37.王国軍の撤退
一方、城外では。
エルの居城の真下。
銀の森では、未だ熾烈な戦いが繰り広げられている。
森の中から侵攻した王国軍は城門を突破することができず、思うように進めないでいた。
城門の周辺には双方の犠牲者が倒れ、折り重なっている。濃密な木々の香りに混じって、むせ返るような血の臭いが辺り一面に漂う。
魔物のほうからは頻繁に魔法による攻撃が繰り出されていたが、王国軍の背後に控える魔法使いの集団がその大部分を防いでいた。対魔物専用である"対抗武器"を持つ兵士が多いことも、一役買っているようだ。
だが、それでもその戦力は拮抗しているようだった。対抗武器さえあれば城門は突破できるだろうと踏んでいた王国軍にすれば、やや誤算ではある。
「……あちらも必死ということか……?」
戦況を眺めながら、指揮官のガレオスは思わず呟く。
ガレオスの視線の先には、皿のように平たい水盤がひとつ置かれていた。その水盤に手を添えて何事かを呟いているのは、行軍に同行している魔法使いの一人、魔法使いたちの束ね役である。
唇がガレオスには理解できない言葉を紡ぐたび、水盤に薄く張った水面が揺らぐ。そこに映し出されるのは水底ではなく戦場の様子だ。
ガレオスがいるのは、城門前の戦場ではなく銀の森内に設営した天幕内だった。勿論戦場からそう離れた場所ではないが、戦場が視認できる距離ではない。まして開けた場所ならともかく、木々が生い茂る鬱蒼とした森の中だ。視界は遮られ、魔法でもなければ状況把握は難しい。
「大佐、魔法の反応があります」
ひたすら呪文を紡いでいた声がぴたりと止み、魔法使いが顔を上げる。
その声が僅かに緊張を含んでいたことに、ガレオスは内心首を傾げた。
魔法自体は珍しい話ではない。こちらも魔法を駆使していたし、戦いが始まった直後から魔法による攻撃は頻繁に受けている。わざわざ口にするということは、何か「特殊」な魔法なのだろう、とガレオスはあたりをつける。
「攻撃か?」
「はい、少し様子が違うようです。結界を強化します」
その言葉が終わらないうちに、水盤が大きく波立った。
揺らめく水面に、銀色の矢が閃く。
城の半ばほどの位置から飛び出した銀色の矢は、一直線に城門の前に飛んだ。
そこには魔物と一進一退の戦いを繰り広げる兵士たちの姿がある。複雑に入り乱れたその中にあって、雨のように降り注ぐ銀色の矢は、過たず人間の兵士ばかりを射抜いていく。
とはいえ、しっかりと狙われたものではないらしい。射抜かれた兵士の大半は致命傷にならないものばかりだ。ただ、矢自体に何か施されていたものか、矢を受けた兵士は悶え苦しみ転げまわっている。
程なく薄い色の膜が兵士の頭上に傘のように広がった。どうやら背後に控えた魔法使いたちが防壁を張ったらしい。銀の矢は実体を持たないようで、防壁に触れると蒸発するように消えていく。
「魔法の矢か……高度な種類に入るのか?」
その様子を息を飲んで見つめ、ガレオスは目の前の魔法使いに尋ねた。軍人として生きてきたガレオスにとって、魔法は専門外である。正直なところどの程度警戒すればいいのかも分からない。
魔法使いは少し迷う素振りをみせたが、軽く頷いた。
「魔法としてはそう難しいものではありませんが……それでも基礎がなければできないものです」
つまりはそれだけの素地を持つ魔物が城内に存在している、ということだ。
ガレオスは無意識に眉根を寄せる。
魔物に対する認識を改めてこの場にいるつもりだった。だが、それでも長いこと染み付いた先入観というものはなかなか改めることは難しいらしい。些細な証拠にいちいち驚く己に気付き、渋面になる。
「しかし……妙です」
「妙?」
「いえ、気配が……この程度の魔法とは思えなかったのですが」
