38.真贋
やたら長いです(一万文字)
ガレオスが撤退の命令を下し、見上げた魔物の城。
その城内では、彼が喪ったものと思っている部下たちと勇者一行が、狭い部屋で半ば呆然としていた。
魔法や拘束具で自由を奪われ、「一応は」捕虜となった形である。
一応、とつくのは、連れてこられた部屋があまりにも普通だった為だ。
乗りこんだ場所と同じ階の一室らしく、格子どころか何の仕掛けもない簡素な部屋である。調度品はおろか、窓にかけるカーテンすらない。その窓自体も採光以外の用途はないようで、天井近くに申し訳程度に存在しているだけだ。他に光源となるようなものはなかったが、日中であることと太陽の位置が幸いして、目が慣れれば互いの表情くらいは判別できるまでになった。
てっきり地下牢のような場所を想像していたレリックは、そのあまりにも普通な様子に拍子抜けする。本当にただの空き部屋なのだろう。
「これ……どうしたらいいのかな」
手首をさすりつつ、レリックはクロスに囁いた。
その手首にはつい先ほどまで拘束具が嵌められていた。拘束具といっても、実体を持たない魔法の鎖である。他の兵士たちは物理的に拘束されていたようだったが、魔法使いのレリックはそれ相応の特別仕様の拘束具だったようだ。
しかしそれも単に速やかに移動するための方策だったらしく、部屋に放り込まれるや否や拘束は全て解除された。しかも勇者を含め全員が武器を所持したままである。
「見張りもそんなにいる風じゃないし……これ、反撃はご自由にってことかな?」
あえて茶化すような口調でレリックは言う。
閉ざされた扉の向こうに感じる気配はせいぜいが2人分。王国軍の精鋭と勇者が囚われているというのに手薄すぎる。こちらを脅威とも思っていない、あからさまな態度に憤慨するよりむしろ笑えてくる。
「……わかんねぇよ」
暫くの沈黙の後、放り投げるようなクロスの声が返る。
自棄になっての言葉でないことは、その光を喪わない双眸からも見て取れた。彼の中ではまだ消えない炎が燻っている。
「何か対策のひとつでもあったらいいんだけどな」
前向きな言葉ひとつ浮かんでこない、とクロスは乾いた笑みを漏らす。
周囲には憔悴した様子の兵士たちの姿があったが、それに声をかけてやるほどの余裕は今の彼にはない。
クロスのこれまでの経験の中でも、これは最悪の部類だ。先ほどの混乱がまだ尾をひいていることもあって、それらの負の感情を体の中に押し込めておくことが彼にできる精一杯のようだ。
親友の痛々しい表情を暗がりに捉えて、レリックはその肩にそっと手を添えた。
そこにのしかかっているだろう色々なものを、少しでも軽くしてやりたかった。
「……メリルさんは大丈夫ですか」
レリックは視線を巡らし、彼の仲間たちへと声をかける。クロスにそれだけの余裕がない今、その役目は自分が担うべきだとレリックは思っていた。それは長い付き合いの中で自然に染みついたものだ。
「大丈夫よ、ありがとう」
レリックの問いかけに、メリルは微笑んで頷く。
その様子は普段と変わりなく、レリックに安堵よりも先に驚きをもたらした。
「……落ち着かれてますね」
この状況に誰よりも衝撃を受けているのはメリルとフレイだろう、とレリックは思っていた。先代勇者を喪い、嘆きに暮れる姿を見てきたのだ。再び同じ場所に立つだけでも痛みが伴うはずだ。まして彼らは既に一度、魔物の長と対峙している。そこに渦巻く感情は、レリックには想像もつかないものだろう。現れた先代勇者に心を乱されたのは、レリックの比ではないはずだった。
だが、そんなレリックの予想に反してメリルは随分落ち着いて見えた。その隣のフレイも、見たところ動揺らしい動揺は見られない。
「そうでもないけれど……そうね、落ち着いてるかもしれない」
首を振りかけたメリルは、思い直したように口を開く。
「こんなこと言うのはおかしいけれど、ちょっと安心してしまったの。彼が……生きてたから。もう無事ではないと思ってたし……驚いたけれどそれ以上に嬉しくて」
控えめに微笑んだメリルは、周囲を慮ってか、声を潜めて言葉を重ねる。
「ここに来るまではあんなに気持ちが重かったのに、不思議と軽くなってしまって。そのせいで力が抜けてしまったみたいだわ。考えなきゃと思うんだけど」
