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35.白の青年

 大きく振られた剣がクロスの髪の先を掠めた。

 焦げたような匂いが鼻をつき、クロスは息を呑む。

 追い詰められている、とクロスは感じていた。

 傍から見れば互角に見えるだろう。

 まるで舞うかのような攻防が繰り返される。だが、クロスには相手が『遊んで』いることが分かっていた。その気になれば隙なく攻撃ができるはずなのに、相手はわざと手を緩めている。しかも、その攻撃は剣によるもののみ。

 魔法を使ってこないことを怪訝に思ったのは戦い始めてすぐだ。魔法を使うと聞き及んでいたというのに、相手は大剣で斬り込んでくることしかしない。剣を振るう間は魔法に集中できない、ということだろうかとちらりと考えたが、見る限りどうもそうは見えなかった。第一『その程度』であれば長などという立場にはいないだろう。

 となれば、理由はひとつしか思いつかない。相手にとって、これは単なる『遊び』でしかないのだ。

 腹の底から滾るような怒りがこみ上げてくる。

 だが、悔しさと怒りを糧に剣をふるっても、力量の差はどうにも埋められそうになかった。

 なにより、必死なクロスに対し、魔物のほうは口元に笑みすら浮かべている。こちらを値踏みするかのような冷静な視線。戦いの最中にあって、生かさず殺さずのギリギリの所で加減をしているのだ。

 これではダメだ。

 完全に相手に主導権を握られてしまっている。

 このままでは、相手が決定的な攻撃をしてこなくとも、そう遠くないうちに力尽きてしまうだろう。

 焦りを滲ませたクロスの手が、汗で滑る。

 はっとしたときには剣が一瞬手から離れていた。慌てて取り直すが、そこに僅かな隙が生まれる。

 相手の繰り出した剣が、クロスの目の前。

 背筋を走る戦慄に、死を覚悟した。


 ガキン


 見開いたクロスの眼前で、大剣は動きを止めている。

 剣とクロスの間には青い膜のようなものが揺らめき、それがどうやら攻撃を防いだらしかった。

 クロスの背にどっと汗が噴出す。浅く呼吸を洩らして目の前の魔物に視線を転じた。相手は目を細めてクロスを見返し、ゆるく瞬いた。


「……さて、これはどういうことだ?」


 溜息とともに紡がれた言葉は、クロスに向けられたものではなかった。

 膜に阻まれた剣先を引き、軽く構えたまま視線だけを投げる。戦う二人を遠巻きに見守る、魔物たちの囲いの向こうを。

 つられてそろりとクロスも目を向ける。

 魔物たちの囲いの奥、そこに細身の姿が見える。獣に近い形状の魔物ばかりといえども、その体躯は獅子などとは比べ物にならないほど大きいものが殆どだ。その中にあって、通常なら全く視界に入らない筈の華奢な姿は、それでもはっきりとクロスの目に飛び込んできた。

 それも当然だ。まるで今のクロスのように、その人影の周囲にぽかりと空間ができていた。魔物たちが自ら開けた空間でないことは、よろめきながら立ちあがる魔物の姿からも想像がつく。

 そんな魔物たちを無表情で一瞥し、人影は視線をこちらへと向けた。

 白金(プラチナブロンド)の髪に青い双眸、端正な面立ち。

 その容貌は一見少女と見まごうほどだが、簡素な旅装に包まれた体つきは男性のものだ。それでも周囲を魔物に囲まれているためか、華奢な印象は拭えない。

 魔法石の嵌った剣を構えて佇む姿は、どう見ても人間にしかみえなかった。

 けれどこの場に人間がいるということが、クロスには理解できない。

 ここは魔物の居城であり、人間は彼と共に侵入を果たした数名だけ。となればいかに人間にしかみえずとも、あの青年は人間ではないのかもしれない。クロスの目の前に居る、魔物のように。


「説明して貰おうか、勇者」


 面白がる口調で魔物が問いかける。唇を笑みの形に歪め、呼びかけるのはクロスではない。その視線の先には、白金の髪の青年がひとり。

 まさか、とクロスの理性が怪訝な声を上げた。

 閃いた予感に疑念を被せて否定する。けれど、クロスは似姿程度でしかの勇者を知らず、何よりその特徴がすべてを物語っている。

 白金の髪と青い目、そして『勇者』の名を冠する者といえば、ひとりしか浮かばない。

 五代目の勇者、スノウ・シュネー。

 まさにこの城で『戦死』した筈の、稀代の勇者。

 緊迫した空気の中に、徐々に動揺が広がる。

 それはクロスの背後にいる兵士たちからだけではない。周りを取り囲む魔物側からもまた、(さざなみ)のように動揺が広がっていく。

 そんな周囲を眺めやって、青年は軽く肩を竦めて見せた。

 

