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41.昨日の敵は

 凄まじい咆哮が空間を揺るがした。

 同時に、燃え盛る火炎が空間を走っていく。真紅の口腔から吐き出された炎は轟風に巻き込まれ、渦巻く砲火となって大理石の床を舐める。

 突然の火炎の攻撃に、魔物の多くが火達磨になって床を転げまわる。幹部を含めた数名は防壁でやり過ごしたものの、熱風までは防ぎきれない。防壁によって弾かれた炎や風が室内に吹き荒れ、走った炎の一端がカーテンへと燃え移る。するするとカーテンを舐めるように、赤い炎が天井へと伸びていく。

 弾けてあちこちに散った炎の塊が、室内を一層明るく浮かび上がらせ、その場を睥睨する竜の姿を克明に映し出していた。

 巨大なその体躯は「竜」の呼び名に相応しい圧倒的な力に溢れている。

 巨躯の背には、一対の翼が窮屈そうに折りたたまれていた。天を突き破るほどに高く飛翔するといわれる、破天竜の最大の強みである強靭な翼だ。

 飛翔する生物であるが故か、巨体と岩石のような鱗を持ちながらも、その肢体はどこかすらりと「長い」印象を与える。固い鱗に覆われた手足は長く、やや湾曲した爪が大理石の床を深く抉る。その首もまた体の割りに長めで、今は低く垂れている頭を起こせば天井を破壊しかねないほどである。

 鋭い牙が並ぶ口元からは絶え間なく荒い息が漏れていた。どうやらひどい興奮状態にあるらしいことは、落ち着きなく揺らされる長い尾からも見て取れる。尾の先端に備わっている三叉の突起が床を擦り、耳障りな音が響いている。

 突然の「竜」の出現に、魔物たちは浮き足立っていた。竜自体は珍しくはないが、魔王の領土ならともかく、人間の生活圏で目にする機会は皆無なのだ。まして、ヘネスは人型を取ることができる比較的上位の魔物だ。その相手が本性を現すことなど滅多にない事態である。

 さすがに幹部ともなれば露骨にうろたえてはいないものの、呆然としているようだった。右往左往する部下の姿すら視界に入らないかのように竜を仰いでいる。

 そんな中にあって、いち早く立ち直ったのは城主のエルだった。


「スイ!」


 そう大きくはない声は、鞭のように空間を打ち付けた。

 エルの意図を察したスイが、掲げた手のひらに光球を生み出す。急激に収束された風の渦が、一直線に破天竜へと向かう。

 渦を巻いて唸る風が、蛇のように破天竜の体に巻きついた。しかし破天竜がその巨体を揺らがせると、あっけなくほどけてしまう。魔法の制御を失った風が室内に吹き荒れた。

 スイが再度の攻撃を試みる。その周囲では、他の幹部たちが彼に倣えとばかりに次々と魔法を行使し始めた。

 攻撃といっても、倒すためではなく捕獲が優先である。相手が相手なだけに手加減は必要ないだろうが、それでも急所は避けている。スイの放った魔法は、先ほどの竜巻めいた魔法の威力をあげた程度のものだ。今度は僅かに長く破天竜の体を縛り付けていたが、やはり振り解かれる。他の幹部たちが放った魔法もまた、そう間をおかずに振り解かれている。

 幹部たちが次々と攻撃を繰り出し、指示を飛ばすにあたり、浮き足立っていた魔物たちも次第に落ち着き始めた。破天竜の周囲に防壁を張り巡らし、それを囲むようにして魔物たちが攻撃の態勢に入る。開け放たれた広間の扉からは、続々と増援が到着しつつあった。

 己を取り囲む魔物たちと、その周囲にめぐらされた防壁に破天竜は不満めいた唸り声をあげる。長い首を巡らせ、魔物たちと天井、そして壁を順繰りに眺める。最後にその漆黒の双眸が捉えたのは、燃えるカーテンとその奥に嵌る窓だった。

 破天竜がおもむろに長い首を縮めた。

 鋭い牙の並ぶ口を大きく開き向けたのは窓の方向。轟、と口から吐き出された炎が窓と城壁を舐め、硝子がびりびりと震えた。


「あいつ、このまま出る気ですね」


 とうとう力技に出たか、とアイシャは舌打ちをする。

 基本的に、魔物の多くは本来の姿の方が何かと力を揮いやすい。人型はそれなりの利点があるものの何かと制約が多く、こと身体能力に関しては本来の半分も発揮できない者が殆どだ。それでも滅多なことがない限り本性は晒すべきではない、というのが魔物の社会での暗黙のルールである。

