故 郷
普通電車しか止まらないこの駅では、この時間になると降りて来る人はまばらで、20人ほどの緩やかな集団の後ろを少し離れて、サングラスをかけた秀人が歩いてくるのを目にすると彩の胸の鼓動は突然急ピッチになり、少し息苦しくなってきた。
改札を出た彼は、ロング丈のチェスターコートをカッコよく着こなし、チラッと微笑みかけてくる美しい女性に目を向け、少しうれしくなったが、それでも、気づかれたか…… と思いながらも平静を装って前へ進んだ。
彩は、自分に気づかなかった秀人に腹を立てると、先程までの胸の高鳴りも忘れて、( くっそう、私に気づかないのか、殴ってやる! )
彼女は後ろから彼に近づき、少し背伸びをするように頭をパチーンと叩いた。
「いてっ、何するんだ!」頭を押さえて、振り向いた彼に
「おのれ、私の前を素通りするんかい!」
「えっ、ええーっ、彩なのか?」目を見開いて驚く秀人に
「お前は彩様もわからなくなったのか、馬鹿たれ!」
彩は少し微笑みながら突っかかる様に言った。
「お前、どうしたんだ……」
そう言いながら頭のてっぺんから、つま先まで見下ろした彼は、美しい女性に変貌したした彩をただ呆然と見つめていた。
高校時代は日に焼けて、真っ黒な顔に大きな瞳だけがギラギラして、がりがりだった彼女を思い浮かべた彼は、色白で少しだけふくよかになって、かつては気にも留めたことのなかった胸のわずかなふくらみを見ると、初めて彼女に女を感じた自分自身が恥ずかしくなって、ほんのりと頬が熱くなるのをどうすることもできなかった。
「どうしたんだって、何よ、超失礼!」
「えっ、いや、変わったなーって思って……」
「はあー、どれだけ待ったと思ってんのよ!」
( 6年よっ! )心の中で叫んでしまった。
「ごめん、そんなに待ったのか?」
「5分よ、彩様を5分も待たせるか?」
「お前、もう少し外見に見合った言葉使いしろよ、中身は昔のままジャン」
「うるさい、行くわよ!」彼女はそう言って車を指さした。
「えっ、彩様は車を運転するのか?」
「相変わらず馬鹿だねー、いくつになったと思ってんのよ、24歳だよ!」
「そうか、24か……」彼は時の速さをかみ締めていた。
「どうすんの? 先に家へ帰る?」
「いや、ちょっと心構えがいるから、先に天丼で……」
「いいの? うちが先で!」
「いい、いい、先に天丼食わなきゃ……」
店につくと
「親父さん、お久しぶりです。こんな時間にすいません」
「おうっ、元気そうじゃねえか、いい女、連れてんねえー」
「父さん!」
「おうっ、なんだ、彩か!」
「あいよッ」5分ほど待つと天丼が出てきた。
普通であれば無頭エビ2匹、アナゴ、玉ねぎ、ピーマン等、新鮮な具材が多く盛り込まれているが……
秀人に出される天丼はアナゴとシイタケが抜かれていて、無頭エビ3匹、特別にサツマイモとレンコンが加えられている。
相変わらずのカラットした仕上がり感に加えて、親父さんが守り続ける秘伝の出汁が絶妙に絡まり、以前と変わらず、どんぶりの世界が彼を和ませてくれる。
昔から彼はこの店に入るとホッとする、何故かわからないが、暖かみのあるこの空間が彼は大好きだった。
親父さんは、彩と秀人の世界には入ってこない。
4年ぶりに会った幼馴染が楽しそうに話しているのを影から聞いている。
「あんた、これからどうするの?」
「うん、考えている……」
「相変わらずだね…… 夢はかなわなかったけど、頑張ったんだからいいじゃないの、内野手への転向を断った時点で、こうなった時のことは考えていたんでしょ……」
「うん…… だけど…… 」
「だけど、どうしたのよ、来年もバッティング投手続けるの?」
「うーん」
「違うでしょっ!」
突然彩の語気が強くなった。
彼女は、ここで背中を押してやらないと、彼は動かないし、動けないということをよく知っていた。彼がこの一年どんな思いでバッティング投手をしてきたかということも、時折、送られてくるメールでよくわかっていた。
そのメールの端々に、彼の悔しさが、持っていき場のない苦悩があふれていた。彼女は、彼が亜美と別れて以来のこの1年、冷静に彼を見守ってきた。
1年前、「首になった」とメールが来た時、彼女は彼を追いつめたくなかったから、静かに見守ろうと思った。しかし、1年経った今、彼の苦悩を知った彼女は、彼に次の一歩を踏み出させなければ、彼はいつまでもこの苦悩から抜け出せない、そう思っていた。