まだうまく頭がまわらない、とメリル。
そのどこか遠くを見るような眼差しのメリルへ、レリックは同じく声を潜めて問いかける。
「では彼は……その、本当に先代の勇者スノウ・シュネーなんですね」
スノウが現れた瞬間から抱いていた疑問だった。何しろ、レリックはスノウを似姿でしか知らない。彼の人となりも伝聞の域を出ず、あの状況で現れた人物が「彼」だとはどうしても思えなかったのだ。
「ええ、間違いないわ」
レリックの感情を敏感に感じ取ったのだろう。メリルはレリックの目をまっすぐ見つめ返して断言する。
「そうですか……その、別人というか、何者かの変装という可能性は」
それでも、尚もレリックは食い下がった。
メリルの判断を疑ってのことではない。共に旅をしてきたメリルが「本人」だと確信しているのだ。スノウを知らないレリックが疑う余地はない。だが、どうしても確認する必要があった。
あの場でのスノウの登場は不可解すぎた。あれほど生存は絶望視されていたというのに、何の前触れもなく当然のように現れたのだから。しかも、勇者と魔物の長が戦うという決定的な場面である。魔物が偽者を仕立てたのではと勘繰るのも仕方なかった。
「いいえ。それはない……と思う。私たちと別れたときと、何も変わりなかったわ」
メリルは首を振る。その声に僅かな躊躇いが混じったが、レリックは特に気に留めなかった。誰しも執拗に尋ねられれば気後れするものだ。いくらこちらが怪しいと思っていても、メリルにとっては敬愛する「勇者」であり、嫌疑をかけられること自体が不愉快だろうことは理解できる。
生存の喜びに水を差したという後ろめたさも手伝って、レリックは早々に追求の手を止める。
「わかりました。すみません、変なことを聞いてしまって」
それだけ聞けば十分なのだ。
一番近くにいたメリルたちがそうだと言うならば、あの場で現れた人物は「勇者スノウ・シュネー」で間違いないのだろう。
その事実に、レリックは胸が重くなる。
いっそスノウが「偽者」であれば何の問題もないのに。
魔物に与していることもクロスに攻撃をしたことも、これだけの期間無事な姿でいたことも、全て説明がつく。偽者ならば。
だがそれが本物だったとなると、話は一気に不穏な方向に傾くのだ。
即ち、先代勇者の「謀反」と。
奇しくも当代の勇者であるクロスが声高に「裏切り者」呼ばわりをしてしまっている。これが魔物とクロスの間だけであれば如何様にもできるが、ここにいる全員が見聞きしているとなると、完全に封じることは難しい。
レリックとしては、できることならば先代勇者も含めて無事に王都に還りたかった。裏切りが事実であれば許し難いことだが、どこかでその潔白を信じたい気持ちもあるのだ。
彼の肩書きが一人歩きしている可能性は否めない。それでも、稀代の勇者と称えられたスノウならば、何か理由があるのかもしれないと。そして何より、あれほど彼の勇者を慕いその死に心乱された二人を思うと胸が痛む。
それには、まずここから脱出しなければならない。
軽口で「反撃」と言いはしたものの、その実ここから攻撃に転じるつもりなどレリックにはなかった。勿論、攻撃の意思はある。機会さえ巡ってくれば単身突っ込む位の意気込みはある。
だがそれは現実的ではない。
この城にいる魔物の多くは、これまで人間が培ってきた常識を悉く覆すものばかりだ。高い知能と戦闘力を有し、下手な魔法使いよりも強力な魔法を扱う。加えて長とその側近と思われる魔物に至っては何もかもが規格外だ。他の魔物とは明らかに一線を画す力を秘めている。
口にこそ出さないものの、レリックは冷静に判断していた。
囚われの身になってしまった以上、隙を見て逃げる算段をするしかない。いくら相手の気が緩んだとしても、依然魔物側が有利なことは変わらない。反撃に出たところで力負けするのは目に見えている。それならば、逃げ延びてまた仕切りなおすほうがいい。
レリックは己の手首に視線を落とし、手近な街を思い浮かべる。
拘束もされず武装も解かれていない今ならば、うまく隙を見つけて転移させることも可能だろう。痛いのは、こちらについていた魔法使いが戦死してしまったことだ。レリック一人でこれだけの人数をまとめて転移することはできない。数回に分ける必要があるが、そうなれば気づかれる危険性もあった。
