39.捕食者
鏡のように磨き上げられた大広間の床。
滅多に使用されない部屋ということもあり、大理石の表面には傷ひとつない。ほんの、数分前までは。
今や床は大きく割れて砕け、そこから放射状に罅が走っている。
その中央に栗色の髪をした男がひとり蹲っている。エルの攻撃によって変化の術を解かれた、ヘネスだ。その四肢には頑丈な枷と、鎖。ヘネスの周囲には複雑な模様の円陣が描かれている。更に円陣の外側は10名ほどの武装した魔物が固めていた。
物理的な拘束は勿論だが、ヘネスが蹲った体勢を強いられているのは、魔法による不可視の枷が大きな要因だろう。円陣の模様に織り込まれた魔法によってヘネスに負荷をかけている。
相手は竜の一種、破天竜である。少々の拘束では効果がない可能性もあるため、スイは通常の倍以上の拘束を命じた。過剰なまでの拘束力に、ヘネスの体の自由は殆ど奪われているはずである。恐らくは、頭を上げることすらかなりの力を要するだろう。
「大した変身能力だな」
エルは笑って腕を組み、ヘネスを見下ろす。その、今はヘネス以外の何者にも見えない姿を検分するかのように眺める。
「兄の差し金だろう。俺を殺してこいと言われたか」
問いかけに、ヘネスは無言だ。
先ほどから似たような質問を繰り返しているが、そのどれにもヘネスは反応を示さない。肩で浅い呼吸をしながら罅割れた床を見つめている。そこに彼の気をひくものがあるはずはなく、話す気はないという無言の抵抗だということは明らかだった。
ヘネスのこめかみを汗が伝う。相当な負荷がかかっているのだろう。幾ら頑強な破天竜だからとて、少し拘束を強くしすぎたかもしれない、とスイは思う。何しろ破天竜を拘束するなど初めてのことで、スイにも加減がわからなかったのである。
「エル様、少し弱めますか」
拘束が強すぎてよもや声もだせないのではないか、そう思っての問いかけに、エルはヘネスを一瞥して首を振る。
「必要ない。まあ、どうせ兄については話せんだろう。狂われたら厄介だしな」
その言葉に反応したのは、拘束されていたヘネスの方だった。
拘束されてから初めて見せる反応らしい反応は、息を呑む気配とその後にかすかに上げられた視線くらいのものだった。その視線は当然ながら、まっすぐに発言者であるエルを仰いでいる。
思わずヘネスを見遣ったスイは、一瞬だけ覗いたヘネスの表情に、驚愕の色が張り付いているのに気付く。
「……暗示が?」
スイの言葉にエルはゆるりと笑みを浮かべるだけで、肯定も否定もしない。
「別に無理に聞きださずともいいんだがな。こいつがここにいることそのものが答えのようなものだろう」
ヘネスが今、この場所にいる。確かに、それ自体が動かぬ証拠ではあった。
ヴァスーラの所有物であるヘネスが、招かれたわけでもないのにこの城に居ることは、不自然に過ぎる。ヴァスーラとエルの間に親交は殆どなく、ヘネスはと言えば彼らと同じ竜の種族とはいえ、その立場にかなりの隔たりがある。気軽に行き来できるような、そんな間柄にはなり得ない。
つまり、どんな理由があったとしても、ヘネスが「自身の意思」によって「単独」でエルの元を訪れることは万にひとつもないのだ。ヘネスの行動はすべてヴァスーラの指示によるものとしか思えなかった。
「問題はどう処分するかだな。首だけにするか腕だけにするか……兄の出方もわからん」
悩む素振りでエルが溜息をつく。
物憂げではあるが、言ってる内容は物騒なことこの上ない。恐らくエルの中では処遇は決まっているのだろう。エルは考えていることはあまり口に出さない傾向がある。こうして口と態度にわざわざ出すのは、それを周囲に見せつけている場合が殆どだ。
ふと、エルが俯けていた顔を上げた。何かを気にする素振りで周囲を見回す。
スイが一体どうしたのかと不審に思ったとき、不意に床が揺れた。
めまいのそれのように、或いは城全体が酩酊しているかのように、不安定にゆらりゆらりと揺れる。
あまり衝撃は強くないものの、常と違う様子に周囲に騒めきが広がる。
