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40.竜

 竜と呼ばれる種族がいる。

 魔物の中でも上位を占める、文字通り「最強」の種族だ。

 そのため、魔王や魔王の下に侍る六将軍の殆どが竜の系統に連なるというのは有名な話であった。強者が支配する社会構造上、自然な結果だろう。

 魔物としては非常に古い種族である竜は、長い年月の間にその系統樹を大きく広げてきた。生物としての多様性を獲得し様々な環境へ適応していくなか、枝葉の先端の「濃度」が薄くなるのは避けようがなかった。

 竜の系統に連なる魔物が増える一方、それらの多くはかつての古き竜としての力を持たない。敵など存在しなかった太古に比べ、現在の竜たちにはそれぞれ天敵が存在している。竜が竜を食らい、それを他の魔物が食らう。そしてそれをまた違う竜が食う、という頂点の曖昧な力関係が広がる。

 彼らと一線を画しているのが、六将軍を始めとしたごく一握りの竜族だった。

 外見や力の中にかつての竜の特徴を色濃く残す、いわばその「純度」とも言えるものが高い魔物たち。権力に近いものほど、その傾向は高い。

だが勿論、純度の高い魔物がすべて権力に近いわけではない。非常に稀なケースではあるが、権力から遠ざかり、力を誇示することなく身を潜める魔物も居る。

 エル・バルトも、そうした「竜」の一人だった。



 駆け込んできたアイシャの姿を目にしたエルは、アイシャの訴えを綺麗に聞き流し「ご苦労だった」と労った。


「あ、はい」


 思わずアイシャが反応すると、エルはそのまま用はないと言わんばかりに視線を逸らす。それに慌てたアイシャが急いで言を継ぐ。


「……じゃなくて! アレ一体何なんですか。あんなの初めてみましたけど」


 なぜか必死なアイシャに、エルが再び視線を戻した。束の間考える素振りを見せたものの、あっさりと首を振る。


「だろうな、俺もよく知らん」


 仕掛けた本人であるエルが知らない筈はない。単に説明が面倒になったらしい。

 適当な発言をして、アイシャを手招いた。


「次の手に移る前に、お前たちには少し説明をしておく。スイ、メーベルたちに伝令は送ったな?」


 その確認の問いかけにスイは頷いて、ふとアイシャの不思議そうな視線とぶつかった。

 たった今広間に到着したばかりのアイシャには何のことかわからないのだろう。だがスイが口を挟むような時間はなさそうである。エルから指示を貰った後にでも、隙を見て説明するしかない。

 疑問符を浮かべる金色の目に合図を送ると、それでスイの言いたいことは伝わったらしい。アイシャは小さく首肯してエルに視線を戻した。

 エルはそんな部下に頓着する様子もなく、周囲の幹部たちへそれぞれ指示をしている。

 幹部たちはエルの命を受け、それぞれに忙しく動き始める。エルの滅多にない行為と突然現れた勇者によって凍り付いていた時間が、慌ただしく流れ始めた。

 それを確認して、エルはスイとアイシャに向き直った。

 指示という形を取った人払いによって、声の届く範囲にはスイとアイシャしかいない。あまり多くに聞かせたい訳ではないらしい。


「いま作動している仕掛けだが、あれは防壁というよりは結界に近いものだ。結界内と結界に触れるものに効果を発揮する。ただ……まだ試験段階でな、そう強い効果は期待できない」


 エルが首の後ろを掻きながら、歯切れ悪く言う。


「持続時間もまちまちだし、範囲もこれ以上の広さは無理だ。が、まあ、奴らを退ける時間稼ぎにはなるだろう」


 先ほど目にした薄い膜を思い浮かべ、スイは納得する。

 攻撃を主体としてないのならば、派手な動きが見られないことも理解できた。そして、エルが長く研究してきた成果が「これ」なのだとしたら、強力な魔力が感じられないのも頷けるのだ。エルが物のように「仕掛け」と呼ぶそれに、常に魔力を供給し続ける術者がいるはずがないのだから。