さてどうしたものか、とレリックは思案に暮れる。
眉間に皺を寄せ、己の思考に沈んだレリックは、気付かなかった。
レリックが俯いてすぐ、メリルが小さく呟いたことに。
あるいは、誰にも聞かせるつもりのない言葉だったのかもしれなかった。
「でも……彼は魔法は使えなかった。あんなに強力な魔法は……前も」
記憶を喪う、その前も。
違和感を覚えていたのは、何もレリックだけではない。メリルもまた、違和感ゆえに「彼」を「勇者」とは呼べなくなっていたのだから。
☆☆☆☆☆☆
同時刻、同じ城の最上層では、城の幹部たち数名が難しい顔を突き合わせていた。
侵入した勇者たちを下層の一室に放り込むのと時を同じくして、エルを含めた城の上層部は最上階へ移動していた。
情報を集め指揮を執るには、下層では色々と不都合が多すぎる。大まかな指示だけをその場で行い、後は自らが行動する必要のない幹部や各副官数名を最上階の大広間へ招集していた。
因みにこの段階で、城の重要ポストである四天王は全員不在の事態である。本来ならば四天王と呼ばれる地位ともなると、エル同様報告待ちをしていてもおかしくはない。
しかし、エルを城主とするこの城はまだ「若い」城だった。良く言えば勢いがある、悪く言えばまだ人材が育っていない状態だ。そのため、四天王はその肩書き以上に多くの役割を担うことになっていた。
そんな、魔物の尺度で言えばまだ形成途上の城へと、戦争を仕掛けてきたのがヴァスーラだった。ヴァスーラはその名を広く知られているほどの実力者である。当然ながらヴァスーラにとっては、エルの城など砂の城にも等しい。まして、その兵ともなれば実力は雲泥の差だろう。
この事態を予想していたとはいえ、集まった幹部たちはやや混乱気味だった。エルに注意を向けているものの、己の部下を呼びつけては何かと忙しなく動いている。
ヴァスーラが送り込んできた兵は、彼が所持する幾つかの精鋭部隊のひとつだ。力は強くないが技術に優れた兵が多数存在する。だというのに攻撃の中心は魔法だというのだから、その戦力は厄介だとしか言いようがない。
多くの力ある魔物を従え己の軍隊を持つヴァスーラにとっては、今回送り込んだ部隊が失われたとしてもさして痛手でもないだろう。けれど、送り込んできたのがただの雑兵の集団ではなく、ヴァスーラの「精鋭部隊」のひとつであるという事実。
それがヴァスーラの本気度を伺わせ、幹部たちを震え上がらせていた。
勿論、あくまでもそれは比喩的な表現である。内心ヴァスーラの影に戦々恐々としていようとも、それを城主であるエルの前でみせるような馬鹿はいない。
いくら元々が温和なエルだとて、そんな怯えた態度を取ろうものならどんな怒りを買うか知れないのだ。圧倒的な強者であるヴァスーラは当然恐ろしいが、本気の怒りを見せたことのないエルもまた、違った意味で畏怖の対象だった。性格は正反対と言われていても、エルもまたヴァスーラと同じ血をひいているのである。
そんな、内心ひどく怯えている幹部たちの様子を、エルは己の椅子に腰かけたまま見るともなしに見ていた。
「……それで防壁ですが、四方の」
報告を書きとめたメモをみながらのスイの言葉に、エルは大した反応をみせない。
スイはそっとため息をつく。
王国軍を撤退させた後、スイは情報収集と指示に追われていた。報告を持ってきた部下に更なる指示をし、それぞれの指揮官からの情報を精査して、エルに報告を兼ねて指示を仰ぐべく最上階の大広間へ参じたのである。
元来、これらの作業はスイひとりのものではない。同じような立場である四天王はすべて負うべき仕事だ。だが、現在四天王はそれぞれに役割をあてがわれている。
ファザーンは防壁の補強、メーベルはヴァスーラの兵と交戦中、そして最も頻繁に作業を分担しあうアイシャは地下室に行っている。
スイもまた、王国軍を撤退させるという指示を受けていた。だが、誰より早く片がついてしまった今、情報を集約し各指揮官に指示をするのはスイの役割である。少なくとも、エルに直接報告するのはスイひとりに集中することとなった。
「……エル様」
声を潜めて、スイが呼びかける。