しきりと首を捻り、念のためだと魔法使いが本隊の周囲の結界を補強していく。
水盤には未だ城門の様子が映っていた。
結界で阻まれていても、城からは変わらず銀色の矢が降り注いでいる。効果がないことに気付かないはずはなかったが、その数にも威力にも変化はないようだ。
意図を探るように見守っていたガレオスは、ふと、何かがおかしいことに気づいた。
城門から溢れんばかりだった魔物の軍が、後退しているようだ。一時よりはだいぶ城門の中へと飲み込まれている。さては疲れてきたかと考えたものの、それにしてはその動きが急すぎる。
そのとき、結界を補強していた魔法使いが緊迫した声を上げた。
「これは……だめだ、防壁を張れ!」
振り向きざま、傍に控えていた別の魔法使いへ指示を出す。魔法使い同士の専門用語を矢継ぎ早に交わす様を、思わずガレオスは呆然と見守る。指示を受けた魔法使いが慌ただしく天幕から飛び出していき、それもまた呆然と見送ったガレオスに、魔法使いがようやく視線を向けた。
「大佐、強力な攻撃が来ます! 結界のすぐ傍に防壁を張りますので結界から出ないでください!」
その魔法使いの言葉を聞くや否や、ガレオスは魔法使いに返事をする間もなく天幕を飛び出した。
天幕の近くで部下に指示をしていた副官を捕まえ、言う。
「マロールの部隊をここへ戻せ! とにかく結界の内側へ戻るように伝えろ!」
ガレオスの切迫した様子にただ事ではないと感じ取ったのか、副官は慌てて伝令を飛ばす。
本隊の周囲に張られている結界は、そう大きなものではない。あくまでも本隊を守るための結界である。魔法使いはその近く、結界の外側に防壁を張るつもりだろう。そうなれば多くの兵士が結界の外に残ることになる。
城門近くであればまだ問題はない。補助のための魔法使いが何人かついている。恐らく今頃指示が出ている筈だ。問題はその中間に展開している兵士たちである。彼らには魔法使いの補助はない。
ガレオスは空を見上げた。
そこには木々の枝葉が生い茂り、青空など見えない。城の姿は辛うじて木々の合間に確認できるが、そこに変化らしい変化は見当たらない。相変わらず銀色の矢がちらほらと緑陰の隙間から覗く程度で、水盤越しの光景とそう違いがあるようには見えなかった。
「防御の体制をとらせ、迎撃の準備だけしておけ」
特に大きな変化が目につかないことで、いくらか落ち着きを取り戻したガレオスは再び副官に指示を出す。
慌しい動きに、周囲の兵士たちの表情には戸惑いがうかがえる。
魔物と競り合っている状況下で戦場を放棄して引き上げろと言っているのだから、戸惑わないほうが無理な話だ。魔法使いから直接聞いていなければ、ガレオスも同じ表情をしていただろうことは想像に難くない。
そのガレオスですら、何が起こるのか予想もつかない。魔法使いの言葉を全面的に信用するわけではないが、魔法の戦いは専門外である以上、現状は彼らの判断を信じるほかはなかった。多くの命を預かる立場としては、攻撃ばかりを推し進めることはできない。
事実、彼らの魔法には幾度も助けられているのだ。
ガレオスの足元では、青い輝きが緩く波を打っている。淡いその輝きは、ガレオスの背後の天幕から発せられ、波紋を描きながら外へ外へと広がっていく。
魔法使いたちによる防壁の詠唱が始まったのだ。
「大佐、あれを!」
すぐ傍で副官が声をあげた。
焦りの滲むその声に、部下の視線の先を仰ぐ。
「あれは……」
呆然とした声が自分のものだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
ぶわ、とガレオスの背筋が粟立った。
本能的な恐怖が警鐘を鳴らし、ガレオスは声を限りに叫ぶ。
「急げ! 本隊に戻れ!」
