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あの女が憎い  作者: 此道一歩
6/11

親父さんの思い

 そして、ゴールデンウイークの初日、二人は彩の父親に結婚の報告に行った。


「秀人、結婚するんだったら店継いでくれよ」喜んだ彩の父親は、いとも簡単に思いを言葉にした。


「えっ、親父さん」秀人は目を丸くしてた驚いた。


「俺はよぉ、お前が野球をやっていた頃、何度か2軍の試合を見に行ったんだよ、先発した時も、押さえた時も、お前は何か辛そうだった。やっと帰ってきて就職して、少しは笑うようになったけどお前の笑顔はひきつってる……」

 俯いたまま話す彼は、喜びの中にも何か切ない思いを抱えているようだった。


「親父さん……」秀人も一瞬彼に目を向けた後、俯いてしまった。


「だけどよー、お前が久しぶりに帰ってきて、俺が腰を痛めた時だよ! お前が何日か店をやってくれただろ? あの時のお前は楽しそうだったよ、とても幸せそうだった! あんなお前でいてくれたら、俺は安心できるんだよ……」

 彼は顔を上げ、俯いたままの秀人に向い、優しく語りかけた。


「親父さん、俺は……」顔を上げた秀人は何かを言いたかったが彼と目が合うと言葉が続かない。


「プロにいた時も今も、お前はどこかしんどそうだ……」

 人生を踏みしめてきたこの人の言葉は何故か重みがある。


「……」彼には言葉がなかった。


「秀人、私も父さんと同じ事を思っていた。そりゃー、仕事だから辛いのは当たり前で、どんな仕事だっていやな事はある。だけど、辛い思いを抱えて仕事をするよりも、幸せな思いで仕事ができるんだったら、それが一番よ……」

 彩がしんみり話すと、不思議に思いが溶け込んでくる。


「……」彼は言葉が見つからず、無言のまま彩を見つめていた。


「父さんの代わりに天ぷらをあげていた時の秀人は何か輝いていた。遠慮して言えなかったけど、私はあんなあなたを見ていたい! 輝いている秀人のそばにいたい!」

 いつもは高飛車な彩が切なそうに思いを語る。


 彼の頭の中で、様々な思いが交錯していた。

 有機的につながっているものもあれば、無関係なものもある。

 色々考えてみるが答えは出ない。



 彼はその夜、兄に思いを話した。


「兄貴、彩の親父さんに店を継いでくれって言われたんだ」


「そうか…… 涼子が言っていたよ。以前に店を手伝っていた時、あんな楽しそうなお前を見たのは初めてだって言ってたよ」


「義姉さんも、思っていたのか……」


「俺たちの仕事ってよ、水道はまだいいよ、でもな下水の仕事は大変だよ。トイレの交換だって大変だよ。汚水にまみれることだってある。だけど、俺にはこれしかないからやっているけど、家族もいるしな…… 仕事っていうのはそういうものだよ」


「そうだな、兄貴は高校の頃から手伝っていたもんな……」


「だけどさー、同じ仕事するんだったら、どうせ仕事するんだったら、楽しくやれるんだったら、それが1番だよ」


「……」

 懸命に日々を生きている兄に彩と同じことを言われ、彼は店を手伝った昨年の暮れを思いだしていた。


「それに、何よりお前を求めてくれている、これに勝るものがあるのか? あの親父さんほどお前のことを考えてくれている人はいないよ」


「……」親父さんの思いは痛いほどわかっていたが、秀人の思いもまた複雑であった。


「何を迷っているんだ? 甲子園に行ってプロの飯まで食ったのに、天丼屋の大将なんてできないって思っているのか? まだそんな見栄があるのか!」


「兄貴…… 悔しいんだよ、そんなに甘くないってわかっていたけど、やっぱり悔しいんだ」

 俯いた彼はその苦渋を吐き出した。


「少しは俺にだってわかるよ……」


「兄貴!」


「弟が多くの人に見送られて、この町から出発したんだ。だけど自由契約になって、6年目はバッティングピッチャー、俺だって悔しかったよ。だけど、彩ちゃんの親父さんに言われたんだよ。皆、夢見せてもらったんだぞ、誰がこんな夢見せてくれるんだよっ、夢見れただけじゃ満足できねえのか、日本中の誰もが知っているような選手にならねえと満足できねえのか、ふざけるんじゃねえ、本人がどんな思いで戦っているのかわからねえのかって…… 店でお前の話になるといつもそう言ってたよ」


