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ネコと勇者と魔物の事情  作者: 東風 晶子


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16.ネコと勇者

ちょっとした息抜き気分で書きました。そんな感じで読んでください(笑)

 ふとした拍子に、まるで今までのことが夢だったような錯覚に陥ることがある。

 目の前に広がる光景が、慣れ親しんだありふれたものだった時。

 ここに至るまでの全てが夢の中の出来事で、自分自身はあの時のままなのではないかと。岐路となった時点から実際は一歩たりとも進んでいないのではないか。何もかも良くも悪くもあのときのまま、何も変わっていないのではないか。

 そんな錯覚に束の間陥って、視線を落として気付く。

 視界に飛び込む艶やかな白い毛並み。人間のものではないそれが、確実に自分自身である現実。

「……何だか、へこむなあ」

 ぽつりと呟いて、その響きに「今」が夢などではないことを思い知る。

 諦めにも似た感情を胸に抱いて、スノウは往来を見遣った。

 綺麗な石を敷き詰めた石畳。中央には石造りの水溜めがあり、水が張られたその中では少女の彫像が猫と戯れていた。勿論、猫も彫像である。

 街のオブジェとしても十分美しいが守護としての意味も込めているのだろう、とスノウはぼんやりと考える。魔物は猫を嫌う。つくりものとはいえ、苦手なものに躊躇するのは魔物も人も同じだ。例えほんの一瞬だとしても。

 水溜めの周囲では小さい子供がはしゃいで走り回っている。それを諌める母親と思しき娘。行き交う人々は微笑んでその光景を見守る。物売りの声に、誰かを探す声。慌ただしく歩く若い男、店を覗く老女、声高に話す若い女に、水溜めの縁に腰掛ける老人。

 そこにあるのは、日常を懸命に生きる人々の営みであった。穏やかで平和な、ごくありふれた風景。

 スノウは何度目かになるため息をつく。

 こうして眺めていると、自分が何をしているのかわからなくなりそうだった。あれほど焦がれた人間の街。そこに、実際に足をつけているのに。

 自分は一体何をしているんだろう。

「とにかく宿か酒場を探さなきゃ……」

 泣きたい、とごちて、スノウは足を踏み出した。




 ヴァスーラ来訪の一件以来、スノウは居心地の悪さを感じていた。

 特に待遇が変わった訳ではない。相変わらず、虜囚なのか愛玩動物なのかわからない奇妙な立場は続いているし、魔物たちの態度も常と変わらない。

 けれど、ふとした拍子に見えない壁のようなものを感じて、一線を引かれていることを思い知らされる。

 元々そんなに親しい間柄でもない。一線どころか、考え方も何もかも遠いところにある相手だということは分かっている。分かりあうことなど無理だと、散々周囲から聞かされてきたのだ。だから「仲良く」なる必要などないとスノウ自身よくわかっているつもりなのだが。

 穏やかな表情から垣間見える硬質な空気。はっきりと敵意を示された方がどれだけ楽だろう、とスノウは思うのだ。

 そんな状況にすっかり疲弊したスノウは、彼らの前ではなるべく目を合わせない手段をとっていた。つまるところ、狸寝入りである。

 この日も、食事を用意してくれたアイシャに申し訳ないと思いつつ、熟睡のフリを続けた。アイシャから疑いの眼差しを向けられるのも嫌だったし、下手な言動で穿った見方をされるのも嫌だった。それに、アイシャを前にしたらその表情の裏を探してしまうだろう。そんな自分が分かるから、尚更顔をあわせたくなかったのだ。

 何度かスノウを呼んでいたアイシャだったが、反応がないことに諦めたらしい。しょうがないなといいたげなため息が聞こえて、アイシャが部屋を出て行く気配がする。

 扉が完全に締まったのを確認して、スノウはのそりと身を起こした。

 スノウが寝そべる窓辺は、今日も麗らかな午後の日差しが心地よい。窓越しに外の風景を一瞥して、床へと視線を移動させる。室内のいつもの場所に見慣れた椀が置いてある。中身は煮干のようだ。