「説明もなにも。俺が『勇者』を助けることに、理由なんて必要?」


 わかってるでしょう、と冗談めかして応じる。その言葉には緊張も恐怖も存在しなかった。それどころか、周りに広がる動揺にも全く頓着していないようだ。

 上向けて構えていた剣を無造作に下ろすと、クロスの眼前で揺れていた青い膜が大気に溶けるように消える。

 

「なるほど。ようやくやる気になったか」


 随分待ったぞ、と鋭い牙を覗かせ、魔物の長は獰猛な笑みを浮かべた。

 途端に放たれた殺気は、先だってクロスに向けられたそれとは比べ物にならない程で、思わずクロスは息を呑む。相手が本気ではなかったことを、嫌でも突きつけられる。

 

「そういうわけじゃないけど……一応ほら、これでも勇者だし」


 向けられた殺気に怯むことなく、自らを勇者と公言した青年は笑う。殺気どころか、周りの注視や不穏な空気すら意に介していないようだ。


「知ってる顔が怪我するのは見たくないからね。それと、ご期待に添えずに申し訳ないけど、別にエルを倒しにきたわけじゃないよ」


 そう、青年――スノウは、場違いなほど穏やかな口調で言った。


「ちょっと提案にきたんだよ。暫く戦闘を中止してみない? って」

 

 淡く色づいた唇が、散歩に行こうというような気安さで語る。笑みを深めて見遣る先は、クロスではなく魔物の長だ。

 エル、と呼びかけられた魔物の長は眉を顰め、怪訝な声を上げる。


「中止?」


 何を言っているんだ、といわんばかりの声音で問いかけられ、スノウは笑みを浮かべたまま答えた。


「少し厄介な問題が起きたんだ。とりあえず、ここはお互い剣を収めて話を聞いてほしいなって」


 やんわりとした口調で、スノウが言う。

 クロスは当惑した。話に聞いていたスノウ・シュネーと、目の前に現れた青年が結びつかない。誰もが口を揃えて褒めたたえる稀代の勇者。その性格は勇猛果敢、人格・実力共に申し分のない青年だったはずだ。その彼が、穏やかに笑うこの青年なのか。

 その姿に呆然としたのは、何もクロスだけではなかった。人間たちの多くはどう反応すればいいのかわからない様子で、複雑な表情に顔を歪めている。彼らの殆どがかつての勇者を知らないのだ。人物像は伝聞の域を出ておらず、実際との差異に戸惑っているようだった。また、生前の勇者をよく知るメリルやフレイにしても、衝撃が強すぎたのか凍りついたように立ち尽くすばかりである。

 一方魔物の方にも動揺は広がっている。どこからともなく勇者が現れれば、それも当然だろう。しかも敵対している相手に取るにしては、随分と物腰が柔らかい。

 エルはそんな周囲を一瞥し、盛大にため息をついた。


「いいだろう。簡潔に用件を言え。わざわざ飛び込んできておいて、つまらんことだったら消し炭にするぞ」


 気のない口調でそう応じると、エルはあっさりと剣の構えを解いた。目の前に敵がいるとは思えない行動に、魔物の間から悲鳴のようなざわめきが起きる。


「エ、エル様!」


 動揺も露に声を上げたのは、藍色の髪をした魔物だ。その姿は目と髪の色を除けば人と大差ない。メリルの報告にあった『人に似た魔物』とはこの相手か、とクロスは記憶の頁をめくる。


