青葉茂る、青年の恋
男、がいた。
男は秀平といい、齢十八。その瑞々しい肉体と精悍な顔立ちは巷の女子から街一番の男前と囃し立てられる見目の整った男だった。
季節は初夏。朝方の今は涼しいとはいえ、歩けばうっすら汗をかくこの陽気の中、秀平はある場所に向かっていた。
黄緑の若葉が煌めく美しい林の奥にひっそりと忘れさられたかのようにぽつんと佇む屋敷。別邸、といえば聞こえはいいが戦争を境に母屋から離れたこの家が使われなくなって久しい。
しかし、秀平はそこを目指していた。その別邸は今、ひっそりと使われていたからだ。
寝室に続く戸を叩く。奥にいる相手に聞こえないことは知っていたので返事を聞かぬまま踏み入る。
「おはようございます、蒼井さん。御加減いかがですか?」
「おや、秀平くん……おはよう。うん……今日は大分良いよ」
「そう……それは良かった。朝餉を持って来ましたよ」
「何時も悪いね」
「いえ、気にしないでください。好きでやってますから」
窓辺から朝日が指す、白い布団に横たわる一人の男。秀平はこの蒼井という男に飯を持ってきたのであった。
それは今から数週間前のこと。母に呼び出された秀平が伺うと、そこには一人分の膳が用意されていた。
「これは?」
「今、離れに療養のためお客様がいらしてます。そちらに持っていってほしいの」
「あそこは母さんには少し遠いですからね、わかりました。……どなたがいるのですか?」
「蒼井の方よ」
「蒼井の……。どんな病状で?」
「詳しくは聞いていないけれど、あまり永くはないそうよ」
「……そうですか」
「だから常より丁寧に持て成して差し上げて」
「はい」
「お願いね」
避暑地で有名なこの地には保養客や療養客が多く訪れる。秀平もその客らの扱いには慣れたもので、いつも通り持て成せばよいかと適当に考えていた。
───男に、逢うまでは。
「失礼します、膳をお持ちしました」
「──ああ、入っていいよ」
そういった声は、まるで清流のせせらぎのように聞こえた。今まで聞いたことのない響きに脳は衝撃を受けて固まってしまって、上手く動かない。それでも慣れた習慣に体は勝手に動く。ぎこちない動作で襖を開けた秀平は中に入ってさらなる衝撃に襲われた。
中にいたのは病気のせいか元からなのか定かではないが、日本人には珍しい色素の薄い髪色と透き通るような白い肌を持つ目鼻立ちの整った美しい青年だった。
秀平は思った。生まれてこの方、こんなにも美しい人間に出会ったことはない、と。
その美貌に言葉を失って、今度はその体も動かなかった。動きを止めた秀平を動かしたのは、やはりというか、停止させた張本人である青年だった。
「どうかしたかな……? 膳は重くないかい? そこに置いてくれていいんだよ」
「──あっ、す、すみません。今ご用意しますから」
「慌てなくていい。それよりも君は大丈夫かい? 具合が悪いのなら、そこに置いておいてくれていいから早く休んだらどうだい」
「い、いえ……大丈夫です」
優しく声を掛けてもらったが、まさか本人に見惚れ固まってしまったなどとは言えないので秀平は口早に断りを入れた。男はまだ何か言いたげにしていたけれど、黙々と用意する秀平を見てその言葉は飲み込んだようだった。
「では、こちらをどうぞ」
「すまないね。ありがとう、……ええと……まだ君の名前を聞いていなかったな。私は蒼井鈴成という、よかったら君の名も教えてくれないか」
「……俺は、秀平と言います。お好きに呼んでください」
「秀平くんか、よろしくね。私も君の好きに呼んでいい。これからしばらくお世話になるよ」
「こちらこそよろしくお願いします、蒼井さん」
そうして、秀平は男と出会った。彼が秀平にとって一生の人になるとは、このときには知る由もなかったが、言いようのない思いとただならぬ予感だけは心の片隅で感じていた。
秀平が任された仕事は蒼井へ三度の食事を運ぶことと寝床の管理、簡単な家事や雑事だ。必然と離れにいる時間は増えた。それまでやっていた仕事は今は別の者がやっている。蒼井の顔を見るたびに、身体が静止するのを除けば万事順調と言えた。
