思いは届かない
話は6年前に遡る。
高校最後の夏、秀人は140km/hのストレートと高速スライダーを武器に県大会を制し甲子園初出場を決めた。
人口1万人程度の小さなこの町は、お祭り騒ぎになってしまい、試合の当日、町は閑散とし、皆が甲子園にくぎ付けになっていた。
その甲子園での初戦は、2対1で接戦を制したが、2回戦は春の準優勝校の前に1対0で惜しくも敗れてしまった。
それでも、中村秀人の名前は一気に全国に知れ渡り、学校へはプロのスカウトが何人か挨拶にもやって来た。
彩は中学の時から秀人のために何でもやって来たが、決して見返りを求めることはしなかった。
最初は、この優柔不断男は私が動かないと何もできない…… ただそんな思いだった。
しかし、甲子園へ行って人気者になった彼が、同じ高校の筋木亜美と付き合うようになって、彼女は初めて自分の気持ちに気がついた。
今までずっと秀人の面倒を見てきたのは自分だったが、それはすべて野球という部活動に絡んでいた。それでも秀人のそばにもし女性がいなければ、部活が終わってからも彩はごく自然に彼のそばにいて、彼の今後の人生に関わって行くことができたのだろう。
彩は高校生活、最後の半年はそんな風に流れて行くのだろうと勝手に思っていた。
しかし、秀人に彼女ができた今、野球が終わってしまうと、彩が秀人のためにできることはもう何もなかった。
二人が楽しそうにしているのを見るたびに、彼女はそのことを思い知らされ、胸が苦しくなり、微笑んで二人を見ることはできなかった。
( 私は、最低! 秀人の幸せを喜んであげることができないし、亜美に嫉妬している。どうしてあんな女がいいの…… かわいいだけじゃないの! )
彩はそんなことを思ってしまう自分が許せなかった。
その苦しい胸の内を振り払うかのように、彼女は進学に向けて勉強に取り組んだが、ふと一息ついた時に、脳裏をかすめるのはやはり二人の笑顔であった。
深夜2時、眠気を覚ますために洗面所で顔を洗い、鏡に映った自らの上半身を見つめ、知らない間に亜美と比べていた。
顔は日焼けして真っ黒、胸はほんのかすかに膨らんでいるだけ、亜美の福よかさにはかなわない。
( 彼女に勝るのは成績ぐらい、もし自分が男だったら、私だって亜美がそばにいる方がいいって思うかもしれない。何を期待していたの? 馬鹿みたい! もう止めよう、何か、だんだん嫌な女になっていく…… )
秋、ドラフト会議が始まると、町は秀人の話で盛り上がり、学校ではテレビの前に多くの教師や、生徒、地元紙の報道関係者も詰め掛け、ドラフト会議の様子を見守っていた。
皆が、もう指名はないのだろうかと暗い空気が流れ始め、6巡目も終わろうかとしていた時、彼が東京スターズから6位指名されると、学校中がお祭り騒ぎになってしまった。
その時も、彼の傍らに亜美はいたが、彩の姿はなかった。
結局、彼は契約金1000万円、年俸600万円というほぼ最低の条件ではあったが契約に応じ、記者に囲まれ、フラッシュを浴び、輝いている彼の後ろで微笑みながらその様子を見ていたのはやはり筋木亜美だった。
それでも忘れかけた頃に、秀人からメールが届いた。
『彼女ができたんだから、私にメールするのは止めなさい』と言っても、月に1度ぐらいは必ず、近況報告が届いた。
こいつはバカなのか、と思いながらも、彩は彼からのメールを読むのは楽しかった。
卒業式の日、野球部のキャプテンだった高田雄一に誘われ、彩はカフェに居た。彼は彩を一人にはしたくなかった。
「彩、ありがとうな、甲子園へ行くことができたのはお前のおかげだよ」
「そんなことないよ、私なんて、何の役にも立たなかった。雄一がちゃんとチームまとめたからだよ」
そう言いながらも彼女の微笑みはどこか寂しそうだった。
「秀人も、その内に何が大事なのかわかるよ、だけど今はその流れじゃない、彩も辛いだろうけど、もし待てるんだったら、待ってやってくれないか?」
「よしてよ、私は……」そう言いながら、待っているのかもしれない、ふとそう思った彼女はそこで言葉を留めた。