 食事でもするか、と猫らしくのびをしたところで、視線を感じた。不思議に思って振り向いて、心臓が口から飛び出さんばかりに驚く。

 いつの間に現れたのか、壁に背を預けた姿勢のエルがいた。

「ふうん、狸寝入りか」

 口元に意地の悪い笑みを浮かべ、硬直したスノウを楽しげに眺めている。

 スノウは意味もなく口を開閉させた。あまりの驚きにどう反応していいかわからない。

 まさしく突然、としか言い様のない登場である。つい先ほどまではアイシャの気配しかしなかったのだ。鈍いと言われれば返す言葉もないが、それにしてもアイシャの無反応は不自然だ。エルが室内にいれば、無言で立ち去るなど部下としてあり得ない行動である。

「ち……違うよ、今、締まる音で目がさめて。あれ? ご飯置いてくれたのエル?」

 スノウは首を振りながら必死に頭と口を回転させる。食事を用意したのはアイシャだと知っていたが、敢えて知らぬフリをする。

「良い時に目が覚めたみたいだね、ああお腹すいた」

「そうか? 俺の目にはアイシャが出て行くのを待ってたように見えたけどな?」

「そんなことない。気のせい、エルの勘違い」

 エルに図星を指されて、スノウはぷるぷると首を振る。動揺のあまり微妙にカタコトになってしまっていたが、気を回す余裕はない。必死で否定を繰り返す。

 その混乱振りをエルは面白そうに眺めて、にやりと笑う。

「で、何故あいつらを避けてるんだ?」

「さ、」

「避けてないとは言わせねえぞ。ここ最近目を合わせないようにしてたな? しかもここにアイシャとスイが来ている時は、決まって散歩に出てるだろ」

 スノウの反論を封じて突きつけられた言葉に、思わず息を詰める。事実、彼らがエルの部屋に集まる時はなるべく席を外すようにしていた。勿論気遣いなどではなく、逃亡だ。そうでなくても居心地が良くないのに、こんな状況下では更に身の置き所がない。スノウとしてはさりげなさを装っていたつもりだったのだが、この様子ではバレバレだったようである。

「ええと……そ、そうだった?」

 この期に及んで、白を切ってみる。

「ああ。理由を言え。まさか今更勇者としての矜持がどうとかいう訳じゃあるまい?」

 エルが笑みを深くする。真紅の双眸が穏やかに狭められ、その笑顔だけみれば爽やかな好青年だ。しかし、向けられたスノウにとっては心臓に悪いことこの上ない。

「そうじゃないけど……ただ、その、ちょっとばつが悪くて。ほら、色々迷惑かけたし」

 まさか魔物エルに「居心地が悪い」と主張するわけにもいかない。主張したところでどうしようもないだろう。そう思い、スノウは適当にはぐらかした。ばつが悪いのも事実だし、全くの嘘ではない。本心の全てでないだけで。

「……そうか」

 エルは納得した素振りを見せたが、その双眸は探るような輝きを秘めている。あの程度の説明では完全にエルを納得させることは難しいようだ。

「うん……ええと、あ、そうだ。そろそろ散歩行くから」

 エルの視線から逃れたい一心で、スノウは窓辺から床に飛び降りた。散歩はスノウの日課のひとつになっていた。始めは気が向いた時にしていたのだが、スイやアイシャが部屋に来るたびに「散歩」という逃避に出ている内に、完全に習慣化してしまっていた。今では散歩に出ないと何やら大切なことを忘れている気持ちになる。

「散歩? 空腹なんじゃないのか」

 すかさずエルが訝しげに声を掛ける。視線で示す先には煮干の入った椀。

「なんか、そんなに空いてない気がして。帰ってきてから食べるよ」

 苦しい弁解だと自覚しながら、スノウは急ぎ足で戸口に向かった。エルに捕獲されてしまう前に逃亡しなければならない。今追及されて、白を切りとおせる自信がなかった。

「待て」

 そこにエルの待ったがかかった。

 ぐ、とスノウは息を詰める。できることなら聞こえなかったふりで脱兎のごとく走り出したい。けれど、そんなことができる性格ではないことはよくわかっている。そっとため息をついて、諦めのスイッチを入れた。