 エルは恐らく何らかの形で、魔力を安定して供給する何かを手にしたのだ。そしてそれが、自動的に魔力を送り出し、結界を形成している。


「効果は、簡単に言うと魔法の無効化だな。どういった種類の魔法であれ、魔法そのものを無力化する。内側にあるものはすべてだ。こちらも魔法が使えないが、結界内に入った奴らも魔法は使えない。転移門も範囲内だからな、当然増援は見込めんだろう」


 転移門はただの模様でしかなくなる、とエル。

 それが「魔法を使わず武器だけで攻撃しろ」という命令の理由だと理解して、スイは眉間に皺を寄せた。

 すべての魔法が無力化される。

 それは諸刃の剣だ。こちらも一切魔法が使えないとなれば、回復もできなければ防御もできない。当然ながら攻撃も、武器や直接の力に頼らざるを得ない。

 自らが魔法の使い手であるスイにしてみれば、酷く不安を煽られる効果である。

 そんなスイの胸中は予想の範囲だったらしい。エルは首を傾げて問いかける。


「俺にはよくわからないが、突然魔法が使えなくなるというのは結構な衝撃なんだろう?」


 最前まで普通に揮えていた力が全く使えないのだ。結構な、どころかかなりの衝撃だろうことは想像に難くない。動揺し、スイのように不安に駆られるのは当然だろう。しかも彼らにはそれを引き起こしたものの正体が分らないため、混乱は避けられない。


「魔法が基本の兵どもにとっては大問題だろうが……こちらにはさほど問題ない。メーベルといいノルといい、あいつらの部下には血の気の多い奴らが多いからな。魔法が使えようが使えまいが、己の腕で武器を振り回す方が楽しい連中ばかりだ」


 確かに、メーベルやノルの部下には力を頼みにする者が多い。魔法は使用するもののあくまでも補助的

なものでしかなく、主力は各自の戦闘能力である。厄介な魔法を封じてしまえば、幾ら相手がヴァスーラの精鋭だとてそう簡単に負けるとは思えなかった。

 加えて、数の上ではこちらが勝っている。混乱に乗じて一気に攻めかかれば、勝機はある。

 漸く合点がいったと内心頷いたスイは、そこでふとヘネスの姿を思い出した。

 結界が作動したとき、ヘネスは魔法によって拘束された状態だった。それは今も変わらない。

 相変わらず床に伏せたままのヘネスを見遣り、スイはエルに問いかける。


「……この城は、結界の外ということなのですか?」


 あの薄い膜は城全体を覆っているようにも見えていたが、そうなると『内側』である城内は魔法が使えないはずである。ヘネスを拘束する魔法が消滅してしまってもおかしくない。だが、見る限り魔法にはなんの変化も見られなかった。


「ああ、この城は範囲から外してある。魔法が使えないと不便だからな」


 良く見れば、窓の外にはうっすらと防壁が確認できた。目視ではその境界は判別できないが、防壁が問題なく効力を維持しているということは、結界の範囲から外してあるというのは間違いないのだろう。結界の中心となっているはずの城をどういう仕組みで範囲から外しているのか、魔法は得手であるスイですら検討もつかない。


「さて、概要はわかったな? 一気に畳み掛けるぞ。メーベルのところに幾らか兵をやれ」


 立て直す時間を与えては意味がない、と言うエルに、アイシャとスイが揃って首肯する。


「それから警備の方にも兵を。可能性は低いが他に兵を伏せてあったら面倒だ。

 ああ、あとスイ、転移門をこの部屋に準備しろ。簡易のものでいい」

「はい。行き先は」

「それはまだ必要ない。準備だけだ」


 スイが頷いたのを確認して、エルは再びアイシャに視線を向ける。


「アイシャ」

「はっ」

「下層から勇者を連れて来させろ。あいつじゃないぞ。血気盛んな方だ」


 エルが小声で示した先には、ぽつんと佇むスノウの姿。

 エルやアイシャたちに気を遣ってか、少し離れた壁際まで退いている。言外に「覇気がない」と評されてるとは知らないスノウは、壁に背を預けぼんやりと宙を眺めていた。被ったぼろ布のせいもあって、一見すると浮浪者のようだ。