 そのため、自尊心の高いヘネスが自ら人型を捨てたということ自体が、彼の現在の心理状態を如実に表していた。つまり相当に追い詰められている。

 これまでの行動は、ヘネス自身も死を覚悟した上だったようだ。実際、死を目前にしてもヘネスは人型を捨てはしなかった。高い矜持ゆえか、多くの魔物が最後の切り札として使うそれをへネスは使う素振りすらみせていない。しかし生存本能が最後の切り札を使用させた。何らかのきっかけで一時的に理性の箍が外れたに違いない。

壁を攻撃し脱出を図ろうとする様子を見るに、理性は戻ってきているようである。とはいえそれによって事態が好転するとは思えなかった。


「だろうな。結界に入られたら厄介だ。今のうちに動きを封じるしかない」


 アイシャに応じたエルは、乱れた髪を苛立たしげに掻きやる。さすがにエルの表情にも焦りの色が伺えた。

 防壁が破られるのは構わないとしても、その外に張られている結界には魔法を無効化する作用がある。結界に飛び込めば、破天竜であっても魔法を操ることはできない。その代わり、それを追うこちら側も魔法で補足することができなくなってしまう。

 飛行能力を持つ破天竜ならば、魔法の補助がなくともその翼の力で逃げ切れてしまうだろうことは想像に難くない。

 結界に飛び込まれると、こちらには破天竜を留める術はなくなってしまうのだ。

 それこそ、破天竜を上回る竜の力を持ってでもしない限り。


「そうは仰いますけど……」


 苦い表情のアイシャの視線の先では、次々と魔法の枷をかけられる竜の姿がある。しかし、一時的に動きを制限されるものの、すぐに振りほどいてしまう。

 それでも何とか足止めをしようと、幹部の魔物たちがひっきりなしに魔法を揮っている。 その様相は次第に捕獲から攻撃へと転化しつつあるが、それも無理はなかった。

 脱出を試みるヘネスは、己に振り下ろされる攻撃など歯牙にもかけず、ひたすらに城壁を攻撃し続けている。幾ら魔法で補強された城壁とはいえ、元はただの岩壁だ。このままの状態が続けば、壁が崩れるのは時間の問題だろう。


「魔法じゃ無理か……?」


 腐っても竜だな、と隣にエルがいることもお構いなしにアイシャが言う。

 しかし当のエルはといえば、特にその発言を気にする様子はない。否、気にする余裕がないといったほうが正しいだろう。エルの双眸は思案に揺れている。


「魔法で効果がないとなると、物理的に動けなくするしかないか……」


 独り言めいて呟いたエルの目が、ふと隅のほうで傍観しているクロスを捉える。

 破天竜の攻撃の余波を逃れるためか、先ほど対峙していた時より随分と部屋の端に寄っている。


「竜に使えるような鎖ありましたっけ。緑姫を喚んでもあっさり切られちまいそうだしなあ……って、エル様?」


 己が召喚できる範囲の植物を思い浮かべ、アイシャが腕を組む。踵を返したエルに、アイシャが当惑した声を投げた。

 それには何の反応も返さず、エルは黒衣の裾を捌いてクロスへと歩み寄った。



 

☆☆☆



 これは現実なのか。

 目の前に現れた巨大な姿を、クロスは茫然と仰ぐ。

 その姿は話に聞く「竜」そのものだった。

 人間にとっては、その存在はもはや「伝説」となって久しい。かつては確かに存在したのだと、大部分の人間は「知識」として知っている。古い文献の中で、昔語りの中で、そしておとぎ話の中で。生物としての竜から悪の象徴としての竜に至るまで、あらゆる場所にその情報は散らばっていた。

 けれど、竜が人前から姿を消して長い時が流れていた。魔物に比べ寿命も短い人間にとって、それは竜という生物が伝説上の幻獣となるには十分な時間だった。だから「竜」という言葉を前にした人々の反応は、恐怖や畏怖よりももっと遠く、物語の中を覗き見るそれになってしまうのも仕方なかった。

