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26.不可解な"部屋"

 全身を襲う不可視の力に、スノウは息を詰めた。

 見えない手でひっぱられているかのような感覚。身体の至るところが悲鳴を上げ、引き裂かれる恐怖に身を強張らせる。目を固く閉じて、己はここに「いる」のだと懸命に言い聞かせた。そうしないと身体より先に意識が四散してしまいそうだった。

 何時間にも感じられたそれは、ほんの一瞬の出来事であったらしい。

 ぱちん、という泡の弾けるような音と共に、世界がスノウの元に「戻って」きた。

 急速に鮮明になる感覚が最初に伝えたのは、肌を撫でる冷たい空気。

 明らかに室温とは異なるその温度は、スノウが場所を移動した証しだ。現在地が目指していた場所かどうかは別として、とりあえず魔法自体は無事に成功したようだった。

 つめていた息をそっと吐いて、スノウは恐る恐る目を開ける。

 真っ先に視界に広がるのは闇だった。思わず跳ねた心臓を宥めつつ、スノウは周囲を見回す。やがてどうやら灯りらしい灯りがないのだと気付いて瞬きを繰り返した。

 暗がりに目が慣れてくると、周りの様子が徐々に見えてきた。

 想像以上に広い空間だった。天井も壁も、岩肌がむき出しである。石の種類などスノウにはわからないが、白っぽいそれらの岩肌が淡く発光しており、唯一の光源となっていた。

 荒削りの洞窟のようなその空間は、一応「部屋」として機能しているらしい。

 床には美しい模様の絨毯が敷き詰められ、書斎机や椅子といった調度品が置かれている。壁には幾つかの穴が開き、灯りを入れるための燭が備え付けられていた。さらにその壁に沿うようにして本棚が並び、中には古めかしい書物が隙間なく収められている。収まりきらない分は床に溢れかえり、乱雑に積み上げられていた。散らばったそれらの本がうっすらと埃をかぶっている様子からいって、掃除や換気といった管理はあまりされていないらしい。

 部屋には当然ながら誰の姿もない。地下というだけあって外部からの音もしない、完全な無音だ。静まり返った空間は、スノウのか細い呼吸すら響いて感じられる。

 なんとなく息苦しくなり、深呼吸する。

 その拍子にふと、水の気配を感じた。


「水……?」


 首を傾げ、部屋の奥を見渡すと、闇に沈んだ奥に確かに水の気配がある。

 流れる水ではない。ゆらゆらとたゆたう、静かな水の冷気だ。

 スノウは慎重に足を踏み出した。

 散らばる本を踏まないように注意して、奥へと進む。

 ほどなくして、足元から絨毯の感触が消える。岩肌の冷たさにスノウは足を止め、そのままのびあがって先を仰ぐ。

 ごつごつした地面が大きく抉れている。大きく口を開けた穴の中は深い闇に沈んでいるようだ。崩落と考えるにはあまりにも綺麗な穴の縁に、作為を感じずにはいられなかった。穴の中に何かが潜んでいるのか、と好奇心半分、恐怖半分でそろりと近づいた。

 警戒しつつ覗きこむと、闇ばかりと思っていた空洞に揺らめく水面が見えた。岩肌の淡い光が僅かに反射している。

 その深みのある青い色彩に、スノウの記憶がはじける。

 この水に見覚えがある。

 少ない記憶のページを手繰り、ヴァスーラに投げ込まれた水盤のことを思い出した。

 あの先は、もしかしなくてもここに繋がっていたのではないだろうか。

 確信はないがなんとなくそんな気がして、一心に水面を見つめる。見つめているうちに「あの後」の記憶が蘇ってくるような気がして。

 すると、目の前でこぽりと水面に泡が浮く。


「魚かな?」


 水の中にいるものといったら魚くらいしか思いつかず、思わず首を傾げる。こんなところで生息できるのだろうか?

