11.兄と弟
※下方に挿絵があります。
『そのあたりにでも隠れてろ』
そう、文字通り放り出された格好のスノウである。
廊下の真ん中にぽつんと座ったまま、スノウは暫く呆然としていた。
とにかく、一行が到着する前に姿を隠さねばならない。
このまま廊下にいるわけにいかないのは、先ほどアイシャにしっかり釘を刺された。
元の部屋に戻りたくとも猫の足では恐らく間に合わず、かといっておいそれと「その辺り」の部屋に
入るわけにもいかない。
部屋自体はいくつもある。その殆どが空き部屋なのも、ここがエル専用の階層という理由から軽く予想がついている。しかし"エル以外の立ち入りを禁じている"とあれば迂闊に飛び込むことは躊躇われた。
一体どんな恐ろしいことが待っているやらわからないのだ。
スノウは嘆息して、重い腰を上げる。
悩んでいる時間はない。
10分くらいで、とアイシャは言っていた。あの慌てぶりから察するに10分は切っているだろう。
あてもないまま、適当な…何の仕掛けもない部屋を探して、スノウは走りだす。
しかしどの扉も固く閉ざされていて、思うように見つからない。
いちいち施錠されているわけではないだろうが、猫一匹の体当たり程度で開くほど、緩く閉められている筈もない。伸びあがって取っ手を動かそうと試みるも、上手くいかない。
適当に放り出したアイシャを恨む思いで、必死に探していると、ふと大きな扉が目に入った。
重厚な造りの、扉。他の部屋のものに比べて…一回りほど大きいだろうか。
そっと扉に体当たりをしてみる。
はたして、扉はあっけないほど簡単に開いた。
施錠されていないどころか、随分甘く閉めてあったようだ。それとも、誰かが出入りした後だったのか。
僅かな隙間に体を滑り込ませて、恐る恐る中を伺う。
真っ先に目に飛び込んできたのは、幾重にも垂らされた紫の薄布。
薄暗い部屋のそこかしこに、布が垂らされている。照明の暗さとあいまって、部屋の奥には何があるのかさっぱりわからない。
廊下よりも随分と冷えた空気が肌を撫でる。物音ひとつしない、完全な静寂。
どうやら無人は間違いないようだ。仕掛けの方はスノウにはさっぱり見当もつかないが、分からない分あれこれ考えても仕方ない気がした。
奥に入り込まねば大丈夫だろう、と腹を括って足を踏み入れる。
足の裏に冷気が伝わる。用心深く様子を窺うが、これといって変化は見られなかった。
そろそろと室内に移動する。扉から離れて、壁伝いに中に入っていく。
一体、何の部屋だろう。
薄闇の中、目を凝らして進むものの、家具や調度品と思しき影が殆ど見当たらない。
天井から幾重にも垂らされた薄布。
そればかりが視界に広がり、部屋の奥を目隠ししている。ただの部屋にしては、布が邪魔なような気もする。
これだけごちゃごちゃと布が揺れていれば、身を隠すにはもってこいだろう。
深く考えないようにして、部屋の隅へと移動する。
奥行きの方は分からないが、扉からの距離からいってそう大きな部屋ではないらしい。
ここでやりすごそうと決めて、スノウは音をたてないように座り込んだ。
視線が低くなって、ふと前方に何かが見えた。
台座と思しきものの上に、大きな椀状のもの。
色や細かい形まではよくわからないが、それは部屋の中心部に鎮座しているようだった。
首を傾げつつ観察していると、椀状のものの足元がもぞもぞと動いた。
「っ…」
無意識に毛が逆立つ。息を詰めて腰を浮かす。
嫌なものは感じないが、油断はできない。心臓の音すら響きそうな静寂の中、息を殺して見つめるスノウの前で、足元の影はゆっくりと身を起こした。
長い髪の、人影。
「…エル?」
小さく声が漏れる。
照明が暗くて分かりにくいが、髪の色は赤いようだ。床に触れるか触れないかの外套を纏い、椀状のものの縁に手をかけ、一心にその中を覗き込む。
何をしているんだろう。
エルとわかったことに安堵して、好奇心が頭をもたげてくる。だが、エルの周囲には近寄りがたい空気が張り詰めていて、声をかけるのは躊躇われた。
「エルはここか」
不意に扉の外で声がした。
