仮定 欲 誤り 雑文
こんにちはです。今日はお休みだったのが半休になって、でもどうせやることもないから半休ぐらいでちょうどよいんじゃね?と思っているところです。今。苦笑。
ん、自分、思うのですけれど、たとえ、眼球が一つ抉られて無くなったとしても、足が片方□がれて無くなったとしても、臓器が一部損傷して無くなったとしても、舌が切られて話せなくなったとしても、のどを切られて胃と直接管をつないで流動食しか流せなくなったとしても、
根本的に、人は変わらないんですよ。
身体の自由が利くかどうかと、欲望の質は比例しないと思っていて、結局、人は人なのだと思います。幻想に生きれるのは、その方がその方であるから。その一点に尽きると考えています。思想や理想、理念、理性、思考、性質、スキキライ。どのような言い方でもよいですけれど、その欲望を制御しているのはその方の思考であり、その方がその方自身であろうとする意識なのだろうと思います。根本的に生身の箱に備わっている欲望の質は皆、平等に備わっていると私は感じています。まっさらすぎる方もいなければ、質が悪すぎる方もいないのだろうと思います。
私のこういった思考を上手く表せるかわかりませんが、今、私が思考していることを例えるなら、人に備わっている、胃や腸を直接例にします。例えば、どんなに食べたいものがあるとしても、胃や腸には、入りきらない限界の量があるものです。何故限界があるのか、それは、人の臓器が生身であるからです。替えのきかない生身の臓器は壊れた時替えがきかない。容量を超えれば無理をするのは必須なのだから、警戒もしようってもんです。でも、その限界だと信号を出す脳の指令が人によってばらつきがあるのは、私は人の欲を制御する思考に個人差があるからだ、と考えています。勿論、ポテンシャルの高さが人によってばらつきがあるのも要因の一つだと思いますが、それはささいな差なのではないかと私は今のところ考えています。このように考えるきっかけになった出来事は、私が腎臓を一つ人に提供しているからです。直接的な要因になっているかは解りませんが、手術の際、背の部分(腰?)を切るのですけれど、細かい神経が集中しているところなのです。勿論日常生活に異常はないのですけれど、そのせいかいなか、その手術をしてから、明らかに私の欲が減少しました。我欲が半分くらいにはなったように思います。私にとっては喜ばしいことではありますが、そういった経験から思うことが一つあります。欲が減って楽になった。という点です。もともとなのかどうなのかははっきり解りませんが、我欲というのか、業と言い換えれば良いのか、身体に備わっているポテンシャルの比重のバランスによりそれらがほんの少し人より多いだけで、我欲が跳ね上がる結果を生み、そのせいで、よりその欲が膨れ上がってしまうという結果は、酷いもののように思います。
例えば、欲そのものが(例に出しやすいので)食欲だと仮定しましょう。人のあらゆる臓器には限界がありますが、極端な話、心には限界がありません。人は良く錯覚を起こします。勘違いの末間違った答えを信望してしまうこともよくあることです。食べたいという我欲が満たされなければ、臓器の容量を超えても、足りない、訳です。容量が超えても消化したり、吐いて空っぽにすればまた入れることができますから、極端な例になると、自らそれを行う訳です。偏食に走って敢えて身体をいじめてみたり、薬を身体に入れて食事よりもより高い意識の効果を試そうとしたり、心の欲望には限界という容量は存在しない。それらはまるで無限地獄のようです。それは、はじめの欲望を感じた時に思考し答えを出し信望しようとした道筋がそもそも誤っていた可能性があります。足りなかったのは食欲ではなかったと(例ですよ)その方がはじめに素直に認識していれば、先の地獄はなかったかもしれません。
私がこの詩に書いたのはそういったことをぼんやり思考したからです。一瞬で消える欲であるならば、それは、本当に必要な欲なのか、という問いかけともう一つは、一瞬で消えない欲だとあなたが確信するのであれば、それは違う形のものをあなたが無意識に求めているからではないの?という問いかけです。
勿論、それは誰かではなく、自分自身に問いかけています。私は自分のために詩を書いていますから。
さんは、このような私が書いたものから様々なものを読み取ろうとしてくださいます。頂いたご返信からまた様々なことを考えました。有難う御座います。次の思考の糧をまた頂きました。感謝しかありません。
このような返信しかできず申し訳ありません。
失礼致します。




