44.ふたりの事情(上)
最上階の大広間。
足を踏み入れたレリックは、思わず天井を仰いだ。
高い天井には複雑な装飾が施され、支える柱の一つ一つに美しい模様が彫りこまれている。その美しい装飾は、鏡のように磨き上げられた床に映り込み、さながら水面に映る仮初の宮殿のようだ。
これまで彼らが押し込められていた簡素な部屋とは一線を画す、豪華で広い部屋である。
だが、黒を基調とした室内はひとめでそれとわかる程に損壊していた。
柱や壁は所々崩壊し、外の風景が見えていないことが不思議なほどだ。床には深い亀裂があちこちに見られ、こちらも踏み込めば今にも崩落しそうである。天井も同様悲惨な有様だった。
まるで、ここで一戦交えたかのように。
「クロス……!」
そんな荒れ放題の室内で見つけたその姿に、レリックは思わず歓喜の声をあげた。
レリックの声に振り向くのは、彼の唯一の親友であるクロスだ。その姿はレリックが最後に目にした時と殆ど変わりない。亜麻色の髪は幾分くすんだ色になり身に纏う旅装もどことなく汚れているようだが、それだけだ。欠損はおろか、派手な怪我をしている様子もない。
クロスだけが連れ出された時から最悪の結果も覚悟していただけに、五体満足で再会できたことが嬉しかった。
「レリック」
こちらも思わずと言った様子でクロスが名を呟いた。
瞠られた青い目は、けれどもすぐに冷静な色を取り戻す。緩みかけた表情も、強張ったものに変わった。
それも当然だろう。クロスの周囲には、見覚えのある魔物たちの姿がある。
クロスのすぐ近くにいるのは藍色の髪をした魔物。鋭く細められた金色の双眸が、レリックを警戒するように見つめている。
そこからやや離れた位置では、二つの影が何事かのやりとりをしていた。レリックたちの存在に気付いていないはずもないが、こちらに注意を向けることなく会話に集中しているようだ。長い水色の髪が邪魔をして表情までは伺えない。
淡々としたその声に短く相槌を打っているのは、燃えるような髪が印象的な魔物だ。魔物たちの長であり、城主のエルである。
黒衣に包まれた足を組み、玉座のような椅子に腰掛けている。肘掛けに突いた片手は額を押さえていた。まるで頭痛を堪えているかのような様子に、レリックは内心首を傾げる。
相変わらず堂々たる姿ではあるが、見ようによっては疲れているようにも見える。
「これで揃ったか」
首を傾げて藍色の髪の魔物が言った。レリックから流れていく視線は、レリックの隣、同じように佇むメリルとフレイへと移っていく。
彼らは今、城の最上階にある大広間に足を踏み入れたところだった。
押し込められていた部屋に、再び魔物たちが現れたのはつい先ほどの話だ。クロスが連れ出され、そうこうしているうちに城が幾度となく揺れるという事態に動揺していた矢先だった。「勇者」の仲間のみに用があるというそれに、レリックは首を捻りつつも従った。
勿論、部屋が空いた瞬間、反撃して脱出することを考えなかったといえば嘘になる。実行するだけの体力も魔力もあったし、動機に至っては十分すぎた。だが相手の言葉に引っ掛りを覚えたこと、とクロスの生死を諦められなかったことが、レリックの決心を鈍らせた。加えて、指名されたも同然のメリルとフレイに至ってはレリック以上に淡々と従った。恐怖はおろか怒りも焦燥もみられない二人の様子に、レリックは様子をみることにしたのだ。
そうして、連れてこられたのがこの大広間だったのである。
「そうだね、これで全員かな」
藍色の魔物に答えたのは、玉座の影からひょいと顔を覗かせた人物だ。
白金の髪に青い目、簡素な旅装の青年。戦死したと思われていた5代目勇者、スノウ・シュネーである。
隣から息を呑んだ気配を感じて、レリックは視線を送る。メリルの顔色は悪い。その翡翠の双眸は、激しく揺れている。
さすがに本人を前にしては平静ではいられないのだろう。
その胸中を思い、レリック目を逸らす。
メリルの顔色の悪さはそれだけが原因ではなかった。レリックは知らないことであったが、この場所はメリルとフレイにとっては忌まわしい記憶に直結していた。共に戦った勇者を「喪った」と後悔した場所。ほんの数ヶ月前にスノウと別れた、その場所である。