引き上げ、本隊に帰還してくる部隊はまだ半数程度だ。それなりに距離がある上、森の中の移動である。思うように速度が上がらないのも仕方なかった。しかしこの状況でそう暢気なことも言っていられない。
再び空を見上げたガレオスの視線の先で、城の上部が烈しい輝きを放っていた。
白く発光するそれは球体をしているようだ。細い電気の糸を纏い、眩く輝いている。それはみるまに膨張し、一際大きく収縮すると、次の瞬間勢いよく弾けた。
網膜を灼く光の洪水と、爆音。
思わず顔を庇ったガレオスの体を、爆風のような衝撃が襲う。
だが、それだけだ。
足元に広がる波紋から立ち上った光が、その攻撃の大半を吸収している。
間に合ったか、と息をつきかけて、防壁の外側の光景に息を呑む。
目の前の木々がなぎ倒され、炭化して白煙を上げていた。急に開けた視界には、城の姿がはっきりと映し出される。
そして露になった地面には、移動が間に合わなかった兵士たちが防壁の波紋を境に倒れ伏していた。
ただの一人も生きていないことは、その鎧と体の区別もつかない惨状から一目で見て取れる。黒く炭化した体が、人形のように無造作に転がっている。
「……っ」
ガレオスは唇を噛む。
これほどの威力を見せ付けられては、どうしようもなかった。
迎撃の用意はさせているが、魔法使いにしてもこれだけの防御を維持したまま、攻撃に転じることはできるかどうか。
ガレオスは噴き出す汗を拭う。この城は一体どれだけの戦力を秘めているのか。人語を話す魔物だけでも十分に人間の常識を超えているというのに。
退却、の文字が脳裏をよぎる。
だが、城門の近くでは兵士たちが未だ魔物と競り合っている。いわば切り離された状態になった彼らへの援軍は必要だ。そして、城内には黒鷺部隊と勇者が突入しているはずだった。
その背後に、音もなく魔法使いが近づいてきた。
「大佐」
「なんだ」
「今の攻撃ですが……三度は持ちません」
「何だと」
「思いのほか強力です。同程度の攻撃であれば防げますが、あれ以上の攻撃となると防御だけで手一杯かと。迎撃に割く余裕はないでしょう」
ガレオスは頷いて城を睨む。
城の上部で再び白い光が見えた。どうやら、同じ攻撃を再度行うつもりらしい。
兵士の間に動揺が走り、漣のような騒めきがガレオスの鼓膜を震わせる。
先ほどと同様に放たれた攻撃は、魔法使いの張った防壁をぎりぎりと削った。目に見えて力負けをしている防壁に、ガレオスは唇を噛んだ。決断せねばならない。
退却か、玉砕か。
「魔法使い、どうにか攻撃は」
話しかける間にも、次の魔法が降り注ぐ。先ほどまでの攻撃とはまた違う、どちらかといえば軽度の攻撃だ。そこには先ほどの銀色の矢も含まれている。効果がなかったことは実証済みだろうに、同じ攻撃が繰り返された。
だが、こうなっては兵士たちには手も足もでなかった。防壁から一歩出れば餌食になるのは目に見えている。軽度の攻撃とはいえ、兵士たちには弾く術はないのだ。
かといって目の前に魔物はいない。倒すべき対象は遥か遠く、城門の傍だ。城門前で決死の戦闘を続ける仲間の援軍に向かいたくとも、繰り返される攻撃がそれを許さない。
「……どういうわけか、攻撃がやや弱まっています。あの規模の攻撃には時間がかかるのかもしれません。……今のこの状態なら、攻撃に転じることも可能です」
何かを探りつつ言う魔法使いに、ガレオスは首を捻る。
一度目と二度目の攻撃は強いものだった。三度は持たない、と言わせるほどの。となれば普通はそれ以上の攻撃をしてくるものではないのか。それが徐々に弱まっているとは。
魔法使いの言うように、あの魔法自体に何か理由があるのかもしれない。
そうは思ったが、首を振る。有り得ないことではないが、どうにもそうは思えないのだ。
