14.勇者
※人間側※
花瓶が、派手な音をたてて割れた。
床に飛び散る白磁の破片。水と共に色とりどりの花が床に溢れる。
城の侍女が丁寧に活けたであろうそれが、ばらばらと崩されていく様を、表情ひとつ変えずメリルは見つめる。
「いいよ、もう」
メリルの方を見ずに、震える声でフレイが呟いた。彼の手は、水と、花瓶の欠片で傷つけたのだろう、血で濡れている。
「もう、言い訳はききたくない」
「フレイ…」
メリルは声を詰まらせる。
メリルにあてがわれた、城の一室。
寝台と机があるだけで華美な調度品は殆どないが、美しく整えられた上品な部屋である。
城の滞在用にと誂えられた、メリルの為の部屋だ。
重厚な机の横に、フレイはメリルに背を向けて佇む。足元には今しがた割れたばかりの花瓶。
その衣装は常の質素な旅装ではなく、上質な貴族服である。そうした格好をしていれば、元々の愛らしい容貌もあって良家の子息でも十分に通る。
そして、メリルもまた旅装ではなかった。赤いドレス、豪華な装飾品、綺麗に結い上げられた金色の髪。
まるで貴族の娘のような、仮初めの姿。
王に謁見してから、2日が過ぎようとしていた。
この夜は、帰還の労をねぎらうためと、新たな勇者の選任の祝いという名目で晩餐会が開かれたのだ。
だが、当然ながらメリルの気は重かった。
喪った存在と未来、仲違いしてしまった仲間を思うと、胸がふさいだ。
人々の会話も祝いの言葉も、すべてが上滑りしていく。豪勢な、けれども殆ど味わうことのできなかった食事をなんとかやりすごし、部屋へと引き上げた。
途中、同じように重い足取りで引き上げるフレイを見かけ、気付けば呼び止めていた。
『少し…話をしない?』
フレイは無言のまま、メリルに近づく。それを肯定と受け取って、メリルはフレイを部屋へと招き入れると口火を切った。
あの時のこと。援軍のこと。謁見室でのこと。
見苦しい弁解であることは自覚していた。けれど、このままではフレイと分かりあえないままだと思った。できてしまった溝をなんとか埋めたかったのだ。
「僕だってわかってる」
ひとつ息をついて、抑えた声でフレイは続ける。
「アイツは強すぎたし、僕らだけじゃどうしようもないってことぐらいわかってるよ。でも…スノウを助けるって、そういったよね」
「それは」
「スノウを助けるために援軍を呼ぼうって!そういったじゃないか!メリルは違ったの?最初から、あのときから諦めてたの?」
「っ、違うわ!私も」
「じゃあどうしてあんなこと!」
勢い良く振り向いたフレイの双眸は、思わず息を呑むほどに激しい光を宿している。
「スノウが死ぬはずない!生きてるんだ!あの瞬間まで、僕たちは一緒だったんだから!」
血を吐くような、フレイの叫び。
耳をふさぎたい気持ちを必死で耐えて、メリルは拳を握る。
あの時は。
フレイにそう言い聞かせたときは、まだメリルも可能性を信じていた。
きっと生きている。今戻ればまだ間に合うはずだと。
けれど時間が経つにつれ、冷静になるにつれ、現実がのしかかってくる。
仲間はなく武器もなく、こちらは既に満身創痍。
片や魔物は何の痛痒もみせない。
諦めろ、と冷静な自分が囁いた。
己が可愛いなら勇者を見捨てろと。
他の仲間はそうしたのだからそうしたところで何が悪い、と。
「…フレイ」
フレイの気持ちは痛いほど分かった。
信じたい気持ちも。
けれど、それを闇雲に信じ続けられるほど、メリルは強くも純粋でもない。
現実は現実として。より確かな道を進まねばならない。
乾いた唇を舐めて、口を開く。最も聞かせたくない現実を告げなければ。
「でも…今頃は、もう…」
「聞きたくないッ!」
ぴしゃりと遮られた。
「生きてるよ!メリルだってそう言ったじゃないか。スノウは死なないって!」
今更ごまかしだったなんて言わせない。
燃える栗色の双眸が、メリルを射抜く。
声にならない叫びが、けれど確かにメリルの耳に届いた。
フレイは許せないのだ。
メリルが、スノウを切り捨てる発言をしたことを。
尊敬する勇者。大切な仲間。その彼を、あっさりと「死んだ」と切り捨てたメリルが許せない。例えそれが真実だとしても、切り捨てたその行為が許せない。
そうと気づいて、メリルは言葉が継げなくなった。
違うとはいいきれなかった。
見捨てることも選択の内にあったから。