「兄貴、済まねえ」


「何謝ってんだよ。俺はその日から、誰かに聞かれたらはっきり『だめでした。今年はバッティング投手してます』って笑顔で応えてるんだ」


「兄貴はすごいな」


「親父さんが言ってたよ。『挫折じゃねえ、人間なんだからいつか夢に区切りつけて次の1歩を踏み出すんだ。あそこまで頑張った奴に挫折なんて言うなっ』って怒ってたよ」


「親父さんには頭が上がらねえよ……」


「スライダーだって、親父さんに教えてもらったんだろ? その人が店を継げって言ってるんだろう、黙って継げよ!」


「だけどなー、もし売れなくなったらって考えると……」


「その時は、彩ちゃんに甘えろ! 学校の先生しているんだ、大丈夫だよ。深刻に考えるな、そうなったら迷惑かけるけどごめんって、あっさり言うんだよ」


「兄貴……」


「それから、お前、養子になれ!」


「えっ、名前変わるのか?」


「そうだよ、店だけ継いで、家は知らないっていう訳にはいかないぞ、それがお前の誠意だ!」


「なるほどなー、そういうものか……」


「ある時にな、親父さんと飲んだことがあるんだよ」


「へえー」


「親父さんは、お前にスライダー教えたことを後悔していたよ」


「えっ、どうして……」


「プロに行って大金をつかんでしまったがために、投資で失敗して大借金作った奴がいる、女遊びで破滅した奴もいる、事業を起こして失敗した奴もいる」

 この兄が真剣に話し始めると、ぐんぐんと心に突き刺さってくる。


「彼らは、プロで成功する力があったから、そうなってしまった。魂がついていけない奴はそうなってしまう。それだったらプロに行かない方が、いけない方がよかったのかもしれない。少なくても自己破産するような人生にはならなかったかもしれない、もちろん悪いのは自分だ!」


「なるほどなー」


「逆に、一度脚光を浴びてしまって、いつまでも諦めきれずに夢を追い続けて挫折する奴もいる。大将はそんな選手を何人も知っているって言ってたよ」


「そりゃー、そんな奴はたくさんいるよ、俺も知っている」


「そんな奴らも、もし脚光を浴びてなければ、普通に仕事して、幸せな家庭もって、納得した人生を歩んで行けたかもしれない。そこには人としての在り方をどう考えるかっていう問題もあるとは思うよ」


「だけどなー」秀人が、絞りだすように一言口にした。


「いちど脚光浴びて、スターみたいに扱われると、なかなか抜け出せないんだろ……」

 察したように兄が話す。


「そうなんだ、運が悪いだけだとか、あいつがいたからだとか、コーチが馬鹿なんだとか…… いつまでも人のせいにして、いつまでも力がないことに気づかないんだよ!」


「大将はそれも言っていたよ。だけど、夢を追うことができたことに納得して、それを糧にして生きている人もたくさんいる」


「そうだな……」


「だからお前にはスライダーは教えたくなかったそうだ。お前の人生を左右するかもしれない1コマに関わりたくなかったそうだ」


「そうなのか……」


「お前の身体と、当時の完成されたきれいなフォーム、もう伸びしろはないって思っていたそうだ。当時140km/hは高校生としては合格だ、そいつが高速スライダーを覚えたら、甲子園に行くかもしれない。当時のチームは結構強かったから、投手のお前次第では甲子園もあり得るって考えていたらしいよ」


「そうだよな、実際に行ったんだから……」


「140km/hのまっすぐと、それに近い速さでスライダーを投げることができれば、高校生には通用する、でもプロじゃあだめだ。お前にはそこから先はない、伸びしろがないって思っていたから、下手にスター扱いされてしまうと、お前の人生を狂わしてしまうかもしれないって……」


「そうか、それでなかなか教えてくれなかったのか……」


「だけど毎晩毎晩、ネットに向って投げているお前を見て、そのボールを集めてバケツで運んでいる彩ちゃん見て、つい仏心が出てしまったらしい」


「……」彼はバケツ一杯のボールを重そうに運んでくれた彩の姿を思いだしていた。


「もし、あの時、お前にスライダーを教えていなかったら、お前は県ベスト8ぐらいで、大学へ行くか、就職するかして、お前に見合った人生が待っていたはずなんだって…… お前の人生、狂わしてしまったって、涙流してたよ……」


「そんな……」


「あの親父さんも、高校の時は、県大会で決勝まで行って、甲子園はいけなかったけど、結構有名で、プロのスカウトが挨拶にもきたらしい。でも結局、ドラフトでは指名されなくて、親父さんはそこできっぱりとプロを諦めて父親の店を継ぐ決心をしたらしい」


「何となく、聞いたことがあるよ」


「自分はけじめ付けたのに、お前にはけじめ付けれないようなことしてしまった、迷わせてしまった、って思ってんだな」


「そんなのは、俺の責任だよ、俺に力がなかっただけだよ。それに挑戦できただけでもありがたいって思っている……」


「だけど、あの人のことだ。お前が成功していれば自分が教えたことなんか知らん顔しただろうけど、こうなると自分を責めずにはいられないんだろうな!」



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