 クロスも当然ながらその例に漏れず、突如現れた「幻獣」の姿に圧倒され、棒立ちになった。

 事前に得た情報により、竜はどうやら伝説どころかしっかり「生きて」いるということはクロスも理解している。とはいえ、聞くと見るとではやはり何もかもが違うことで。

 目にした竜の存在感と圧倒的な力に、クロスの脳は処理を放棄してしまっていた。

 そのため、繰り出された炎の攻撃を避けたのは、完全にクロスの意識の外の出来事だった。

 戦いで培った勘と本能が、反射で回避させたに過ぎない。

 体を低く伏せ、炎と熱風をやり過ごす。幸い、竜の注意はエルを始めとした魔物たちに集中していたらしく、執拗な攻撃を受けることはなかった。

 そうして、騒がしい周囲を後目に部屋の隅へと退避して、漸くクロスは竜の全貌を視界に入れた。

 そうして改めて信じがたい現実に愕然とする。物語の中でしか知らなかったその魔物を、まさかこの目で見る日が来るなど想像もしなかった。存在そのものへの畏怖も驚きもあったが、何よりクロスの胸中に去来したのは場違いな感慨だった。


「まさか、本当に……」


 思わず漏れた己の声に、クロスは我に返る。

 茫然と見上げている場合ではない。この場でクロスが取ることができる行動はふたつしかないのだ。留まるか、逃げ出すか。

 しかし、このまま留まれば竜の攻撃対象に入ってしまうだろう。かといって逃げたとしても、クロスには正確な現在地が分からない。仲間の救出はおろか自分一人逃げることすらできないことは簡単に予想がつく。

 どちらの決断をするにしろ、周囲が混沌としている今しか機会はないのだ。どうすべきか、と考えを巡らせたところで、ふと、こちらに向かってくる人影に気づく。

 赤い髪に黒衣の、魔物。

 熱風に外套を靡かせて歩いてくるのは、城主であるエルだ。状況は切迫しているのだが、その様子はどこか悠然として見える。

 クロスは静かに腰を引き、聖剣の柄に手をかけた。

 この状況で「先ほどの続き」となるとは思えなかったが、どういう意図にしろクロスにとって得になることだとは思えない。

 クロスの手元を一瞥したエルは、表情を変えることなくクロスの目の前で足を止めた。

 睨みつけるクロスに対し、エルもまたひたりとクロスを見返す。その真紅の双眸には敵意どころか警戒の色すら見えない。

 おもむろに開いた唇が、感情の篭らない音を吐き出した。


「その剣を寄越せ」


 言われたクロスは、虚をつかれしばし呆然とエルを見上げる。何を言われたのか理解するのに数秒を要した。


「……え、」

「あいつは魔法では抑えきれんようだ。だが、その剣なら恐らく効く」


 だから寄越せと差し出された手に、クロスは必死に頭を動かす。


「……何言ってるんだ。これは……聖剣だぞ、誰が貴様などに」


 言葉の内容はともかく、困惑は本物だった。

 竜も魔物の一種である。聖剣が効果をあげる可能性は非常に高い。だが、そもそも魔物である相手がこの剣に触れられるはずがないのだ。振り返ってみれば、一度はこの剣で傷を負っていたではないか。

 差し出された手と真紅の双眸を交互に見ながらクロスがそんなことを思い返していると、相手はその視線の意味に気付いたらしい。己の手を見下ろしたエルは、納得したように頷く。


「ああ、そうだった……スノウ!」


 振り向いて声をかける先には、同じく床に―――こちらは完全にへたりこんでいる先代勇者の姿がある。頭から被ったぼろ布のせいもあって、頼りなさは倍増だ。腰が抜けたといわれても納得してしまいそうな様子である。


「……え? なに?」


 エルに呼ばれたから、というよりはエルの視線が向いたことで、自分のことと判断したらしい。スノウが首を傾げて瞬きをした。

 周囲は魔法の制御を解かれた風や炎が荒れ狂っている。竜を抑えようとする魔物と応戦する竜との間で激しい攻防が繰り広げられ、そのために嵐のような騒音が巻き起こっているのだ。距離が開いてしまえば、互いの声も聞き取りづらい。


「お前聖剣は」

「持ってないよ! 言ったじゃん、ここに来る前に折れたって」


 悪びれもせず叫び返したスノウに、思わずクロスは状況も忘れて空を仰いだ。

 下賜された聖剣を折るというまさかの事態に、クロスは眩暈を覚える。確かに物である以上、いくら聖剣とはいえ折れたり傷ついたりはするのだが、まさかここに乗り込む前から折れていたとは。


