15.目覚めたら
怖いの、と誰かが問いかけた。
その言葉に頷いた。
そうだ。怖い。怖くてたまらないんだ。
認めてしまうと少し心が軽くなった。こんな言葉ひとつ、自分は碌に主張できなかったのだと気づく。
何が怖いの、と声は再び問いかける。酷く不思議そうに。
唇を舐めて、言葉を捜した。怖いことはたくさんある。けれどそれをどう説明すれば伝わるだろう。なんと言えば相手は頷いてくれるだろう。
視線を地面に落とした。草臥れた長靴と、足元に伸びる自分の影が目に入る。影が手にしているのは剣だ。実際のそれは鞘に入ったまま。けれど影だけでは、抜き身のようにも思えた。
それはまるでもうひとりの自分。それが心に巣食う闇なのか、勇敢な猛者なのか、自分ではわからない。解き放ち相対するまでは、正体は謎のまま。
目を伏せて、吐息とともに呟いた。
怖いのは……
目覚めたら、目の前ぎりぎりにナイフの切っ先があった。
「……」
驚き過ぎて、声もでない。
一体何事が起きているのか全く認識できずに、スノウはただ切っ先を見詰めた。
「おや、お目覚めですか」
落着いた声音が問いかけてくる。つられて視線を上げると、林檎酒色の目とぶつかった。水色の長い髪を垂らした、冷たい美貌の魔物。スイだ。
「う、うん……」
頷くと刃先が突き刺さりそうな気がしたので、スノウは硬直したまま応じた。
スイは暫くスノウの様子を観察しているようだったが、ややあってナイフをひっ込め、
「異常はありませんか」
と至極事務的な口調で言った。
異常も何も、とスノウはまだ上手く回らない頭で考える。
起きたら目の前に刃先、なんて事態が既に異常以外の何物でもない。
たださすがに「それはこっちの台詞だよ!」とは抗議できないでいた。下手に機嫌を損ねようものなら、ぶっすり刺されそうだ。眉ひとつ動かさず。
そんなスイが容易く想像がついて、スノウは寒気を覚える。
何やら夢を見ていたような気がするが、寝起きの一連で夢の残滓が吹き飛んでしまった。
「……ないみたい」
軽く頭を振りながら、自分の置かれている状況を考える。
そう明るくはない、どこかの一室。スイがいることからも城内のどこかであることは間違いないだろうが、見覚えのない部屋だった。
木製の椅子と机、いくつかの家具が整然と置かれた、落ち着きのある部屋。エルの部屋のような重厚感はないが、どこか古風な雰囲気が漂っている。淡い陽光の漏れる窓には重厚な生地のカーテンが掛けられ、その若草色の生地には鳥の羽のような美しい模様が織り込まれていた。
ふと視線を落とすと、スノウの体の下に敷かれているクッションにも同じ模様が織り込まれている。背もたれのある、木製の椅子に幾重にも置かれたクッション。その上にスノウは寝かされていた。
「それは良かった」
にこりともせず言って、スイは手近な椅子に腰かけた。
「それで、何か覚えていますか?」
出し抜けにそんな問いかけを投げてきた。
「何か?」
一瞬、スノウの脳裏を記憶喪失である事実がよぎった。その件に関して言えば、まったく思い出せない。少々寝ていた程度で思い出すなら苦労もしていない。
そう考えて、スノウはあれ、と首を捻る。
寝ていた?
何かおかしいと気付いて、スノウは記憶を辿る。
城の中が騒がしかったのはつい最近のこと。「あの方」とやらが到着したのは。
ヴァスーラの顔を思い出したところで、スイがくっと笑った。スイを包む空気が僅かに変質する。それはお世辞にも友好的とは言えない、緊張を伴うもので。
「私はどうやら、貴方を少々甘く見すぎていたようです」
スノウの返答も待たずに言って、スイは品の良い笑みを浮かべた。その目は、少しも笑っていなかったけれど。
「……?」
スイの言わんとすることが分からず、スノウは首を傾げた。
一体何の話をしているのだろう。
「覚えてないのですか、勇者」
スノウの様子に、スイは動じることもなく問いかけてきた。予測の範囲、そんな気配すら感じられる。
「覚えて? 何を?」
だから、すんなりと疑問を口にした。
覚えていないのは、この城を訪れる前の記憶。勇者として魔物を倒していたという自身の記憶。だがそれは、魔物たちが知るはずのない事実だ。
もしや記憶喪失であることを感づかれただろうか?