「騒ぐな」


 大儀そうに応じたエルは、軽く身振りで周囲を鎮める。言え、と言わんばかりに顎でスノウを促した。


「ええとね、どう言ったものかな。少し前になるけど外に不審な魔物がいたんだ。東の……ちょうど裏側あたり?」

「……ああ」


 スノウの言葉にエルは頷き、目の前のクロスを見遣る。その口元が再びゆるく弧を描いた。


「で?それだけか?」


 驚く素振りもないエルに、スノウは首を傾げた。エルの目線を追って、得心したのか頷いて言を継ぐ。


「あともうひとつ。外が騒がしいんだけど」

「それはそうだろう。この状況が見えないか?」

「さすがに状況はわかってるつもりだけどね。でも、エルが戦ってるのは人間でしょう? 魔物とも戦ってるわけじゃあないよね?」

「……何?」


 スノウの言葉に、エルの声のトーンが落ちる。鋭い眼光は今にもスノウを射殺しそうだ。だがそれにも大した反応をみせることなく、相変わらずの口調でスノウが続ける。スノウを遠巻きに囲む魔物の方が、城主の怒りを恐れて怯えている有様だった。


「城から少し離れたところに魔物の気配があるんだ。それも結構な数の下級貴族」


 この城はそんなにたくさんの下級貴族を抱えていないでしょう、とスノウが言う。

 当然ながら、クロスには何のことかわからない。湧き上がる様々な疑問を整理する暇もなく、きき覚えのない単語が耳に飛び込んでくる。ただ呆然と、やり取りを見つめることしかできなかった。


「それは……」


 エルが思案顔になる。そして、ふとスノウを見遣った。


「……随分詳しいな?」


 スノウはひらひらと手を振り、穏やかな笑顔のまま答える。


「魔力が戻ったからね。色々と見えるようになっただけだよ。とにかく何とかしたほうがいいんじゃない?」


 そんなスノウを探るように睨みつつ、エルはひとつ息をついて剣を鞘に収める。硬質な音を立てて剣が収まると、魔物たちの間に再び狼狽の気配が広がる。

 エルは周囲をぐるりと見渡し、背後の部下へと声をかけた。


「スイ、調べてこい。判断は任せる」

「はい」


 頭を垂れて応じたのは、水色の髪をした魔物だ。長い衣を翻し、滑るような足取りで魔物たちの間に姿を消した。

 

「それで勇者、わざわざ邪魔をしてきた要件はこの程度か?」

「結構重要なことだと思うんだけど? あっちもこっちも戦うなんて、いくらなんでも無理だよ」

「別にこいつらを片づけてからでも遅くないがな。単に時間稼ぎのつもりだろう」

「そんなつもりじゃないけど……まあ半分くらいはあるかな?」


 不機嫌な様子を隠そうともしないエルを前に、スノウはごく自然体に見えた。魔物の、長を相手に恐怖も圧倒もされていない様子である。かといって闘志を燃やしているわけでないことは、誰の目にも明らかだ。

 エルの方も、不穏な気配を放ってはいるものの、スノウを攻撃する意思はないようだった。鞘におさめた剣に手をやる素振りはない。とはいえ、魔法による攻撃がいつ襲ってもおかしくない状況ではある。

 そんな二人を視界に収めながら、クロスは未だ降ろすことのできない剣をきつく握り締めていた。柄を握る手が、過剰な力に白く強張っていることにも気付かない。

 これは一体どういうことだ、と幾度目かになる自問を繰り返す。

 目の前のやりとりが理解できなかった。

 否、理解はしている。ただ感情とうまく繋がらないのだ。

 それでも、危ういところで命を拾ったのはスノウの魔法によるものだと理解していた。だからクロスの中でスノウは『こちら側』で、そうでなくても人間である以上問答無用で『こちら側』なのだと信じている。けれど飛び込んでくる情報が、その判断に疑問を突き付けるようなものばかりで、困惑していた。