スイは咄嗟に身構え、窓の外を仰いだ。てっきり外の防壁が破られたものと思ったのだ。しかし、スイが確認する限り防壁に変化はない。きちんと作動しているようだ。
となれば、今の揺れは一体何なのか。
そう思いよくよく窓の外に目を凝らすと、防壁の外側に見慣れない薄い膜が揺れていることに気付く。光の加減で虹色に変化する膜は、スイでなければ視認が難しいような代物だ。
あちこちから小さな騒めきが起こる中、揺れの原因が見慣れない膜のせいではないかと直感したスイは、エルに視線を向けた。
「今の揺れは」
声を投げかけようとして、既にこちらを見ていたらしいエルと視線がぶつかる。
「問題ない。むしろ、これで幾分楽になる」
真紅の双眸には動揺の欠片も見受けられない。そのことに幾分安堵して、スイは首を傾げる。
「楽に? どういうことです」
「ああ……お前も知ってるだろう、例の仕掛けだ。アイシャがうまくやったようだな」
アイシャがエルの指示で地下の研究部屋に行っていることは、スイも知っている。仔細はわからないものの、アイシャが指示されたことがなにやら重要であることも、薄々気付いていた。
仕掛けだというそれは、スイが見る限り防壁の一種のように思えた。さほど強力な魔力も、何か派手な効果が見られるわけでもない。薄く均一に延ばされた魔力が膜の形をしてゆらゆらと循環しているような、そんな気配が感じられた。
「スイ、メーベルとノルに伝令を」
エルはそう言って、ヘネスのもとから数歩退く。スイの視線を捉え、近寄るよう手招いた。
スイが指示に従いエルの元へ近づくと、おもむろに腕を取られ、引き寄せられた。数センチ高い位置にあるエルの頭が傾ぎ、耳元に低めの声が囁く。
「魔法は一切使わず武器だけで戦え、と伝えろ」
スイは瞠目する。
それでは防御がおろそかになる。魔法攻撃を受けた場合、盾だけでは防ぎきれない。そうでなくとも、ヴァスーラの兵は魔法に長けたものばかりである。今も前線では魔法による攻撃が主体だろうことは想像に難くなく、こちらの防御も魔法が主体になっているはずだった。
思わず出そうになったスイの反論に先んじて、エルが畳み掛ける。
「説明する時間はない、急げ。ああ、"鳥"は使うなよ。お前の部下を直接あいつらの元に送り込め、いいな」
鳥、というのはスイが使用する伝令用の魔法だ。小鳥の形を模した、白い光の魔法である。
「はい」
「案ずるな――俺を信じろ」
当惑しつつ頷くと、微かな笑みの気配と共に最後にエルがそう付け足した。声にはいっそ傲慢なまでの自信が溢れている。それを感じ取り、騒めいた胸のうちが鎮まっていく。
スイは気付かれないよう息を零し、再びヘネスへと足を向けたその後ろ姿を見遣る。
疑問は残るが、エルがそういうならば信じるほかはない。
スイは円陣の周囲を固める部下を呼び寄せる。エルの命令を伝えると、部下もまた不思議そうな表情を浮かべたものの、すぐに従った。踵を返し駆け足で広間から飛び出す。
「もうひとつ聞きたいことがある」
一方のエルは、床に視線を落としたままのヘネスへと再度問いかける。
「本物の勇者はどうした」
その声にヘネスがようやく顔を上げた。
睨めつけるように、エルを見上げてヘネスは緩く瞬く。
「……どう、とは」
苦しい体勢なのは間違いなかったが、ヘネスの声は存外聞き取りやすいものだった。捕らわれ、正体を晒してから初めての言葉である。
「お前の能力については、ある程度聞いている。……ただ姿を模しただけではないだろう?」
高等な魔物の多くは変身能力が高い。けれど、実在の誰かに成りすますということは、また微妙に話が違ってくる。
稀にその対象の記憶までも忠実に再現できる魔物が存在するという話は、昔からよく聞かれていた。その能力が発現する種族が現状、破天竜のみであることも。
その「能力」の仕組みは、対象の一部を取り込むことで発揮される。取り込む量が多ければ多いほど、より正確に再現することが可能になると言われていた。取り込む―――即ち「食べる」ことによって対象の情報を得るのだ。