その思いが必然的に彼女の言葉を強くしていた。
「えっ」
「プロに関わって生きて行くことが夢だったの? ちがうでしょっ!」
「……」
「プロで投手として輝くことが夢だったんでしょ」
「そうだけど……」
「この世の中には、夢がかなわない人なんて何万人もいるのよっ」
「……」
「かなわないってわかったら、皆、次の一歩を踏み出すのよ…… バッティング投手になってチームを支えるのが次の夢なの?」
方向の決まっている彩は、理路整然と彼に迫り、彼の本音を引き出そうとする。
「それは……」
「そんなわけないでしょっ、夢の近くにいたいだけでしょ、だけど近くにいたって選手登録してくれるわけじゃないでしょっ!」
「彩はお見通しだな……」
「あんたのことなんて、手に取るようにわかるわよっ、おばさんだってどんなに心配していると思ってんのよ!」
「ごめん、わかった、もう止める!」
煮え切らないこの男の決断にはいつも彩が絡んでいた。
秀人が結論したその時だった。
「いてっ、ううっー、腰が……」
「親父さん!」
「父さんどうしたの?」
「腰がいってしまった!」
「ええっー、動けるの?」
「だめだ! 秀人、すまねー、肩かしてくれ……」
二人で手助けして寝室まで運んだが
「参ったよー、明日、昼に予約があるんだよ…… いててて」
「えー、明日、休みでしょっ」
「だから、無理言われてよー 15人だよ」
「どうするのよっ」
「参った……」
「私がしようか?」
「馬鹿野郎、お前にできるかっ。いてててっ、秀人、お前、明日暇か?」
「暇だけど……」
「お前、頼むわっ!」
「親父さん! 俺がバイトしてたの6年前だよっ!」
「大丈夫だ、お前は起用だから大丈夫だ。お願いだ、一生のお願いだ、頼むよ」
「ええっー、ちょっと、練習してみるよ」
「ああ、今日の具材の残りがあるだろ、ちょっとやってみてくれ……」
彼がやってみればなんてことはなかった。
特に、衣の寄せ方は天下一品であった。
揚げるだけなら誰でもできる、難しいのは、周囲に散らした小さな揚げ玉を素早く寄せて、具材の周囲を盛り上げていく…… これがさらなるカラット感を生み出す。
親父さんに言わせれば、指先の器用な秀人は天下一品だという。
高校3年の夏が終わった後、ここでアルバイトをしていた彼に、試しにやらせた親父さんは、その器用さにほれ込んで絶賛したのだった。
天性の器用さは全く衰えていなかった。
見ていた彩は驚いた。
「すごいねっ、父さんより上手いわ……」
「具材は配達してくれるからよ、明日12時に頼むわい……」
「どうしてお前がやってんだって、叱られても知らないっすよ」
「大丈夫、大丈夫」
自宅へ帰ると、母親と兄夫婦が帰宅を喜んでくれたが、申し訳ないほど気を使ってくれた。
痛いほどの気遣いが伝わってくる。
彼の実家は、水道屋で、下水工事も含めて手広くやっている。従業員も12人いて、この業界では地域のトップクラスであった。
父の亡き後、店を切り盛りしている兄夫婦も秀人のことを心配していた。
間もなく70を迎える母もこの次男を心配していたが、誰も多くを語らない。
秀人はそれが辛かった。
翌日の天丼屋は大盛況だった。かつての町のヒーローだった秀人の出現に、野球少年チームの父兄会に集まった保護者達は大喜びだった。
配膳だけでも手伝おうと、兄嫁が来ていたが、みんなでわいわいがやがやと、やってしまって、彼女の出番はなかった。
客が帰った後、
「おいっ、次の仕事が見つかるまで頼むよ、まだ当分かかりそうだ……」
「えっー、参ったなー」
「何、参ってんだよ、その代わり、上りは全部持っていけっ!」
「えっー、だけど、お昼は何人ぐらい来るの?」
「30から40かな……」
「それはさすがに難しいでしょ……」
「大丈夫だよ、順番に出しゃーいいんだ、今日みたいに、団体の方が大変だよ……」
「そうですかー、夜は?」
「うーん、夜は20から30かな……」
「油の取り換えは、前と同じなの?」
「ああー、同じだ……」
翌日から秀人が店に立つと、かつてのヒーローを一目見ようと多くの人が、そしてかつてのチームメイトたちが集まって来た。
しかし、誰一人として彼の負の部分を語る者はいなかった。この小さな町から甲子園へ行き、プロになった人がいる。だけど、もうだめらしい。
でも、甲子園に連れて行ってもらって、夢を見せてもらった。
彼だってつらいだろう。暖かく迎えてやらないと……
ここに集まる者達は皆そんな風に考えていた。