一方で、もう一人の当事者であるフレイの表情はぴくりとも揺らがなかった。
「お前たちはもういい、下がれ」
次いで発言したのは、エルだ。やや俯けていた顔を上げ、その真紅の目はレリックたちの後方、彼らを連れてきた魔物たちに向いている。
「これから何人たりとも通さないように。いかなる状況であれここに入ることは禁じます。その旨皆に伝えてください」
落ち着いた声音で、その隣の魔物が水色の髪を揺らし指示をする。
三人を連れてきた魔物たちは、その言葉に短く応じてそのまま踵を返して出て行った。
扉が完全に閉まったのを確認して、スノウが軽く息を吐く。
レリックたちを見返したその青い双眸は穏やかに凪いでいる。
「さて、じゃあ説明を……6代目勇者、お願いしてもいいかな」
軽く首を傾げたスノウは、そう言ってクロスに顔を向けた。
クロスはそれにため息で応じて、首の後ろを掻く。
「あー。三人とも、質問は後から聞くから……ひとまず聞いて欲しいんだけど」
渋面のクロスが、目線を泳がせながら言う。
クロスがざっくりと話した内容はこうだ。
捕えられた全員がクロスを含めカディスに送られるということ。
それが『竜』を倒すために協力した『見返り』だということ。
そしてその一部を『功績』として持ち帰り、この城の魔物は『倒した』ことにするということ。
とてもではないが俄かには信じられないような話を羅列され、レリックは忙しく瞬きを繰り返す。
「クロス……その、竜って」
全員無事に帰還できる、ということは僥倖に違いないが、そのための対価が納得しがたい。
そもそも竜の話からして信じられないのだ。
レリックにとって竜はおとぎ話の中でしか存在しない。否、存在は知っている。見たことも聞いたこともなく、ただ「いるらしい」と聞いただけのことを「知っている」と定義するならば、だが。
そのレリックの動揺は、クロスにもよく理解できているようだった。
「信じられないのはわかる。おれも実際戦ってなきゃ信じてない」
頷いたクロスは服の合わせから何かを取り出し、レリックを含めた三人に示してみせる。
「これが竜の鱗だ。持ち帰るのはこれと、竜の角を一本。いますぐ信じなくていいから、とりあえず納得してくれ」
茶色の岩のようなそれは、よくみれば確かに鱗のような形状をしている。
ここまできて、クロスがレリックたち仲間に嘘をつく必要はない。クロス自身が魔物に騙されているならば話は別だが、クロスは確かに「実際に戦った」と明言した。クロスがその眼と腕で確認しているのなら、信じる他はない。この、元は豪華だったろう部屋が荒れ果てているのも、それが原因だとすれば納得もできる。
「……わかった。それで、ここの魔物討伐は完了ってことにするって……?」
頷いた後レリックがそう問えば、クロスはここにきて初めて瞳を揺らした。
「ああ。悪戯に犠牲を増やすべきじゃない。」
断言して、クロスはふるりと首を振った。陰った双眸が彼自身納得していないことを表していた。
「クロス……」
先代勇者へと勇ましい啖呵を切ったクロスである。その性格を思えば、見逃すような真似などしたくないはずだった。それでもその決断をしたのは、自分たち仲間の命を優先したからだとレリックは気付く。
クロスはそんなレリックから視線を外すと、苦しげに眉根を寄せた。そして何度か唇を舐め、躊躇いの滲む口調で言葉を継ぐ。
「これからカディスへと移動する……けどその前に、あとひとつ。先代勇者は、ここに置いていく」
メリルが息を呑む。フレイは視線を前に据えたまま、微動だにしない。
「……それは大丈夫なのか?」
二人の様子を見遣ってから、レリックは静かに問いかけた。
確かに先代勇者は魔物側に与していると取られても仕方ない行動をしている。控えめに言っても「裏切り者」としか見えないだろう。そしてそんな人間を連れ帰ることはどちらにとっても得にはならない。
よりによって勇者が魔物に寝返るなどと、醜聞もいいところだ。関係者への緘口令が敷かれ、存在が明るみにならないうちに秘密裏に処分されるのが関の山だろう。万一明るみになれば、それはそれで火消しに奔走させられることは目に見えている。
そして、連れ戻された勇者のほうも極刑は免れない。恐らく死よりも辛い仕打ちが待ち受けている。