ただ、その能力は諸刃の剣であった。そのため成体まで生存する確率が非常に低く、能力は夭逝を決定付ける負の因子と言われていた。元から滅多に発現しない能力である上に、更に成体となる個体が希少であったことから、その情報は広く出回ることはなく噂の域をでない。「能力」を得ている者が現存しているのか否か、それすら多くの魔物が知らなかった。
だが、ヘネスは精度の高い変化を見せつけた。
彼はその「能力」が発現するという破天竜の種族である。幾ら稀なケースだとはいえ、ヘネスがその「能力」を持っていると考えるのが妥当なところだろう。
そして仮にそうだとすれば、どこかで「本物」の勇者と接触しているはずである。
スノウを知らない魔物ならいざ知らず、スイですら騙される程に精巧な変化。いつから摩り替わっていたのか、どこで摩り替わったのか、誰にも気付かれないほど鮮やかなその業。それを可能にさせるにはオリジナルと接触する他ない。ただ接触するだけではなく、最も高い精度を得て、且つ証拠も残らない―――捕食という、方法をもって。
「……私の力をご存知なら、皆まで言わずともお分かりでしょう」
ヘネスはゆっくりと表情を変える。引き結ばれていた唇が、禍々しい笑みを象っていく。唇の間から覗く赤い色に、スイは思わず目を逸らした。
勇者がどうなっていようと、スイには関係のないことだった。あんな弱い生き物どうなろうとも構わない、そう思っていたのに。
わかりきった結果を思うと、少しばかり胸が重くなるのはどういうことだろう。
「――そうだな、お前の言うとおりだ」
暫くの沈黙ののち、エルはあっさりと頷いた。
「出来としてはまあ悪くなかった。つまりはそういうことか。だが解せないな、何故勇者を選んだ? 魔物のほうが不自由しない筈だが」
ヘネスの目が僅かに揺れた。記憶を辿るように視線が動き、口を開く。
「ただの偶然です。貴方へ近づけるのなら誰でも構わなかった」
最前までの黙秘が嘘のように、さらりと言葉を紡ぐ。
ある種の「嘘」を感じたのは何もスイだけではなかったようだ。ヘネスを見下ろすエルの双眸が、探るようにその表情を観察している。
「偶然か……偶然といえば、この部屋は勇者を捕らえた場所でな。今こうして囚われているのが勇者の姿を模していたお前とは、不思議な偶然もあるものだな。
あの時は大変だったぞ。ここらの奴は皆不在でな、警備が最も手薄なときだったから」
エルは思い出したのか楽しげにくつくつと笑う。
突然の話題に、スイは当惑して眉根を寄せた。勇者を迎え撃ったのはこの部屋だったとあとから聞いた。確かに間違いないが、今わざわざその話を持ち出す理由が分らない。
それは対するヘネスも同じだったらしい。笑みを引っ込め、エルを不審げに見つめている。
「お前が食った勇者は稀代の勇者だったらしい。そんな奴がたまたま手薄な時に侵攻してくるというのも、不思議な偶然だろう。
お前の頭に、そのときの奴の記憶はないか? 一体誰に唆されてこの城に乗り込んできたのか。いや、そもそもここが『城』だと奴に吹き込んだのは何者なのか、そのあたりの記憶があるはずだが」
どうだ、とエルは楽しげに笑んだままヘネスに畳み掛ける。
「これなら別に問題ないだろう。何せお前の記憶ではなく、勇者の記憶だ。まさか兄もそこまで関知しているとは思えん……となれば話すことはできるな?」
ヘネスは瞬きを繰り返す。口を開けて何かを言おうとして、躊躇うように再び閉ざされる。
「どうした、言えないのか? 無理に問い詰めて壊すのは本意ではないが……だが、おかしいな。これは兄には一切関係のないことのはずだ。隠すようなことは何もない、違うか?」
不思議そうな様子を「装って」、エルはヘネスに問いかける。遊んでいるのは明らかだ。恐らく、エルの中で答えは既に出ているのだろう。
スイは当時のことをつらつらと思い返す。
エルの言うように、トラブルが頻発し城内が混乱していた時期である。四天王をはじめ幹部がこぞって駆り出され、城全体が手薄になったところを勇者に突かれたのだった。 勇者がヴァスーラの回し者ではないかという可能性は考えていたが、よもやその侵攻自体が仕組まれていたものだとは思いつきもしなかった。