 死亡とされていた憧れの存在が無事だったことは、純粋に嬉しかった。初めて見たその姿に驚きはしたが、「良かった」と感じた気持ちに偽りはない。

 だがこれはどういうことだろう。

 魔物の長と言葉を交わすスノウには、敵を前にしているという緊張が感じられない。それどころか「あり得ない」ことに親しげですらある。

 これではまるで、勇者は『あちら側』のようではないか。

 ぞわりとクロスの肌が粟立った。

 それが意味することは。


「……中、止?」


 クロスの唇から、ひび割れた声が漏れた。手の中で剣の柄が軋んだ悲鳴を上げる。

 自分の声が震えていることを自覚して、クロスは笑った。

 恐怖ではない。これは、怒りだ。


「剣を収めろだって……? この状況でか?」


 敵陣のど真ん中。

 周囲を魔物に囲まれて、目の前には敵の首領がいて。

 魔物討伐の経験がないただの兵士なら、竦みあがって懇願したかもしれない。喜んで、と剣を収め助かったと涙するかもしれない。

 だが、かれらは違う。


「ふざけんな。何のためにここまで来たと思ってる……!」


 青い双眸が苛烈な輝きを放つ。ぎりぎりと眦をつりあげて見つめる先は、五代目勇者スノウの姿がある。

 今も正面で決死の戦いを繰り広げているであろう兵士が、クロスの脳裏をよぎった。

 ここで剣を収めてしまったら、彼らの犠牲はどうなる。

 一頭でも一匹でも多く屠り、敵わない相手なら一太刀でも多く深い痛手を。

 そう肝に銘じてここまで来たのだ。


「あんただって、わかってるだろう!」


 怒鳴るように声を張れば、かつてこの城に乗り込んだ勇者は、黙ってクロスを見つめ返した。

 その少女のような顔には何の感情も浮かんでいない。怒りを露わにしたクロスの言葉に感情を乱される様子もなく、その深い色の双眸は静かに凪いだままだ。

 それに、クロスの中の何かが弾けた。


「……あんたは違うのか。外の連中はどうなる、あんたの仇を取りにきた連中は! その犠牲を、簡単に切り捨てるのか!」


 クロスの激昂に、戸惑うばかりだった兵士たちが、完全に動きを止める。

 それにいち早く我に返ったのは彼の親友だった。慌ててクロスの腕を取る。


「クロス! よせ、まずい!」


 周囲を憚り潜められた声に、けれどクロスは聞く耳を持たない。レリックの手を振り払い、怒りに燃える目でスノウを見据える。その目には、既にスノウしか映っていない。


「わかってんだろ、おれもあんたも犠牲の上に立ってるんだ。なのに、この状況で魔物どもと馴れ合えってのか! そんな馬鹿な話……っ」


 言葉に詰まったクロスの喉がゴクリと鳴った。

 次に唇から漏れたのは、先ほどの激昂が嘘のような静かな声音だ。荒れ狂う激情がなりを潜め、冷たい憎悪となって流れ出る。


「おれは……おれはお前を認めない。お前は勇者なんかじゃない。魔物に寝返った裏切り者だ」


 明確に紡がれた言葉は、いっそ激昂していた時よりも空間に響いて落ちた。

 レリックが青褪め、背後の兵士たちの纏う空気が変わった。だが、クロスはそれに気づかない。

 兵士たちにとって、『勇者』はクロス以外に存在しない。稀代の勇者とはいえ見知らぬ相手より、近しい相手に情が湧くのは人間としては当然のことだ。そして歴代勇者の例に漏れず、クロスにもまたある種のカリスマ性があった。

 クロスにその意図はなかったが、周りを敵に囲まれるている現状だからこそすべては効果的に働いた。クロスの望む行動へ、即ち先代勇者を『敵』とみなす方向へと。

 怒りでぎらぎらと輝くクロスの目が、正面の敵へと向けられた。頭に血が上っていても、本来の目的は忘れようもない。幾ら先代勇者が許せずともそれは後まわしだ。魔物の長を倒す。それが最優先事項である。

 クロスは体を低くし、剣を構えなおす。

 その動きに呼応して、背後の黒鷺部隊も身じろぎした。それぞれに武器を構え、戦闘態勢に入る。周囲を睨めつける彼らの顔には、先ほどまでの困惑はみられない。決意がみなぎり、緩みかけていた緊張の糸が張り詰める。


「……残念だが、こいつらは時間稼ぎなど欲しくないようだぞ」


 獣のような目で睨んでくるクロスに、エルは楽しげに笑った。視線をクロスに据えたまま、スノウに言葉を投げる。


「仕方ないな」


 もう暫く遊んでやる、とエルの唇が動いた。音にならなかったその言葉を正確に読み取って、クロスが殺気を放つ。

 エルの漆黒の爪で飾られた指が、剣の柄にかかる。途端に放たれた殺気と闘気に、空気がびりびりと振動した。それが引き金となったのか、魔物たちの間にも再び剣呑な気配が広がり始める。スノウの登場で緩みかけていた空気が、再び戦場のそれに変わろうとしている。