 覇気はないな、とアイシャとスイは生温かい目でスノウを見遣る。こちらの視線にも気付かないスノウは、勇者としてというより生き物として危機感が大きく欠けているように思える。


「そうだな……仲間ひとりくらいは一緒でもいいだろう。他の連中はそのまま放りこんでおけ。さすがにあれだけの人数がいたら鬱陶しいからな」

「わかりました……理由をお聞きしても?」


 どこかおずおずと尋ねたアイシャに、エルは口元に笑みを浮かべる。


「なに、折角だから役に立って貰おうと思ってな」

「役に?」


 意味が分らずアイシャは首を傾げる。

 エルはそれ以上説明する気はないようで、笑みを浮かべたままひらひらと手を振った。さっさと行け、の合図である。

 渋い表情をしたアイシャが踵を返し、己の部下を捕まえに行く。

 彼の副官であるノルが現在戦場で多くの部下を率いているため、広間にはアイシャの直属の部下はいない。出入りが多いと言えども、そこは城の中枢部である。一般的な兵士は基本的に出入りはできず、許されているのはごく一部の「上位」に限られていた。そのため、アイシャは広間の外に待機させている部下に連絡を取るしかなかった。

 ちなみにスイが使用する伝令の魔法は、形状こそ違えどアイシャも使える。それを使用しないのは単に彼の癖のようなものである。こんな時こそ使うべきではとスイは思ったが、スイが提案するより先にアイシャはとっとと駆けて行ってしまっていた。

 扉を出ていく背中を見送って、スイはため息をつく。エルに軽く会釈をして、己もまた部下に指示を送るためエルのもとを離れた。

 幹部ふたりが揃って離れ、エルは窓際にひとり残ることになった。

 それを見計らったかのように、白い影がこそこそと近づく。頭をぼろ布で覆ったままのスノウだ。


「まだそれ被ってるのか」


 目もくれずに、エルが呆れたように言う。

 それに動きを止め、ぼろ布を少し持ち上げると、スノウは困ったように笑った。


「落ち着くんだよね、被ってると」


 この姿は久しぶりだからかな、と暢気に呟く。

 穏やかな色を宿す青い目を見下ろして、エルは深く息をつく。不躾なまでにスノウの全身をじっくりと眺め、問いかけた。


「お前どこも欠けてないな?」

「欠け……? ううん、怪我はしてないよ」

「……おかしい」

「え? おかしいって?」

「アイツがお前に化けていたからな。てっきり腕の一本でも食われてるだろうと思ったんだが……」


 不思議そうに顎に手をあてるエルに、スノウは振り切れんばかりに首を振る。


「なんで不思議そうなの。やめてよ、食べられるとか冗談じゃない……あ、そうか、もしかしてアレかな」

「なんだ」

「鉢合わせしたっていったでしょ。逃げる時に髪をちょっと切られたんだよね、ここ」


 スノウが示したのはうなじのあたりの髪だ。とはいえ、髪は全体的にそう長いほうではなく、どの程度短くなっているのか傍目にはわかりにくい。


「ああ……お前の髪から情報を得たのか」

「だろうね。全部食べなくてもいいんじゃないかな、あの魔物だって多分死体がどこかに残ってるだろうし」

「あの魔物?」

「え? ああ……エルが見た時にはもう俺の姿だったんだよね。じゃあ知らないか……俺が会ったのは蛇の魔物だったよ」


 見覚えがあるような気がしたがじっくり見ている暇はなかった、とスノウ。


「それでよくヘネスだと気付いたな」


 その話が真実ならば、早い段階で城内の魔物と入れ替わっていたことになる。侵入が発覚した為早々に姿を変える必要に迫られたのだろう。となれば、いくら見覚えがあるといっても、スノウにとっては見知らぬ魔物同然な筈だ。

