100 月の光に影が伸びる
「今度はいろいろな声色でお願いできるかな?」
「はい」
私は社長さんの要望に頷き、気合いを入れる。めっちゃ見てきてる橘アリスの事は考えない。だって考えたら度ツボにはまりそうだもん。さっきから瞬きしてないからねあの子。怖すぎる。
「そうだな、この台詞だけで何種類か声を出してくれないか?」
確かに台本の上から下までをまた、読み上げていくとなると時間がかかるだろう。それは流石にね……私は取り敢えず、社長さんに指定された箇所を読み上げることに集中するよ。
(さっきは確か元気目に行ったんだよね)
私はさっきの演技を振り返りつつ、どんなバリエーションが出せるか考える。こっちが声を変えても、モニターの向こうのキャラは動きを変えるわけじゃない。パターンが何個もある風じゃないしね。あんまり声だけ逸脱しすぎたら乖離感が生まれるだろう。そこら辺のさじ加減を考える。
(うん……よし)
私は考えをまとめて、機械の前でスタンバイしてる人に声をかける。
「お願いします」
モニターの向こうのキャラが動き出す。私はタイミングを計って口を開いた。
※※※
「では、行きましょう」
私とマネージャーはやってきた田無さんに共に車にのってた。社長さんは流石に会社から出ることはしないようだ。まあそうだよね。
「本当にありがとう」
「いえいえ、それはこちらの台詞です」
何回もそんな風にお礼を言われるとお礼合戦になっちゃうよ。どっちも感謝してる……それでいいと思う。でもこれでもう社長さんと会うことはないんだろうなって思うと残念だ。別段、何か関係が変わるなんて事は無いだろうけど、私のような木っ端な声優と大手事務所の社長なんてもうどうあっても接点が出来るなんて思えない。
今日のこの邂逅は本当にたまたま、運がよかっただけ。そう思ってたんだけど……
「近々もしかしたら連絡が行くかもしれないから、楽しみにしててくれ」
「え?」
その意味を聞く前に、車は発車する。堺さんと社長さんが小さくなっていく。
「今のって……」
私は見えなくなった社長さんたちではなく、助手席に乗ってるマネージャーへと視線を向ける。もしかしたら何か知ってるかも……と思ったからだ。
「まあ期待して良いんじゃないか? かなり好感触だったし」
「へえーそうなんですか? 僕も聞きたかったなー匙川さんの声」
田無さんの出来そうなイケメンに言われると素直に照れる。若く爽やかな笑顔が普通に眩しいよ。私は下を向いて、「いえ、そんな」とぼそぼそ言うしかできない。私がそんな状態だからか、マネージャーと田無さんが二人で喋ってる感じだ。
まあそもそもこれが私の通常か。一応前よりは頑張って話そうとしてるんだよ? でも人はそんな簡単に変われる物じゃない。
「そういえば、あの子……橘アリスって子はなかなかに強烈だったな……」
「ああ~、アリスちゃんですか」
その田無さんの反応でやっぱりあれはあの事務所でも問題児なのか? と思った。社長さんはなんか見ようとしてなかったが、あれの二面性? それとも本性の危険性に気付かないなんてあり得ないと思う。
(でも……最後は不気味だったな)
今思い出しても鳥肌が立つ。私が何パターンかの台詞を言い終わると、橘アリスはとても静かになってた。別段何も言わない。ただこっちを見てるだけだった。私達が部屋から出るときも、同じ位置にずっといて、一緒に入ってきた男性が連れ出そうとしても微動だにしてなかった。
一体何が彼女の中で起こったのか……ちょっと考えたくない。私はそんな事を考えつつ、車窓を眺めてた。
次回は20時にあげます。




