2.残されて
たった3人だけで乗り込んだ魔物の城。
メリルとフレイの活躍で、どうにか「長」たる魔物を引きずり出すことに成功した。この魔物さえ倒せば魔物は瓦解する。そのあとのことは考えていなかった。もしかしたら生きて帰れないかもしれないという気持ちが少なからずあったのか、誰も「倒した後」を話題にしなかった。
だから、まさか撤退するとは思っていなかった。
当初から腰の引けていたスノウはともかく、「勇者の仲間」という自覚のある2人が撤退することも考慮にいれていたとは……スノウは全く考えてもいなかったのだ。
大人であるメリルがそれを考えなかったはずはない、とこうして――――漆黒の空間に残された今になればわかる。
自分は、以前の勇者ではないのだから。
「あー……と、勇者?」
「……はい」
「お前、俺と一対一で戦うとか」
「毛頭ないです……」
首を振る。
「……というと、まさか……逃げそびれたってやつなのか?」
「……て、やつです」
スノウには他にどう答えようもない。そのまま、それが事実なのだから。
重苦しい沈黙が横たわった。
魔物もさすがに絶句しているようだ。それはそうだろう、とスノウは思う。どこの世界に、仲間に置いていかれて逃げそびれ、あまつさえ帯剣すらしていない丸腰の勇者がいるというのだろう。
コメディのような、だが洒落にならない事態である。
「――――お前、武器は?」
「……えっと、来る途中で折れて、今のところこれだけ」
低く問いかけられて、スノウは恐る恐る懐から石を取り出す。
メリルが持っていたものと同種の白い石だ。ただし、こちらの石は純粋な白ではなくところどころに黒の斑が入った、あまり見栄えの良くない代物である。
「魔法石……なるほど、魔法剣士か」
「まあ、メリルは」
呟いて、スノウはちょっと遠い目をした。
剣士として名高いメリルは、元々魔法の資質が高かったらしい。
本来は魔法的な役割を担う人間が必要なのだが、当の魔法担当が逃亡してしまったためメリルに白羽の矢が立ったのだ。
そのため、メリルには当人の意志とは関係なく「魔法剣士」の肩書がつくこととなった。
「あの女か。道理でただの剣士にしてはおかしいと思ったが……」
魔物が呟く。何がおかしいのかスノウには全く見当がつかない。
「で、おまえ、どうするつもりだ?」
どうする?
まさかそんなことを尋ねられるとは思ってもいなかった。
いや、それ以前にこんな事態になることすら、想像していない。
つもりも何も、どうしたらいいのかがわからない。
普通の勇者ならば、ここで玉砕覚悟で戦うのだろう。何せ相手は憎き敵。背中をみせておめおめと逃げ帰ることなどできない……普通ならば。
だが、スノウはそういう意味においては普通ではなかった。
「帰りたいんですが」
「――――そう簡単に帰すと思ってるのか」
魔物が低く獰猛な声で言った。
ドスのきいた脅し文句に、けれどもスノウは「脅し」と取っていなかった。首を振った後、
「帰る方法が分からない」
と答えた。
「……その石、使えば帰れるんじゃないのか?」
魔法石は力を増幅させる。大した魔力のないものでも、魔法石の加護さえあれば転移などたやすいことだ。
スノウのあまりにも外した物言いに、思わずといった様子で助言をして……魔物は憮然とした表情になる。
しかしそんな相手の反応を気に留める風もなく、スノウは再び首を振った。
「困ったことに、魔法のかけ方自体知らないので」
確かに、困ったことである。
再び沈黙が落ちた。
スノウは石を握りしめたまま必死に脳を振り絞る。すなわち、この窮地をくぐり抜ける方法を。
思いつく限りの言葉を脳内で組み立ててみる。さらに石に念じてみる。
何の反応も感じない手のひらに、じっとりと汗をかきつつ、スノウは忙しく頭を巡らせた。
唯一の武器である剣は手元にない。魔法がつかえるならば武器になりえた魔法石も役に立たない。拳一つで魔物と渡り合えるほど肉体派ではなく、かといって頭脳で切り抜けられるほど賢い訳でも話術に自信があるわけでもない。
考えれば考えるほど、「勇者」とは名ばかりの凡庸な―下手をすると一般男子よりも劣っていそうな、自分が浮き彫りになってくるだけである。
丸腰以外の何物でもない勇者など、魔物にとっては赤子の手をひねるよりたやすいはずだ。まして、相手は魔物の長と呼ばれる存在なのだ。
もしかしなくても、大ピンチかもしれない…。
この期に及んでやっとそこまでの認識が生まれてきた。
青さを通り越して白茶けた顔色で呆然としているスノウに、魔物は判断つきかねている様子だった。
ややあって、緋色の頭を乱暴にかきむしりながら、魔物が言った。
「お前、俺をどうこうするつもりは?」
どうこうなど全くされそうにもない堂々たる態度で言われ、スノウはぼやっとした表情のまま首を振った。
「無理です」
さもあらん。完全な丸腰では、相手が魔物であろうとなかろうと無理だろう。
「もし、おまえの右手に聖剣があったらどうする?」
「……ここから帰ります」
「ほう、どうやって?俺を倒してか?」
口の端から鋭い牙を覗かせて、魔物が獰猛に笑った。真紅の双眸は切れそうな光を孕んで輝いている。
「いえ…聖剣でそこの窓を割って、そこのカーテンをロープ代わりにして下に」
「……」
「あ、無理か……ここ何階くらい? たぶんカーテンが足りないからそっちの布を足して――――」
「……あー……いや、もういい」
脱力した口調で、魔物がひらひらと手をふった。
「わかった、もういい。まぁ……これがウソだってんならそれはそれで面白いしな。
勇者、おまえ名は?」
皮肉な笑みに口元を歪め、尋ねる。スノウは意味がわからず首をかしげて、戸惑った表情のまま口を開いた。
「スノウ」
「ふむ、スノウ。お前を助けてやろう。お前は人間にしては面白いし、勇者だからといって殺すのは惜しい。だから、ネコになれ」
「………は?」
たっぷり5秒の沈黙の後、スノウは間抜けな反応しかできなかった。
ネコ?ネコっていうと、にゃあって鳴く、あのネコ?村にも割といたけれど普通の猫でいいんだろうか。でも猫って苦手なんだよなあ、あの何を考えてるかわからない態度が…
あまりのことに思考が追い付かない。ばかみたいなことが脳内をぐるぐる回る。
ひとり、魔物だけが機嫌よく頷いていた。良案を思いついた、というような得意満面で。