傍目には何か深い思案に暮れているように見えるが、その実、単にぼんやりしているだけだということにスイは気付いていた。他の幹部ならいざ知らず、伊達に四天王、あるいは右腕と呼ばれているわけではない。考えに集中している時とそうでない時の区別はつく。
「…………何だ」
案の定、返事に間があった。スイに向けられた双眸は、やや据わっている。
「皆が怯えます。お気持ちはわかりますが、今は怒りをお鎮め下さい」
「? 別に怒っては……」
エルの双眸が軽く見開かれ、分りやすい驚きを宿す。だが、スイの言わんとするところを理解したらしく、言葉の先は口の中に消えた。かわりに誤魔化すように髪を掻きあげる。
「そうだな、悪かった。報告を続けろ」
「四方の魔方陣に数名送りました。防壁は問題なく作動しています」
「魔方陣……城を覆う形の防壁か」
「はい。メーベルのあたりまでとなると術者が足りませんので」
「いや、そこまでは不要だ。重要なのは城だからな」
ひらりと手を振り、報告の先を促す。
「あと先般申し上げました、カメリアの報告ですが。東の通用門で発見したのは4名、内2名はあらかじめ城内にいた者と思われます」
スイの副官であるカメリアは、故意に警備を緩められた東の通用門と岩門で罠を張っていた。そのうち通用門の方からのみ「鼠がかかった」と報告があったのだ。
「内通者か」
「恐らくは。捕縛の際に両名とも死亡しました。外部からの侵入者については、一名を捕縛したものの、もう一名は逃走中です」
「……なるほどな」
「逃走した侵入者は……」
「いや、それはいい。それより捕縛した奴はどうだ? 何か言っているか」
逃走している者こそ最も気にかけねばならないというのに、エルは気にしていないようだ。身振りでスイの言葉を遮ると、問いを重ねる。
「いえ、どうにも要領の得ない発言を」
「暗示でもかけられているのか」
「その可能性は高いと思われます。下手につつくと発狂しかねません」
発狂したところで痛痒はないのだが、情報が何もなしというのは困る。
スイの見立てに、エルは首を傾げ考える素振りをみせた。
「暗示を解くとなると少々厄介だな……まぁいい、聞きだせるだけ聞き出したらそいつを返してやれ」
「……返す、とおっしゃいますと」
「現れた部隊の連中にでも押し付けてやればいい。自分の部下だ、兄も首尾が気になるだろう。……ああ、折角だから死んだ二人も一緒に。首三つ届けてやれ」
にこりと微笑んで、エルがいう。首三つ――――つまりは捕らえた者も殺せ、という指示だ。情報が引き出せないなら用済みということだろう。
「承知致しました。ですが、エル様。それでは情報が」
「ああ、それは心配ない」
どうとでもなる、とエルが楽観的とも取れる発言をする。
それに首を傾げたスイだったが、追求することはない。エルが何の根拠もなく言っているとは思えなかったからだ。何か考えがあってのことだろう。
「兵団の方はどうだ」
「現在メーベルの兵が交戦中です。じきにノルの兵も参戦するかと」
結界内にこじ開けられた転移門は3つだった。城の結界を歪める魔法を用いた、その痕跡地が転移門の下地となり、兵団の侵入経路となっている。前述の魔法は、その為の隠れ蓑――布石だったようだ。
すぐさま対応した為か、それとも最初からその予定だったのか、痕跡地の数に対して現れた部隊の数はそう多くない。転移門が発動しなかった幾つかの痕跡地には、ファザーンが兵を遣って封印を施している。
だが現れてしまった兵団はどうしようもない。メーベルが指揮を取っているが、相手はヴァスーラの兵である。こちらに比べ人数では劣るものの、高度な魔法を駆使しての攻撃に梃子摺っているようだ。
そこに増援としてアイシャの副官であるノルを筆頭に兵を送ってはいるが、彼らは魔法に関しては不得手なところがある。元々が力を誇る兵士ばかりであり、魔法にはそう強くない。ファザーンやスイの兵から人員を割けない以上、攻撃を防ぐのが手一杯な状態だ。
「転移門からは新手の気配がありますが、他の場所からの増援は確認されていません」
「急ごしらえの転移門ではそう多くは送れないはずだがな……」
