47.エピローグ
「お迎えが来てますよ」
他愛もない会話の途中、スイがそう言った。
その言葉にスノウは顔を上げてその視線の先を追う。そこには、門から離れた場所に佇む二つの人影が見えた。
「あ、クロスとレリックだ」
同じく反応したフレイが、弾んだ声を上げる。彼らはそれぞれ手に籠を下げている。植物の蔓で編まれた、丸い形のものだ。その隙間からちらちらと動物の影が見えた。恐らく、細工の為にと連れてきたネコだろう。
「……ネコが二匹ですか。申し訳ありませんが、私はちょっと」
眉を微かに歪めたスイが、門の内側へと体を向ける。
そういえばスイは重度のネコ嫌いだった、とスノウが思い出していると、傍にいたエルがこれまでの彼からは想像もつかない俊敏さでスイの腕を捉える。
「っ……エル様」
「全く、ネコとなると咄嗟に逃げようとする癖、どうにかしなよ。この二ヶ月で結構慣れたはずでしょ?」
『人間』だったエルはネコの姿で過ごしていた。確かにスイは積極的に『スノウ』と関ろうとはしていなかったが、それでも避けるほどではなかったとスノウは思い返す。
「お言葉ですが……本物のネコではありませんでした」
「大して変わらないよ。傍に近づけやしないからそのまま待機してて」
側近だろう、とエルは軽くスイを睨む。その眼光は決して鋭くはないが、やはり幾らか思うところがあったのだろう。スイは不承不承といった態で承諾する。
「メリル。悪いけどネコを連れてきて貰えないかな。一匹でいいから」
エルの言葉にメリルが頷く。
「わかりました。どちらでもいいのですか?」
「うん。見たところ大差なさそうだからね。好きな子を連れてきて」
言葉を交わす二人を、フレイはどこか心細げにみつめている。それに気付いたスノウは、その背を軽く叩いた。
「フレイ、メリルと一緒に彼らのところへ。すぐ済むからそのまま待っててくれないか」
それにフレイが慌てたように頷いた。栗色の瞳には安堵の色が宿ったが、それも一瞬のことだ。
「行きましょうか、フレイ」
微笑んで差し出されたメリルの手を躊躇いなく掴んで、フレイはメリルと共に彼らの仲間の下へと歩いていく。
フレイが未だ戸惑っていることにはスノウも気付いていた。
スノウは紛れもない勇者であり共に戦った仲間だが、今の彼は『勇者を奪おうとした魔物』と同じものである。どちらもスノウに違いないのだが、フレイにしてみれば複雑だろう。
増して目の前には散々恐怖を植えつけられた憎き魔物の姿。だがこちらも、かつて一月を共に過ごした『スノウ』と同じなのだから、フレイの内心の混乱は察するに余りある。
その小さな後姿を眺めていると、エルが声をかけてきた。
「これからどうするの?」
スノウ同様、その視線はメリルとフレイの姿に注がれている。少し抑えた声は、彼らに聞かせまいとしているようにも思えた。
エルの言わんとすることを察しながらも、スノウは努めて事務的なことを唇にのせる。
「ひとまずは王都に戻る。この件の後始末が残ってるしな」
「ああ、それはそうだね。竜のこともだけど遠見の魔法使いのことも……なかなかに問題は山積みだもんなあ。
―――けど俺が聞きたいことはそれじゃない。わかってるよね?」
うんうんと頷いたエルは、一転して声音をがらりと変えた。低めの声は、スノウが『かつて』よく使っていた声だ。聞きなれたはずのそれがこんなにも背筋にくるものだとは、とスノウは思う。
スノウが視線を向けると、エルは綺麗な笑みを浮かべていた。いっそ無邪気なまでに綺麗なそれへ、苦笑を返す。
「どうしようもないさ。俺は人間で、今はまだ勇者だ。それは動かしようがない現実だろう」