「何?」

「俺も行く」

「……へ?」

 間抜けな声が出た。予想していたものとはかけ離れたエルの発言に、処理が追いつかない。

「行くって……散歩に出るだけなんだけど」

 勿論城内、しかもこの階層に限られている。このあたりをぐるりと回って終わりだ。ネコの身にはそこそこの散歩になるが、人間、ましてや魔物にとっては運動にも入らないような規模である。

「ああ、たまにはいいだろう。暫くそこで待ってろ、準備するから」

 エルはそう言い捨てて、足早に部屋を出て行った。

 そんなエルを半ば呆然と見送り、スノウは首を傾げる。

 意味がわからない。

 散歩、それも城内をうろつくだけの行動にどんな準備がいるというのか。長らしく豪華で華美な外套マントでも羽織って、視察よろしく歩き回るつもりだろうか。

 想像してあり得ないと首を振る。あのエルが、そんなごてごてした装飾を好むとは思えなかった。

 釈然としないまま、それでも大人しくスノウは扉の傍に座り込んでいた。

 やがていくらも経たない内に、扉の向こうから足音が近づいて来る。少し急ぎ足だが、エルにしては靴音が――

「よし、行くぞ!」


 勢い良く言って扉を開けたのは、見覚えのある、けれども見たことのない姿だった。





「……と言うわけで何とか辿りついたんです」

 腰に履いていた剣を不慣れな手つきで外しながら、青年はため息で締めくくる。

 賑わう宿屋の食堂。その賑わいも、例年ほどではない。ここ最近魔物の動きが活発になり、この街の周辺も安全とは言えなくなってきたためだ。以前は行商人を始め遊山客も訪れていたのだが、最近の客は専ら地元の住人と魔物討伐を生業とする「賞金稼ぎ」ばかりであった。

「あらまあ、大変だったねぇ」

 女将はそう相槌を打って、料理の皿を次々と並べていく。その量に軽く目を瞠って、テーブルについた青年は慌てて言った。

「いえ、俺が未熟なだけで……あの、こんなに注文してないんですが」

「いいのいいの。うちは量が取り得ですからね。勇者にサービスしたからって誰も文句いいやしないだろ」

 そんな彼に、女将は人の良い笑みを浮かべて応じた。

 日常を脅かす「魔物」を命を賭して退治しているのだ。料理程度では何にもならないだろうが、それがせめてもの人情というものだ。そう女将は思っている。

 魔物を討伐しているという点では賞金稼ぎも勇者も大差なかったが、女将はどうにも賞金稼ぎが好きになれなかった。両者の決定的な違いはその目的である。賞金稼ぎは魔物を倒す見返りに莫大な報酬を国や依頼人から受け取る。その分仕事はきっちりこなすがそれ以上は存在しない。賞金首にもならないような魔物が現れた所で進んで撃退はしてくれないのだ。誰かが依頼をしない限り。

 方や「勇者」はそうではない。彼らの報酬とは形ない名誉である。勿論実質はそれだけではないが、少なくとも誰に依頼されずとも魔物を退治するだろう。一介の宿屋の女将にとって重要なのは、その一点だけであった。

 目の前に次々と並べられる皿に困惑の眼差しを向けて、青年は言い継いだ。

「俺はその、まだ…」

「わかってるって、新しい勇者さまが選ばれたばかりだっていうし、あんたはまだ見習いみたいなもんだろ。次のトーナメントあたりに出るのかい?」

 はい、とはにかんで頷く青年は、女将の目から見ればまだ十分に「子供」だった。日に焼けてやや赤みがかった黒髪。不揃いな前髪の奥では、同じく黒い双眸が好奇心に輝いている。顔立ちは若く、ともすれば幼さを覗かせる。年の頃は十七、八かそこらだろう。