「可能性はあると思っていましたが……やはりですか」
溜息をついて、スイが首を振る。
ますますわからない。
「……えーええと?」
戸惑って意味もなく周囲を見回す。
そんなスノウの様子に、スイは再び嘆息して言った。
「魔法を使った記憶は?」
「ないけど?」
即答する。
あるはずがない。人であった時に散々試したのだ。挙句、仲間であった魔法使いから「魔力が感じられない」と断言された苦い思い出がある。言った相手の顔すら、今となれば思い出せない。
「真実とすればあまりに愚か。演技とすればあまりに陳腐、といった処ですね」
スイは唇に薄い笑みを履いて、スノウには理解不能なことを呟いた。
「スイ?」
何のことかわからないスノウはただ首をひねるばかり。
「いえ、覚えてないようですからお教えしますが、貴方は魔法を使ったのですよ」
優しげともとれる口調でスイが言った。
「……は?」
今度こそ完全に頭が混乱して、スノウはぱかっと口を開けた。
「大層なものではありませんでしたが……そうですね、水に属する魔法の類です。私たちもまさか貴方があのような行動に出るとは思ってもいませんでした。驚きましたよ」
「……っ、ちょ、ちょっと待って」
軽く酸欠になりながら、必死でスノウは口を挟む。
何が何だかわからなかった。スイの話を聞けば聞くほど混乱が加速しそうで、なんとか時間を稼ごうと急いでまくし立てる。時間を稼いだところでどうなるとも思えないが、今のスノウに気付く余裕はない。
「いやあの……違うよ、俺魔法使えないし……一度も使えたことなんてないんだよ?」
「以前はどうあれ、貴方が行使したのは間違いなく現実です」
さらりとスイが応じる。
「してないよ。使えないんだったら」
ムキになってスノウは言い募る。そんなはずはないのだ。第一、使えるのなら今頃ここにこうして猫でいる必要はない。
「勇者、ひとつ忠告をしておきましょう」
噛み付かんばかりのスノウを軽く手で制して、スイは目を伏せる。金色の輝きが、淡い色の睫の奥に潜められた。
「貴方が魔法を『使えない』ことにしたいのであればそれで構いません。貴方の思惑など私には関係ありませんからね。――ただ、エル様に関わるとなれば話は別」
伏せていた瞼を上げて、スノウを射抜く瞳は限りなく真剣だった。
氷山のように冷たく乾いて、けれども炎のような闘志が揺れていた。
「エル様に牙を剥く素振りがあれば……わかりますね」
穏やかな声音。その裏にひそめられたスイの本気に気づかないほど、スノウは鈍くも愚かでもない。
「……そんなことは、しないよ」
勇者である以上、無理なことなのだけれど。いつかはエルと対峙せねばならない。互いに敵である事実は変わらない。
それは分かっていたが、気づけばスノウはそう答えていた。
「いい心がけです」
言って、スイは小馬鹿にするように笑う。
何を言ったところでスイが信用しないことは、スノウにもわかっていた。魔法の云々はともかくとして、スイはスノウを信用することはない。
エルを守るためには、危険分子は少ない方がいい。スイが自分を快く思わないのも理解できた。
エルが、唯一無二の主なのだから。
「……?」
急に、胸の中がもやもやして、スノウは首を捻る。
もやもやする理由がわからない。ひどく曖昧な、不快な感情。一体なぜ、と自問しても明確な答えは見当たらなかった。
理由を分析する間もなく、スイの立ち去る気配に顔を上げる。
「失礼します」
スイは優雅な身のこなしで立ち上がり、そのまま出ていくのかと思いきや、つかつかとスノウに近寄ってきた。
「えっ」
先ほどのナイフの一件が脳裏をかすめ、スノウは思わず身を引く。
しかしスイは指一本動かすことなく何事かを呟いた。言葉に呼応してか、周囲の空気がざわめく。
「さ、何の異常もないとあれば、とりあえず退室を願います」
退室?