 スノウはエルの指摘に首を振る。白金の髪が揺れて、ぼろ布の隙間からさらさらと零れた。


「最初は分からなかったよ。ヘネスが侵入してるのは知ってたけどさ、まさか化けてるとか思わないし。ただ、俺に攻撃してくる前……ちょっと不自然だったんだよね」


 こちらの姿を見た魔物の反応は大体決まっている、とスノウは続ける。

 スノウが「勇者」だと知るものとそうでないもので反応は微妙に分かれるが、どちらの場合でも嫌悪と警戒が大半だ。そこに敵意や害意、稀に畏怖も加わる。そう口にして、スノウは若干不思議そうな顔をしたが、畏怖される理由はエルには理解できた。あれだけ派手な魔法を揮ったのだ。強敵認定されていてもおかしくない。


「面倒ごとは増やしたくないから、一応こうやって目立たないようにはしてたんだけど。それでもまあ時々気付かれてさ、そんな反応をされてきたわけ」


 ところが、その魔物だけは違った。

 表面上は他の魔物と大差ない。浮浪者よろしく不審な動きをするスノウを見咎め、警戒心剥きだしで声をかけてきた。

 それにスノウはいつもどおりの弁解をしようとして。


「目がまっすぐに俺を見てたんだよ。普通怪しく思ったらじろじろ見るでしょ。武器は持ってないかとか、どこの誰かとか」


 上から下まで舐めるように観察されてもおかしくない。だというのに、その魔物の視線は固定されていた。顔と、首のあたりに。


「随分前から観察していたのかなと思ったんだ。最初はね。でも……なんていうのかな、言葉と態度の割りに警戒している感じがなくてさ。むしろ何か品定めされてるような気がしてきて、どうにも居心地悪くて」


 それで気付いた。目の前にいる魔物が、スノウを「食糧」としてみていることを。

 ここがエルの居城ではなく、外だったら何ら不思議には感じなかっただろう。獣のような魔物たちばかり相手にしてきた人間からしてみれば、魔物は狼などの肉食獣と大差ない。

 己を害そうとする意図を確信したスノウの行動は早かった。相手が攻撃の気配を見せた隙をついて、逃亡を図ったのだ。ヘタレの自覚があるスノウには「戦う」という選択肢は端から存在していないらしい。


「だからあれがヘネスかなって気付いたのは、逃げ切ってからだね」


 そう話を締めくくるスノウをエルは黙って見つめていたが、ややあって口を開く。


「……随分観察眼が鋭いな」

「え? 別に観察してたわけじゃないけど」


 観察してたのはヘネスの方だよ、とスノウが訂正をいれる。


「でなければ勘か? なんにせよ、それだけの情報で特定するのはただの人間にはできない芸当だと思うがな」


 危険を察知して逃亡。そこまでなら有り得なくはない。

 だがそれだけでヘネスと結びつけるのは、あまりにも不自然だ。ヘネスの特異な能力についての情報を得ている魔物エルならともかく、相手はついこの間まで人型の魔物すら知らなかった人間スノウである。その程度の違和感と攻撃で、ヘネスだと断定できるとは考えにくい。


「そいつがヘネスだと、もっと早い段階で気付いたんだろう? 恐らくは最初に目が合った時にでも」

「はあ? そんな訳ないよ。完璧に別人だったんだよ、ヘネスの特徴何一つないのにすぐわかるわけないじゃ……」


 エルに反論したスノウの声がふつりと途切れる。表情が歪み、苦いものになるのをエルは無表情のまま見守る。


「そうだ。そう簡単に見破れないほどの完璧な変化を、お前は見破った。なぜだ?」

「……なぜって、それは、」


 動揺もあらわにスノウは視線を彷徨わせる。その表情を凝視していたエルは、ため息と共に言葉を吐き出した。次に唇から流れた言葉は、気遣うような穏やかなものだ。


「なあ勇者……いや、スノウ。何を隠してるんだ? それとも単に言いたくないのか」

「……別に隠してないよ」

「なら、当ててやろうか。お前、もしかして―――」


 スノウとエルの視線が交錯し、エルが言葉を紡ぐ。


「お話し中失礼いたします」


 そこに飛び込んできたのは、スイだ。両者の間に漂う微妙な雰囲気に気付いていたものの、さすがに空気を読んでいる状況ではない。

 スイの姿を認めて、スノウが慌てて場所を譲った。その表情にはいくらか安堵の気配が漂っている。


「たった今メーベルから連絡がありました。例の兵団が撤退を始めたようです」


 スイの手のひらには白い"鳥"が浮かんでいる。鳥の形状をした伝令の魔法を使用するのはスイとその部下たちだけであり、どうやら彼の部下を経由しての伝達であるらしい。そもそも、結界内で戦闘を繰り広げているだろうメーベルでは、魔法の伝令は使用できないだろう。