 簡素な旅装に身を包み、革製の防寒着を羽織っただけの出たちである。

「へえ、兄さん勇者志望かい」

 そこへ、隣のテーブルについていた男がひょいと顔を覗かせた。テーブルの上は既に空になった皿が並んでいる。男の手にした木製のマグからは仄かな酒精の香りが立ち上っており、青年はその気配に少し気後れしたようだった。一瞬引きかけた体を誤魔化すように、表情を緩めて頷く。

「はい。是非6代目の勇者にと」

「ほほう、若ぇのに立派なもんだね」

 男は赤みの差した顔でうんうんと頷く。この店の馴染みの客だ。見かけの割りにそう酔っていないことは女将にはわかっていたが、青年の方はそうではないだろう。気後れしている様子の青年を助けてやるつもりで、女将は割って入る。

「ばかだね、若くなきゃ勇者なんてなれやしないよ。あんたじゃせいぜい荷運びだ」

「言ってくれるな女将。これでも昔は斧使いのゲイルっつったら有名だったんだぜ」

「何が斧使いさ。きこりだろ」

「まあそうとも言うなあ」

 ほれみろ、と女将は鼻息荒く言って、男の目の前にあった空の皿を片付ける。テーブルの上にはつまみの小皿二つとマグが残された。

「あれ、でもさ……あんた6代目っていったかい」

「ええ、どうかしましたか?」

「いやね、確かこの間お触れが来てたのは6代目勇者だったはずだよ」

 ううん、と首を捻りながら女将は記憶を辿る。

「え?」

「5代目が…ええと何て言ったかな、なんかこう…花みたいな名前の」

「シューなんとかじゃなかったかい」

 こちらもうろ覚えらしい男が、同じように首を捻りながら言う。

「ああ、そうだ。思い出した、スノウ・シュネーだよ!わざわざ選任式を見にいった娘たちが良い男だって騒いでたんだった」

「良い男ねぇ……優男だって話じゃねえか」

 男は無精ひげの伸びた己の顎に手をやり、つまらなさそうな口ぶりだ。

「でも勇者は勇者さ。何でもすごく強いって話だったけど」

「まあでも魔物には敵わなかったってヤツかね」

 ため息とともに呟かれた言葉に、青年は困惑気味に尋ねた。

「……亡くなられたのですか?」

「だろうねぇ。次の勇者の触れが回ってきたからね。

 ミリア、ミリア!ちょいと、あれ持ってきておくれよ。あのほら……何日か前にきてただろ、勇者の!」

 頬に手を添えて深く息をついたあと、女将は厨房の奥に向かって声を上げた。奥から小さないらえがあって、程なくして娘が小走りに出てきた。手には丸められた薄い紙。

「これだよ」

 言って、女将は娘から受け取った紙をそのまま青年に手渡した。

 青年の手の中で広げられた紙には、大きく「6代目勇者」の文字が踊っている。その下には王室お抱えの絵師に書かせたものだろう、凛々しい表情の若者が描かれていた。

「どういう……」

 愕然とした様子で呟いた青年を、女将は気の毒な思いで見遣る。

「ちょっと出遅れちまったみたいだねぇ。まあ、そう慌てなくてもまた次ってこともあるからね」

 気を落とすんじゃないよ、と女将は青年の肩を叩いて、再び皿を持ち直した。気遣わしげな視線を向ける娘を促して、厨房へと戻って行く。

「なんでぇ、そいつは知り合いか?」

 そんな女将を見送って、再び視線を向けた男が青年に問いかけた。青年は未だ紙面から目を離さずにいる。余程衝撃だったのだろう。

「……あ、いいえ。知らない人です。ただ……ちょっと驚いて」

「そうだなあ。今度の勇者はすごい猛者だってぇ話だったからな。かなりの功績を挙げたみてぇだったから……もうちっと長生きすんじゃねぇかと思ってたんだけどなあ」

 後半小さく呟いて、男はマグの中身を一気に飲み干した。

「なぁ、勇者になろうっつうあんたに言うもの何だが、命はひとつきりだぜ。その志は立派だが、長生きしてくれよ」

 おれの知り合いも勇者ぶって死んじまったよ、と乾いた笑いを漏らす。ふらりと立ち上がり、店の奥に会釈をする。青年の肩を軽く叩いて、男はやや心もとない足取りで店を出て行った。