"門"とはいえ、規模は魔方陣と大差ない。急ごしらえの魔方陣は、基本的に脆いものである。繰り返される魔法に陣が崩壊するのは時間の問題だ。片道だけならともかく、復路も考えればそう無理な転移は繰り返せないはずだった。
「新手となると、さすがにメーベルとノルだけでは骨が折れるか」
エルが考えるように視線を彷徨わせたところに、不意に穏やかな声が割って入った。
「霧の魔法とかで視界を遮ったら?」
その声にエルとスイが視線を向けると、エルの傍らにごく自然な様子で佇むスノウの姿がある。
人間たちの捕縛の際、ごく自然にスノウはその輪から外れていた。別段エルがそのように図ったわけでも、スノウ自身が拒んだわけでもない。
一連の流れでスノウは戦力外の宣言をして、広間の「邪魔にならない場所」に退いたのだが、そのせいもあって自然と捕縛対象から外れてしまったらしい。魔物たちからすれば次から次へと動く事態に対応するのに忙しく、殺気を振りまく相手ならともかく、大人しくそれこそ借りてきた猫のようなスノウに注意を払うだけの余裕がなかったのだろう。
そうして下層の慌しい動きがあらかた収まった頃、魔物の中でぽつんとスノウは取り残されていたのだ。
他の幹部より遅れて大広間に来たスイは、広間の隅にぼんやりとした様子で佇むスノウに目を見張った。思わずエルに問いただすと、エルは「下にいたから連れてきた」とあっさりと言い、あまつさえ「何か問題が?」といわんばかりに不思議そうに首を傾げられた。むしろ問題だらけだと、アイシャがその場にいれば盛大に突っ込んだことだろう。
スイも崩さない表情の裏で、冷静に混乱した。
ネコの姿ならまだしも、中身は同じだとはいえ現在は人間である。しかも、丸腰だが勇者だ。それをいつもの感覚で傍に置くのもどうかと思うし、かといってこの状態の勇者を下層に放置するのも頂けない。
確かにスノウはネコであれ人であれ、大人しい部類なのは間違いない。見知らぬ魔物ばかりの中にあって、特に騒ぐことなく静かにしている。怯えすぎて縮こまっているのかもしれないが、その胸中はともかく邪魔にはならないだろう。問題は、ない。
一瞬の間に思考をめぐらせたスイは、エルの言葉に僅かに間をおいて、こくりと頷いたのだ。
「そうですか」と。
だが。
「視界が悪くなれば動きが鈍くなるでしょう?」
てっきり怯えて声も出ないものと思っていたスノウは、意外にもしっかりとした口調であろうことかエルに意見を述べている。
スイは僅かに眉を顰める。
たかが人間が魔物の長に意見をする。ただの雑兵を前にしてならばいざ知らず、これだけの幹部が揃っている場所で看過できるものではない。
「部外者は引っ込んでいなさい」
殊更冷たい口調でスイは言った。
素早く周囲に視線を走らせれば、幹部たちはそれぞれの情報収集と対処に忙しく、こちらに注意を払っている様子はない。そのことに胸を撫で下ろす。
スノウはといえば、スイの言葉に軽く肩を竦めただけで、怯えもしない。
スイはふと首を傾げる。これがあの「勇者」だろうか?
ついこの間までびくびくしていた、あのネコと同じ人物だとは思えない。それにこの騒ぎでうやむやになっているが、スノウはどうやってあのネコの魔法を解いたのか。
「それはそうだろうな。だがお互い条件は同じだろう?」
こちらも身動きがとれないぞ、とスイの当惑はよそに、エルは相変わらずの調子でスノウに答える。
「ああそっか……軍隊のことはわかんないなあ」
少人数でしか戦ったことないし、とスノウは軽く腕組みをする。なにやら考える風情のスノウに、エルは真紅の目を向ける。
「そもそもお前には関係のない話だろう。また裏切り者と言われたいのか」
エルが言うのは、つい先だっての「勇者」との一幕である。当代勇者に声高に「裏切り者」と呼ばれたのは、スイの記憶にも新しい。勿論その場にスイはいなかったが、情報を処理し指示していくなかで自然と耳に入ってきていた。
エルの言葉を聞いたスノウは、思い出したのか困ったように眉根を寄せる。苦笑を浮かべて頬を掻きながら言う。
「それは困るな。だって裏切ったわけじゃないんだし」
「では何故ここにいる」
エルはスノウを見つめたまま、淡々と問いかけた。
その言葉に首を傾げたのは、スノウではなくスイだ。スイにはエルの質問の意味がわからなかった。スノウがここにいる「理由」を作ったのは、誰あろうエルその人だ。わざわざネコになる魔法をかけ、この城に留めていた。
