思いに気づいた秀人のフォルテシモ
一方、秀人は東京へ帰ってからも彩のことが頭から離れなかった。
彼は、彩が静岡まで送って来てくれた時の電車の中での思いをずっと引きずっていた。
彼女のことを考えれば考えるほど、思いが膨らんでしまって、かつてを思い起こそうとすれば胸が苦しくなって、それでも遡ってみると、これまで自分に関わっていた彩が走馬灯のように蘇って来た。
彩は、触れて欲しくないことには絶対に触れて来なかった。
ここで彩に何か言われると嫌だな、そう思ったところでは、彩は絶対に口を開かなかった。
しまった、と思った時はいつも彩がフォローしてくれていた。
追試の時は、つきっきりで教えてくれた。
スライダーの練習も夜遅くまで付き合ってくれた。ネットに投げ込んだ球をバケツに集めて、運んでくれた。
首になった、って報告した時、もし「これからどうするの」って聞かれていたら、誰に聞かれるより辛かった筈だ。だけど、彩は何も言わなかった。
去年の暮れ、どうにかしたいと思って帰郷した時、あの時、俺は彩に何か言って欲しくて帰って行ったような気がする。彩には、俺の気持ちがわかっていたのか……
おそらく彼女にもう止めろって言って欲しかったような……
そんな俺の気持ちを見透かしたかのように、背中を押してくれた。
彩は俺のためにいったいどれだけのことをしてくれていたんだ!
俺はなにをしていたんだ……
えっ……
もしかして、もしかして彩もこんな気持ちだったのか……
まさか……
そんな……
俺は、そんな彩を前にして、亜美と5年間も付き合っていたのか……
何て馬鹿なんだ、何も見えていなかったのか……
彼女が自分にとっていかに大事な女性なのかということを思ってしまうと、彩の気持ちがわかるような気がしてきた。
ここにたどり着いてしまって、彩の思いを感じてしまった彼はもういても立ってもいられなくなり、翌日には、あいさつ回りもそこそこに済ませ、彩が荷物の整理をしているであろうアパートへと直行した。
アパートに着くと、引っ越しの荷物を整理しながら
「たいしたものがないねー、引っ越しの価値ナイじゃん……」そう言って微笑む彩を見て
微笑んでくる彩はいつもの彩なのに……
彩が言うように、ほんとに俺はバカなのか……
彩がどこかへ行ったらどうするんだ……
誰かと付き合い始めたらどうするんだ……
もうどうすることもできなかった。
何も考えることができなくなった彼は、彩を失いたくない一心から、懸命の思いで彼女に向かった。
「彩……」彼が不安そうに語りかけると
「なーに?」彼女が優しく振り向く。
「あのさー……」その後の言葉が出てこない。
「何よ、はっきりしなさいよ!」彼女の語気が少し強くなる。
「彩、どうしてこんなにしてくれるんだ? 去年の暮れ、4年ぶりに帰った時も迎えに来てくれた。アパート決めてくれたのも彩だ、荷物受け取ってくれたのも彩だ。どうしてこんなにしてくれるんだ?」
「はあー、あんた馬鹿?」
「……」( でたー )
「何で急にそんなこと聞くのよっ。どう答えて欲しいの?」
「いや、でも……」彼が俯いてしまうと
「煮え切らない男ねー」いつものパターンになってしまう。
「だけど、俺は……」頑張ってみるが言葉が出ない。
「なんなのよー」
( こいつ、何かおかしいぞ! )
「……」
「あんたみたいに煮え切らないのがいるのに、放っておけないでしょっ」
「えっ、それだけなのか?」
「それで十分でしょ」優しく諭すように念を押した。
「じゃあ、いつまでも面倒見てくれるのか?」
「はあー、あんた、どうしたの? 何かおかしいよ……」
何故か彼女の言葉がフェードアウトしていく。
「教えてくれ! いつまでも面倒見てくれるのか?」
祈るような思いで彼女を見つめていた。
「そりゃ、あんたが望むんだったら、見てあげるわよ!」
あまり深くは考えずに流れに乗って答えてしまった。
「望むよ! そうして欲しい!」
突然の一生懸命に驚いた彼女は
「はあー、あんた、その意味、解ってるの?」
意味も解らずに何言っているの、そんな言い方だった。
「わかってる。彩は大学出ていて、学校の先生して、俺は高卒でプロ、首になって…… ようやく人並みの仕事を始めて…… 」
「もう、結論だけ言って!」
何が言いたいのかわからない彼女は、少し苛立っていた。
「結婚したい!」
「はあー、あんた馬鹿?」
突然のプロポーズに驚いた彩は、頭が真っ白になってしまい、そう言うのが精一杯だった。
「違うのか……」彼は独りよがりだったのかと俯いてしまったが……
「なんでこんなところで言うのよ、それも突然に…… なんで引っ越しの最中に言うのよ…… それ言うんだったら…… どこか、それらしい場所があるでしょっ…… 何なのよ…… 」
胸から上が浮き上がってしまったような感覚の中で、彩は途切れながらも言葉を綴った。
「彩……」再び顔を上げた秀人は祈るような思いで彼女を見つめていた。
大きな瞳に涙を浮かべている彩を見るのは、甲子園出場を決めたあの日以来だった。
でも、今日の彩は、笑顔で涙ぐんだあの日とは違っていた。
切なそうに、持っていき場のない思いに目をきょろきょろさせて、言うに言われないその思いのたどり着く場所が全く見当たらず、ここまでの長い間、心の奥深くにしまい込んでいた女の情念が一気に爆発してしまった。
「いつまで待たせるのよっ!」最初は彩の呟くような言葉だった。
「えっ」秀人は突然、トーンの変わった彩に驚いた。
「150km/hの真っ直ぐが投げれるわけじゃないし、ホームラン50本打てるわけじゃないのに、あなたには私しかいないでしょっ! いつまで待たせるのよっ!」
涙にぬれた目を上げて、一瞬彼を見つめると俯いてしまった彼女のここまでの思いが、秀人の心に突き刺さって来た。
「彩、いいのか?」
彼にはこの言葉が精一杯だった。