「…ごめん」
卑怯だと思いながら、メリルは呟く。
フレイはそれきり押し黙った。
床に散らばった花が、水に浸って形を崩していく。
その様をメリルはただ眺めていた。そうするより他に動けなかった。
沈黙を破ったのは、扉を叩く音だった。
はっとして、メリルは扉を振り返る。
視界の端でフレイが体を強張らせたのが見えた。
正直なところ、この状態で誰かと会話をする気にはなれなかった。
勇者の仲間として敬われるのも、恭しく頭を下げられるのも、苦しい。
胸の中で鬩ぎ合う罪悪感。
澱のように凝ったそれを努めて見ないようにして、メリルは扉に向かった。
取っ手を掴む手がやけに重く感じる。
不在のふりをしてしまおうか。
束の間脳裏をよぎった考えを、メリルは緩く首を振って否定する。
逃げても、どうにもならない。
もう逃げることはできないのだ、と深呼吸をして、扉を開けた。
「やぁ、突然悪いな」
果たして、扉の外に見出したのは侍女や兵士といった、「城の人間」ではなかった。
その服装から、ある程度の身分であることが見受けられる、青年。
この地方ではよく見かける、明るい亜麻色の髪。空色の双眸は活き活きと輝き、健康的な肌の色と相まって爽やかな印象を与える。
貴族の若者にしては、違和感のあるその特徴。
少し首を傾げて思案して、メリルはふとひらめいた。
「…あなたは」
「はじめまして、メリル・ファガード。おれはクロス・エセル…晩餐会じゃ碌に話もできなかったから。改めて挨拶に来たんだ」
メリルが言い当てるより先に名乗った。浮かべられた屈託のない笑みは、年相応の少年らしさを覗かせる。
6代目の勇者。
細められた青い色彩に、メリルの記憶が鈍く疼く。
同じ年齢、似た色の瞳の、同じ立場にあった青年。
脳裏に浮かぶのは憧れてやまなかった彼ではなく。
頑ななメリルに困ったような笑みを浮かべた、あの日の凡庸な青年。
優しい面影を無理やり意識から追い出して、メリルは言葉を捜した。
「…はじめまして」
ぎこちなく挨拶をする。なんと続けて良いかわからず、メリルは視線を逸らした。
「ああ、ほら。だからいったでしょう、クロス」
不意に第三者の声が割って入る。
「女性の部屋に不躾に押し掛けるものじゃないって…すみません」
視線を上げると、クロスの後ろに背の高い姿が目に入る。
ほっそりした姿の若者。年のころはクロスとそう大差ないだろう。
濃い茶色の髪はやや長めだ。首の中ほどまで伸びた髪、メリルを見つめる両目は、メリルのそれより幾分暗めな緑色をしている。
見るからに剣士といった様子のクロスとは対照的に、おとなしげな容貌や柔らかな物腰は戦闘などとは無縁のものに思われた。
怪訝なこちらの視線に気づいたのだろう、相手はメリルに向けて柔らかく微笑んで言う。
「私はレリック・ソーン。彼の仲間で…魔法使いというやつです。治癒系は得意ですよ」
「うそつけ、攻撃系の方が得意なくせに」
穏やかな自己紹介に、クロスがすかさず割って入った。
それを咎めることなく、レリックは軽く肩を竦めて言う。
「得意な訳じゃないさ。向いてる、と言われたことはあるけど」
「だろうな。お前の火系魔法はえげつないもんなぁ」
「失礼なやつだな、それで助かったことは一度や二度じゃないだろ?」
「言ってろ」
二人の間の気安いやりとりをメリルはぼんやりとみる。
どうやら、彼らは本物の「仲間」であるらしい。付け焼刃のメリルたちとは違って。
自分たちの絆が細いものだったとは思わない。
互いを尊敬していたし、尊重していた。けれどこういう形の「仲間」もあるのだと思うと、何やらひどく眩しく思えた。
仲間が全てバラバラになってしまった今だからこそ、余計に。
「…ですか?」
問いかけの言葉に、メリルは我に返る。
目を上げると、まっすぐな視線とぶつかった。
「あ…ごめんなさい、ぼんやりしていて」
聞いていなかったのだと暗に告げると、首をふってレリックが言った。
「いえ、お疲れの所に押しかけてすみません。それでも、なるべく早くお話しておきたいことがありまして」
「お話…?」
メリルは顔を曇らせる。あまりよくない想像が脳裏に閃いた。
それをすばやく看取って、クロスが慌てたように口添えをする。
「違う違う、そんな大した話じゃなくて!お前も!そんな紛らわしい前置きするなよ!」