きょとんとしてスイを見やると、スイは相変わらずの冷静な表情で言う。
「ここは私の部屋ですから」
スノウの体をふわりと風が包み込んだ。慌ててもがくスノウを難なく抱え込んで、風は勢いよく開け放たれた扉へと走る。
そして、扉から出た瞬間に文字通り放り出された。まるで、ごみでも放り捨てるようなぞんざいさで。
間髪いれず勢いよく閉まる扉。
廊下にぽつんと放り出されて、スノウは呆然としていた。
「……困ったなあ」
呟いて、溜息をつく。
スノウは現在、見知らぬ場所に来ていた。勿論城内には違いないのだが、スノウには馴染みのない階層である。エルの部屋がある階層より下の、スイやアイシャたち下級貴族の階層だと思われた。
スイから乱暴に放り出された結果、自力で階層を移動する術を持たないスノウはひたすらに彷徨っていた。以前は偶然にもエルの部屋へとたどり着いたが、偶然は何度も起きるものではない。あれは単なるまぐれにしかすぎないことは、スノウ自身よくわかっている。
だが、スノウが悩んでいるのは現在「ここ」にいることではなかった。
確かにこの事態は困ったことではあるのだ。自力で戻れないのだから。しかしそれよりも、たった今判明した事実の方が重要だった。
それは、記憶の欠如。
どうやら、再び記憶喪失になっているようなのだ。
初めはスイの勘違いだと思っていた。
散々「魔力がない」と言われてきたスノウにしてみれば、己が魔法を行使したなど信じられない話である。誰の口から聞こうとも信じなかっただろう。だから当然、何かの冗談か間違いだとしか思えなかった。そして、スイが冗談を言う姿など想像もつかないので、「スイの勘違い」と結論づけた。
胸の中に一抹の不安を残しつつもそう納得していたのだ。
ところが、スイの部屋から放り出されて暫くのち、アイシャと鉢合わせた。
スノウの中でスイの発言は「勘違い」に分類されていたので、これ幸いと近寄っていったのだが。
アイシャは過剰なまでの反応を見せた。初対面の時より格段に強い敵意。殺意とまでいかなかったのは、アイシャの理性が働いた結果だ。その一瞬後、アイシャは敵意を綺麗に目の奥に隠し「驚かせるなよ」と笑ってみせた。
鈍い相手ならきっと見間違いだと思っただろう。それほどに、僅かな間の出来事だった。
けれどスノウには分かった。
あの一瞬の警戒は「何者かの気配」に向けられたものではなく「スノウ」に向けられたものだということ。アイシャは、ただのネコでしかないスノウに警戒したのだ。
今までのアイシャからは考えられない、その態度が意味するところは明白。
『魔法』
思い当る節といったらそれしかなかった。使った記憶はないが、少なくとも周囲はスノウが使ったと認識しているのだ。スイやアイシャ、そして恐らくエルも。
それは淡い衝撃をスノウにもたらした。
自分の知らない自分。
記憶を失い、人々の前に姿を現したとき味わったものと同じ感覚だった。周囲の目が己を通して違う何かを見詰めている。期待も好意も、自分に向いているすべての感情が辛く悲しかった。それに応えるだけの力が手中にないから尚更。
そして今度は、周囲の目が敵意と疑いをもって自分を見詰めている。知らないと主張したところで、その目は変わらない。元々が敵同士なのだから。
何も問題ない、と「勇者」なら言うだろう。同じ屋根の下にいる現状こそが異常で、憎み反発する姿こそが本当なのだと、そう理解はしている。
けれどこの状況にすっかり馴れてしまったスノウにしてみれば、寂しく感じる気持ちも確かにあるのだ。
「何してる」
動揺している胸の内を分析していると、声が降ってきた。
反射的に顔を上げる。
視界に飛び込んできたのは紅い色彩。真紅の長い髪を、相変わらず黒づくめな肩に流した青年風の魔物、エル。首を少し傾げ、廊下の壁に寄り掛かるような格好でスノウを見下ろしていた。
「え、エル……」
上擦った声が出た。心臓が大きく脈打つ。
別に疾しいところなど、スノウにはない。ない筈だ。けれど脳裏にスイの言葉が蘇って、アイシャの態度が蘇って……スノウは逃げ出したい衝動に駆られた。
スノウが揮ったと思われている魔法を、スノウの想像通りならエルもまともに見ているはずである。多分、一番近いところで。
無意識に体がぐぐっと縮まる。身を低くして、いつでも走りだせる体勢に入る。
そんな警戒心、もとい怯え丸出しなスノウに、何を思ったかエルは溜息をついて言った。