エルの口ぶりから察するに、エルは確信しているようだった。
勇者の侵攻と敗退、そして王国軍の侵攻。それら全てがヴァスーラの企みなのだと。
そしてヘネスが口を割ろうとしないことが、何よりの証拠だった。勇者の記憶を辿るだけならば、何のリスクもない。けれどその辿った先がヴァスーラに繋がるならば、ヘネスは真実を言わないだろう。暗示が掛けられていれば、尚更うかつに口にできない。
万一、口にすることで暗示の効果が現れればそれは即ちヴァスーラの仕業ということになりかねないからだ。
「やはり言えないか。当然だな、暗示が作用すれば廃人へ一直線だ」
エルは真紅の双眸を細めて、喉で笑う。傍目にはいつになく上機嫌に見えた。これほど饒舌に、且つ楽しげに笑うエルは非常に珍しい。
スイだけでなく他の幹部たちも当惑の表情を浮かべている。
「まあ、それはいい。大体の予想はついている」
エルは首を振ってそう言うと、右手を陣の中へと伸ばす。陣に織り込まれた魔法は、特に影響をうける様子も及ぼす様子もなく、すんなりと侵入を許している。
エルの指が、陣の中央で蹲るヘネスの頭部へと触れた。
「兄からどう聞いているかは知らないが、そう気の長いほうじゃなくてな。焦らされるのも言葉遊びもいい加減飽きてきた。月並みだが、命が惜しいならそろそろ素直に答えてもらおうか」
心底疲れたというようにため息をつき、エルはヘネスの頭部を鷲掴む。長い指が左右のこめかみに食い込み、上に引き上げられるような形でヘネスがのけぞった。
「……っ、」
ヘネスが大きく息を呑む。拘束された腕が上がり、額を掴むエルの手を引き剥がそうともがく。
だがその指はヘネスの胸のあたりで宙を掻くばかりで、エルの手には到底届かない。それも当然だ。ヘネスは通常の倍以上の負荷がかかっている状態である。本来ならば腕を上げるどころか指を動かすことすら億劫な筈だった。
手足の鎖が耳障りな音を立て、無理やり晒された喉元がひくりと上下した。
「もう一度訊く。これが最期だ」
途端にエルの指に力が入ったのが傍目にもわかった。
ヘネスが弾かれたように身体を反らせ、声にならない叫び声をあげた。はくはくと開く口から潰れた声が漏れる。
「勇者はどこだ」
一段と低くエルが問いかけた。そこに滲むのは紛れもない苛立ちだ。
エルが力を緩めたのだろう、ヘネスは荒い呼吸を繰り返していたが、やがて落ち着いてきたのか静かに息を吐いた。
「……どこ、にも」
エルの表情には変化がない。話そうとするヘネスを凝視しているだけだ。
「分っておいでの、はずです。私が勇者の姿を得るために、何をしたのか。さすがに稀代の勇者というだけはある……上質な……っ」
言い募るヘネスの声が途切れた。こめかみを掴むエルの指先から赤い筋が流れる。それはヘネスの顎を伝い、床に真紅の花を咲かせる。
「そうか」
再びヘネスが体を痙攣させる。食いしばった歯の間から苦しげに呻く。
その様子を淡々と眺め、エルはごく軽い動作で頷いた。
「なら、用済みだな」
さらりと、エルが言う。
ヘネスを見つめる真紅の双眸には何の感情も揺れていない。そこにあるのは、路傍の石を見るような冷たい光だけだ。
ヘネスを捕らえていない左手が陣の中へ差し入れられる。胸の辺りで尚ももがいているヘネスの右腕を掴んだ。
実にあっさりとした動きで、ヘネスの右腕が反対側へと折り曲げられた。
およそ、ヒトを模した姿では曲がり得ない方向に無理やりねじられた腕が鈍い音を立て、同時にヘネスの口から鋭い悲鳴が上がる。そしてありえない方向に捻じ曲がった腕を、エルは自然な動作で元の位置に戻し、まるで枯れ枝を折るかのような何気ない動きで――引き千切った。
ヘネスの口から絶叫が迸る。
最早何の意味もなさない獣のような叫びの中、加害者であるエルは眉ひとつ動かさない。
傷口からは鮮血がとめどなく溢れ、見る間に陣を赤く染める。
エルの左手に残されたヘネスの腕だったものは、暫くして青白い炎に包まれた。高温の炎によって肉塊は瞬きほどの間に炭化し、エルの指からぱらぱらと零れ落ちる。その腕に嵌められていた枷が、鈍い音を立てて床に落ちた。