クロスに指摘され、レリックは困惑気味に頬を掻く。
「これは…すみません。不安にさせてしまいましたか…」
己の失態にに気付き、メリルは唇を噛む。このところ、どうにもマイナスな方向に思考が傾いてしまっている。
勇者の記憶喪失から端を発し、様々なことが短期間に頻発した。それだけでもメリルにとっては許容量を遥かに超えていたのだが、そこにきて「新たな勇者」が既に選出されていたという事実が、思いのほか心に重くのしかかっていた。
希望などないのだという、絶望にも似た感情と恐怖が常につきまとう。
つい2日前まで、魔物を相手に切り結んでいたのだ。その余韻の為か、平和な感覚をなかなか取り戻すことができずにいた。不測の事態、最悪の事態ばかりを想像してしまう。
ここは違う、とメリルは己に言い聞かせる。
ここは魔物の蠢く「外」ではない。
気を取り直して、努めて明るい声を出した。彼らにこれ以上気を遣わせるのは申し訳ない。
「いいえ。…それではどういった用件で?」
「いえ、良ろしければ、ご一緒に食事でもと思いまして」
紳士の笑顔でレリックが言う。こんなきらきらしい笑顔で言われれば、大抵の女性は眩暈を起こすだろう。状況が状況ならメリルも陶然としたかもしれなかったが、生憎今の彼女にはそれだけの余裕がなかった。しきりと瞬きを繰り返し、レリックの言葉の意味を考える。
その様子を見ていたクロスは、おもむろに腕を上げるとレリックの後頭部を軽くはたいた。すぱん、と小気味良い音がして、レリックがつんのめる。
「ちょ、何を…」
抗議の声を上げるレリックを見ることもなく、クロスが補足した。
「お前が言うとナンパにしか聞こえない…じゃなくて、今後の話をしたいんだ。おれたちはカディスに行くのは初めてだし…できる限り情報がほしい。それにこれから一緒に旅をするんだ、お互いのことをよく知るためにも」
クロスが言うことはもっともで、理解はできた。仮にも「仲間」として旅をする以上、話し合うことは必要だろう。
「…けれど、これから?」
先ほど晩餐会が終わったばかりなのだ。食事などする気にはなれないし、第一外出が許されるとは思えない。
渋るメリルに、クロスは慌てて言い募る。
「あ、違う違う。日を改めて…明日でも明後日でもいいんだ。出立前に一度話ができればそれでいい」
どうかな、と促されてメリルは戸惑う。
戸惑う理由などないはずだった。
メリルはカディスに再び戻ることができ、新たな勇者と王の兵士という心強い「援軍」も手に入れた。図らずもフレイに言ってきかせたような、理想どおりの方向に動いている。
万にひとつの可能性でスノウがまだ生きているなら、救出が可能なら、これに勝る結果はないだろう。
しかしそれでも、メリルは迷った。
クロスの「仲間」となること。
それはまるで、スノウを捨ててしまうようで。
今更、と哂う気持ちもある。
幾度となく「見捨て」てきたではないか、と。
けれど、それでもメリルにとっての勇者はスノウただ一人だった。
目の前の青年は、確かに勇者だろう。
技量、力、人格共に高い資質を持つ、選ばれし者。
その彼を「勇者」と呼ぶことが果たしてできるだろうか。
スノウが死んだと、そう判断しても尚、納得できないでいる自分が。
メリルはつかの間目を伏せた。
戸惑いに揺れる気持ちを、相手に見透かされたくはなかった。
ひとつ呼吸をおいて、頷いた。
「いいわ」
クロスがぱっと顔を輝かせた。レリックも安堵したように息をつく。
「よかった、いつに…」
勢い込んで言ったクロスの肩をレリックが軽く抑える。
「今夜はこの辺りで失礼しよう。…また明日にでもご連絡します」
「あ、そうか…こんな時間だもんな。悪かった」
上品な仕草で礼をするレリックの隣で、クロスは困ったように頭を掻きつつ言う。
「いいえ…わざわざ、ありがとう」
少しだけ心がほぐれて、メリルは礼を述べる。
咄嗟に笑顔を作っていたのだろう、クロスが明るい笑みを返してきた。
「あ、そうだ。これからよろしくな!」
去り際、思い出したようにクロスが手を差し出してきた。
真っ直ぐな眼差し。正義感にあふれるその瞳と、歪みなど知らないような純粋な笑顔。
メリルは僅かに目を細める。
太陽のように眩しくて、正視するのが酷く辛い。
「…こちらこそ」
言って、手を伸ばした。
勇者、とは呼びかけずに。