「このまま戻れば、ね。逃げるっていう選択肢もあるよ」
どうしてもというなら手を貸してやらなくもない、とエル。
笑みの形に歪んだ赤い唇は、粟立つ程の艶を含んでいる。魔物の本性を覗かせたエルの、悪魔的な誘惑が甘く響いた。
「都合よく次代の勇者が用意されているじゃないか。『スノウ』は一度鬼籍に入れられた人間だ。もう一度死んだところで失うものはそう多くないよ」
その魔物らしい気紛れな言葉の中に、それでもスノウを案じる気配を感じて、スノウは辛うじて笑みを保つ。
妖しく笑う美しい顔を見つめ、スノウは言葉を紡いだ。
「ありがたい申し出だが……そういう訳にもいかない。俺は勇者だからな」
搾り出すように放った言葉は、微かに震えていた。そこに潜む感情を気取られなかったかと不安になったが、エルはどうやら気づかなかったらしい。
わざとらしいくらいのため息をついて、エルの肩から力が抜ける。同時に、エルから漂っていた妖艶さも奇妙な圧迫も綺麗に霧散した。
ぱちりと瞬いた真紅の双眸は、常と変わらない。どこか間延びした穏やかな空気を再び纏って、エルは雑な仕草で頭を掻いた。
「そう……まったく君は『勇者』だよ」
溜息と共に、皮肉とも称賛ともとれる言葉を漏らす。恐らく、そのどちらの意味も含まれているのだろう。
「そうだな。こればかりは仕方ない。……で、お前はどうするんだ」
意趣返しも込めて尋ねれば、エルはきょとんとした表情で瞬いた。
「どうするって、言ったじゃないか。暫く大人しくしとくよ?」
「まあ……『俺』は確かにそう約束はしたけどな。実際問題そういうわけにもいかないだろう」
表面上は「大人しく」するつもりでいた。これ以上王国―――人間に構っている余裕はないからだ。だが、問題はエルの方こそ山積みなのである。己の精鋭を退けた弟を、あの兄が放っておくとは思えない。
スノウの言葉に、エルは「やれやれ」と言わんばかりの笑みを浮かべて肩を竦めた。
「兄についてはもう諦めてるよ。どうせまた何かしら仕掛けてくるでしょ。だから俺は動かない。この城で、大人しく研究しておくとするさ」
受け身の呑気な姿勢はいかにも彼らしい。アイシャとスイのやきもきする姿が目に浮かぶようだ。
続く研究、の言葉にスノウは首を傾げる。
「あれは未完成では?」
地下の『仕掛け』は、いまだ改良の余地がありそうな気がした。といっても、専門外であるスノウには何をどうすればいいかなどとはわからない。ただ必死に用途と使い方を理解して、幾つかの不便を感じただけである。
「じきに完成するよ。実を言うと稼働させたことはなかったんだよね。今回予想以上の結果が得られたから、あとは微調整するくらいかな。まあ兄の横槍さえなければもう少し早く完成したんだろうけどね」
楽し気に笑った後、エルはふと思い出したように表情を改める。
「ああそうだ、ひとついい事を教えてあげるよ」
「いいこと?」
首を傾げるスノウを見遣って、スノウは軽く頷く。
「魔法はあまり得意じゃないんだよね? 魔法石を使ってやっとそこそこ形になる程度だっけ」
「ああ、魔法石がなかったら戦闘では使い物にならないな」
元々、スノウの魔力は少ない。一通りの魔法は学んだが、魔力の少なさが災いして使える魔法はごく僅かだ。根本的に魔法は向いていない性質なのだろう、とスノウは結論付けている。
「魔力少ないもんね、その体。けどそれは魔力に頼りすぎてるからだって、気付いてる?ちょっと工夫したら魔法剣士になれるよ。それも結構な使い手に」
スノウは当惑して眉根を寄せる。現段階でも魔法石の補助なしではろくなものにならないのだ。『エル』の時ならともかく、今のスノウでは剣を揮いながら魔法を扱うなど至難の業である。