「……意外と諦めが早かったな。増援は不要だったか……?」


 エルが首を傾げる。ヴァスーラが「精鋭」を寄越したのだ。本気とみて、手を抜くわけにいかないと畳み掛けたのである。

 結界が発動してからそう時間は経っていないのだが、先方の撤退の判断が鮮やか過ぎる。

 いくら不測の事態とはいえ、もう少し粘りそうなものだというのがエルの考えだ。戦闘力は魔法に偏重していても、その技術は高く様々な武器の使い手がいると専らの噂だった。

 それが魔法が使えないというだけで、こうも簡単に戦場を投げ出すとは思えない。


「深追いするなと伝えておけ。絶対に結界から出るなと」


 エルとしては降りかかった火の粉を払っているだけである。下手に深追いをして結界の有効範囲から出てしまっては、相手の思う壺だ。


「撤退したならその間にあいつらの転移門を破壊させろ。どうせ今はただの模様だ。面倒な手順も手間も省ける」


 それに、とエルが小さく言を継ぐ。それは傍に控えたスイでもかろうじて聞き取れるか否かの、独り言めいた言葉だ。


「ちょっかいをかけただけ、という可能性もあるな」


 あの兄ならあり得るだろう、と笑う。

 精鋭が来たことで、エルたちはどうしても過剰に身構えずにはおられなかったが、その兵力はヴァスーラにとってはごく一部でしかないのも事実だ。攻め落とすつもりだったのは間違いないだろう。だが、その反面、手古摺るようならあっさり手放せるほどの執着でもあったのだ。

 未だ本人がその姿を見せていないのが証拠のようにも感じられた。

 エルの命令にスイが再び手の中の鳥を飛翔させる。鳥はくるりとスイの周囲をひとまわりして、扉のほうへと飛んでいく。

 その鳥が扉の向こうに消えたと同時に、アイシャが小走りに戻ってきた。


「いま部下が勇者を連れてきます」


 スノウをちらりと見たアイシャが、エルに報告する。

 スノウは再び壁際まで退いていた。最早自分には関係ないと判断したのか、布を深く被り窓の向こうを仰いでいる。


「その前に、エル様。俺にはちょっと状況がわかんないんですけど……あそこのアイツ、ヘネスですよね?」

「ああ、そうか」


 エルは今気付いたというように緋色の髪を掻きあげる。

 ヘネスがスノウに変化していた一連の動きを、地下に居たアイシャは知らない。アイシャにしてみれば、一仕事終えて戻ってきたらいつの間にか広間の床は悲惨な有様になり、ヘネスは囚われ、頭を隠すスノウの姿があった。何事かと疑問に思うのも無理はない。

 エルは浮浪者の様相をしているスノウを身振りで示し、言う。


「ヘネスがこいつに変化して侵入してたみたいでな。変化を無理やり解いただけだ。後は見ての通り、魔法と枷で拘束してる」


 侵入分の駄賃は少々貰ったが、とエルは床に広がる血溜りを一瞥する。

 つられて視線を向けたアイシャは何かいいたそうな様子でエルを伺うが、エルのほうはアイシャを顧みることなくスイへ声をかけた。


「転移門の準備は」

「終了致しました。急ごしらえなので、移動距離にもよりますが5人程度が限界かと」

「十分だ」


 満足げに頷いたところで、広間の扉が再び大きく開いた。

 周囲の騒めきが潮がひくように収まっていく。多くの視線を集めて、現れたのは魔物の城にはそぐわない人物だ。


「来たか」


 エルが口元に笑みを履く。

 柔らかそうな亜麻色の髪をした、人間。青い目は油断なく周囲を睨めつけ、草臥れた旅装に包まれた体は緊張に強張っている。六代目勇者、クロス・エセル。

 獣のようにぎらぎらと輝く目は、彼の精神状態がぎりぎりであることを示していた。四方をアイシャの部下に囲まれていれば、それも当然だろう。

 