だが、それはあくまでも政治上の話だ。先代勇者の周りの人間からすれば、生存していた彼をみすみす魔物の城に残して行きたくないだろう。いくら彼が魔物側につくと明言したとしても、それでも手の届く場所、目に入る場所に帰ってきて欲しいと思うのが人情だ。
先代勇者とほぼ係わりのなかったレリックにしてみれば、クロスの判断に賛成ではある。クロスほど「勇者」という存在に神聖さも理想も求めておらず、寝返っていたからといってさほど怒りを感じることもなかったレリックだ。裏切り者をわざわざ連れ戻す必要もないし、厳罰を受けさせる必要もないと思っている。
だから、クロスの意見には賛成だった。だが、メリルとフレイの心情を慮って敢えて曖昧に尋ねた。それらの理由を、クロスの口から直接伝えさせるために。
「……それは……」
クロスはいつになく歯切れが悪かった。内容が内容なだけに、二人の手前そうなるのも仕方ないのだろう。
困惑気味に、それでも懸命に言葉を選んでいるらしいクロスに、思わぬところから助け舟が入る。
「大丈夫だよ、俺はここに残るから」
そう、笑みさえみせて答えたのは、当のスノウ・シュネーだった。
「嘘だ」
対し、鋭く否定するのはずっと無言を貫いていたフレイである。思わず全員の視線がフレイに向く。それほど、鋭い声だった。
「嘘だ。スノウがここに居たがるわけがない」
ほかならぬ本人が言っているにも係わらず、フレイの言葉には迷いがない。
その視線はまっすぐにスノウを見つめ、ついでその隣に腰掛ける人影に移る。
「スノウはすごく臆病なんだ。こんなとこ、居たいなんていうわけない。言わされてるんだ」
そうしているのはお前だろう、とフレイはエルに向かって言い放つ。嫌疑を掛けられたエルはといえば、その眼光に大した反応も見せず静かにフレイを見返しただけだった。
「フレイ、違うよ」
スノウが尚も言い募ろうとするのを、今度はメリルが遮る。
「ならば理由を。なぜ、戻らないのです」
問いかけるメリルの声は僅かに震えている。翡翠の目に複雑な色が揺れ、薄い水の膜が張った。今にも零れそうなそれに、スノウは困ったように目を泳がせる。
「違うよ、戻らないとは言ってない。ただ、今そうするのは都合が悪いんだ。だから俺はここに暫く残る。皆は先に帰ってて」
「都合? 何の……」
「裏切り行為と取られかねない、貴方の行動ですか」
メリルの問いかけにかぶせる様にしてレリックが問いかけた。
意図せずに声が強張る。表情もそれに合わせるように険しいものとなっている自覚がレリックにはあった。
元々正義感はそう強い方ではなく、先代勇者の存在も言ってしまえば「どうでもいい」ものだ。けれど、暫く共に在った二人の心情を思うと、どうにも胸の奥が騒いだ。
不自然に押し殺した声に、スノウはレリックの胸のうちを正しく読み取ったらしい。
青い目を瞬いて、ゆるりと唇を歪めた。
最前メリルやフレイに見せたような、穏やかで気弱なそれとは全く違う、どこか挑発するような微笑。
がらりと変わった表情にフレイとメリルが目を剥く。それはこれまでの時間、二人が一度も目にしたことのないスノウの表情だった。
「残念だけど違う。そのことに関してスノウには悪いと思うけどね……『勇者』として戻るには暫く時間が要るんだ」
楽しげに、謎掛けのような言葉をスノウが紡ぐ。
スノウには悪い、とはどういう意味なのか。理解できない発言にレリックは眉を顰めた。
「それは……」
どういう意味、と問い質そうとしたところで横合いから声が入る。
「……もったいぶった言い方をするんだな」
痺れを切らしたのは、メリルでもフレイでもなく、今まで沈黙していたエルだった。
不機嫌そうな表情を浮かべ溜息をついてスノウを見遣る。
「そうかな。なんだか楽しくなってきちゃって」
スノウは首を傾げて暢気な返事をする。
エルは長い指で己のこめかみを揉みながら、スノウを軽く制する。
「もういい、ちょっと黙ってろ。……俺から説明する」
言ってエルは視線をレリックに向けた。
真紅の人ならざる瞳。そこに宿る強い輝きに、レリックの背筋を冷たいものが這い上がる。思わず後じさりそうになる己に気づき、レリックは奥歯を噛み締めた。
レリックのそんな様子に気づく素振りもなく、エルは淡々と言う。