「…ああもう、我慢できない。可愛すぎる」
スノウ、完全にフリーズ。
ぽかん、とした表情で固まった。言ってる意味がわからない。
その隙にエルは体を屈めて、混乱のあまり停止しているスノウの体を抱き上げた。
スノウの体を抱き締めて、顔を寄せる。
「可愛い」
スノウの耳元で低めの美声が囁く。嬉しくて愛しくてたまらない、といった様子で。
これが少女相手なら、こんな状況にでもなろうものなら軽く気絶してしまうだろう。それだけの……ある意味破壊力があった。
「……ちょ! 何言ってるのっ!」
一気にスノウの脳が覚醒した。あまりの、トリハダに。
じたばた暴れると、エルが酷く名残惜しそうに顔を離した。
「何って……可愛いものを可愛いと言って何が悪いんだ? ここんとこずっと我慢してたんだ。もうアイツも帰ったことだし、存分に遊べるぞ、なぁ?」
うきうきと話す口調はいつも通りのものだった。その表情に裏はない。少なくとも、そうは見えない。
思い返せば、ここのところエルの姿を見ていなかった気がする。
ヴァスーラ来訪に備えて忙しく動いていたのだろう、と簡単にスノウは結論付けていたのだが、もしかすると「ネコ禁止」中だったのかもしれない。
つまりは軽く禁断症状なのではなかろうかとスノウは分析する。ぎゅうぎゅう抱かれながら。
「別に遊んでもらう必要はないんだけど」
ネコの姿ではあるが、人間だ。更に言うなら天敵である「勇者」で、実年齢18歳。どう考えても遊んで貰うような中身ではない。
「そうか、じゃあずっとこうしとこう」
言って、エルはスノウの心境などお構いなしに、腕に抱いて毛並みを撫でている。スノウにとっては迷惑極まりないが、エルはご機嫌である。
「……ネコなんて飼う筈ないって?」
その手が鬱陶しくなり、スノウが皮肉を言った。
エルはに、と唇を歪める。
「ネコは飼ってない。勇者は飼ってるが」
嘘はついてないぞ、とエル。嘘ではないが、激しく語弊がある。
「……その言い方ちょっと」
さすがに突っ込んだ。飼われている身には、色々と突き刺さるものがある。
「何故ネコがダメなんだろうな?こんなに可愛いのに」
なにやらぶつぶつとぼやいているエルに、スノウは複雑な気分である。その対象が自分の外見であるだけになおさら。
そこまで考えてスノウははたと気付いた。
エルは相変わらずの調子である。スノウがしでかしたであろう「魔法」に関して警戒する素振りも、追及してくる様子もない。
「エル」
「何だ」
「……えっと」
話しかけたものの、何と問えばいいのかわからず口籠る。
「ええと……ごめんね」
「何が?」
わからない、といった風情でエルが首を傾げた。
「見つかっちゃって……」
スノウが真実尋ねたいのはその後のことだったが、いきなり切り出すのは躊躇われた。自分が揮ったという魔法のことは気になる。それについてエルがどう思っているのかも。だが、事と次第によってはエルがくるりと掌を返してくるかもしれないと思うと、聞くに聞けなかった。ネコの姿で魔物と戦端は開きたくない。勿論人の姿でもごめんだが。
とりあえず周りから攻めるかと、魔物の顔を伺いながら尋ねるスノウ、もとい勇者である。
それに、エルは軽く目を瞠って、
「ああ、別に大したことじゃない」
と、あっさりと首を振る。あの状況では「たいしたこと」だとは思うのだが、エルの態度からはそういった気配が一切感じられなかった。
「アイツは……兄は難癖さえつけられたら何だっていいんだから、気にするな」
面倒なヤツだよな、と他人事のように言う。
「で、でも、その、なんか迷惑かけたみたいだし……」
口ごもりつつと水を向けると、エルがちらりとスノウに視線を落とした。
「迷惑?」
真紅の双眸に閃いた一瞬の光。鋭い眼差しは、エルがスノウの「魔法」について無関心ではなかったことを表していた。エルもまた気に留めていたらしい。もしかしたら、スイやアイシャ以上に。
けれどそれは瞬きひとつの間に綺麗に拭い去られている。
スノウに問いかけた時には既に、常の悪戯っぽい輝きだけが宿っていた。
「う、あの、俺……なんかしたらしいし……って、スイが」
単純そうに見えて、エルは感情のコントロールが上手いようだ。
内心の動揺をモロに態度に出して弁解しながら、スノウは思う。
「……ああ、あれはむかついたな」
エルは少し首を傾げて、思い出すような口ぶりで言う。
「む、むかつ……?」