蒼井の家は旧華族で今も商いで栄華を誇っている由緒正しいお家であった。秀平の家とは遠縁だが縁戚である。もっともあまりに遠いのでほとんど他人といっても構わないくらいの血縁ではあるのだけれども。しかし蒼井の家に伝わる家系図を辿れば秀平の家がちゃんと見つかるのだ。その縁あって、蒼井はこの場所にやってきた。
蒼井は静かな男だった。最初は挨拶だけだったのが日を重ねる毎に交わす言葉は増えた。しかし蒼井は自分のことはあまり話さず秀平のことをよく聞いた。二人でいると話しているのは秀平だけということもよくあった。自分はあまり話すのが得意ではないと自覚していたけれど、蒼井が聞くことには饒舌に答えられたから蒼井は聞き上手なのだと思った。
秀平が何日かかけてようやく知ったのは蒼井は名家の三男でここに来るまでは所定の住処を持たず風来坊をしていたということだけだ。
吹けば飛ばされるような見た目の蒼井がふらふらとあちこち彷徨っていたとは俄かには信じられなかったけれど、はだけた布団や着物のからちらりと見える細いながらも締まった手足と節くれだった指、何もかもを見通したような瞳は、決してただの金持ちのおぼっちゃまには見えなかった。
「もうすぐ夏本番だねえ」
光の差し込む中庭はきらきらと輝いている。おもむろに鳴き出した蝉たちの合唱もますます増していくことだろう。陽炎が立つのももう時間の問題だ。避暑地といえどこの場所にも熱はやってくる。
「そうですね、新緑だった葉も今じゃあんなに青々としている」
「秀平くんはどの季節が好きかな?」
「好きな季節、ですか? あまり考えたことないですね」
幼い頃から忙しく働いている秀平は季節の移ろいなど温度の変化くらいにしか捉えたことがなかった。
「そうかい。……私はね、春が一番好きだよ。優しくて暖かくて、でも少し冷たさが残る美しい季節だ」
そう言って空を見上げた横顔が秀平にはどうしようもなく儚く見えた。今にも消えてしまいそうな。そのことに言い知れない恐怖を覚えた彼は、慌てて言葉を紡いだ。
蒼井が何処かに行ってしまわないように。蒼井が何処かに消えてしまわないように。
「……ここの庭には、」
「え?」
「ここの庭には八重の桜があるんです。もうとっくに散ってしまっていますけど少し前まで一斉に花開いていて、自慢の光景なんですよ」
「そうなのか。それは、私も見てみたかった」
何か言わなければと、使命感さえ覚え秀平は自分の知っている最大限の春の思い出を蒼井に披露した。するとそれを聞いた蒼井はその作り物めいた美貌を綻ばせる。
まさに花が咲くかのような変化を間近で見た秀平は貴方には負けると思いますが、と一瞬思って、そんな自分に驚いた。
そんな女を口説くようなことを思うなんて。
(俺は何を考えてるんだ……! 相手は歳上でしかも男なんだぞ。男相手にそんなことを思うなんてどうかしてる。いくらこの人が類稀な容姿を持っていたとしても、男だ。自分と同じ、男だというのに)
「……ええ、来年は是非見ていただきたいです。ほんとうに、美しいんですよ」
やっとのことでそれだけを言うとそのまま変わらない体勢で空を見ている蒼井をそっと盗み見た。まるで芸術家が造りあげた理想像のような美貌がひとたび温度を持つととんでもないな、と。
秀平は自分の心臓が激しく脈打ちっているのを感じていた。体はあまりにも正直でいっそ笑いたくなった。
だがそんな自分を認めるのは恐ろしく、現実逃避宜しく「お茶、淹れてきますね」と蒼井に告げ縁側から離れることにした。
火照る頬とは反対に冷えた手をそこに当てて歩いていた秀平は気がつかなかった。自分の後姿をまるで眩しいものを見たかのように目を細める蒼井の視線に。
お茶を二人分用意して一息つくと、自然と秀平は言葉を漏らしていた。
「蒼井さん、って不思議な人ですね」
「え? そうかい?」
「俺の周りには蒼井さんみたいな人はいなかったので」
「そうかぁ」
「側にいるとすごく落ち着きます。そういう人も初めてで、俺──って何言ってるんですかねすみません深い意味はないですから!」
