10.厄介事
だだっ広い廊下の端を、白い猫が歩いている。
緩やかな足取りで、さながら午後の散歩といった風情。
窓から差し込む柔らかな日差しが、廊下に長い影を作る。
ふと猫は足を止め、窓の外を見上げた。
陽光に目を細め大きく欠伸をする。
「…いい天気だなぁ」
呑気に呟いたのは白猫…元人間で勇者の、スノウである。
魔物の城での生活にも慣れてしまった勇者は、ともすれば自分がヒトであったことも忘れてしまいそうな勢いで、猫生活を満喫中であった。
「暇…」
伸びをするスノウの周りには、人っ子ひとりいない。
普段ならアイシャかエルがいる。勿論、城で重要な位置にいる彼らが暇なはずはなく、スノウとて四六時中彼らと行動をともにしているわけではない。むしろ、一人で過ごす時間の方が圧倒的に多いのだが。
それでも、スノウはここのところ暇で仕方なかった。
ここ数日、城の中は特に慌ただしい。
エルはどこかに籠りっきりらしく、全く姿を見なくなった。
アイシャもスイも忙しく動き回っているようで、昨日は食事は一度きりだった。どうやら、多忙のあまりアイシャが忘れてしまったらしい。
目に見える変化はそのくらいで、以前のスノウであれば変に思う程度だっただろう。けれど猫の身であるせいか否か、城を包む空気が緊張を孕んでいることに気付いていた。
城全体に広がる緊張。アイシャやエルまでもが影響されているというのなら、考えられる原因はひとつだった。
恐らく以前耳にした「あの方」とやらの訪問が近いのだろう。
「あの方、ねぇ…」
呟くと、再び欠伸が漏れる。
はっきりと耳にした訳ではないが「あの方」とやらが来るのは今日かもしれない、とスノウは思っていた。
というのも、今朝食事を持ってきたアイシャが、いつになく上の空だったのだ。煮干をぼろぼろ零すし、文句を言っても適当に「ああ」とか「悪い」とかが返ってくる。そんな冷静な対応なんて滅多にされないスノウとしては「なんかあるな」と思わずにはいられない。
指揮官の立場にいるらしいアイシャがぴりぴりするのだから、きっと相手は相当なものなのだろう。
強い奴だから興味がある、という思考回路とは無縁のスノウだが「エルの血縁者」という点では非常に興味をそそられる。
ヘタレな自覚も無力な自覚もあるスノウだったが、好奇心ばかりはどうにも抑えがきかなかった。
危険と隣り合わせの毎日なのは、頭ではよくわかっている。
こうして猫の姿ながらも生きているのは、魔物の「きまぐれ」ゆえ。いつまた気まぐれを起こして命を奪われてもおかしくない。
そうわかっていたのだが。
気付けば、部屋から抜け出していた。
誰一人としてスノウに目が届かない状況。完全に放置されている今をうまく利用すれば、城から逃亡するのは容易い。すべての魔物の目が「あの方」に向いている今ならば。
ただ困った事に、スノウの目もまた「あの方」に向いていた。
ほんの僅かでも顔を見てみたい、と思ってしまった。
散歩のため、いや逃走経路の確認のため…
本音に、弁解に弁解を重ねて「外出禁止」を言い渡された部屋からこっそり抜け出した。
誰にみつかっても雷が落ちるのは覚悟のうえ。
ほんの少し、離れた所から確認したらすぐに引き返すつもりでいた。
階層を移動するのはリスクが高いから、下の階層が見えるところで眺めていよう。
そうこうしていれば、いつかは見る事ができるだろう。
そう思って、スノウは現在「散歩」をしている最中であった。
「確か…この角を右、だったかなぁ?」
記憶を頼りに廊下を折れる。
大抵は下の階層は見えない。だが、いくつかの場所で下の階層が見下ろせるポイントがあることを、スノウは知っていた。
そして、どれだけ堂々と歩いていても、ここにおいては警戒する必要がないことも。