「どういうことだ」
「よく思い出してみてよ。俺はその体で魔法を使って来たんだよ。まあ大掛かりな魔法は石の力を借りたけど、補助を受けようがどうしようが、魔法を揮えていることに違いはないでしょ?」
その言葉にスノウは記憶を辿る。確かに、目の前の相手は『この体』で様々な魔法を揮ってみせた。少ない魔力を石で補い、驚くほど強大な魔法を行使していたのだ。
「本来の中身が影響していないとは言わないけどね。それでもさ、石の補助なしで空間を歪める魔法まで使えてたんだから、それなりの素質はあると思うんだよ」
「空間を歪める?」
「エル……じゃなかった、スノウも使ったでしょ。最初に俺たちが乗り込んできた時。最下層から一気に最上階に空間を繋げた」
スノウは目を瞠った。
この奇妙な関係がはっきりと始まったあの時、『エル』は魔法書を見ながら懸命にその呪文を唱えたのだ。戦力が分散してしまった状況で、どうにか被害を最小限に抑えようと考えた結果だった。
今思えば無意識に理解していたのかもしれない。頭の片隅で勇者たちを『見逃す』ことも視野に入れていたのだから。
「……気付いてたのか」
「いや、あの時は気付かなかったよ。わかったのは、俺も同じものを無意識に使ってたって気付いてからかな」
言って、エルは少し困ったように笑った。
「実はネコの時に、ちょくちょく地下室に行ってたんだよね。俺としては転移呪文のつもりだったけど、記憶が戻ってみたらアレ空間を歪める系の呪文だって気付いてさ」
黙っててごめんね、とどこかずれた謝罪をするエル。
「空間を歪める魔法は、すごいことなのか?」
「そうだなあ、レリックだっけ? 彼は多分使えないか、使わないと思うよ。恐ろしく消耗するから」
だからその体も全く使えない訳ではないのだ、とエルは言う。
仮に真実魔力が枯渇しているような状態ならば、そんな魔法を行使した途端に昏倒するはずだ。それどころか行使すらできないだろう。
それを、中身が違うとはいえ幾度も実行していたのだから、エルの弁はもっともなものであった。
「俺の結論としてはね、その体にはまだ眠ってる部分があると思うんだよ。いわゆる伸び代ってやつ。そこを上手く伸ばすことができれば、魔法剣士も夢じゃない。
まあ、別に伸ばせなくても現状でもやりようはあるけどね。魔法石とか魔法関連の道具を使えば、俺が使った程度までの魔法ならできるんじゃないかな」
言って、エルは軽くスノウの肩を叩く。十分に手加減はされていたのだろう、スノウの体に衝撃も痛みもなかった。
それにどこかくすぐったいものを覚えつつ、スノウは問いかける。
「……どうして、俺にそれを?」
今更ではあるが、互いに敵同士なのだ。エルの言動はいわば敵に塩を贈るようなもので、スノウが「強く」なることは彼にとって何の得にもならない。むしろ、下手をすれば害になるだろう。
「ただの気紛れだよ―――そこらの雑魚にやられるのは癪だからね」
僅かに尊大な表情を滲ませて、エルが言う。それが無理をしているように見えるのは、スノウがエルを知りすぎているせいだ。
「ああ、わかった。……忠告ありがとう。検討してみる」
苦笑して礼を述べるスノウを一瞥し、エルはスノウの背後、並んで待っているであろう勇者の仲間たちへと視線を投げた。
迎えが来ている以上、長々と話をするのは憚られる。
エルも同じ考えであるようで、緋色の髪をぐしゃりとひとつかき混ぜて、長く息をつく。
「そろそろ時間かな。これでほんとにお別れだね。……元気でね?」
そう言って、エルは片手を差し出した。