 その姿をしばし見送って、青年は手元の紙に再び目を落とした。

 若々しい似姿。知らない顔だった。

「クロス・エセル…知ってるか」

 トーンを落とした呟きに、にゃあ、という泣き声が答える。

「……知らないよ。俺の後になるんだから知るわけないよ」

 控えめな小声が告げる。青年が視線を落とすと、テーブルの下に小さく身を縮めた白い物体が目に入った。真っ白な毛並みの、若いネコ。

 その青い双眸と目が合って、青年は口元を僅かに歪める。

「死んだことにされてるぞ、勇者」

 不敵、としか言い様のない笑み。その唇の端から僅かに除くのはやけに鋭い犬歯だ。

「……だろうね」

 嘆息して白いネコ――スノウは相槌を返した。

 さすがにあの状況で、この結果は想像もつかないだろう。死んだと思わない方が不思議だ。それよりも、メリルやフレイが無事に帰還できたらしいことがスノウを安堵させた。

 勇者が「死んだ」と王都にもたらしたのは、メリル達であることをスノウは疑っていなかった。いくら自分がメリルの言う「勇者さま」と同一人物であるとはいえ、ここまで変わってしまった自分を救助にくるとは思っていなかったこともある。けれどそれ以上に責任感の強いメリルだから、こうなれば必ず王都に戻るだろうとも思っていた。

「それよりエル、一体何のつもりだよ。散々探したんだけど」

 詰る口調のスノウに、軽く肩を竦めたのは誰あろう、人に扮したエルである。といっても、その容姿は本来のエルと大差ない。外見上は、衣装と色彩が変化しているだけのように思える。緋色の髪と双眸を漆黒に塗り替えて、質素な旅装に身を包んだだけの、簡単な扮装だ。

 けれどただそれだけで、どうみても普通の人間にしか見えなかった。しかも人間にしても決して強そうな部類ではなく。

 どちらかと言えば俺側だよね、とスノウは内心呟く。先だって男に言われていたような、俗に言う優男。

「それはご苦労なことだな。何ならそのまま逃げてもよかったのに」

 そんなスノウの心中を知ってか知らずか、エルは端整な顔に「無害」そうな笑みを浮かべ、テーブルの下から手招きをした。似姿をスノウに見せようというのだろう。

「正直迷ったけどね……エルが悪さしてないか気になって」

 一応勇者だし、とエルに近寄りながらスノウが言う。

 迷うどころか、当初は逃亡する気満々だった。

 エルの魔法で街の近くに降り立った時には、戸惑いながらも嬉しかったのだ。久々の人間の街である。嬉しくないはずはない。同時に何故エルがここに来たのか謎だった。しかし当のエルは、スノウに口を挟む隙を与えず「ちょっと散歩してくる」と言い置いてさっさと姿をくらましてしまったのである。突然のことで止める間もなく、気付けばスノウはひとりぽつんと町外れに取り残されていた。

 さすがのスノウも真剣に逃亡を考えた。こんな絶好の機会、そうはない。

 けれどよく考えてみればスノウの首には発信機よろしくリボンが巻かれている訳で。ただの猫の身では王都にすぐさま戻るなど無理な話、となるとエルに捕獲されるのは時間の問題だろう。下手に逃げて攻撃でもされてはたまらない……とも思う。