それよりは罠の可能性が強い。下手に防御を弱めて攻撃に転じるのは、早計かもしれない。
「待て、それは……」
ガレオスがとめようと声を投げかけたとき、彼の感覚を何かが引っ掻いた。
咄嗟に体を捻り、引き抜いた剣を突き出す。無意識の反応だった。
「……おや、怖い。物騒ですね」
切っ先を喉元に突きつけられた相手は、そう言ってうっすらと笑みを履く。
フードを深く被った華奢な姿。全身を覆う鼠色の長衣は、一見したところ魔法使いのひとりであるようにも見えた。その証拠に、ガレオスの傍らにいた魔法使いはよくわかっていない様子でぽかんとしている。
「何者だ」
ガレオスの誰何に、相手はフードを僅かに持ち上げ、いとも簡単に己の顔を晒した。
少女のような端正な容貌が目を引く。僅かに弓形に歪んだ唇は淡く色づき、こちらを見返す双眸は光の加減か金色にも見える。
フードの隙間から髪がひと房流れ落ちて、その色にガレオスは息を呑んだ。空を映した水色。その、人が持ち得ない色彩の示すところはひとつだ。
「あなた方の敵ですよ」
金色の瞳を細め、相手は言う。
「ああ、大人しくしていてください。本来ならば私はここにおりませんからね」
人差し指を唇に当て、視線をやった先には硬直した魔法使いがいる。何らかの魔法をかけられているらしく、小刻みに震えたきり声も出せないようだ。陸にあげられた魚のように口を開閉させていたが、やがて諦めたのか口を噤む。
「何の用だ」
問いかけたのは、相手がこちらに話があると踏んでのことだった。殺すつもりならば気づかれる前に行動に移しているだろう。魔法使いが動きを封じられていることといい、油断ならない相手であることは容易く理解できる。
ガレオスの緊張を孕んだ問いかけに、魔物は視線を寄越す。
「貴方が指揮官と見込んで申し上げます。今すぐ兵を引き、ここから立ち去りなさい」
「……何だと?」
「退却を勧告しているのです。降伏など面倒なだけですからね。全滅か退却、この二択しかありませんよ」
それは当然覚悟していたことだった。そもそも魔物相手に降伏など意味がない。
だが、相手が退却を勧めてくる意味もわからなかった。この状況で相手にとっての利点などどこにあるというのか。
「先ほどの攻撃で格の違いはお分かりでしょう。あなた方はどうか知りませんが、私たちにとってあの程度のことは息をするより容易い。あなた方の勝機は、万に一つもありません。私は引き際を教えて差し上げているのです。全ての兵を失いたくはないでしょう」
「……」
「現実は見えておいでとお見受けしますが?」
ガレオスの雄弁な沈黙を正しく理解したらしい魔物は、軽く首を傾げて問いかけてくる。
言われるまでもなくガレオスにもわかっていた。相手の言葉が的を射ていることも、現状が絶望的に八方塞がりなことも。
しかしそれでも、一縷の望みと何より重い責任が彼にはあった。
「ああ、私を殺したところでどうにもなりませんよ。攻撃したければどうぞお好きに。まあ人間ごときに私をどうこうできるとは思えませんが」
唇に楽しげな笑みを閃かせ、魔物は言う。金色の双眸が輝きを増し、その奥に暗い炎が揺らめいて見えた。
ガレオスは相手の本性が紛れもない魔物であることを再認識する。「人に似た魔物」の情報は幾つか聞き及んでいたが、これほどまでとは予想外だった。外見上は人と変わらない。けれどその奥には、これまで戦ってきた魔物と同じ獰猛な力を感じるのだ。
目の前の相手と剣を交えることになれば、悲惨な事態が待っているだろうことは予想がついた。
「本来ならば、ここであなた方を一掃してしまうほうが楽なのですが……我が主の怒りは買いたくありませんからね。私としても余計な力を使わずに済むのなら、それに越したことはない。あなた方が大人しく退却するならば攻撃は止めさせます。後はお好きに、どこへなりとお帰りなさい」