 それを見遣って、スノウは小さくため息をついた。


「言っておくけど、別に俺は寝返った訳じゃないよ。ただ、ちょっとの間剣を収めてくれって言ってるだけなんだ。だから……ねえ、ひとまず大人しくして貰えないかな、勇者」


 首を傾げてそう言う姿は、邪気というものがまるでない。だが、乗り込んだ人間たちからすれば、それすらも怪しいものにしかみえないだろう。

 暫く様子を眺めていたスノウだったが、エルとクロスを取り巻く空気に変化がないのを見取ると、再び深く息をついた。クロスは最早、スノウに注意を向けようともしない。


「……あまりやりたくはなかったけど」


 独り言のように言って、つかの間スノウは目を伏せる。

 差し伸べた手のひらの先に、ふわりと青い球体が姿を現した。

 ひとの頭ほどの大きさのそれは、光を乱反射して輝いている。よく見れば、その表面には細い電気の糸が走り、小さく爆ぜては弾ける音を漏らしている。

 スノウの唇が囁くように言葉を紡ぐ。球体はみるみるうちに膨れあがり、輝きが目を灼かんばかりになったころ、スノウは目を開ける。

 青い双眸は手元の球体を映し込み、凄絶な色を放っていた。およそ体温の感じられない美しい宝石が、クロスの姿を認めて細められる。

 

「安心して――――少し痛いだけだから」 

 

 そう微笑むスノウからは、殺気も害意も感じられなかった。状況が状況でなければ言葉通りに受け取ってしまいそうなほどの、穏やかに凪いだ瞳。

 だが、クロスは違った。

 背中に走る悪寒に、危険を察知する。目の前の魔物の長に対しても油断はできなかったが、現状、スノウが手にしている球体が危険だ。

 エルに意識を残しつつ、クロスは背後に「下がれ」と怒鳴る。あれをそのまま向けられたら、全員ひとたまりもない。

 スノウはそんな人間たちを眺め、大きく育った球体の端を摘んで引っ張った。ぐいと引き伸ばされたそれは、たちまち矢のような形へと姿を変える。

 弓を引くような動作のスノウが、その照準をクロスへと向けて、放った。

 電気を纏う青い矢が、一直線に空間を切り裂く。

 

「っ!」


 想像以上の速さに、クロスは息を呑む。軌道から逸れようと体を逸らすが、わずかに間に合わない。衝撃を覚悟して、頭を庇い体を縮める。

 とん、とごく軽い衝撃が腕にもたらされた。

 だがそれだけだ。いつまで待っても予想していた衝撃は訪れない。吹き飛ばされるどころか、重傷を負ってもおかしくないだけの威力はあるはずだ。それなのに、クロスはいまだ自分の足で立っている。

 クロスは腕の間から、周囲をうかがう。

 すると思いのほか近くにエルの姿があった。しかも、なぜかクロスに背を向ける形で。

 

「……どうして止めたの?」


 不思議そうなスノウの声に視線をやると、相変わらずの場所に首を傾げたスノウの姿を見出す。その手には当然ながらあの球体は存在しない。

 かわりに、あたりにはもうもうと白い蒸気が立ち込めていた。

 エルが前方にかざしていた手を下ろす。途端に湿気を大量に含んだ風が押し寄せ、今の今まで魔法障壁が張られていたことにクロスは気づいた。

 魔法障壁は無論、スノウの攻撃を防ぐものだろう。先ほどのスノウ自身の言葉がそれを裏付けている。

 だが、とクロスは回りきらない頭で思う。

 攻撃はまっすぐ人間たちに向いていた。正確には、クロスに。ならばなぜそれを魔物がとめる必要があるのだろう。


「……殺すつもりはないのだろう? 今の攻撃では死んでるぞ」


 力の加減ができないのか、と少し詰るような口調でエルが答える。それに、スノウは己の手のひらをまじまじと見つめ、おかしいなと言いたげな表情を浮かべた。


「そんなに強かったかなあ……加減したつもりなんだけど」


 エルはそんな反応にため息で返して、体を強張らせたままのクロスを顧みた。


「全く忌々しいな。貴様のそれは聖剣か」


 本物の、とエルの小さな呟きは音にならなかった。

 前方にかざしていた手とは逆の手。その手のひらが、火傷でもしているかのように赤くなっている。それを目にして、クロスの中でピースがぱちりと嵌る。

 火傷はエルが聖剣に触れたことを表している。となれば、あの時感じたわずかな衝撃は触れたときのものだろう。おそらくはエルがクロスを僅かに退かし、魔法障壁を張ったのだ。スノウの攻撃を防ぐために。

 だが、なぜ?