「―――入れ替わってるんだ」
三人の表情が固まった。
「……は?」
沈黙の後、レリックは思わず呆けた声をあげた。
それに頓着することなく、エルは言葉を継いだ。
「俺はこの体の本来の持ち主じゃない。本物のエル―――この城の主はそっちだ」
エルが指し示したのは、一見華奢に見える『勇者』スノウ・シュネー。
スノウはその指摘に機嫌よく頷いて己の胸を軽くたたいた。
「そう。俺は魔物でここの城主、エル・バルト。この体は間違いなくスノウのものだけどね」
その言葉に、成り行きをただ見守っていた二人の魔物が渋面を作った。それが視界に入らないはずはなかったが、スノウに気にする様子はない。
「そして君たちの本物の勇者は、彼だよ」
ぽん、と玉座に座るエルの肩を叩く。エルは表情を変えないまま、ため息を吐く。
「……そういうことだ」
レリックは忙しく瞬きをした。そういうこと、と言われても理解が追いつかない。否、わかっているのだ。わかっているのだが、到底信じられるものではなかった。
白金の髪の青年。国中に配られた似姿をレリックもまた食い入るように見た一人だった。だから目の前の青年がスノウ・シュネーであることはわかっている。
その彼が、自分はスノウではないという。
そしてあろうことか、勇者は隣の魔物の方だと。
「何言ってるの……?」
ぼんやりとした口調でフレイが尋ねる。その栗色の双眸は、内心の動揺を映すように心細く揺れている。
それに表情を曇らせたのは、真紅の魔物の方だった。思わず、といった様子でフレイから視線を逸らす。スノウはそんなエルをちらりと見遣って、説明のために口を開いた。
「つまりね、魔物の長と君らの勇者は中身だけが入れ替わってる状態なんだ。俺が魔物で、彼が勇者。スノウはそっち。魔物である俺が人間の街に戻るわけにはいかないでしょ?」
だから時間が欲しいのだ、とスノウは丁寧に言う。
「そんなこと……信じられない」
メリルが表情を強張らせたまま首を振る。
それに、沈黙を守ってきた二人の魔物がそれぞれに発言する。
「信じる信じないはご自由に。ですが、今帰すわけにはいきません。とにかく元に戻って頂かねば」
「エル様がお前たちにはどうしても説明をしなければと仰るから……こうしてわざわざ手間をかけてるんだ。理解したなら大人しく帰って貰うぜ」
敵意といかないまでも、好意的なそれとはかけ離れた声に、レリックは眉根を寄せる。
正直なところ、信じろというほうが無理な話だ。魔物と人の『中身』が入れ替わるなどと、これまで一度も聞いたことがなかった。そんな事態を、一体誰が想像できるだろう。
まだ魔物の虚言だと思うほうが納得できる。そう理由をつけて、勇者を帰さないつもりなのだと。
「……それが真実として、後から先代勇者を還すという保証は?」
レリックはまっすぐに二人の魔物を睨み据える。本来ならば城主へと交渉することが当然だが、さすがにレリック自身混乱してていた。この場合、どちらが『城主』となるのか。
「てめぇらみたいな下等動物と一緒にするな。その減らない口、利けなくしてやってもいいんだぜ?」
レリックの言葉に、藍色の髪の魔物が噛み付いてきた。鋭い牙を剥き出して凄む。金色の瞳孔が針のように細くなった。
「下等動物はどっちだか。無差別に街を襲っておいてよくもいえたものですね」
漂う殺気にうっすらと冷や汗をかきながらも、レリックも負けてはいない。
明らかな挑発に魔物の表情が険しいものに変わる。
「待って待って。二人とも落ち着いてよ。喧嘩はまあ置いといてさ」
「喧嘩? 馬鹿いえ、こんなひ弱な人間風情……」
仲裁に入ったスノウに、そのままの勢いで魔物が食って掛かる。しかしその声は途中で尻すぼみになって消えた。慌てて口元を押さえ、バツが悪そうに視線を逸らす。
その『しまった』といわんばかりの態度に、レリックもまた気付いた。話が真実なら、目の前の頼りない人間こそ、彼らの長に他ならないわけで。
これはもしや本当に『そう』なのか。
思わずスノウを凝視すると、スノウは軽く肩を竦める。
「見てのとおり、彼らも混乱中でね。なるべく早く『スノウ』を君たちの元に返すから」
分って貰えないかな。
微かに笑うその姿は、けれどもどう見てもただの『人間』《スノウ》にしか見えなかった。