この階層では普段から人影がない。
それもそのはず、ここはエル専用の階層なのだから。
エルの「居城」であるこの城は大別して3つの層からなる。
門より数階分の階層を下級魔族や魔獣といった、人間にとってはごく一般的な魔物が占め、その上層から数階分の階層を上級魔族、下級魔族のうち比較的高等な魔物が占める。そして、その更に上層を幹部クラスの下級貴族たちが占めるのだが、この辺りになると下っ端の魔物たちですら「顔を見たことがある」程度のつながりしかない。
その彼らより上階。つまり城の最上階がエルの階層となる。
最上階といえども、その広さは並ではない。直線的な廊下が続くかと思えば、複雑に曲がりいくつかに分岐した廊下、その左右に並ぶ多くの扉が、部屋の多さを物語っている。
その中にはエルの寝所を含め、重要な役割をもつ部屋が多数存在しており、その大半がエル以外の者が入れない場所となっていた。
スノウはその階層に…言ってみれば「住んで」いるのだが、2つの部屋しか知らなかった。即ち、普段過ごしている「執務室風」の部屋とエルの寝室のみである。
誰とも会わないことは分かりきっていたから、スノウは警戒らしい警戒もせずに散歩をしていた。
元の部屋からかなりの距離を移動していたが、気にも留めなかった。
ここはエルと側近だけが通れる廊下なのだからと安心しきっていたのである。
「お?お前なんだってこんなとこにいるんだ」
だから、不意に声をかけられても驚きはしなかった。ここで出会う人物といえばごく限られている。
殆ど警戒もせず、少しばつの悪い気持ちでスノウは振り向いた。
やや離れた先の角に、人影がある。異国風の衣装に身を包んだ、藍色の髪の青年。
アイシャ、と呼びかけようとして、ふと他の人影に気付く。
アイシャは数人の部下と思われる魔物と一緒だった。
「あっネコ?!」
「わぁ!」
「あ…!あれですか、エル様の…」
3人の魔物は、口々にそう言って、興味深げにスノウを見詰める。
その様子からは嫌悪の類は感じられない。エルの周知が徹底したのか、或いはリボンの効果が出てきたのか。魔法に疎いスノウには、リボンにどんな加工がなされているものかてんで分からない。見た目にこれといった変化がないので、渡された当初は信用していなかったのだが。
「ほんとに、どう見ても猫ですねぇ…」
しみじみと言う魔物。
どうやら「エルの所有物&本物の猫ではない」という情報は周知のものらしい。
初めて目にする魔物たちに、スノウは軽く瞬きを繰り返した。
この階層においてエルとスイ、アイシャ以外の魔物を見たのは初めてのことである。ここはエルのみの階層ではなかったのだろうか。
「…に、にゃあん」
疑問に思いながらも、スノウは慌てて「猫のふり」をした。
スノウが会話できることを…ひいては人間であることは秘密である。…秘密にしなければ、スノウの身が危うい。
アイシャはそのことに気づいたらしく、ひとつ頷いて頭をわしわしと掻き毟った。
「あー、まぁそうだな。エル様の使い魔だ。…たぶん伝令だろ」
アイシャは部下たちにそう説明しながら、スノウに近づく。
部下たちがやや遠巻きに見守る中、アイシャは腰を屈めスノウを抱き上げようとして…手を止めた。
「あーやべぇな、うっかりしてた…」
スノウに聞こえるか聞こえないかの声で、アイシャが呟く。
「?」
「…お前猫だったな…」
忌々しそうに舌打ちをする。
「…何を今更」
アイシャと距離が近づいたのをいいことに、スノウは言い返した。
そもそもの始めからずっと猫である。人間の状態で言葉を交わすことはおろか、顔をあわせたのも最初の一度きり。
何をどう勘違いしたというのか、と見上げる。
「…うるさい」
アイシャは視線をそらし、スノウの首根っこをむんずと掴んだ。