思わずスノウはびくりと体を強張らせる。
「ヴァスーラ様、お待ちください、主は今…」
「申し訳ありません、別室にてお待ちを…!!」
慌てて制止する声には聞き覚えがある。スイと、アイシャだ。
スイは相変わらず冷静なトーンを保っているが、アイシャに至っては動揺も露だ。内容はともかく殴ってでも制止する、と言わんばかりの尖った声。
どうやら、件の人物が到着したらしい。スノウが思っていたよりずっと早い到着である。
「ヴァスーラ様!」
アイシャの制止を完全に振り切って、扉が勢い良く開け放たれた。
その勢いたるや、部屋の隅で大人しく隠れていたスノウも風圧を感じる程だから、相当なものである。
室内に光が差し込む。
思っていた通りそう大きな部屋ではない。部屋の中央奥に、台座。その形にスノウは見覚えがあった。占術師が使う水盤によく似ている。恐らく同じ類のものだろう。とすれば、エルはあの水盤を使って何かを占っていたのだろうか。以前、戦術に占いを用いるという話を耳にした。人間だけと思っていたが…魔物もまたそうなのだろうか。
「やあ、久しぶりだな、エル」
スノウが水盤を観察している間に、件の人物はごく自然に室内に踏み込んできた。
金色の髪をした、男性的な美貌の魔物。
漆黒の服に、豪奢な羽飾りのついた闇色の外套を纏った、派手な出で立ち。尖った耳にはじゃらじゃらと音がしそうなほどに付けられた鎖状の耳飾りが揺れ、両腕には幾重にも巻かれた銀の腕輪が光っていた。口元に軽薄そうな笑みを浮かべていたが、その赤錆色の双眸は鋭く輝き、油断ならない人物であることを窺わせた。
「…これは…兄様」
ぶしつけに入ってきたその姿に、エルは心なし驚いたようだった。緩慢な仕草で振り返る。
エルの兄、ヴァスーラ。
エルの言葉に、スノウは思わずまじまじと男を見つめる。
それは、アイシャとスイが最も警戒していた人物に他ならない。
スノウがイメージをしていたのは筋骨逞しい、いかにも「魔物」といった…否、勇者であった頃に植えつけられた「魔王」のイメージそのままの姿であった。
だが、こうして目の当たりにするヴァスーラは、確かに逞しく男性的ではあるのだが恐ろしい見かけをしているわけではない。機嫌良く笑う姿だけみれば、街でみかけるやんちゃな若者、といった感じだ。
「…このようなところにお越しとは。他の部屋にお通しするよう、言ったつもりでしたが…」
当惑気味にエルが言って、ヴァスーラの後方で複雑な表情の二人の姿を眺めやる。
アイシャとスイは揃って頭を下げた。
「そう責めないでやってくれ」
穏やかに言って二人を庇ったのは、当のヴァスーラである。
「お前に早く会いたくてな。人間との戦いに忙しいのは聞いていたが…」
言って、ふと言葉を切る。
「しかし驚いたな、お前がそんな恰好をするなんて…。
いかにも魔物といった装いは嫌だと言っていただろう、どういう心境の変化だ?」
ヴァスーラは、しげしげとエルを見詰めたあと不思議そうに尋ねた。
エルは漆黒の外套を纏っていた。その下には同じく漆黒の衣服と、黒の長靴。腰には長剣を差している。
スノウは記憶をたどる。出会った時、確かにその黒尽くめの姿に威圧されたことを思いだす。今ではエルの黒ずくめにすっかり慣れっこになってしまっていたが。
「別に…これといって理由など」
ヴァスーラから視線を外して、エルが言葉少なに応じる。
「ふむ、人が変わったようだと聞いた時にはてっきりデマだと思ったものだが…」
そうでもないらしい、と含み笑いをして、ヴァスーラはエルの髪を一房掴んだ。
「もう髪は編まないのか?お前に似合うような髪紐を持ってきたんだが…どうだろう、姫君?」
揶揄する響きに顔色を変えたのは、エルではなくアイシャの方であった。
今にも歯軋りせんばかりのアイシャに、スイが視線を送る。アイシャはわかってると言うようにスイを一瞥し、拳をぐ、と握った。
「冗談だよ、冗談。久々で私も浮かれているんだ。
どこの姫君に贈り物かと、このヘネスが言うものだからつい言ってみたくなったのさ…」