そして、空いた左手をエルは再びヘネスへと伸ばした。今度は、その固定された首へと。
その意図は明白だった。
ヘネスもそれを悟り、恐らく無意識にエルの手から逃れようと身をよじる。エルの右手の隙間から覗く漆黒の双眸は、激しい動揺に揺れている。
誰もが凍りついたように動けなかった。
あっさりと展開される残虐な光景に、慣れているはずの魔物たちが衝撃に固まっていた。戦場では珍しくないものだったし、残虐性は魔物なら誰しも持つ性である。それぞれの隣にいる魔物がそれを発揮したところで、これほど衝撃は受けなかっただろう。
彼らが動揺したのは、それを行ったのがエルであるという一点だった。
いくら城主らしくなってきたとはいえ、長くエルを知る幹部たちである。エルの本来の性格が、戦いに向かないものであることは殆どが知っていた。これまでも時折、強者らしい傲慢さや残酷さの片鱗を伺わせることはあったが、それでも認識を改めさせるまでには至らなかったのだ。
エルに城主らしさが備わってきた、ただそれだけの感覚だった。
けれど、こうしてその姿を目の当たりにして、彼らは自身の認識の甘さに気付かされた。
その手を血で染めてなお、動かない表情。
まるで邪魔になった枝を切り落とすような、事務的なその行為。
血に酔うわけでも、怒りに身を任せての行動でもなく、淡々と確実に命を削っていく。
そこには邪魔者に対する苛立ちはあれど、強烈な感情は伴わない。怒りも憎しみも、悦びすらもなく、当然ながら躊躇いも存在しない。
エルは、間違いなく強者だった。
その存在そのものが、強者たるよう定められた種族。竜に連なる種族同士とはいえ、エルとヘネスでは存在の格が違う。エルにとってはヘネスは雑草にも等しく、目障りだから処分する、という程度の感覚でしかないのだ。
巨大な竜が、己の足の下の雑草を気にしないのと同じように。
「エル、様」
スイは必死にひりついた喉を動かした。
ヘネスを死なせてしまうには、早すぎる。
まだ何一つ聞き出せてはいないのだ。ここにいること自体がすべての証拠だと言っても、ヘネスから聞き出すべき事柄はまだ少なくない。
だがその懸命な声はスイの意思に反して、小さく漏れた程度だ。当然ながらエルには届かない。
恐怖に萎縮しているのだと、分ってはいてもどうすることもできない。この程度のことで恐れている場合ではない。そう自らを叱咤するが、それ以上行動を起こせそうになかった。
エルの左手が、ヘネスの首にひたりと添えられる。
いけない、とスイが再び口を開きかけたとき。
「あれ、捕まえたの」
場違いなほどのんびりした声がかけられた。
その声にエルの体が強張る。
「ゆ、勇者……?」
呆然とスイが呟く。
声に振り向いた先、扉から歩いてくる人影を見出す。思わず疑問符で問いかけてしまったのは、その人物が頭から雑巾にも等しいぼろぼろの布を被っていた為だ。どこで調達したものか、ほぼ全身を隠せてしまうような大きな布である。
珍しく声を詰まらせたスイへ、その人物は襤褸に包まれた頭を傾げてみせた。
布の間から伸びた手が、頭部の布を僅かに押し上げる。周囲に晒されるのは少女めいた端正な顔と、透き通るような青い目だ。白い肌に落ちかかる髪は白金に煌き、ぼろぼろのいでたちにそぐわない。
白金の髪に青の目。先ほどまでヘネスが化けていたものと寸分違わぬ姿の、勇者。
「お前……今までどこに」
ヘネスの頭部を掴み、左手をその首に添えたまま、エルが低く問いかけた。
スノウの方を向いてはいるものの、俯き加減でその表情までは窺い知れない。
その不穏な様子に気付かない筈もなかったが、スノウは相変わらずの暢気な調子で答える。
「ん? 言ってなかった? 邪魔にならないように隠れとこうと思って、別な部屋に行ってたんだよ。そしたらそこでヘネスと鉢合わせてさ。警告しなきゃと思ってエルを探しに来たんだけど……必要なかったみたいだね」
焦って損したな、とスノウは笑みを閃かせる。その乾いた笑みと床を舐めた視線から察するに、状況自体は理解しているらしい。惨状を前に平然としているのは、やはり腐っても勇者というところか。