 そこまで整理したクロスの頭は、再び混乱していく。

 エルは完全に攻撃の外だったことをクロスは覚えている。その攻撃を防ぐには、わざわざクロスの前に踏み込まねばならない。そのために『意図せず』聖剣に触れることになったのだ。

 もし魔法障壁がなかったら、クロスは確実に吹き飛んでいた。攻撃の威力からいって、よくても身動きが取れない状態にはなったはずだ。

 目の前の、魔物の長に『庇われ』なければ。

 だが、なぜ。

 再び自問を繰り返す。浮かんでは打ち消し、そしてまた考えて。相手の意図を測りかねて、クロスは瞬きを繰り返した。





★☆★☆★☆


 魔物たちの囲いの手前、エルから少し下がった場所で、アイシャは苦い表情を浮かべていた。

 

「あいつ……」

 

 何考えてんだ、と舌打ちとともに呟く。

 視線の先には、しきりと首を傾げるスノウの姿がある。己のふるった力に納得がいっていない様子だ。

 周囲には真っ白な蒸気がたち込め、湿気を含んだ温い空気が充満していた。魔法の名残だ。

 スノウが放った攻撃は、水で作られた矢である。帯電によって威力をあげたそれを、エルは単に障壁で防いだわけではなかった。ただ防ぐだけでは、弾かれた力が周囲に散り更なる被害を生むからだ。通常ならば力を吸収させる障壁を張るのだが、エルは火系の魔法によって互いに力を相殺する方法を取った。そのため、周囲にはその副産物である蒸気が充満している。

 当然ながら、エルにとってこの程度の魔法は大した労でもない。ただ咄嗟に相殺する手段を取るあたりにエルの動揺が現れているのだが、そこに気づくのはアイシャくらいのものだろう。

 スノウが現れたことか、それとも魔法を行使したことか。あるいはもっと別の何かに、エルは動揺しているようだった。

 そんな主と勇者、そして不思議そうなスノウを眺め、アイシャは密かにため息をつく。

 脳裏に蘇るのはつい先ほどのやりとりだ。スノウが乗り込んでくる、少し前のことである。

 

 

 

 エルと勇者が激しい剣戟を繰り広げるのを、アイシャは大した心配もせずに眺めていた。

 互いの力は拮抗しているように見えるが、それは意図してそうみせているだけだということは、アイシャの目からもわかりきっていた。

 元々エルの剣の腕前は、そう強い方ではない。ここ最近ようやく重い腰をあげただけあって、力の方はまずまずだ。ただその技量だけは、アイシャも目を見張るほどの上達だった。技量に筋力が追いつけば強くなる。もしかしたら魔法を使わずとも剣一本で勝てるようになるかもしれない。

 そんなことをつらつらと考えながら眺めていたアイシャの感覚に、それはひっかかった。

 咄嗟に足をだすと、真横を通り過ぎようとしていた白い体が跳ねた。


「わ、アイシャ……」


 驚いたらしく、思わずといった(てい)で口走るのは、白いネコだ。


「たく、あぶねぇな。何してんだお前」


 見上げてくる青い目にそう問えば、白いネコ――――スノウは、二、三度と瞬きした。首元で赤いリボンが揺れている。それに何とはなしに違和感を覚えて、ついまじまじとリボンを凝視する。


「うん、仲裁にきたんだけど」

「は?」

「だってこのままじゃ話もできないじゃない?」


 アイシャの目をひたと見据えたまま、スノウは不思議そうに首を傾げた。

 その思考のほうが不思議だとアイシャは突っ込みたい気持ちを抑える。違和感を彼方へ放り投げ、混乱する頭を収集しようと眉間を揉んだ。


「時間もないし、いくね」


 悩むアイシャを暫く見上げて、スノウは軽く断りを入れた。

 するりと脇を抜けようとする白い体に、アイシャは慌てる。

 スノウの言わんとすることはわからなかったが、どうやらあの剣戟の間に割り込むつもりであることは理解できた。

 激しい戦闘のど真ん中。危険だ。危険すぎる。

 何より、エルの邪魔をさせるわけにはいかない。そう口にするよりも先に、再び足が出た。


「何言ってんだ、とにかく今は危ないからすっこんでろ!」


 あの様子でわかんないのか、とアイシャは叱る。示す先には、激しく斬り結ぶエルと勇者の姿がある。スノウはそれを目で追って、頷いた。


「ああ……大丈夫だよ」

「いやいや! どうみても危ないだろうが! 防御ひとつできないくせにちょろちょろすんなって!」


 なんとも呑気な答えを返すスノウに、アイシャは呆れる。いくらなんでも、危機意識が低すぎやしないだろうか。己が無力なネコであることをわかっているのか。

 こいつ本気で馬鹿なのか? と睨みつけると、そんなアイシャを見上げて何を思ったのか、スノウは再びこてんと首を傾げた。

 