ひらひらと手を振って、ヴァスーラは背後を一瞥する。
そこには、ヴァスーラの従者と思われる二人の男が控えていた。どちらもモノトーンの衣服に身を包み、あたかもヴァスーラの影のようにつき従っている。エルの視線を受け、二人の内背の高い方が軽く腰を折った。栗色の髪の、平凡な顔立ちの男だ。ヘネス、というのは彼の名であるらしい。
「そういえばお前に会わせるのは初めてだったな。今の乗り物だ。前の破天龍が老いたものでね」
ヴァスーラの説明にスノウは軽く目を瞠った。
ヘネスという男はどこからどうみても完全な人型で、原型が龍…アイシャが言うところの「馬鹿でかくて馬鹿力」な生き物とは到底思えなかった。スノウの脳裏に浮かぶ破天龍の想像図と、ごく平凡な風貌の男の姿がどうにも繋がらず、スノウは穴が開くほど観察してしまう。
「…破天龍が…そうですか」
どこか茫洋とした風情でエルが呟いた。
その的を得ない様子に、ヴァスーラが僅かに首を傾げた。
「…なんだか妙だな?確かにお前は昔から妙なやつだったが…らしくない」
エルの全身に緊張が走った。
それは恐らく、彼を知るごく身近な者しか気付かないような僅かな変化。だがヴァスーラに伝わることを懸念してか、エルは俯き加減のまま視線すら上げようとしない。
「貴族にあるまじき性格とまで言われていたお前が、いきなりやる気をだしたと聞いた時から妙だと思ってはいたんだ。一体何を考えてるんだ、エル?まさか今更バルト家の椅子が欲しいという訳じゃあるまい?」
家督争いに参戦する気か、とヴァスーラ。
急に、空気の温度が変わった。
目に見えない糸が張り詰め、その軋みすら聞こえそうな重苦しい緊張が横たわる。
ヴァスーラは変わらず穏やかに笑っているが、その緊張の発端は間違いなくヴァスーラである。
返答如何では今すぐにでも戦闘に突入しそうな、そんな息詰まる緊張感。
その緊張に気付いていないはずもなかろうが、エルはあっさりと首を振って否定した。
「いいえ、興味はありません。私はただ、兄様たちの恥とならぬようにと」
言って、エルは視線を逸らしたまま柔和な笑みを浮かべる。
普段のエルを知る者には、およそ彼らしくない表情だ。覇気のない、どこか弱々しい印象の笑み。
違和感と同時に不思議な既視感を覚えて、スノウは瞬きを繰り返した。
己が隠れている身という現実を忘れ、エルの顔から目が放せない。
だが逆にヴァスーラの方は幾らか安堵したらしい。ほっと息をついて、
「私も心配なんだよ、可愛いエル。
お前の動向に兄や弟たちがピリピリしてるようでね。まぁ生意気な弟たちは私ひとりでもどうにかできるが…兄となると私もお手上げでね。…わかるだろう?」
ほとほと困ったというように、穏やかな口調でヴァスーラが言う。軽い口調の中に気遣う様子が滲む。一見、優しげともとれるその言葉と態度。
けれど、何故だかスノウは肌が粟立つような寒気を覚える。
嫌う理由など…人間であるスノウにとっては、魔物である事実を除けば何一つない。それなのに不快でたまらなかった。
ヴァスーラが優しく言えば言うほど、スノウの耳にはすべてが白々しく響く。
「兄が本腰を入れたら敵わないからな。…エル、このままの状態は危険だ。最近は鍛えているようだが…お前の兵は明らかに経験が足りない。このまま中途半端に人間と戦うのは兄の疑心を煽るだけでしかないぞ?」
ふとヴァスーラが真剣な口調で言った。
「…疑心、」
「そうだ。すべては家督のための準備ではと疑われでもしたら…」
「そんなつもりは…」
困惑した素振りでエルが首を振る。
「分かってるさ、お前の性格はよく知っているつもりだ。優しいお前が兄との争いを望むはずはない。だが兄の方は違う。兄が本気になれば、この城はひとたまりもない。
…私はお前を守りたいんだよ、エル。けれど情けないことだが、私の力だけでは…お前もこの城も守りきれない」
スノウの視線の先で、アイシャが不快げに顔を顰めた。
その理由がなんとはなしに理解できて、スノウも複雑な気分になる。
「兄様、ですが私は…」