すっかり見慣れたその手のひらを見つめ、スノウは笑みを深める。
「ああ。お前も」
☆☆☆☆☆
握手を交わし、別れの挨拶をしているらしいその様子を、離れた位置からクロスとレリックは見守っていた。
スノウより一足先にこちらへと歩いてきたメリルは、二人がそれぞれに手にしていた籠を見つめ首を傾げている。
「どちらがいいのかしら」
「二匹とも連れていけばいいのでは?」
「一匹でいいと言われて……どちらでも大差ないから好きなほうで構わないって」
「そうですか……なら、あちらの子でしょうかね?」
レリックが示したのはクロスが下げている籠のほうだ。中には、灰褐色の子猫がいる。
「ほんの僅かですが、あちらの子猫のほうが体が大きいので。体力はあるに越したことはないでしょうし」
「そうね。じゃあその子にするわ。」
伸ばされたメリルの手に、クロスが籠を渡す。
それを胸に抱えるようにして持ち上げ、メリルは籠の中を覗いた。中では、子猫が丸くなって眠っている。恐らく怯えて暴れないよう、そういった魔法をかけられているのだろう。
「あちらに渡してくるわね」
ネコを確認して、メリルはくるりと踵を返す。
その先では、スノウが魔物たちに背を向けて、こちらへと歩き出したところだった。
それに気付いて、メリルとフレイが微笑む。クロスは表情の選択に迷って、レリックは条件反射で人好きのする笑みを浮かべた。
彼らの視線の先で、スノウは一瞬躊躇うそぶりをみせたが、結局、どこか困ったような笑みを返してきた。
それだけで、互いの考えていることがうっすらと理解できて、緩い空気が流れた。
ふと、こちらへと向かっていたスノウが足を止めた。
怪訝な表情になったスノウが、背後を振り返り、そしてそのまま来た道を戻り始めた。
「あれ? どうしたんだろう」
どこか慌てた様子で魔物たちの元へと返すスノウに、レリックは怪訝な表情を浮かべる。
「何かあったのか? 引き返したぞ」
「ここからだとよく見えないわね。フレイ、見える?」
木立の間から様子を伺うメリルが、振り向いてフレイに尋ねた。身長でいえば間違いなくメリルのほうが見える位置なのだが、残念ながら弓の名手であるフレイのほうが視力自体は格段に良い。
「ううん。よくわからないや。木が邪魔」
首を振るフレイに、仲間たちは顔を見合わせる。口火を切ったのはクロスだ。
「どうする? 多分なんか問題があったんだとおれは思う」
こちらから見えるスノウの後姿は、微動だにしていない。その彼の姿に隠れるように魔物二人の影が見え隠れするが、こちらもめぼしい動きは見られなかった。つい今しがたまで、このまま別れる様相を見せていたのが、まさかの膠着である。
「スノウは先にここで待っててって……」
フレイが躊躇いがちに呟く。
「私が確認してきても良いのだけど」
ネコを渡す必要があるし、とメリルが首を傾げる。視線の先では、相変わらず事態に変化は見られない。何事か話している様子は伝わるが、当然ながら内容までは掴めなかった。
「皆で行った方が早いわね」
あっさりと、メリルが言った。
そのことに全員が目を剥く。年長者であり、慎重派という印象が強かっただけに、その彼女が下した決断に呆気に取られる。
ここはまだ魔物の領地なのだ。加えて向かう先には、幹部クラスの魔物がいる。たとえ、数日共に過ごし危害を加えないという誓約があるとはいえ、全面的に信頼のおける相手ではない。スノウの命の危機だというならまだしも、状況を見る限りそこまでの事態ではないようにも見えた。
メリルを見れば、別段冷静さを失っているわけでも、状況が見えなくなっているわけでもないようだ。翡翠の双眸は素早く周囲に配られ、彼女が警戒を緩めているわけではないことを窺わせた。