 水面に再びぽこりと泡が浮かぶ。


「見えない……何がいるんだろ」


 何か得体の知れないものだと困る。そう思い、スノウは乗り出しかけていた身を引く。

 その拍子にぷかりと水面に現れたものに目を丸くする。

 姿を現したのは、見たこともないゼリー状の物体だった。頭を持ち上げるように、水面から飛び出し揺れている。ごく小さなそれは特に行動を起こす素振りはない。水面から突き出したままゆっくりと左右に揺れている。

 危険を感じなかったため、スノウはかろうじて踏みとどまりそれを凝視した。

 水と同じ深い青色をしたその物体は、ゼリーのようにぷるぷると震えながら揺れている。正面には二つの窪みが並んでおり、恰もそれの目のように見えた。


「何……生き物だよね?」


 そっと声をかけてみると、応えるようにぶるぶると震える。けれど、それだけである。


「魚、じゃないよね、魔物?」


 ぷるぷる。


「俺の言ってることわかる?」


 ぷるぷる。

 それはどうやら、スノウの声に反応して震えているようだった。スノウが黙ると震えは収まる。声を出すと震える。それだけだ。

 敵意もなければ好意も感じなかった。それどころか意思のようなものすら感じない。


「……生き物なのかなあ」


 もはやそれすらも怪しい。そう思い、スノウは大胆な行動に出た。岩肌の崩れた部分の石を咥え、そのゼリー状の物体めがけ、落としてみたのだ。

 用心深い、もとい臆病なスノウにしては随分な行動であった。スノウ自身後に振り返って首を傾げたものだが、そのときはただひたすらにその物体を観察したいという欲求だけがあったのだ。

 果たして、石は水しぶきを上げて水中に没する。咥えた石を投げ込んだだけなので狙いも何もなく、物体にはかすりもしなかった。

 しかし、暫くして水面がぶくぶくと泡立ちはじめた。

 水中から同じようなゼリー状の物体がひとつ、ふたつと現れ、揺れながら何か鳴いている。

 初めは水の流れる音に似ていた。けれど耳を澄ましているうちに、それが一定のリズムを刻んでいることに気づく。高低や強弱をつけてまるで何かの歌のようだ。


「歌ってる」


 何の歌だろう、と更に耳を澄ませて、それがただの歌でないことを知る。

 その旋律にあわせて、水面が静かに波打っている。歌うその物体から円を描くように波が生まれ、水面が仄かに発光しはじめた。

 スノウの脳裏に「魔法」という言葉が閃いた。

 この物体は、魔法を発動させようとしている。歌うように紡いでいるのは完璧な音律の呪文だ。何の魔法かはわからないが、この場はあまり刺激しないに越したことはない。

 スノウはなるべく音を立てないよう、静かに水面を見守る。

 やがて、スノウの見ている前で次第に発光は弱まり、同時に歌も小さく細くなってきた。歌がやむ頃には、5つほど現れていたゼリー状の物体は水の中に溶ける様に消えている。

 完全な静寂を取り戻した水面を見つめ、思う。

 あれは生物ではなかった。

 否、生物かもしれないが、自己の意思は殆どないような類のものだ。あれらが姿を現したのは単にスノウの発した「音」に反応したからだ。そして魔法を発動させたのも、石を投げ込まれたからである。そこにあるのは反射的な反応だけで、害意や敵意といった動機はないに等しいだろう。

 正体はよくわからなかったが、ここがエルの『研究部屋』だということは確信していた。

 (おびただ)しい蔵書もさることながら、あの不思議なものがこんな地下に偶然に存在しているとは思い難い。

 おそらくあれがエルの研究していた何かに繋がるものだ、とスノウは感じていた。

 とはいえ、これが現状を打開する策―――平たく言うなら脅迫の材料になりうるかと問われたら首を捻らざるを得ない。

 何しろスノウにも何がなんだかわからないのである。

 凶暴な獣でも飼っているならともかく、あまり有害な感じはしない。かといって無害だと断言できる証拠もない。そもそも害の有無自体は、脅迫材料として重要なポイントではなく。要はそれがエルの『弱み』となるかならないかであり、そこを突かれるとスノウとしてはもう首を傾げるしかないわけで。

 ゆらゆらと体をゆらす「生き物」の姿を思い浮かべ、スノウは唸った。

 目的がわからない。

 それの正体が何であれ、ここに故意に存在するのには理由がある筈である。

 研究対象として、或いは研究手段として。

 それこそがエルの弱みだと、スノウは疑っていない。アイシャやスイにも知らせていないのだから、どれだけ秘密にしておきたいかが伺い知れるというものだ。

 だが、とスノウは周囲の本の山を見回す。

 エルは「何」の研究をしているのか。

 手がかりとなるのは、正体不明の「生き物」と蔵書だけだ。

 埃をかぶった本には手をつけることができない。滅多に訪れている形跡がないとはいえ、万一エルに見つかったら事である。

 となると本棚の中から探してみるしかないのだろうか。



 岩壁に聳える本棚を仰いで、スノウは重い溜息をついた。




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