燃え上がる思い
彩に背中を押され、地元へ帰ってくることを決意した彼は、1月4日、在来線で静岡の駅まで同行してくれた彩の横顔を見ながら、6年前を思いだしていた。
あの時、意気揚々と地元を出発し、新幹線まで見送ってくれたのは亜美だった。ホームで多くの人に見送られ、この電車に乗った。
俺を静岡まで見送りに行きたいと言った人が何人もいたが、でも結局、皆、亜美に遠慮して地元の駅で俺を見送ってくれた。
しかし今、最後の締めくくりに東京へ帰る俺を見送ってくれるのは彩だけだ…… 誰もいなくたって当たり前なのに、それでも彩は一緒に静岡まで行ってくれる。
この一番辛い時に、隣にいてくれるのはやっぱり彩なんだ……
こんないい女がすぐそばにいたのに、亜美と5年間も付き合ってしまって……
今からじゃ、遅いよな、そんな虫のいい話はないよな……
だいたい、こいつは俺のこと、手のかかる子供ぐらいにしか思っていないし……
「彩……」横から見つめる彼女の横顔が眩しくて、秀人はつい言葉にしてみようかと思った。
「うん? な~に?」自分を見つめる彩の笑顔が、嫌になるほど自然で、彼はつい見とれてしまい、言葉が続かず息を飲んでしまった。
「何でもない……」
「そう……」
いつもなら、はっきりしなさいよって叱られるところなのに、どうしたんだ……?
何か、今日の彩は優しいなー、いいことでもあったのか……
「あのさー、もう決めたんだから、明日には事務所へ行ってはっきりと意思を伝えるのよ」
「うん、わかってる!」
「場合によったら、何か惑わされるようなこと言われるかもしれないけど、揺れたらだめよ。ちゃんと静岡に帰って仕事探しますって言うのよ、いいわね」
「わかってるって、もう子供じゃないんだから、ただ、球団がどこか紹介してくれたらどうしようか?」
「あのね、それこそ子供じゃないんだから、いいと思ったら受ければいいじゃないの!」
「わかった!」
翌日、事務所を訪れた彼は、球団から静岡市内にあるスポーツ用品のメーカーを紹介され、その4月、営業マンとして再出発することとなった。
『 4月から静岡市内のミズックスに勤めることになった! 』
『 良かったね、それで家から通うの? 』
『 いや、家には住みたくない、皆に気を使わせてしまうから…… 』
『 わかった、じゃあ、アパート探しておく! 』
『 助かる、よろしく 』
『 3月初めには帰るから、それまでに決めておいて! 』
『 了解! 』
彩はこれだけのやり取りで、秀人を理解することができる。
そうなると、自分がするべきことは、彼が実家には住まないということを彼の家族に納得してもらうことである。
直ちに、秀人の実家に向うと、彼の母親と兄夫婦を前に
「秀人は4月から、静岡市内のミズックスに勤めることになったそうです。3月初めには帰ってくるって言っていました」
「そうか、そりゃよかった。あいつもやっと安定した生活ができるな」
兄が言うと
「ここから通えるのかい?」
母親が一番気になっていることを尋ねる。
「おばさん、通えないことはないけど、あの子もここに帰ってくるのは辛いんですよ。皆に気を使わせてしまうから……」
「そうなの?」母親は残念そうに俯いてしまう。
「おばさん、時間が必要なのよ、時間が経てば、平気な顔して帰ってきますよ。何か食わせろ、金がないんだって……」彩が懸命に慰める。
「そうだろうかね、そうなってくれたらいいね」母親は顔を上げて彩に微笑む。
兄はその様子を見つめながら、彩の気配りに頭が下がる思いだった。
( あいつは、この人と一緒になれば、絶対に幸せになれるのに! )
彼は、彩に会うたびにいつもそう思うのだったが、彼女はいい大学を出て教師になっている、一方弟は高卒で、やっとここから人生の再出発……
そんな虫のいい話はないか……
最後は諦めに近いところにたどり着いてしまう。
「アパートは私が探しますから……」
「本当に申し訳ないね。彩ちゃんには迷惑かけてばかりで……」
兄夫婦が頭を下げると
「いいえ、とんでもないです。何か、秀人のことしていると、高校時代に戻ったみたいで懐かしいです」
「アパートだって本当は私が探しに行けばいいんだけど、秀人さんの好みは彩さんの方がよくわかってくれているから、つい甘えてしまって、ほんとにごめんなさい」
義姉が申し訳なさそうに頭を下げる。
「お義姉さん、大丈夫ですって……」
微笑んで応える彩に誰もが救われている。
彩は1年半前、秀人が亜美と別れたことを知っても、決して心は躍らなかった。その事実を冷めた思いで受け止めていた。
しかし、昨年の暮れ4年ぶり帰郷した秀人と再会して、わずかな時間を共有してしまうと、心の奥深くにしまい込んでいた得体の知れない思いが頭をもたげて来て、心が乱れ始めた。
その時、高校卒業式の日、野球部のキャプテンだった雄一に言われた言葉を思い出していた。
『もし、彼が一人になってさまよい始めた時に、彩の中にまだあいつが少しでも生きていたら、その時は、また面倒見てやってくれないか……』
( あいつはこんな時が来るのがわかっていたのか…… )
でも、頭をもたげてきた思いは、静かに深く、長い間眠っていた分だけ、吹き出し始めると激しい勢いで彩の全身を覆い尽くしてしまった。
高校3年の夏、秀人が亜美と付き合い始めて、初めて自分の気持ちに気づいた彩はその時のことを思いだしていた。だが、彼女の思いは、ここまで待ち続けた分だけ、さらに大きく、そして濃くなっていた。
彼女は、もう自分ではこの気持ちをどうすることもできないところまで上り詰めてしまい、アパートを探しながら、私だって時々泊まるだから……
そんなことを思いながら、間取りを検討していた。