対するスノウは考えるように視線を彷徨わせ、唇を舐める。
「何故って、そんなの簡単だよ。俺が何者か忘れたわけじゃないでしょ?」
エルを見返した青い双眸は穏やかに凪いでいる。だが、その奥に鋭い刃のような煌きが覗いていた。
「勇者、ということか」
エルの双眸が薄く狭められる。口元に面白がるような笑みが閃いた。
「なるほど、この首を狙う気になったと」
笑みを含んだ言葉に、スイの体が反応した。考えるより先に主を守るべく一歩踏み出そうとするのを、エルは片手で押し留める。
エルの手に阻まれて、漸くスイは己の行動に思い至る。咄嗟に視線をやると、エルの表情に目立った変化は見られなかった。口元に笑みを浮かべたまま、真紅の双眸は落ち着いた光を宿している。
スノウの青い瞳をひたと見据えて、エルは何気ない口ぶりで再び問いかけた。
「それで勇者、兄は高みの見物か?」
「え?」
スノウが軽く目を瞠った。
「ここには来ていないな。お前だけを寄越すとは……舐められたものだな」
エルの笑みが深くなる。鋭い牙を剥き出しにして、獰猛に笑う。
「……? 何、言ってるの?」
当惑した様子でスノウが呟く。青い目が揺れて、怯えの色がちらつく。
スイもまた当惑していた。脳裏に、以前アイシャと交わした会話が閃いた。
『あいつ、魔物じゃねぇのか? それもあっちの』
『人のフリでエル様を殺しに来たんだとしたら?』
可能性のひとつとして疑ってはいた。だが、反面違うだろうとも思っていた。
それほどまでに、スノウは「人間」であり「脆弱な」存在だったのだ。けれどあれだけの魔法を揮った今となっては、疑念は確信へと変わる。
次々と展開される思考に、スイが動きを止めていたのは、ほんの僅かな間だった。
その目の前で、エルは自然な動作で腕を伸ばす。
「演技のほどは褒めてやってもいい。――――だが、気に入らない」
不意に声が暗い響きを帯びる。その細い指先が捉えたのは、魔力の流れなどではなく、スノウの胸倉だ。
次の瞬間には、スノウはエルの腕ごと大理石の床に叩きつけられていた。
地響きと共にスノウの体が床にめり込む。石が放射状に割れ、鋭利な欠片が宙に舞う。
唐突な主の行動に、誰もがエルを振り仰ぎ、呆然とした。
すぐ隣にいたスイすらも反応が遅れた。
エルは豪快に振る舞いはするが、暴君ではない。その行動はあくまでも理性的であり、感情を爆発させることは皆無に近かった。
そのエルが、前触れもなくこんな荒々しい行動に移ることなど滅多になく。
「……エル様!」
スイは慌てて声を投げる。
片腕とはいえ、石が割れるほどの力だ。これだけの力で叩きつけられれば、魔物ならともかく人間などひとたまりもない。頭部や内臓は破裂し、下手をすれば即死してしまう。
スノウの身を案じる訳ではなかったが、主の意図が掴めず、スイは混乱する。
激怒することなど殆ど、否、スイが知る限り一度もないエルが腹を立てたとは考えられない。他の魔物ならいざ知らず、相手はエルとスノウである。あの程度の言葉の応酬でエルが激怒するとは思えず、しかしそうだとすると突然の破壊的な行動の説明がつかない。
やはり何か怒っているのか、と動揺すると同時に、スイの背筋を戦慄が走った。
エルの怒りは恐ろしい。だが、この場でエルを宥めることができるのは、スイ以外存在しないのはわかりきっている。
何とかしなければと再度声をかけようとして、スイは動きを止めた。
スイの予想に反して、地面を見つめるエルの表情は冷静そのものだったのだ。真紅の双眸には怒りどころか激情の片鱗すらうかがえない。
「話には聞いていたが上手いものだな」
そう呟く唇から、微かな忍び笑いが漏れる。
「……これは」
スイは呆然とエルの視線の先を見る。
エルが胸倉を掴み叩きつけたのは、確かにスノウだった。
しかし今、エルの手で首をつかまれ喘いでいるのは、スノウとは似ても似つかない男だ。
栗色の髪と漆黒の目をした、明らかな魔物。
その顔にスイは見覚えがあった。
「兄の愛玩動物……確か、ヘネスと言ったか? 色々と聞きたいことがあるんだが」
話して貰うぞ、とエルは首を掴む手に力を込めた。