「さて勇者、たいしたもてなしもできず早々に閉じ込めて申し訳ないな。その侘びとして呼んだんだが……一人か?」


 仲間ひとりくらいは構わないと伝えたはず、と問いかけると、クロスはぎこちない動きで首を振る。


「おれ一人で十分だ」


 何が、とは言わないクロスに、エルも笑みを浮かべたまま問いかけはしなかった。


「なるほど。全てを一人で背負うか……勇者のかがみだな。そうだろう、スノウ」


 話を突然ふられたスノウは、壁際で面白いほど盛大に体を揺らした。

 完全に傍観者のつもりでいたらしい。思わぬ流れ弾に、ぼろを被った頭をあわあわと揺らす。絶句してどもりながら、


「えと、うん、あの……ゆ、勇者っぽいね、すごく!」


 と、非常に残念な回答をした。

 これには魔物たちも唖然とした。このいでたちから「勇者」にふさわしい言葉が出てくるとは誰も思っていなかったが、それにしても予想の斜め上を行っている。一連の騒動を振り返り、魔物たちもスノウが勇者らしくないどころか人間としても若干おかしいと認識を改め始めていた。主に、ヘタレという意味で。


「……ぽい、じゃないだろ、勇者だ」


 さすがのエルも、ため息と共にやや砕けた口調で突っ込んだ。

 それは「長」として振舞ってる時には滅多に見せない、素に近い反応だ。スイやアイシャだけならともかく、幹部を含め多くの目がある場での態度としては非常に珍しい。ここのところ「長」としての顔しか見せなかったエルだったからこそ、それは新鮮に映った。そして、緊張といくばくかの恐怖をもって対峙したクロスの目にも。


「わ、わかってるよ。いきなり振るから!」


 焦ったじゃないか、と八つ当たり気味に先代勇者、もといスノウ・シュネーが喚く。

 その姿をちらりと見遣り、エルは気を取り直すように髪を掻き上げた。僅かに伏せられた目が再び上げられたとき、その真紅の目の中には切れそうなほどの冷気が漂っている。

 纏う空気が一瞬で変化したことを感じ取り、クロスは無意識に息を詰める。


「まあいい。わざわざ呼んだのは他でもない、取引をしようと思ってな」

「……取引、だと」

「ああ。どうだ勇者、交渉の席につく気はあるか? それとも、先般中止になった続きをするか?」


 周囲を魔物で囲んだ状況で、そんな選択肢を提示する。

 クロスの青い目にはげしい色が宿る。

 手にした聖剣の柄を握りこむのを見咎めて、アイシャが身を乗り出した。

 クロスの聖剣には抜刀できないよう幾重にも封印が掛けられているのだが、それでも万一ということはある。エルを守るために動いた周囲に、エルは視線を向けたものの特に制止もしない。