どうしますか、と有無を言わさぬ口調で相手は畳み掛けてくる。
ガレオスは相手の言葉の中からいくつかを拾い、記憶した。
「退却するならば、攻撃をしないと」
「ええ。一切しません。こちらからは」
降りかかる火の粉は払う、と魔物。
ガレオスの胸中は既に七割方退却に傾いていた。魔物の言葉を信じるなど馬鹿げている、とも思っていたが、それでも不意に示された可能性に揺れてしまう。
国のためと言っても、できることなら皆生きて帰してやりたい。勝利が目前にみえている状況ならまだしも、手も足も出ない状況では。
けれどそれ以上に彼の胸に引っかかっていることがある。城内に突入しているはずの、勇者たちと黒鷺部隊だ。ここで退却することは、城内で戦っている彼らを見捨てることになってしまう。
「ああ、因みにそちらが寄越した勇者ですが」
まるでガレオスの思考を読んだかのように、魔物が口にした。手を長衣の下に滑り込ませ、無造作に何かを取り出す。
「随分あっけない幕切れでしたよ」
「……っ!」
その手のひらからガレオスの足元に放られたのは、何の変哲もない首飾りだ。青い石を鎖で繋いだだけの、ごく簡素なそれには見覚えがあった。王国軍で支給された護符である。ガレオスもまた、同じものを身に着けている。
ただガレオスのそれとは違い、大きく罅割れた石は元の色がわからないほどに染まっていた。表面を覆っているのは赤い色彩だ。転がった地面までも染めるほどに真新しい、鮮やかな血色。
「勇者というのは皆ああいうものなのですか? 実に脆い」
ガレオスは突きつけた剣を振りぬいた。避けられる距離ではなく、ガレオスとしては首を落とすつもりで加えた斬撃だった。
だが、激情で揮った剣の下に骸はない。
「人間にしては悪くない動きですが、その程度では斬れませんよ」
灰色の影は、先ほどから僅かに離れた場所に移動しただけだった。傷を負うどころか焦る様子もない。
「これは大目にみて差し上げます。さて、改めて伺いましょう、指揮官殿。退却か全滅か、貴方の判断を」
笑みの消えた唇が紡ぐのは、悪魔の囁き。
その言葉にガレオスの頭は急速に冷える。激情に動かされている場合ではない、と理性が冷静に呟いた。
全軍の指揮官はガレオスであり、兵士の命運を左右するのも指揮官の判断ひとつにかかっている。軍隊は二分され、それぞれに魔法の補助があるもののそう長くは持ちそうにない。加えて城からは強力な魔法攻撃。こちらも、そう幾度は防げそうになく。
兵士たちの希望であった勇者も、ガレオスの優秀な部下も、失われた。
戦況は良くない。
否、最悪だ。
ならばガレオスのとる行動はひとつだった。
「……退却しよう」
「良い心がけです」
魔物がぱちんと指を鳴らすと、ガレオスの傍らの魔法使いが大きく喘いだ。
「き、きさま……っ、大佐、いけません。奴の甘言に乗っては……」
必死に空気を貪りながらもそう言い募る魔法使いに、ガレオスは視線をやらないまま首を振る。
確かに、甘言といってもいいだろう。相手が言葉通り攻撃してこないとは思わない。むしろ罠の可能性が大きい。
だが、そうだとしてもなお。むしろそうならば尚更。
「退却だ」
このまま戦い続けても被害が増えるばかりだろう。城の中で勇者が戦い、その時間稼ぎであるならば必要な犠牲かもしれないが、そうでないのならば。
「大佐……!」
「全員退却だ。カディスに退くと伝えろ」
ガレオスの強い口調に、魔法使いは体を強張らせ、頭を垂れた。そのまま、魔物を気にしながらも伝達に向かう。
その姿を見送って、魔物は軽く息をついた。
「さて、では私もこれで失礼いたしましょう。これよりこちらから仕掛ける攻撃はないものと思って頂いて結構です。ただ……そうですね、速やかな退却をお勧めします。あまり長居されては私も責任はもてませんからね」
