さらに深いところへ
その後、東京へ帰った亜美は、モデルの敦との生活をしばらくは続けていたが、いつも多くの女性の目に留まることばかりを気にしている彼に、嫌気がさしていて、二人の間では喧嘩が耐えなかった。
「俺の仕事は、たくさんの女性に認められないとやっていけない。だからスポンサーの娘に招待されれば、パーティーにだって行くし、誕生日会だって行く。女子会にだって呼ばれれば顔を出すよ」
そういう敦に
「まるでホストと同じじゃないのっ!」亜美が蔑んだように言葉を吐き捨てる。
「トップクラスになれば別だけど、俺クラスではこうして努力しないと事務所との契約は維持できないんだよ。そのくらいは察してくれよ」
しかし、亜美は25歳の誕生日、スポンサーの娘からの急な呼び出しに慌てて出ていった敦に、ついに切れてしまった。
『 さようなら、もう私のマンションには来ないで、当分静岡に帰るから、鍵はメールボックスに入れておいて! 』
メールを入れるとその足で静岡に帰ってしまった。
夕方6時に静岡についた彼女は、誕生日の夜を一人で過ごすのが辛くて、何人かに電話を入れたが、全て着信拒否されてしまった。
1ヶ月前の秀人を陥れようとした事件以来、誰一人として、彼女に応えてくれる人はいなかった。
仕方なく、彼女は駅前のカフェでコーヒーを飲んでいた。
少しずつともり始める街の灯が寂しくて、ただ物悲しく外を眺めていた時、仲のよさそうなカップルが笑顔で語らいながら、傍らの歩道を歩いて行った。
男性の顔は女性の方を向いていてよくわからなかったが、男性に微笑みかけた女性の顔ははっきりと認識することができた。
( 彩だ! 男は秀人か! 何なの、あの笑顔は…… 私がこんな思いしているのに…… あの女のせいだ! あの女さえいなければ、ずっと秀人といたはずなのに…… )
プロを諦めた秀人に、この人はもう輝かない、そう思って彼のもとを去ったのは自分なのに、生きてきた道の結果が今の自分なのに、初めて味わう寂しい時間に、それも誕生日という輝きたい時に、彼女はたった一人で、あの女が憎い、皆死んでしまえばいいのに…… そんなところまで沈み込んでしまった。
その夜、眠ろうとしても、彩の笑顔が瞼に浮かんで、悔しくて、情けなくて、やり場のない、この憎しみにも似た思いに惑わされて、いつまでも眠れない彼女はまた人の道を踏み外そうとしていた。
翌日、父親の会社の総務課に出向いた彼女は、会議室に課長を呼びつけ
「ねえ、お給料が上がらなくて、社員の不満がたまっているみたいね……」
「えっ、そうですか…… 社員は現状を理解してくれていますから、組合交渉も順調でしたし、私の所へは特には……」
「あなた、それでよく総務課長が務まるわね!」
「はっ、お嬢さん、そう言われましても……」
「私の耳には入っているわよ!」
「しかし、現状を考えればリストラなしで頑張っているだけでも……」
「そんなことは言っていないでしょ、賃金だって上げれないのはわかっているわよ。だけどできることがあるでしょっ!」
「と、おっしゃいますと?」
「例えば、天丼の店でお昼を食べてる社員はたくさんいるわよね?」
「はい、私も時々いただいていますが……」
「たくさんの社員が貢献しているんだから、社員に割引券もらってくるとか、社員証を見せれば1割安くしてくれるとか、会社の支出なして社員のためにできるでしょ。そのくらいの交渉はしてきたっていいんじゃないの…… ただ、私は同級生だからこんな話には絡めないけど、総務課が社員のために、頑張ってもいいんじゃないの!」
「お嬢さん、実は以前に交渉したことがあるんですよ。でも断られてしまいましてね……」
「それで断られてどうしたの?」
「いや、特には……」
「はあー、何よそれ! 子どもの使いなの!」
「いや、でも……」
「でもじゃないでしょ、『それだったら、社員はここに来させません』ぐらいの脅し文句も言えないの!」
「さすがにそこまでは……」
「あなたは、席に座って一日、印鑑をついているだけなの?」
「いいえ、そんな……」
「いいわよ、社員のためにそんなこともできないのなら、来月から私が総務課長になるわっ、あなたは後進に道を譲りなさいっ!」
脅かされた総務課長は、店にやって来て親父さんと話したが、当然のごとく断られ、亜美の作った文書を社内に回覧した。
『 現在、丼の店と本社に置いて、交渉を進めている案件がありますが、なかなか協力を得ることができません。
今後は本社の情報漏えい防止の観点から、可能な限り当店には立ち入らないことをお願いいたします。
ただし、これは決して強要するものではありません。
今後、情報の漏えいが発覚した場合には、当然、出入りしていた社員が疑われる可能性がありますので、そうした将来的な社員保護の観点から、お願いするものであります。
平成28年7月15日
総務課長 』
これを見た、社員の間ではその交渉内容が取りざたされたが、何かあった時に疑われてはかなわない…… そんな思いから、ほとんどの社員が丼の店に来なくなったしまった。
店がすいていれば、他の人が入っては来るものの、それでも売り上げが3割近く落ち込み、秀人は頭を痛めていた。