そのままぶらりと持ち上げると、アイシャの背後からどよめきが起こった。
「なんだよ?」
目を丸くしている部下たちを顧みて、アイシャが不機嫌に言う。その表情は険しく、眼光は鋭い。以前のスノウならば、こんな顔で睨まれようものなら、完全に腰を抜かしていただろう。
だが部下たちの方は慣れたもので、怯えるどころか、楽しげに口々に言う。
「さすがです、猫を捕まえるなんて!」
「いやぁ貴重な光景ですね」
その反応はどれも穏やかで親しげなものばかり。
「うっせぇよ、んな呑気なこと言ってる場合か!とにかく、オレは急用だ。さっき打ち合わせた手筈で用意しとけ。後は任せる」
眉間に深く皺を刻んで、アイシャが声を張り上げた。
「はい!」
鞭のような鋭い声に、部下たちは一斉に声を揃え居住まいを正す。
引き締まった表情は、けれども少しも怯えや恐怖の色はない。彼らの目には憧れや尊敬、そして楽しげな色が輝いている。
どうやら、アイシャは随分と部下に慕われているらしい。親しみやすい上司として。
「よし!わかったらとっとと散れ。ぼさっとしてる時間はねぇぞ!」
空いてる方の手で、追い払う仕草をする。部下たちは再び威勢良く返事をして、踵を返して廊下を戻って行った。
アイシャはこころなしむくれながら、部下たちの後姿を見送っていたが。
「まったく、てめぇのせいだ。このヘタレが」
憚る必要もなくなって、スノウに向かって文句を並べだした。
「何だってうろついてんだ。しかもこんなとこまで…出るなって言っただろーが」
「ごめん…その散歩したくなって…」
まさかその件の人物の顔を拝みたかった、とは言えない。そんな発言しようものなら、間違いなく雷を落とされる。
「散歩なんざあとからいくらでもさせてやる。とにかく今はとっとと戻るぞ」
手間掛けさせやがって、とアイシャは文句を言いつつ歩きだす。
「あ、ねぇ、さっきのひとたち…」
「ん?あいつらか?」
「なんで、ここ…」
ここは一部の魔物しか入れない場所ではなかったのだろうか。
うまく説明できなくて、スノウは曖昧に言葉を濁す。けれどアイシャはスノウの意図を正確に読み取ったらしい。
「あいつらは今日だけだ。ここは通路だからな、あいつらに張らせねぇと」
「張る?」
「あのお邪魔虫どもがここ通るんだよ。余計な仕掛けなんぞされたらたまんねぇからな」
いっそこっちから仕掛けてやりてぇ、と凶悪な表情でアイシャが吐き捨てた。
なるほど、警備ということか。
納得がいって、スノウはアイシャの部下たちが消えた方向を見遣った。
勿論彼らの姿は見えはしない。
ここをアイシャ言うところの「お邪魔虫ども」が通るのだ。
それが誰を指しているかは明白だ。エルの親族だという魔物と、その一行だろう。
やはり顔くらいは拝めたかもしれないな、と呑気な感想をスノウは抱く。
出会い頭に消される可能性も十分にあっただろうけれど。
「大変だねぇ」
そんなことをつらつら考えつつ、適当な相槌を打つ。
「…他人事じゃねぇだろ、お前オレと会わなきゃアイツに消去されてんぞ。ったく、あぶねぇな、もうそんなに時間ねぇんだからよ」
確かに、命拾いではあるのだろう。
「あの方」に消去される危機と、エルの不利益ということでスイに消去される危機を回避できたのだから。スノウとしては、見知らぬ「あの方」よりスイの方が数倍怖い。
「時間ないの?」
「ああ、結界の一部が反応したからな、到着まで早くて10分てとこだろ」
そんなやりとりをしつつ廊下を進むと、前方に見知った姿を認めた。
水色の髪、隠者のように長い衣の、スイ。
「ん?」
アイシャが首を傾げるのと、スイがこちらに気付くのが同時だった。
「アイシャ、いいところに」
そう言って、スイが駆け寄ってくる。いつも冷静なスイにしては珍しい。