「だが扱えはするだろう?」

「扱え……? 無理だよ、俺が剣も弓もとにかく色々向いてないのは言った筈だけど!」


 いっそ清々しい程にきっぱりとスノウは断った。

 その勇者とは思えない発言に、再び空を仰いだのはクロスだけではなかった。エルもまた、深いため息と共に天を仰ぐ。

 エルの双眸が、ちらりと竜を顧みた。

 その先では竜が暴れている。自身にかけられる魔法を強引に振り払っては城壁へと炎を吐き続けている。魔物たちが揮う魔法も、当初よりは派手なものになってきていた。恐らく、比例して威力も増しているだろう。だが竜は己の体が傷つくのにも構わず、ただひたすらに壁へと攻撃を続けていた。


「……仕方ない。来てもらうぞ」


 言いざま、エルはクロスの手首を掴んだ。

 突然の行動に当惑のあまり、固まる。よもや普通に触れてくるとは思いもしなかったのだ。


「っ、何すんだよ! 離せ!」

「取って食うわけじゃない、そう騒ぐな」


 慌てて手を振り払い叫んだクロスに、眉間に皺を拵えたエルが視線だけで振り向いた。

 うるさそうにクロスを見遣る目は、険呑ではあるが殺気立ってはいない。ちらりと映りこむ炎の色が、その揺れる内心を表しているようだ。


「状況はわかってるだろう、勇者。とにかくアイツが邪魔だ。このままでは城が崩壊する。お前たちも無事ではすまない」

「お前らが、だろ」

「ああ、城が壊れるからな。だが、敵を壊滅させたと、お前は喜べるのか」

「当然だ。おれの犠牲はあながち無駄でもないだろ」


 そうでなくとも、最前まで死を覚悟していた身だ。城ごと道連れにできるならこれ以上の成果はない。

 嘯くクロスに、けれどもエルは冷たい眼差しを寄こす。


「確かにな。お前たちの功績ではないが、結果だけは得られる。城の壊滅と、野放しの竜という結果を」

「……」

「竜というものがどれ程厄介か、分からない筈はないな? ……あれを敵に回して、お前たちがどこまで持ちこたえられるか見物だ」


 想像して、クロスはぞくりと身を震わせた。

 あれだけ巨大な魔物を相手にするにはどれだけの兵が必要になるだろう。炎を吐き、様々な魔法攻撃をかわす竜。この城を攻めた数では足りないかもしれない。目の前の魔物にすら勝てないというのに、あんな巨大な生き物、伝説の竜を相手取って対等に渡り合えるとは思えなかった。


「……敵に回るとは限らない」


 精一杯の反論はクロス自身の耳にも、頼りなく聞こえた。

 エルはその胸中を容易く読み取ったらしく「神とやらにでも祈れ」と鼻で笑う。

 クロスにもわかっているのだ。

 竜の「意思」など関係ないということを。人間に対し敵意があろうとなかろうと、あれだけの勢力が人の世界のすぐそばに存在する、それ自体が既に脅威なのである。今はその気がなくとも、いつか人に仇なす「かもしれない」。そしてその仮定だけで、人は剣を取る。

 あるかないかの火種を、大火にしてしまう。

 竜の存在が知れれば、竜討伐に兵が派遣されるだろうことは目に見えていた。

 だが、とクロスは首を振る。


「そもそも、あの竜はお前たちの敵だろ。自分でどうにかしろよ」


 詳しい経緯など分らないものの、竜とエルが敵対状態にあることは明白だ。つまり、今この時を限りに言えば、クロスは魔物同士の諍いに巻き込まれているだけに過ぎない。

 そもそも本来、クロスが勇者として倒すべき相手は、目の前のエルである。いずれ敵となる「かもしれない」竜よりも、それは優先事項だ。

 自分は無関係だろうと主張すれば、エルは緩く瞬きを返す。


「それが簡単にいけばお前の手など借りん。協力しろ、勇者。このまま我らと心中などしたくないだろう」

「当たり前だ。どっちも断る」


 どんな状況であれ、敵は敵である。そこに共通の敵が存在しようと、協力して倒すいわれなどない。むしろ双方共に削りあって相討ちとなるのが理想だろう。竜と魔物、どちらに与したところで人間にとっての利はないのだ。