「全員で、か?……あちらに警戒されるんじゃないか?」
クロスの戸惑った問いかけに、メリルはふと笑みを浮かべる。
「警戒なら最初からされてるわ。なら固まっていた方がいいかしらと思ったのだけど……それに、彼がいるなら大丈夫だって思って」
その言葉に、クロスは視線の先に思い至る。
なにやら問題が起きたらしい場所に、佇む白い姿。クロスにとっては散々振り回されイライラさせられた印象しか残っていないが、それは本来の『彼』ではない。今あの場に佇む姿こそが、本来のスノウであり、稀代の勇者といわれた彼だ。
その他者を圧倒する輝きを誇る『勇者』がいるのなら。
メリルが『大丈夫』だと言う言葉の意味が、少しわかった気がした。
「……ああ、なるほど。じゃあ、ちょっと行ってみるか」
うん、と頷いて、クロスは足を踏み出した。
レリックとフレイもまた、彼に倣う。
そうして勇者一行は、再び城門へと歩き出した。
そこで待ち受けていた出来事に、スノウ同様固まることになるとは、このときの彼らは露とも思っていなかった。
☆☆☆☆
「元気でね」
言葉と共に差し出された手を握った瞬間、電流が走った気がした。
それは思わず手を引っ込めてしまうようなものではなく、微弱な、軽い痺れのようなもので。
スノウは内心首を傾げる。
まるで手のひらの小さな傷をうっかり触ってしまったかのような、小さな衝撃だった。痛みとして認識するのもばかばかしいほどの、それ。
咄嗟に目を上げると、不思議そうな真紅の瞳とぶつかった。どうやら相手も同じことを感じたらしい。
「…じゃあ、さよなら」
エルの形良い唇が動いて、そっけなく別れの言葉を紡いだ。瞬きひとつの間に、おかしいなといいたげな気配は消える。わざわざ言うことでもない、そう思ったのだろう。
それはスノウも同感だった。瑣末なこと。そう思ったから、すぐに意識の外に追い出して、同じように笑みを拵えた。
「さよなら」
指を離して、目を伏せて。ゆっくりと後方を振り返った。
そこには見慣れた仲間の姿がある。
記憶の中と寸分の違いもない、メリルとフレイ。
様々な苦難に見舞われながらも、『スノウ』の傍にいてくれた大切な仲間だ。ほんの少し離れていただけなのに、懐かしくてたまらない。
そしてその傍らには、新たに得た仲間が二人。
胸に広がるのは微妙な気まずさだ。何せこれまでは『エル』の姿でしか顔を合わせていないのだ。不可抗力とはいえ敵として相対していた相手である。
湧き上がる感情を抑えて、スノウは笑みを浮かべる。彼らとの関係は追々構築していけばいい、と開き直って。
これからのことをスノウはつらつらと考える。
王国への事情説明。ヴァスーラの企み。魔物についての見解。
きっと想像以上に色々なことが待ち構えている。スノウが帰る世界はそんな場所だ。
スノウは一歩踏み出す。
人間の世界、スノウ・シュネーの世界に戻るために。
魔物と人が憎みあい殺しあう世界の、中心へと。
それでも、記憶の淵から蘇るのはこの城で過ごした決して長くはない時間だった。勇者として在った時間よりも鮮やかに色づく世界に、心が揺れた。
握手をした手のひらが熱い。
エルの体温がその手指に染み付いて、胸が苦しかった。同じ体温を持つ相手を切り捨てなければいけない。それが、スノウが生きている世界だ。いつか再び剣を向ける日が来ることが、酷く苦しい。
矛盾する自分の感情を自覚しながら、スノウは望んだ。それは憧れにも似た、羨望。
だがそれは、スノウには手に入らないものだ。手に入れてはいけないものだ。
未だ熱を持ち何かを訴えるかのような右手を、スノウはきつく握り締めた。