あまりにも直球な不快表現に、スノウは更に動揺する。快く思われないことは明白だったが、よもやエルの口から直球の言葉がでるとは思っていなかったのだ。
「アイツときたら勝手に遮断しやがって」
「……え?」
エルの言わんとするところがつかめず、スノウは間の抜けた声を上げる。
「アイツ」が指すのはどう考えてもスノウではない。スノウの「魔法」がむかついたというわけではないのだろうか。
「ええと……遮断?」
何のことだかわからないスノウは、恐る恐る問いかける。
「アイツが――兄が俺の魔法干渉を遮断しやがったんだ。自分の方が上だと言いたいんだろう、嫌な奴」
口調自体は決して激しくはないが、著しく口が悪い。「しやがる」などと、アイシャならいざ知らず、エルの口から飛び出すのは非常に珍しいことだ。エルの言う「むかついた」点はどうやらそこらしい。
スノウは軽く記憶を辿る。スノウが目にしていた限りそれらしい事態はなかったように思えた。恐らくスノウが水盤に落ちてからの出来事だろう。
魔法に明るくないスノウにしてみれば魔法干渉だの遮断だの、イマイチわからない。
「ソレにかけた魔法のことだ」
ぽかんとした様子のスノウに気付いたのだろう、エルが視線を落としてスノウのリボンを示した。
「あーなるほど」
スノウは曖昧に相槌を打つ。発信機兼所有物の証。原理はわからないが、エルの魔力が織り込んであると以前聞いた記憶がある。
分からないけれど分かったような気になって、スノウは納得する。これでヴァスーラと揉めたのだろう。大の男がリボンを巡って火花を散らす図は、想像しないようにした。……字面だけ見ると、色々と残念な気分になるので。
「まぁ、だからだろうな。仕方ない」
ぽんと放り投げるようにエルが言った。
「え? だからって?」
「俺の魔法が遮断されたから、綻びが生まれた。そこから封じられてた力が漏れた…そんな所だろ」
スノウが最も聞きたがっていた事を、明日の天気でも話すような気軽さで締めくくる。なんでもないことだと言わんばかりに。
スノウはエルの言葉を反芻して考える。
エルの魔法が遮断されて、封じられていた力が漏れた。
封じられていた力?
「魔力がないのに?」
思わず疑問が口をついて出た。
魔力と魔法はイコールではない。魔力はあくまでも魔法を使うための下地。そもそもの魔力がゼロならば、魔法はゼロ以上にはならない。
つまり、魔力が存在しないならば魔法は使えない。
そのはずだ。
記憶を失ってからこちら、魔力がないと散々言われていた。スノウ自身、魔力を感じたことはない。
けれど、記憶を失う以前のスノウは魔法を使っていたという。たいそうなものではなかったとはいえ、メリル並みには扱えていたのだと誰かが言っていた。それが真実ならば、スノウには魔力が存在していたということになる。
その力が、今頃になって発現したというのだろうか。
「知らん」
あっさりとエルは突き放す。
「そんなことは自分で考えろ」
ぐ、とスノウは言葉に詰まる。確かにその通りだ。
ネコにしたのはエルだが、それによって魔法が使えない訳ではない。ネコにされるより以前から使えないのだから。喪われた「勇者」の記憶と一緒に、彼方に消えてしまったのかもしれない。
どうやらエルもまた「スノウ」が魔法を使ったと認識しているようだ。と言うことは、疑っているのは当の本人であるスノウの他にいないということになる。誰の目からみてもそうならばそうなのかもしれない、とスノウの心はぐらぐら揺れていた。けれど例えそうだとしても覚えていない以上、スノウにはどうすることも出来ないわけで――
「そういえばあの人、ヴァスーラだっけ? もう帰ったの?」
思考がどうどう巡りになってきたことに気付いて、スノウは無理やり思考を切り替えた。次いで、思いついたことを口にする。
スノウのそんな内心の葛藤など知らぬげに、エルは軽く頷いて言う。
「ああ、昨日追い返した」
「追い返し……って、え? 昨日?」
「スイから聞かなかったか? お前三日は寝てたぞ」
投げられた爆弾に、スノウは顎を落とす。
「み、三日?」
「珍しくスイが付きっきりだったな」
不思議そうにエルは首を傾げるが、スノウには大体の予測はついていた。スイは危惧したのだ。スノウがエルに仇を為す可能性を。
だから目の前に刃を突き付けた。
目覚めて、何かしら敵対行動に出れば「処分」するために。
「まぁ、これで当分大人しくしてるだろ」
ああ疲れた、と首を回しながらエルが嘆息する。