 勇者らしくないヘタレな思考の結果、自分を捕獲した魔物を探して街を走りまわるという、何とも奇妙な事態に陥ったのである。

「……で、何をしてるの?」

 非難を込めて問いかけると、エルは悪びれる素振りもなく首を傾げて言った。

「何、と言われても困るんだがな。何だろうな? 情報収集?」

「……俺にきかれても」

「特に目的があったわけじゃないからな。うん、気分転換をかねた情報収集だな。戦う相手をよく知ることは大事だし」

 ひとりうんうんと頷きながら言う。その自信に溢れた態度と口調に流されがちだが、どう聞いても弁解にしか聞こえない。ひょっとすると無計画に飛び出してきたのではないだろうか。

「アイシャとスイは知ってるの?」

 ぴたりとエルが停止した。表情が硬化し、視線が明後日の方向に泳ぎだす。痛いところをついたらしい。

「……ずっと城に籠ってると肩が凝るからな。運動不足だし。あと変化の魔法の鍛錬も兼ねて……」

 兼ねることは多いようだ。

「へぇ……」

 無意識に馬鹿にする口調になっていたのだろう。エルが剣呑な眼差しを寄越す。

「別に悪いことをしてるわけでもなし、文句はないだろう」

「まあ人間としては文句ないけどね」

 むしろこの宿屋にとっては大事なお客である。エルの有益な情報収集は、スノウに安堵と軽い衝撃をもたらしただけであった。

「新しい勇者…クロス・エセル」

 自分が死んだ後の世界を見ているのは、生きている身としてはなにやら不思議な感覚だ。自分が死んだ後はこうなるのか、とまるで幽霊にでもなった気分である。

 似姿を眺めてぼんやり呟くと、エルが片手に水の入ったマグを持ちながら言う。

「何だか妙だな」

 漆黒の双眸には、訝しげな光が瞬いている。

「妙? 何が?」

「新しい勇者だ。お前が乗り込んできて何日経つ? 仲間がすぐさま報告に戻ったと仮定しても、あまりにも早過ぎないか」

「でも……勇者は必要だから」

「だから、だろう。なくてはならない程重要な存在なら、慎重に吟味するはずだ。お前もそうして選ばれた。違うか?」

 否とも是とも言えず、スノウは口を噤む。確かに、選出には何やら難しい基準が幾つか設けてあると以前メリルだかフレイだかが言っていた。技術や知力のみならず、人格者たることが必要だと。残念ながら、その全てをクリアしたという稀代の勇者は自分の中に見当たらない。

「ならばこうもあっさりと後継者が選ばれるのはおかしいと思わないか。少なくともお前が選ばれるまで、先の勇者の死亡から半年は要したはずだぞ」

「……詳しいね」

 その当たりのことにとんと記憶がない身としては、そう返す以外に言葉が見つからない。正直なところエルの言葉は初耳なのだ。記憶があればまだ何とか返しようもあるのだが。

「調べたからな。案外お前より詳しいかもしれんぞ」

 にやりと笑ってエルがそんな軽口を叩く。案外どころか図星過ぎて、スノウは笑うに笑えない。

「そうかもね……こうやって調べたの?」

「いや? 大概は偵察を出して調べたが……こうやって調べた方が効率がいいんだよなあ」

 スイやアイシャには散々言われるがな、とエルがぼやく。やはり、今回の「散歩」は二人は預かり知らないところであるようだ。

「で、先代勇者としてどう思う。随分と速い決断だろう?」

「……そ、うだね。確かにそう考えたらちょっと不思議だとは思うけど」

 けれどそんなものではないだろうか。

 先の勇者が死亡したなら、後継者が現れるのは当然のこと。それが早い登場だとしても、その勇者が勇者にたる資格があるのなら、なんら問題ないだろう。それより勇者が不在である事の方が、人にとって不安材料なのではないのだろうか。

 例え名ばかりだとしても、実力が劣るとしても、盾となる勇者がいることで人々は心の安寧を得ているのではないだろうか。

「まあ色々と事情があるんじゃない?」

 思うことは多々あったが、スノウは随分と適当な相槌を打つにとどめた。記憶のない現状で憶測を述べるのは躊躇われたし、第一下手な発言でエルに怪しまれでもしたら困る。エルが一体どこまでの情報を入手しているかがわからないのだ。スノウとしては、極力自分の記憶がないことは伏せておきたかった。