「お前らの道具にされるくらいなら、死んだ方がマシだ」


 非力な人間の精一杯。そう、自嘲気味に笑ってクロスは啖呵を切る。

 敵と刺し違えての死ならば甘受できようが、魔物同士の諍いに巻き込まれてなど、無駄死に以外の何物でもない。増して、魔物の捨て駒にされて落命などもっての他だ。

 駒にされるくらいならば、死を選ぶ。

 名誉ある死を。

 クロスが聖剣に手をかけ、すらりと抜き放つ。鞘を投げ捨て、切っ先を正面に向ける。

 睨み据える先は、竜ではなくエルだ。

 竜どころかエルに敵わないことはクロスも承知している。エルが言うことも頭では理解できる。竜の暴走を止めないことには現状を切り抜けることはできず、もしかしたらエル以上の脅威を人々にもたらすかもしれない。だが、それでも魔物と共闘する気にはなれなかった。

 その剣先を冷めた目で見返したエルは、ため息と共に言う。


「それで? お前の頭はからっぽなのか。あいつが暴れてる今、俺を倒して何になる。それともお前一人であいつまで倒せると?」

「黙れ! 協力などしない!」


 エルの言葉はクロスにとってまさしく悪魔の囁きだった。

 ただの甘言、戯言ならばクロスも簡単に退けられたかもしれない。だが、エルの言葉はそのどちらでもなかった。少なくとも、クロスの耳にはその言葉はとても理に適ってることのように感じられる。

 だからこそ、クロスは殊更声高に拒絶した。

 エルの言葉を認めてしまったら。その通りだと頷いてしまったら。


「貴様に何がわかる! おれは、」


 突きつけた切っ先が惑うように揺れた気がした。

 揺れるはずはないと冷静な部分が囁いて寄越す。敵前で剣先が鈍るような生易しい鍛え方はしてきていないつもりだった。だからこれはクロスの心が揺れているのだ。

 城外の王国軍の存在を、クロスは絶望視していた。詳細は不明瞭ながらも、この状態で王国軍が城外に未だ展開しているとは思えなかった。人に構う暇がないと憚らない魔物たちが、邪魔な王国軍をいつまでも放置しているとは思えない。全滅、もしくは敗走しているのだろうとクロスは思った。

 脳裏をよぎるのは夥しい数の骸。

 城外に横たわっているだろう骸と、これまで見てきた多くの屍が激しく明滅する。

 魔物との戦いで命を落とした仲間や兵士、魔物に襲われた村の男、女、子供。

 錆びた鉄の匂い。

 頭蓋の奥を揺さぶる、人々の慟哭。怨嗟。


「っ…おれは勇者だ!」


 幻聴を振り切るように、半ば搾り出すようにあげた声は、空気をびりびりと揺らした。

 エルが僅かに目を細める。

 何気ない動作で、エルが一歩分の距離を詰めた。応じて、クロスが一歩退く。


「っ!」


 不意に伸びたエルの手が、クロスの剣を鷲掴んだ。剥きだしの刃を掴む手から、焦げるような音が響く。


「勇者が、なんだと? 勇者とは何だ、6代目勇者クロス・エセル。名誉のために死を選ぶ者か。勇者の名を守るために仲間を見殺しにする者か」

「な、にを」


 仲間、の単語にクロスの瞳が揺れる。


「それほど死にたいなら今すぐ殺してやる。だがお前の仲間たちはどうする、一人残らずアイツの餌にくれてやるとでも言うつもりか」


 剣を握りこむエルの手がぎちりと軋んだ。白煙をあげ続ける手のひらから、赤い筋がいくつも流れ落ちていく。


「ふざけるな、そんなことさせるか」


 勢い込んで言うクロスに、エルは冷えた眼差しを送る。


「ふざけているのはどちらだ。勝手な自己犠牲で死のうという人間が、どうやって仲間の命を守る? お前の命ひとつで仲間の命を贖えるとでも? お笑い種だな、お前が名誉ある死とやらを選んだ後は、全員まとめてアイツの口の中に放り込んでやる」

「なっ」


 思わず柳眉を逆立てたクロスの言葉を遮るように、エルは畳み掛ける。


「よく頭を使え、勇者。なぜ『今』死を選ぶ必要がある?