その途端、
「にゃあっ」
「エル様っ!?」
甲高い動物の鳴き声と、叫ぶようなアイシャの声が響く。
切迫したその響きに、スノウは反射的に振り返った。
視界に飛び込んできたのは狼狽したアイシャの姿と、呆然としているようなスイの姿。そこに確かに先ほどまであったはずの、エルの姿がない。
「どうし……」
どうしたのかと問いかけようとして、彼らの視線が足元に集中していることに気付く。
丈長い草が生い茂るそこが、先ほどから騒々しく揺れている。
そうしてそこから、赤茶けた塊がころりと転がり出た。
「……?」
何がなんだかわからないスノウは、首を傾げながら踵を返した。
そうして、振り切るように進んだ歩数を再び戻る。
「そんな……」
掠れた声は、一体誰のものだったのか。
二人の魔物と勇者の足元で、赤茶けた塊が大きな目を瞬かせていた。その色は、紅玉よりも深い真紅。
ざあ、と血の気が引くのを感じる。脳裏に閃いた思考をすぐさまねじ伏せて、スノウは早鐘を打つ頭で考える。すべて「元」に戻ったはずだ。こんなこと、有り得ない。
「何これ」
頼りない呟きは、スノウのすぐ傍から聞こえた。視線をやると、真紅の一対と目が合う。
赤錆色の毛並みに、紅玉の目。ぴんと尖った耳は一般的なそれよりも長めだろうか。
転がった為か長い毛足は随分乱れて絡まっていたが、そこにいたのは珍しい色合いの綺麗な―――ネコだった。
「なんで……ちゃんと解いたはずなのに!」
だが、悲痛な声で絶叫したのは、紛れもないエルその人である。
誰ひとりとして、言葉がでなかった。
「なのになんでまたネコ!? しかも前と違う種類…じゃなくて、そもそも掛けられた体はそっちなのに!?」
どうして、と文字通り血を吐く勢いのエルに、スノウは何と言っていいかわからない。
魔法が不得手であるスノウにはわからない事柄であったし、また、不得手ながらも魔法を揮ってネコにしたのは紛れもない自分だったので、何と言い様もなかった。
「…ど、うしてだろうな…?」
重苦しい沈黙の後、辛うじて搾り出した相槌が、スノウの精一杯であった。
★★★
その日、パールディア王国は喜びに沸いた。
かつてないほど強大な魔物討伐を果たし、王国軍を率いた勇者が凱旋したのだ。
相応の犠牲は払ったものの、多くの兵士が戻り、魔物の長を討ち取った。戦利品として献上された竜のものと思われる角や鱗は人々の度肝を抜き、改めて勇者「たち」の功績とその戦いの過酷さを知らしめた。
帰還した勇者は二人だった。
王国軍を率いて進軍した6代目勇者クロス・エセルと、城で落命したとされていた5代目勇者スノウ・シュネー。
魔物の城において6代目勇者と共闘し、知略によって迎撃、魔物の軍勢を退け首魁を討ち取ったと報じられた。
その報せは、瞬く間に国内を駆け巡り、王国軍を率いた勇者たち一行が王都に到着する頃には、国を挙げての祝祭となっていた。
祝祭は一月のあいだ続けられ、スノウ・シュネーの名は深い崇敬と憧憬を以て囁かれることとなった。
一方、スノウ・シュネーの不在時に任命された6代目勇者クロス・エセルは、5代目勇者の帰還により勇者の地位を返還したものの、その実力と功績を惜しまれ、次期候補として改めて任命されることとなった。
稀代の勇者と謳われたスノウ・シュネー。
彼は魔王討伐の切り札として、人々の希望として、着実に道を進んでいた。
その傍らには彼と共に戦ってきた仲間たちと、後に6代目勇者として再度立つことになるクロス・エセル。
そして、
赤い猫が一匹。
END・・・?
無事完結しました。
長らくお付き合い頂きありがとうございました。