ぽかんと口を開けてこちらを見る蒼井に秀平も我に帰り、思わず顔を赤らめた。自分でもよく考えずに口走っていたけれど、なにか誤解を招くようなことを言っていた気がする。
「あ、ああ、うん。そうだよね、うん」
心なし蒼井の頬も薄っすら色付いているように見えた。それは秀平の願望だったのかもしれない。だが確かめる勇気を秀平は持ち合わせてはいなかった。
着実に増していく慕情と気づかないふりの強がりを続けていた秀平と、のらりくらり浮世離れした蒼井の関係はどこまでも平行線だった。
蒼井は厭世家というわけでもなくどちらかと言えば人好きであった。吹けば倒れる棒ような危うさと、果て知れぬ海のような慈悲深さで秀平が望みさえすれば蒼井は受け入れてくれる気さえした。
けれどその懐に飛び込む気概も全てを捨てるような無謀さも、秀平にはなかった。怖かった。今まで知らなかった感情をあまつさえ同性である蒼井に向けていることが。自分でも知らなかった自分を知ってしまったことが。
すべてが未知数で、秀平にはひたすらそれが恐ろしかった。
恐ろしいけれど、その想いを捨てることまた、恐ろしかった。
自分は恋をしている。けれどそれを認めることも遂げることも出来はしない。
秀平の中には、そんな結論が出ていた。
『秀平くん。もし、もしものことだよ──……』
蒼井は桜が散るように、あっさりと息を引き取った。冬の終わりが見え始めたころのことだった。もう少しで春を迎え桜も見えようという間際のこと。あまりにもあっさりと逝ってしまったので秀平は涙を流す暇もなかった。
死を見届けた秀平は誰にも見られないうちに枯れ木のように細くなった腕、ひび割れ始めた爪先に最後の別れを告げて、ゆっくりと髪の匂いを嗅いで、白くかさついた唇に接吻してその死を惜しんだ。
「あなたが俺をどう思っていたか、今となっては知りうることもありませんが、俺はあなたを心の底からお慕い申しておりました。あなたの死後こんなことを伝える俺の弱さをきっとあなたは……笑って許すのでしょうね」
物言わぬ身体にもう一度だけ擦り寄って、秀平は別邸を後にした。
そのあとは蒼井の家に連絡をとりそのままバタバタと葬儀が行われ蒼井の骨はあっという間に焼かれて本家へと運ばれた。蒼井の欠片ひとつ秀平のもとには残らなかった。
それから秀平は家の勧めで出会った女と結婚して、子を作り、妻と二人三脚で家を切り盛りした。あれから療養客を何度も迎えたが蒼井のように特別な存在には当たり前というか出会うことも無く、子供たちに後を任せると秀平もゆっくりとその生を終えることになる。
硝子細工のような恋だった。熱しても壊れず形を作るけれど、触れれば壊れてしまうような熱く儚い恋だった。
秀平は蒼井の死後、墓前にて、最後まで呼べなかった蒼井の下の名を呼ぶ。
「鈴成さん…………あなたは酷い人だ」
──自分を追いかけてくれるな、私のことなど忘れて君は己の幸せをきちんと見つけ往生してくれ、だなんて。
俺……いや、私はあなたのいない世界で幸せなぞ見つけられるものか。
でもそんな私をあなたは笑うのでしょうね。あなたなら必ず見つけられます……と、なんの根拠もなく微笑むのでしょうね。あなたという人は。だからこそ、酷い人だ、ほんとうに。
私は忘れませんよ、永遠に。それが私に出来る唯一の反抗ですから。
永久の楽園でしばしお待ちくださいね。
愛しております、鈴成さん──
「あなた、もうよろしいのですか?」
「ああ、済まなかったね付き合わせて」
「いいえ構いませんよ。では帰りましょう」
「そうだな帰ろうか、我が家へと……」
隣に寄り添う妻の温かい手と私のひんやりとした手がひとつになる。これがあの人のいう幸せなのかもしれないと思った。もしそうならば、私はあなたのいない場所で幸せを見つけられたのかもしれない。
妻の独白
桜が散るころに、私の夫も同じく散ってしまいました。大往生と呼ばれるような最後でした。あの人の死に顔は見た人全員が、穏やかで美しいと口を揃えて言っていたくらいで。
確かに私の目から見てもとても良いお顔でした。