「……お前、仮にも勇者だろうが。その投げやりな態度はどうなんだ」

 エルが呆れ顔で言う。その言葉は相変わらず正論だ。

「だって何も思いつかないし……にゃあ」

 反論を封じ込んで、スノウはネコの声で鳴いた。その声にエルが顔を上げると、ちょうど奥から娘が水差しを持ってきたところだった。

 娘はエルの視線ににこりと笑いかけ「おかわりいかがですか」と声を掛ける。

「ありがとうございます」

 エルの方も人畜無害な笑顔を浮かべて、物腰柔らかに礼を述べた。そのまま二言三言、当たり障りのない世間話をしている。

 そんな光景を見遣って、相変わらずのエルの変わり身の早さに舌を巻く。娘も、よもやこの勇者志望の好青年が魔物だとは思いはすまい。しかもその長たる魔物だとは。

 この光景の方が余程不思議だと思いつつ、ぼんやりと二人を眺めていると、ふと娘の視線がこちらに向いた。

「まあ、ネコ」

 娘の声が弾む。浮かんだ表情は魔物たちとは対照的な喜びに満ちたもので。

「可愛い。真っ白だわ……どこから入ってきたのかしら?」

 首を傾げる娘に、エルがすばやく合図をした。

「すみません、実は俺のネコなんです。……すぐ外に出しますから、内緒に」

「あら、構いませんわ。ネコはいつでも歓迎なんですよ、ましてこんな綺麗な白猫なら。この街では当然ですよ。……てっきり他の街でもそうだと思っていたのだけど、違うのかしら?」

 不思議そうな娘の反応に、当惑したのはエルの方だった。

「え、ああそれは助かります。いえ、他の街では連れていなかったので……最近、知人に貰ったものですから」

 たどたどしい嘘は、娘にはさほど不自然には思われなかったらしい。

「いいご友人ですね。そうだわ、何か食べられるものを持ってきましょうか」

 娘はそう言って踵を返すと、エルの返事も待たずに店の奥に消えていく。慌てて上げたエルの声も、周囲の喧騒に紛れて届かない。

「あー……」

 珍しく呆然とする様子のエル。

「……そうか、人間の街だもんなあ」

 ぽつりと、途方に暮れたような呟きを漏らした。

「まあ、人間にとっては……ネコは神聖で親愛なる生き物だから」

 カディスにもネコは沢山いたよ、とスノウは囁く。

「いや、分かってたんだけどな。こうも反応が違うものかと……面白いもんだな」

 浮かしていた腰を下ろし、エルは苦笑した。なみなみと注がれたマグに手を伸ばすその表情を見上げて、スノウは違和感を覚える。

 エルの表情や言動は「軽すぎる」気がする。

 勿論、数多の魔物を束ねる長だ。威厳やカリスマといった、スノウの中にはさっぱり見あたらないものを備えている。だから当然、その言動が軽いものであるはずはない。

 軽いのは、人間に対する反応だ。

 魔物と人間は相容れない存在。常に敵対し、憎み合い、殺しあってきた歴史がある。その長い年月の中で培われた感情は、おいそれと覆るものではない。魔物を知らない子供ですら魔物を憎む。同じように、人間を知らない魔物ですら人間を嫌悪するだろう。それは、記憶を喪ったスノウにでもわかる現実だ。

 だが、エルにはそれがない。

 アイシャやスイが見せたような嫌悪や、憎悪。そういった負の感情が殆ど見えないのだ。

 始めは、強さゆえの余裕なのだろうと思っていた。恐れる必要がないから、蟻が逃げ惑うのを楽しむように遊んでいるのだろうと。

 けれどこうして人間の前にいるエルをみていると、そうではないような気がしてならない。

 エルの見せる表情や行動のひとつひとつが、純粋に「交流」を楽しんでいるようにしか見えないのだ。勇者じぶんに対する態度といい、こうして然したる用もなく人間の街にきていることといい、まるでエルの中には「人間」に対する負の感情がないとでも言うような。