ふと気付くと、エルの部屋は目の前である。いつの間にか階層を移動したらしい。エルは慣れた仕草でスノウを抱え直して扉を開けた。
「当分……」
「数年か数ヶ月か、もしかしたら数日かもしれないけどな」
迷惑がる口ぶりでエルが続ける。
「あの様子だとまたそう遠くないうちに来るだろうなあ。うう、面倒臭え……」
恐らく、スイやアイシャの前では見せないであろう、疲弊した表情であった。本気で嫌らしい。
スノウはふと首を傾げる。
エルがヴァスーラを苦手にしていることは分かる。迷惑だと思う気持ちも理解できる。だが、ヴァスーラは歓迎されていないことは分かりきっているだろうに、何故そんなにもエルの元を訪れるのだろうか。この城を乗っ取るためというにはあまりにも……直接的すぎやしないだろうか。
「どうしてヴァスーラはまた来るの?」
「納得してないだろうからな」
「納得?」
「俺が近頃急に動きだしたことについてさ」
その言葉にヴァスーラのセリフが脳裏に蘇った。エルと対峙した時、ヴァスーラは言っていた。
『いきなりやる気をだしたと聞いた』と。
「以前は今ほど頻繁じゃなかったんだ。魔物も滅多に人間の前に出ることはなかったし、この城だって長いことただの岩山だと思わせてきた。まわりからみればさぞ『やる気』なさそうに見えただろうな」
存在をひた隠しにするなど、ヴァスーラのような力ある魔物からすれば軟弱にしかみえないだろう。ヴァスーラのエルを軽んじる態度の意味が垣間見えた気がした。
「それがまあ事情が変わってね、引きこもっていられなくなってきた。だからこうして活動を始めたら、アイツが早速さぐりをいれてきたって訳だ」
「家督争い…みたいなこと言ってたよね」
思わず口にすると、エルが軽く目を見張る。
「そんなとこから聞いてたのか? ああ、兄にとっての最大の関心はそこらしいな。正直俺にはどうでもいいことなんだが。この程度でいちいち騒ぐなんて困ったもんだよ。余程俺が目障りらしい」
肩を落としてそう息をつくが、言葉の割に大して困っている風には見えない。
真紅の双眸は変わらず強い輝きを宿しているし、唇には不遜ともとれる笑みが浮かんでいる。どこか状況を楽しんでいる気配すら窺えた。
ふと、スノウの脳裏にヴァスーラと相対した時のエルが浮かんだ。
自信に満ちた表情はなりを潜め、口元に浮かぶ笑みは覇気のない弱々しいものだった。実力者の前だから萎縮するということもあるかもしれないが、あまりにも彼らしくなかったように思える。
「何だ?」
黙って見上げていると、視線に気付いたエルが首を傾げた。
「ううん……エルだよなあと思って」
「は?」
何言ってるんだ、と言わんばかりに眉を顰めるその表情は、紛れもなく普段の彼である。
ヴァスーラを前にしていた時のような、大人しく従順な風情など欠片もない。
「なんかあの時は別人みたいだったから」
違和感に突き動かされるまま、スノウは何も考えずにぽんと言葉を返した。
けれど、その言葉はエルには意外だったらしい。真紅の瞳を大きく見張り、すっと表情が強張った。
その変化にスノウの方が驚く。別にそんな大層なことを言ったつもりはなかった。ただ、見たままを言っただけだったのだから。
「エル?」
動揺して声をかけると、エルは軽く息を詰めて、ゆるゆると首をふった。
「……ああ、なんでもない。そうか、そう見えても無理ないな。実際アレは演技だからなあ」
ため息をついて言う表情は、既に常と変わらないものだった。
「演技?」
「下手に刺激すると厄介なんだ。刺激しないには極力大人しくしてるしかないだろ?」
言って、エルは軽く肩を竦めた。
「アイツと戦うのはさすがに嫌だからな」
ぴりぴりとしていたアイシャやスイの姿がよぎる。彼らが警戒する程の相手。そしてエル自身が戦いたくないというのだからヴァスーラの実力の程は計り知れない。
「こ」
ふと口から飛び出しかけた言葉を、スノウは慌てて飲み込んだ。
「ん? なんか言ったか?」
エルが顔を寄せて来るが、スノウはふるふると頭を振る。
口にするわけにはいかなかった。力が全ての、戦闘を好む魔物。その長に対して言っていい言葉ではない。下手に機嫌を損ねてしまったら、スノウの命は風前の灯である。
「変なヤツだな」
エルは笑って、スノウを窓辺に放り出す。
聞けるはずがなかった。
「怖いのか」などとは。
なぜこんな言葉が浮かんだのやら、とスノウは首を振った。