「ああ、安心しろ。続きがしたいというならそれの封印は解いてやる。さあ、どうする」


 あまつさえそんなことを言い出した城主に、焦るのは周囲の魔物たちである。


「エル様、何を」


 アイシャの声には困惑よりも咎める響きが強い。エルから指示された段階で薄々エルの意図に気付いていたようだ。

 この「血気盛ん」な勇者が、敵と交渉などするはずがないのだ。でなければ、あの場でスノウを裏切り者と罵ったりしないだろう。


「だれが、魔物と取引などと」


 案の定、クロスは吐き捨てる。青い目には強い拒絶の意志が宿っている。

 その答えにエルは笑う。


「決裂か。残念だな」


 真紅の双眸に闘志を揺らめかせ、言葉だけは心外そうに呟く。


「では仕方ない、続きといこうか。全員下がれ」


 エルの合図で、クロスの周りを固めていた兵士たちが離れる。同時に他の魔物たちも数歩ずつ退いた。

 スイとアイシャも、互いに困ったような視線を見合わせたあと、渋々距離をとる。

 急に開けた視界に、クロスは一層警戒を強め、身構える。


「そら、自由にしてやろう」


 クロスが無意識に剣の柄に手をやったのを見たのだろう。エルがぱちんと指を鳴らした。途端にクロスが軽くふらついた。剣に掛けられていた封印が一度に外れた反動だ。

 エルはどこからか己の大剣を取り出し、既に抜き身のそれを構える。

 途端にその場の空気が張り詰めた。

 自然と周囲の騒めきが収まり、重苦しい沈黙が落ちる。ぎりぎりと軋む音が聞こえそうなほどに、張り詰めた空間。

 誰もが両者の動向に注目していた。

 スイやアイシャは勿論、それを遠巻きに見守る幹部たち、そしてヘネスを囲んでいた兵士たちですら。

 再び始まるであろう勇者と長の一騎打ちを、固唾を呑んで見守っている。

 勿論、魔物たちは己の長が負ける可能性は砂粒ほども考えてはいない。

 何せ彼らの敬愛する城主は、魔物の中でも最強を誇る「竜」なのだ。

 たかが人間の、20年も生きていないようなひよっこに負けるはずはない。

 それは誰の目にも明らかで、勇者クロス本人もそれを本能で理解していた。正攻法で勝ち目は万分の一もなく、命を捨てる覚悟すら固めていた。

 すべての注意が両者に向いていた。

 唯一の例外は、床に倒れこみ苦痛に耐えているヘネスだけであった。

 ヘネスは、ひたすらに声を殺していた。理性のすべてを動員して歯を食いしばっていなければ、今にも叫びだしてしまいそうだったのだ。

 傷口からの苦痛ゆえではない。

 確かに引きちぎられた腕の痛みは相当なものだった。治癒は既に始まっているものの、目もくらむような激痛が襲いかかってくる。加えて今も床に染みていく鮮血が、ヘネスの力を奪っていく。

 けれどそれ以上に、ヘネスの中には燃えるような怒りが揺れていた。

 それは自分自身にだったかもしれないし、この状況自体だったかもしれない。その根底にあるものの存在すら曖昧になりながらも、怒りの感情だけは次々と湧いてくる。恰も、零れ落ちる命に成り代わるかのように。

 破天竜はそう「強い竜」ではなかった。

 幾つも枝分かれし、伸びた系統樹のほんの一端。魔物としては上位に入るものの、竜としては中堅だ。その力量は下級貴族と渡り合えるか否かという程度が一般的である。

 けれども、その本性はまごう事なき「竜」だった。

 竜の最大の強み。それは桁違いの生命力と、身体能力だ。

 尽きない生への執着とそれに見合う身体能力を誇る種族。それが、竜。


 突然、激しい爆発音がした。

 続いて響く絶叫と、強烈な風。


「これは……」


 振り返ったエルが表情を険しくする。熱風に翻る髪を掻き上げ、小さく舌打ちする。

 衝撃で飛ばされた魔物たちが床に倒れ伏す中、その中心部に巨大な姿があった。

 高い天井を持つ広間すら、狭く感じるほどの巨大な体躯。

 窮屈そうに折り曲げた右腕は長く、五指には鋭い爪が並ぶ。左側に腕はなく、肩の部分が深く抉れて今にも血が滴りそうな赤い肉がのぞいていた。褐色の鱗に覆われた長い首をもたげ、漆黒の双眸で見下ろす。

 その背にうっすらと見えるのは、折りたたまれた翼だろう。その巨躯を支え、飛行するだけの力を持つ、強靭な翼だ。


「破天竜……!」


 誰ともなくその名を呼んだ。

 幾重にもかけられた枷を振り千切って、竜が咆哮した。それは、人間にとっては初めて目にする「伝説」であり、多くの魔物たちにとってもまた初めての「敵」の姿だった。



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