エルが言い淀む。自分の力ではどうにもできない、と伝えようとしたのか争いたくないと伝えようとしたのか。頼りないその風情からはそんな言葉が予想された。
「これは提案なんだが…どうだろう、暫くの間お前の兵を私に鍛えさせてくれないか。幸いヘネスは破天龍の中でも優秀でね。魔法は勿論、剣の腕もたつ」
「鍛えるとは…」
「今のままでは兄の攻撃すらまともに防げまい。だから多少なりとも使えるように訓練をさせようということさ。必要なら私の軍から指導者を連れてきてもいい。お前の兵が力をつければ、いざというときに私もお前を守り易くなる」
いかにも弟の身を案じる兄、といった風情のヴァスーラ。
それは正論のようにも聞こえる。
だがそれは、そう聞こえるだけなのだということも、スノウは気付いていた。
「何、戦いが嫌なら、お前は他のことをしててもいい。そう、お前の好きな研究を続けるもよし、書物を読むも良し。訓練は私が引き受けよう」
エルは大人しく俯き加減で聞いていたが、ぽつりと言葉を返した。
「ですが、もし私がそうすると言ったら…城の皆はどうなります?」
ヴァスーラは笑う。
「心配はいらない。私が責任を持って訓練をさせるさ。士気が下がることが心配なら、お前の臣下たちには上手く言っておいてやろう。大丈夫だ、私にすべて任せるといい」
エルを抜きにして行われる兵士の訓練。
それは兵力をそのままヴァスーラに握られるということになる。
力がすべてだという魔物にあって、それは事実上の乗っ取りにならないだろうか。
スノウははらはらと気を揉む。
ヴァスーラの能力が如何ほどのものかスノウには分からない。だが、彼を城の内部に関わらせたが最期、城の全権を奪われるような気がした。
いつものエルならば少しも心配などしないのだが、今日のエルはどこか様子がおかしい。このままヴァスーラに丸め込まれてしまうのではないかと、気が気でない。
大丈夫だろうかと案じて、その思考に憮然とする。
魔物の心配をするなんて。
…否、囚われの身として「飼い主」が変わるのは困るのだ。
比べるのもおかしいが、エルとヴァスーラで考えた時に、まだエルの方がマシに思えた。話が通じる相手という意味で。
だから、自分は心配しているのだ。エルのためでなく自分のために。
そう己を必死に納得させているスノウの視線の先で、息詰まるやりとりは続いていた。
「私は、戦う必要がなくなる…?」
「ああ、私が変わりに出てやろう」
「研究を、続けて良いのですか」
「好きなだけするといい。成果を楽しみにしているよ」
二人の横で、アイシャは不機嫌な表情を隠さずにいた。
エルの前だからこそ抑えているが、そうでなければヴァスーラに食って掛かりそうな凶暴な空気を纏っている。
そこで、ふっとエルが笑った。
「…お気持ちは有難いのですが…遠慮しておきましょう」
頼りない風情はそのままに、言葉だけはすらすらとエルが言った。
「この城の主は私ですから…。部下も兵も、誰かに任せるつもりはありません」
はっきりと示された拒否に、アイシャが安堵の色を浮かべる。
対し、ヴァスーラの背後で従者が目に見えて表情を変えた。思わず前に出よう、とするのをヴァスーラ自身が手で制する。
「そうか。…いつまでも子供ではないということだな」
ヴァスーラはまるで予想していたかのように穏やかな笑みを崩さず、嬉しそうに言う。
ふとスノウは気付く。先ほどまで同じようにヴァスーラの背後で控えていた、ヘネスの姿が見当たらない。いつの間にどこへ行ったのだろうか。妙だとスノウは首を傾げる。
「寂しいが仕方ない。お節介はやめておくとしよう」
軽い口調で言って、ヴァスーラは肩を竦める仕草をする。
なんだかよくわからないが「勝った」とスノウが思った矢先、
ぐい、と体が浮いた。
「これはこれは」
低めの声音。
聞き覚えのないそれは、エルのものでも、アイシャたちのものでもありえない。
見上げると硬質な表情の男と目が合う。モノトーンの衣服、栗色の髪の男…ヘネスだ。
しまった。
そう思ったが、時既に遅し。
「こんな所に侵入者です」
首根っこをそのまま掴まれ、スノウは難なく紫のベールから引っ張り出された。