「……アイシャって、面倒見いいよなぁ」

「ああ?」

「ううん、何でも。本当に大丈夫だと思うんだ。……でも、そうだね。せっかくだから心配されないようにしようかな」


 独り言のようなスノウの言葉に、アイシャが眉を顰める。

 するとどこからともなく柔らかな風が流れてきた。はっと周囲に視線を走らせたアイシャの耳に、小さく笑う声が聞こえる。


「ちょっと借りるよ」


 聞き慣れたスノウの声。どこか余裕を感じさせるそれが、アイシャのすぐ耳元で聞こえた。


「……っ!」


 ありえない事態に、勢いよく振り向く。

 すると、すぐ傍に見慣れない青年がいた。白金の髪に青玉サファイアの双眸。端正な顔に浮かぶのは、どこか面白がるような笑みだ。

 咄嗟に突き飛ばそうとして、それよりも早く相手が体を離した。その手には、いつの間に握られたのかアイシャ愛用の剣がある。

 アイシャの背筋に戦慄が走る。

 相手が何者かという疑問よりも、自分がここまでの接近を許したことが信じられなかった。その上、己の愛剣まであっさりと奪われてしまっている。

 

「そう怖い顔しないでよ。ちゃんと返すから」


 柄に嵌った魔法石を撫でながら、相手が言った。薄く色づいた唇は、相変わらず笑みを浮かべている。

 何者だ、と投げかけようとして、アイシャは気づく。

 彼の鋭い聴覚が拾ったのは、聞き慣れた声だった。視覚以外の感覚は、相手が何者かを正確に弾き出している。

 そうしてよくよくみてみれば、この顔は見覚えがある。

 かつて、エルの部屋で。




 人の姿を取り戻したスノウを見て、アイシャは納得した。

 以前からスノウの行動が怪しいことには気づいていた。ネコのままでは無理なはずの鍵をはずしていた時から、確信めいたものはあったのだ。

 だから己の愛剣を『借りて』いったスノウの意図にもある程度気づいていた。

 やや強力な魔法を行使して、あそこに割り込むつもりなのだと。

 魔力を取り戻したスノウが、エルに攻撃を仕掛けることは予想していた。長くネコの姿ばかり見ていたが、もともとは人間なのだ。手段があるならば、いつエルの首を狙ってもおかしくはない。

 アイシャの魔法石でいくら増幅したところで、所詮人間の使う魔法である。エルの敵ではない、とアイシャは思っていた。だからこそ、スノウが愛剣を持っていくことを許容したのだ。

 だが、これは予想外だった。

 スノウが幾ら魔物の中に順応しているとはいえ、まさか勇者に攻撃の矛先を向けるとは思ってもいなかったのだ。本気で傷を負わせるつもりがなかったのは、スノウの様子からも見て取れるのだが、繰り出された攻撃は人間にとっては危険なレベルだ。

 人間の、しかも憎い勇者などどうでもよかったが、何よりスノウの行動に驚いた。そして、さらにそれを庇った形のエルの姿にも。

 何がなんだかわからない。

 人間スノウ人間ゆうしゃに攻撃をし、魔物エル人間ゆうしゃを庇うなど、あり得ない光景だ。

 エルのことだから何らかの意図があるのだろう。だが、長年仕えてきたアイシャにも全く予想がつかない。

 この場にいないもう一人の姿を思う。彼がいれば、共に頭を悩ませることができただろう。そもそも自分は頭脳労働向きではないのだ、とアイシャは愚痴をこぼす。調べるのにそんなに時間がかかるものなのか。さっさと調べて戻ってくればいいのに、と混乱も手伝って八つ当たりにも似た怒りがこみ上げる。かつて、これほど彼の帰還を心待ちにしたことがあっただろうか。

 奇しくも、渦中の勇者と同じことに混乱したまま、アイシャは傍観に徹していた。スイへの理不尽な怒りをせっせと積み上げながら。



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