フードを再び深く被りなおす寸前、その金色の双眸と目が合った。
金色の目がすうと細められ、唇が囁くように言葉を紡ぐ。
「また日を改めて、おいでなさい」
ガレオスには、声に喜色が滲んでいるように感じられた。その真偽を図ろうと眉を顰めた時、突然前方から強風が吹き上がる。
思わず腕で顔を庇ったが、それは一瞬のことだったらしい。一陣の突風が行き過ぎると、目の前にあったはずの魔物の姿は忽然と消えていた。
周囲を見回すが、姿どころか痕跡すら見つからない。気配らしい気配も感じないところをみると、恐らく魔法の類で移動したのだろう。
抜き身の剣を下げたまま、しばし城の方角を眺めていると、声がかかる。
「大佐」
喘ぎながら近づいてきたのは、ガレオスの副官だ。
魔法使いから話を聞き、指示を仰ぎにきたものらしい。
「伝令は」
「はい、送りました。城門の方へは魔法使いから既に。……あの、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「この状況では、退却とはいえ身動きがとれません。いかがいたしましょう」
頭上からは未だ魔法の矢が降り注いでいる。退却の命令は伝わっているだろうが、そうおいそれと動ける状態でないことは一目瞭然だ。
「心配ない。じきに、止む」
「は……はい」
疑問符を浮かべながらも首肯した副官を見遣り、ガレオスは自嘲する。魔物の言葉などと思いながらも、結局はそれを信じるしかない。向こうがこのままやめてこないのであれば、次の策を考えておく必要があるだろう。だが、ガレオスには相手の言葉が嘘ではないという、確信めいたものがあった。
相手はこちらを「退却」させたいのだ。全滅させるだけの力を持ちながら、そうはせずに交渉に来たのがその証拠である。たとえそれが脅迫としか思えないものであっても。
その思惑までは見当もつかなかったが、今このときに重要なのはそこではなかった。
速やかに退却し、無駄な犠牲を避けること。
「攻撃が止み次第、カディスに戻る。準備させておけ」
「はい。黒鷺部隊と勇者様は」
「……後ほど合流する」
副官の位置からは、件の護符は見えていないらしい。
足元に転がるその「証拠」を、ガレオスはそれとなく体で遮った。
まだ知らせる必要はないだろう。
幸い、知るのは魔法使いとガレオスだけである。兵士にとって、否、人間にとって希望である存在を、奪われたと知るのはまだ後からでもいいはずだ。
見上げた先、魔物の言葉通り魔法攻撃がぴたりと止んだ。
「よし、退け」
合図で防壁が解かれる。同時に、兵士たちが続々と本隊に引き返し始める。
どの顔も当惑したような表情が浮かんでいる。それもそうだろう。いきなり攻撃がやみ、攻勢に転じるどころか撤退の指示が出たのだから。
「カディスに戻り、再度立て直す」
副官に聞こえるように呟いた。
それは勇者が生存しているという嘘を補うための偽りであり、同時にガレオスの本心でもあった。
勇者も部下も喪われた。本来ならばこのまま王都に帰還しても問題はない。彼らは王の剣であり盾。王国軍の本分は国を守ることであり、その対象は「人間」に限られている。魔物討伐は彼らにとって不規則な任務なのだ。例え当代勇者が軍幹部の身内だとしても、そこに責任を感じるのはガレオス個人の感情にとどまる。
だが、このままおめおめと帰りたくはなかった。勇者への負い目もあったが、それ以上に犠牲となった部下を思うと、敵わないまでも一矢報いたかった。それが敵の雑兵一匹であろうとも。
そんな彼の気持ちが、彼の嘘を真実めいたものにしていた。
彼の傍に控えた副官は、カディスに帰還したその時まで、ガレオスの嘘に気付くことはなかったのである。