はっと振り向いたエルが焦りの色を浮かべる。
スイとアイシャも表情を強ばらせたのが視界に入る。しかも、スイに至っては射殺しそうな視線を投げてきた。色々な意味でスノウの胃がきゅう、と痛む。
「ほう、猫か」
ヴァスーラが目を細めた。幾つもの視線に晒され、スノウは居心地が悪い。
「…猫ではありません」
一瞬浮かんだ焦りを綺麗に隠して、淡々とエルが言う。
「猫ではない?嘘はもっと上手につくものだよ。どうみても猫…綺麗な白猫じゃないか」
珍しい、とヴァスーラはむしろ嬉しそうである。
「見かけを猫に変えてあるだけで…元は別のものです。研究のために必要に迫られて…私が猫など飼う筈はないでしょう」
言葉に嫌悪を滲ませてエルが言う。
その演技力にスノウは状況も忘れて感心する。被害を一身に受けているスノウにしてみれば、その言葉が本音だったらどんなにいいだろう、とちらりと考えてしまう。
「それもそうだが…しかし上手く魔法をかけたものだ。ネコにしか見えないな。一体何にかけた?」
問われて、エルは淀みなく答える。
「水妖の一種です」
ヴァスーラは別段疑う様子もなく、ふむ、と頷くとぶら下げられたスノウをじろじろと眺め回した。
「随分弱い水妖を捕らえたのだな。お前の魔力しか感じないとは…魔力らしい魔力もないようではないか」
魔力らしい魔力もない、とヴァスーラにまで言明されて、スノウは少し切なくなる。
「おそれながら、エル様の魔力が上回るのが当然かと」
無表情のままスイが口を挟む。
「無礼な口を。身分をわきまえろ」
ヴァスーラの背後から従者が鋭く言った。
その言葉に反応したのは、当のスイではなく彼の隣のアイシャだった。傍目にもはっきり分かるほどの敵意でもって、相手をきつく睨む。だが、それ以上行動を起こすようなことはなかった。
一方、言われたスイの方は相変わらずの無表情で、慌てる素振りもなく軽く頭を下げる。
「失礼致しました」
ヴァスーラは頭を下げたスイを一瞥し、次に未だ剣呑な視線を向けているアイシャに視線を移す。
「…ふ、機嫌を損ねてしまったようだな」
口元に笑みを履いて、言う。
「これ以上彼らの機嫌を損ねては、可愛い弟君に嫌われてしまうな。大人しく別室で待たせてもらおうか。ヘネス」
「はい」
呼びかけに、スノウをぶら下げたままのヘネスが応じる。
「解放してやれ。ああ、折角だから水の中にでも」
水妖ならば喜ぶだろう、と楽しげなヴァスーラの声。
その言葉に、エルもアイシャも、スイですら固まった。
「わかりました」
その間にヘネスは淡々と応じて、
ぽん、とスノウを放った。
落下先には並々と水を湛えた水盤。煌めく、水鏡。
濡れる――。
脳裏に閃いたのは濡れそぼった自分とそんな考えで、別段恐怖など感じなかった。
泳いだ「記憶」はなかったが、溺れはしないという確信めいた思いがあったのだ。
覗き見た水盤はさほど大きくも見えなかった。
だからただ濡れるだけだと、とんでもない発言をする奴だと、むしろヴァスーラに対する苛立ちだけがあったのだが。
一瞬後に全身を包んだ水は、思いのほか強い圧力でもってスノウを捕らえた。
体を押す不可視の圧力。
肺腑から空気が押し出されていく。
思わず見開いた視界には、青い色彩。
漏れた空気が白い泡となって上昇する。
あれ、もしかして深い?
混乱する頭でふと思った。
投げ込まれた勢いのせいにするには、あまりにも体が沈んでいる。
青い色彩が深くなって、視界の端に漆黒の――深海のような闇が垣間見えた。
もがいても四肢はうまく動かない。
全身を強い力で押し込まれているような、感覚。
転移の魔法陣が敷かれているような城だ。水盤の中がどこぞの空間に繋がっていても、不思議ではない。
急に呼吸が苦しくなった。
肺腑にはまだ空気がある。分かっているのに、胸が押しつぶされそうになる。
無人の深い水底に投げ込まれたと、そう感じた瞬間に。
苦しい。
怖い。
冷静になれと囁く理性が、急速に擦り切れていくのを感じる。
怖い。
怖い。
死ぬのは、嫌。
ぱちん、と弾ける音がした。