 お前が名誉の死を選ぶことを、お前が仲間の命共々死ぬことを誰が望む。王か、民か。ならばそんなもののために、なぜ命を捨てる必要がある。お前は何のために戦っているんだ」


 クロスは息を呑む。

 魔物の言うことなど、と反発する気持ちは強い。だがそれ以上に、その言葉が正面から胸に切り込んでくる。

 何のために。

 答えなど分りきっている。人類の平和と国のため。その一言に尽きるのだから。けれど、散々言い続けたはずの言葉は、喉の奥につかえた。

 歴代勇者の死など、誰も望んでいなかった。勇者は魔物討伐に命を捧げるものだと暗黙のうちに誰もが思っていたが、それでもその死を望んだわけではない。できることなら魔物から勝利をもぎ取り、生還することを望んでいたはずだ。

 喪失感に項垂れるメリルとフレイの姿が脳裏をよぎり、クロスは知らず眉間に皺を寄せた。

 死は誰にとっても辛い。

 だからそのために戦っているのだと。誰にもそれを味合わせることがないよう、自分が誓いを果たすのだと。それは揺ぎ無い決意だというのに。


「名誉や使命にどれほどの価値がある。仮にも勇者だというのなら、己や仲間の命と秤にかけるだけのものかどうか、判断できぬはずはあるまい」


 エルの言葉が胸に薄い刃のように滑り込んでくる。

 仲間の命より。


「おれ、は」


 戸惑う気持ちが、声を奪う。

 足元がぐらりと傾いた。

 床に亀裂が走り、大理石の欠片が宙に舞う。

 咄嗟にそれぞれが竜を振り仰いだ。魔物たちの善戦むなしく、度重なる応酬によって天井に激しい亀裂が生まれていた。炎の攻撃を受け続けた壁も、罅割れが生じ瓦解寸前である。事情に明るくないクロスの目にも、城の崩壊にいくばくも猶予がないことはすぐに見て取れた。

 エルが鋭く舌打ちをする。


「時間がない。あいつを止めるのが先だ」


 エルが勢い良く剣を引く。

 そのこれまでにない強さに、クロスは咄嗟に抗った。聖剣を手放すわけにはいかないという、ほぼ無意識の行動だった。

 エルが視線を戻す。空いた手が伸び、クロスの胸倉を掴んだ。


「仲間を死なせたいのか!」


 至近距離で声を荒げたエルの真紅の双眸には、烈しい色が揺れている。冷静な『魔物の長』の表情が剥がれ、はっきりとした怒りを覗かせる。


「ぐだぐだと悩むくらいなら、とっとと力を貸せ! 仲間と共に生きたくはないのか!」


 苛烈な瞳同様、強い言葉がクロスの耳朶を打つ。

 生きたい。

 生きたいに決まってるじゃないか。

 そう、言葉は浮かぶが、体は凍りついたように動かない。

 瞬きもせずに見返すクロスに何を思ったか、エルはその手から聖剣を力ずくで奪い取った。クロスの手から力が抜けていたこともあったが、力での押し合いでは魔物相手に敵うはずもない。

 その拍子に、床の上に赤い色がぱらぱらと散った。エルの、刀身の隙間から見える手のひらは惨憺たる有様だ。赤黒く焼け焦げ、爛れた皮膚。白煙と共に肉の焦げる異臭が漂う。

 それにようやくクロスは我に返る。


「! っ、何を…」

「―――もういい、埒が明かん。少々勝手が悪いが……なんとかなるだろう」


 眉根を寄せ、ひどく辛そうな様子でエルが言う。

 そのままクロスを一瞥もせず、踵を返して竜へと向かう。刀身を握っていた手から利き手に剣を持ち替えて、心持ち重そうな様子で歩いていく。その間も、赤い雫がぽつぽつと間断なく床に落ちていた。

 遠ざかる後ろ姿に、ざわりとクロスの胸が騒いだ。

 恐らく、現在進行形で聖剣はエルの手を焼き続けているはずだ。脳裏に爛れたエルの手のひらと、零れた赤い血が蘇る。

 うるさく騒ぐ胸のうちが一体何を喚いているのか、クロス自身にもわからない。

 分ることは竜を倒すために聖剣が必要であること。そして、それをエルが奪っていったこと。

 それに対して、クロスが『苦しい』ということ。

 クロスは唇を噛み締める。

 

 

 迷っているだけの時間は、ない。

 

 


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