動かないスイと、同じく動けない魔物たちを前に、スノウは再び首を傾げる。
「どうしたの、変な顔して……あ、そっか、俺邪魔だよね?」
魔物たちの間に広がる奇妙な緊張感に、漸く不安なものを覚えたようだ。大きく息を呑む気配がして、青い目が忙しなく周囲を泳ぐ。もたつく手つきで既に不要であるはずの襤褸を再び被りなおし、両手でしっかりと頭部を押さえた。
「えっと、俺もう暫く隠れとく。あっちの、あっちの部屋。何か用があったら呼んで。俺がいたってできること何もないし、うん、それがいい」
扉を指差し、なにやら納得するように頷いて、早口でまくし立てた。
呆気にとられるスイの背後で、重い音が響く。
はっとして振り向くと、床にヘネスが倒れていた。
床についた両肩が激しく上下している様子から見て、どうやら生きてはいるようだ。横向きの額は苦悶に歪み、肩口からは血がとめどなく流れている。体の下に敷かれた陣はヘネスの血で一面赤く染まっていた。一見瀕死のようにも見えるが、魔物にとって腕の切断程度では致命傷にもならない。まして、ヘネスは竜の種族である。生命力は他の魔物の比ではない。
その傍らに佇むエルの視線がまっすぐにスノウに向けられる。
「待て」
温度を失った声が、スノウに飛ぶ。己に向けられたものではないとわかっていても、スイは体を強張らせる。
だが、スノウにはその声が届かなかったらしい。或いは意図して無視を決め込んだのか。エルの言葉に従う素振りもなく、むしろ追い立てられるように踵を返すと広間から出るべく駆け出そうとした。
勢い風を孕んだぼろ布の裾が、ひらりと広がる。
その先端を、エルの指が捉え。
遠慮の欠片もなく、強い力で引っ張った。
「あいたっ」
自然、頭をそのまま後ろに引っ張られたスノウが、勢いよくのけぞる。
「ちょ、何するんだよ! 首痛める!」
文句を言いながら振り向いたスノウの目の前には、あっという間に距離を詰めてきたらしいエルの姿がある。その手に握られているのは、スノウの体を覆っているぼろ布の裾だ。
スノウを見返す真紅の双眸は、何の感情も映していない。
「勇者、か」
ぽつりと零した声に、スノウは眉根を寄せる。言いたいことが出口を失い喉につかえているような様子だ。普段と違うエルの様子に戸惑っているらしい。
「……そうだけど。……あー、か、肩書きはね」
実態はちょっとアレだけどね、とスノウは視線を明後日の方向へ泳がせた。
「……ああ、そうだな」
相槌を打ったエルの双眸がふと和らいだ。纏っていた硬質な空気が解けたのを感じて、幹部たちが揃って息をつく。スイも無意識に詰めていた息を吐き、己の喉をさすった。
「どうしたの、エル。何か様子が……」
「いや、少し苛立っただけだ」
スノウの布の裾から指を離し、そう答えるエルは既に普段通りの姿を取り戻している。
「ふうん? じゃあ俺はこれで」
「どこへいく」
「え、そのへんの部屋とか。取り込み中みたいだし人間がいちゃ不味いでしょ」
「お前がその格好でうろうろするほうが不味いな。ネコはどうした」
「い、今頃それ言う? 魔力が戻ったんだよ、だから」
「まあそれはどうでもいいが」
なら聞かないでよ、と間髪いれずにスノウが突っ込む。
「ここにいろ。またどこぞの輩に食われでもしたら面倒だ」
「……? 食べられた記憶はないけど」
事情がわからないスノウはこてんと首を傾げるだけである。
疑問符を浮かべるスノウには答えず、エルは扉のほうに顔を向けた。
「スイ、そろそろアイシャが戻る。こちらへ」
スイを顧みたその真紅の瞳は、常と変わらない光を取り戻している。エルが口にしたのは、ヘネスとは関係のない事柄だ。思わぬことにさしものスイも反応が遅れる。
はい、と返事をしようとしたとき、扉が勢い良く開いた。
飛び込んできたのは藍色の髪をした、見知った顔。相変わらず武装すらしていない丸腰の彼は、エルの姿を認めると真っ先に叫んだ。
「なんですかあれ! すげぇビビったんですけど!」
それがアイシャの第一声であった。