。
「――ッうわ!」
短い叫びとともに、手を放された。空中に放り出される。猫ならば大したことのない高さだ。――猫ならば。
中途半端に猫であるスノウは、べちゃっと顔面から着地した。
「っ!わぁ、大丈夫か、おい!」
これには色々な意味で慌てたらしい。アイシャが慌てふためいて叫ぶ。
「だ、いじょうぶ…」
やっとの思いで身を起こすと、アイシャが椀を押し付けてきた。
「悪かったよ、いいからとっとと食え」
恐らく「悪かった」は落とした所にあるのだろう。差し出された椀から食事を再開しながら、スノウは思う。
「オレみたいな高位の魔物はな、本性現すことは滅多にねぇんだ。だから隣の奴の正体が何か、なんて知らないのが普通さ。
力のある奴は一目で相手の正体を見抜けるって聞いたことがあったからさ、思わず興奮しちまった」
これまで会ってきた勇者は一人も見抜けなかったんだ、と得意げにアイシャが言う。
その「会ってきた勇者」は皆墓の下なのだろう。アイシャの力が如何ほどのものかは知らないスノウだったが、その程度は軽く予想がついた。
スノウが勇者であったころ、今までの魔物とは比べ物にならない大物がいるという情報をきいた。それがエルやその部下たちを指すのなら、ヒトの力はまだまだ遠く魔物に及ばないということになる。
果たして、これで「魔王」を倒せるものなのか。
「一目で見破られたら、敵なら戦わない。仲間なら忠誠を誓う。
そう決めてたんだけど、今までエル様しか出会えなくてなー。こんなもんかって思ってたから…」
アイシャの言葉に、スノウは小魚を齧りつつ、首を傾げた。
本当にただの勘であった場合、どうなるのか。
「じゃあアイシャは、俺と戦わないってこと?」
「…お前は勇者だからなー、ヘタレだけど。いずれは分からないよな」
「なら、忠誠?」
「それはねぇよ」
きっぱりと否定して、アイシャはそのまま何やら考え込んでしまった。
アイシャは真剣だが、スノウにとってはどうでもよかった。それよりも、落下時にしこたまぶつけた鼻がまだ痛むことの方が重要だった。そして、小魚の残量の方が。
「ねぇアイシャ」
しばらくして小魚をもごもご咀嚼しながら、スノウは話しかける。アイシャの大興奮で流れかけたがスノウはどうしても聞きたいことがあった。
「ん?何だよ」
一方のアイシャはというと、己の思考に没頭していたためか、スノウの呼び捨てに気づかないでいる。
「ヒト型になれる魔物は猫嫌いなんだよね、なのに…どうしてエルはあんなに猫に拘るんだろう?」
一番気になっていること。それはエルの意図である。
勿論元に戻ることと帰ることが最優先であり、エルの弱点を掴むことが重要なのは分かっている。だが、それ以上にあれほど猫に執着する理由を知りたかった。
「ああそれは―って、ちゃんと敬称をつけろ!」
そこはしっかり聞いていたらしい。面倒だと思いつつも、スノウは「エル様」と訂正する。
アイシャはそれに満足げに頷くと話し出した。
「いつだったかな、エル様が急に仰ったんだ。
猫はいないのか、って。ここに猫がいる筈ないからそう言ったら…猫を飼いたいって。始めはいつもの変な研究にでも使うのかと思ってたら、どうやら本気で愛玩用に探してるって分かってなー」
「変な研究って?」
「さあ?中身までは知らねー。…そういや最近ぱったりしなくなったなあ」
あまり突っ込んで聞くと不審がられそうなので、スノウは「ふぅん」と相槌を打つにとどめた。機会があったらきくことにしよう。
「でな、オレらが大反対して、エル様自身猫と接触しようとしたみてぇだけど、思うような結果に至らなかったっつーことで…猫は飼わないって結論になったのさ」
なるほどそれで、とスノウは頷く。本当の理由はともかく、以前から猫を飼いたくて仕方なかったのなら、この奇妙な事態も――まぁ理解できる。
「それで…これなんだ」
思わずわが身を顧みて、落胆した呟きを漏らすとアイシャが意地の悪い笑みを浮かべた。
「ははっ、災難だったな、勇者」
確かに災難だが、すぐさま殺されるよりはマシかもしれない。
勇者であるプライドなどつい一月前から勇者を始めた身には全く関係なかった。それどころか自分が自分である根源すら危ういのに、プライドだの沽券だの言っていられない。
「しかし不思議なんだよな」
アイシャが独り言のように呟いた。
「不思議?」
「それまではエル様も猫嫌いだったんだぜ。まぁオレたちほど嫌ってなかったけど…苦手にはしてたんだがなぁ」
それがいきなりペットとか言い出すから。
アイシャは首を捻りつつ、「拾い食いかな」と主人に対してものすごく失礼な感想を述べた。
敬称をつけないことより余程不敬なんじゃなかろうか、とスノウは思ったが、口にはしなかった。
かわりに、椀に前足(手)を乗せ、別なことを口にする。
「アイシャ、魚なくなった。」
「あ?もう食ったのか、食いすぎると太るぞ」
言って、アイシャは手元の袋から小魚を掴み出し、そのままばらばらと椀の中に落とす。
「太らないよ、足りないくらい」
「ふざけんな。贅沢言うんじゃねぇよ」
「毎日小魚の干物ばかりで飽きた」
「うるせぇヘタレ猫。他に何が食えんだよ、虫か?」
肉、と挙げようとしてやめた。正体不明の肉を食わされてはたまらない。
「焼き魚とか…あとパン」
「おい、サカナはともかく、そりゃ人間の飯だろ」
「たまごやきにハム…チーズ…」
「いくら人間の食いモノでいいって言ってもな…そりゃやっぱ腹下すと思うぜ?猫の姿なんだからさ。」
一理も二理もあるので、スノウは黙る。
「ま、しょうがねぇ。焼き魚と…ハム位なら大丈夫だろ。そのうち持ってきてやるよ」
袋から小魚を出し終え、アイシャはぽんぽんとスノウの頭を撫でる。
スノウは顔を上げず、小魚に夢中なフリをした。
でないときっと、アイシャは己の行動に気づいてしまうから。
猫嫌いと言いつつも、なかなかどうして、アイシャは面倒見がいいのである。