「どうしたよ」
「ヴァスーラ様が破天龍でくると」
端正な顔に焦りの色が僅かにちらつく。
「…はぁ?破天龍?つったらアレか、あの馬鹿でっかい…」
目をむいてアイシャが言う。
「ええ。魔王の領地でしかお目にかかったことはありませんが…恐らくソレでしょう」
「うっわぁ…何考えてんだ、あの派手好きめっ」
「まったくです…」
頭を抱えて呻くアイシャ。諦めたようなため息をつくスイ。
破天龍は、最強を誇る龍の中でも比較的高等な種族だ。
長距離の飛行が可能で、知能が高く魔法も操る。そのため、護衛、或いは家臣として抱える上級貴族は多い。
ただし、その巨大な体と広い翼故、非常に目立つ。
生息域が限られていることと上記のような理由で、その存在を知るものは少ない――人間においては。
もちろん、そんなことは知らないスノウは、二人を眺めて首を傾げた。
「はてんりゅう?」
どこかで聞き覚えのある気がして、スノウは記憶のページを繰る。
だがせいぜい数ヶ月程度の記憶では、どうにも限界がある。
「あぁ、そっか、勇者は知らねぇよな」
だからアイシャがそう言った時、やっぱりそうかと思ったものである。
「龍だよ、馬鹿でかくて馬鹿力。頭はそんなに悪くないけどな…ん?破天龍は一頭か?」
後半はスイに向けて言ったものである。
どうやら、呑気にスノウに説明しているだけの余裕はないようだ。
「ええ。確かヴァスーラ様の一頭だけと」
「お付きの連中はどうすんだ。まさか結界外から徒歩なんてこたねぇだろ」
「中継地に転移する、と打診が」
「ま、妥当だな…ていうかあの馬鹿も転移してくりゃいいじゃねぇか。なんでわざわざ龍なんかに乗って来るかな」
「知りませんよ、誇示したいんじゃないんですか」
「相変わらず嫌味な変態野郎め…」
ヴァスーラ様とやらは知らないが、「変態」は関係ないのでは、とスノウはちらりと思う。思ったが、勿論口には出さない。出した所で彼らの邪魔をするだけだ。
「至急、魔法兵を4人ほど派遣しろとエル様が」
「だな、目立つわけにはいかねぇし…く、余計な手間かけさせやがって…ほんっとむかつくやつ」
鋭い犬歯を剥き出して、アイシャが唸る。
「私の方で2人は用意できましたが…」
「おう、あと2人は任せろ。心当たりはある。あとこっちに待機させるヤツが一人二人はいるな」
「それは大丈夫です、私ひとりでもなんとかなるでしょう」
「ああ、それなら安心だな。問題は破天龍がうまく言うこと聞くかどーか…」
「それよりヴァスーラ様の方が問題…」
二人揃ってため息をつく。
すっかり話しに取り残されたスノウは、二人を見上げて首を傾げる。
部外者のスノウには状況がイマイチつかめないが、どうやら「ヴァスーラ様」が面倒事をもってきたらしいことは理解できた。そして、恐らくその人物が「あの方」とやらであろうことも。
ここは口を挟まず、大人しくしておくのが得策だろう。
「あ、そうだった」
アイシャがスノウを振り向く。
「勇者、お前ちょっとその辺に隠れてろ」
「え?」
その辺?
「部屋まで行ってる時間がねぇからよ。どっか適当な部屋にでも隠れてろ…ああ、間違っても廊下にいるんじゃねぇぞ」
ここ通るからな、と釘を刺して、アイシャは踵を返す。
スノウが呆気に取られてる間に、アイシャは元来た道を戻って行った。競歩なみの、早足で。
「え…えぇ?」
「では私もこれで」
スイも余程慌てているのだろう。スノウが部屋から出ていることに言及する様子もなく、それどころかスノウに嫌味ひとつ言わずに踵を返して、アイシャとは逆の方向に歩み去っていく。
「…え、ちょ…」
意味もなく二人がそれぞれに去った方向を見回す。
その辺りと言われても。
だだっ広い廊下に取り残されて、スノウは呆然とするばかりであった。