 これが街を襲った「魔物」の姿だろうか。

 本当に、エルは人間を嫌悪しているのか。

「何だ?」

 あまりに真剣に見詰めすぎたのか、エルが低く問いかけてきた。

「ううん、何でも……」

 慌てて首を振ると、エルは顎に手をやり、思い出したような口ぶりで言う。

「ああ、そろそろ腹が減ったか? そういえば今朝食ってなかったもんな……」

 試しにコレでも注文してみるか? と、エルが取り出したのはテーブルに備え付けてあったメニューらしき紙である。エルの、今は漆黒に塗られていない指が示したのは『牛煮込みシチュー』の文字。

 今までの当惑が吹き飛んで、思わずスノウの目が釘付けになる。メインが煮干ばかりの日々が脳裏を過ぎり、生唾をごくりと飲んだ。

 そんなスノウの分かり易い反応を見て、エルは満足げに微笑んで言った。

「割りといい肉使ってるな……クロッサス牛らしいぞ。だが残念、所持金が足りない」

 あとこのくらい足りないな、と差額を計算するのもばかばかしい程の金額を提示されて、スノウは低く唸った。因みにクロッサス牛というのは、クロッサスという地方で育てられているいわばブランド牛である。高級というほどではないが、庶民には軽い贅沢になる程度のブランドであり、特別な祭日などには飛ぶように売れる。

「はじめから分かってるなら言わないでよ」

 むくれて抗議すると、エルはメニューの紙を爪先で弾いて笑う。

「何かいいたそうな顔でこっち見てたからな。ま、これはからかっただけだが、たまには煮干以外のものを食わせてやってもいい」

 こっから下のやつだからな、ときっちり示すところをみると、所持金がないというのはあながち冗談でもないらしい。それでもどうやら美味しいものを奢ってくれる気だと踏んで、スノウは食い入るようにメニューを見詰める。

 そこに、頃合良く娘が現れた。手にした盆の上に小さな椀を載せている。

「よく懐いていますね。羨ましい」

 言って、娘はかがむと、椀をスノウの目の前に置いた。

「冷ましてきたから大丈夫だと思うけど……余り物でごめんなさいね」

 てっきり煮干の類を想像していたスノウだったが、椀の中に視線を落として目を瞠った。

 褐色のスープに、細切れの野菜、幾つかのごろりとした肉の塊が浮かんでいる。

「……あの、これ……」

 同じように椀を見詰めていたらしいエルが、動揺した声を上げた。珍しいことだったが、それに気を回す余裕はスノウにはない。

「『牛煮込みシチュー』の残りですわ」

 さらりと言われた言葉に、スノウが胸中で快哉を叫んだのは言うまでもない。人間の世界では、ネコは親しい隣人であり聖なる動物。勿論、与えられるものもただの残飯な筈もなく。

 エルの呆気にとられた顔が目に見えるようで、けれどそれを確かめる間も惜しんでスノウは食事に勤しんだ。



 食事に夢中なあまり、スノウは先ほどの疑念などすっかり忘れてしまっていた。だから気付かなかった。

 魔物エルの、人間に対する態度の非常識さ。嫌悪や憎悪が全く見えないことの、不自然さ。

 それは、そのままスノウにも言えることだった。

 憎むべき魔物の傍にあって、難なく順応している。憎悪に駆られることも、嫌悪に身を震わせることもない。わが身が、獣に変えられていても尚。

 人間として非常識で不自然な己の思考を、スノウはまだ気付いていなかった。

 同じように、エルがそのことに疑念を抱いていることにも。



 今は、まだ。




挿絵(By みてみん)

こっちの方がいっそ勇者らしい……と思うのは私だけではないと思うのです。段々とシリアスな展開になっていくので、ちょっとした休憩のつもりで読んで頂けると有難いです。

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