「変なこと言ってごめん。彩のこれからの恋愛に水を差すつもりはないよ、だからいい人が現れたら恋愛すればいい。だけど、もし、彼が一人になってさまよい始めた時に、彩の中にまだあいつが少しでも生きていたら、その時は、また面倒見てやってくれないか……」
生真面目なこの男の思いが純粋に伝わってくる。
「雄一はいつまでも義理堅いね、小学校の時の話なんでしょ。一人ぼっちだったあんたに秀人が話しかけてくれたのって……」
「はははっ、そうだけど、あいつとの出会いは大事にしてきたし、これかも大事にしたいんだ」
「なんか雄一って、大人だね」彼女が優しく微笑む。
「えっ、そうか?」
「私たちとは見ている世界が違うような気がする……」
一方、亜美と一緒にいながらもそわそわして誰かを探している秀人に、彼女は少しムカついていた。
( 彩を探しているんだ! 私がそばにいるのに……)
秀人は彩に対して恋愛感情を持っていた訳ではないが、それでも彩は彼に取っては大事な人だった。卒業式の日に彩と写真を取らないことがあるなんて考えたこともなかった。
亜美は秀人の中に住み着いているそんな彩にずっと嫉妬していた。
彼が自分のそばにいてもなお、彼女は彩の存在が不安でならなかった。
翌日、彼はチームメイトや町の人達に見送られ東京へ旅立ったが、その傍らで立ち位置をアピールするかのように微笑んでいたのは亜美で、静岡までの在来線に同乗して付き添ったのも彼女であった。
秀人は懸命に彩を探したが、ホームに彼女の姿はなかった。
2軍スタートとなった秀人は、2年目のシーズン終了間際、急きょ1軍に登録され、6対0となった7回表、消化試合ではあったがプロ初登板を果たした。
ストレートとスライダーの切れがよく、相手にとっては初めての投手ということもあって、9回まで、打者10人に対して、ヒット1本を許しただけで好投した秀人は、8回裏に3点を取り、9回の裏いっきに4点を取ったチームが逆転勝ちし、プロ初の1勝を手にした。
翌日、地元紙はこの秀人のピッチングを取り上げ、来シーズンは1軍スタートが期待できるともて生やした。
卒業して2年後、その年が明けて行われた成人式に出かけて行った彩は、秀人が亜美と二人、皆の輪に囲まれて、プロ1勝目の話題で盛り上がっているのを見て、その場を離れてしまった。
体調がすぐれないと言って、彩が帰ったことを知った秀人は8時前に店を訪れたが、親父さんに制された。
「今日は止めとけ、女は複雑なんだよ、寝かせてやってくれ……」
彼はそう言われて納得できないまま東京へ帰っていった。
翌日から、何度メールを入れても返事がないことを心配した彼は店へ電話したが、親父さんは
「そうか…… 何か迷ってんだなー、ごめんよ、その内に立ち直るよ……」
秀人もすっきりしない日が続いたが、やっと3日後に彩からのメールが届いて、いつもの彩に戻っていることを感じた彼は一安心した。
しかし、野球の方は3年目も鳴かず飛ばずで、シーズン終了後に内野手への転向を打診され、彼はそれを断ったが、4年目も目覚ましい活躍をすることはできず、既に5年目を迎えていた。
その後も秀人からのメールは続いたが、ただ、そのメールは彩が教師として仕事を始めた頃から、亜美への不満が書き込まれるようになった。
『彼女への不満を私に言うな、馬鹿たれ!』
彩がそう返してもお構いなしだった。
そしてその年、シーズンの終了を待たず、彼は来年度、選手枠には入れないことを言い渡された。
合同トライアウトへの参加を勧める亜美に、彼は初めて心の内を明かした。
「だめだよ、自分でもよくわっているんだ。俺の力はここまでだ。これ以上は惨めになるから……」
「じゃあ、私とも終わりね!」
もう彼が輝くことはない…… そう確信した彼女は秀人のもとを去って行った。
亜美は彼に合わせて、東京の大学に進んでいたのだが、彼にとって彼女との時間はとても窮屈だった。
一人住まいをすれば亜美との時間が長くなることがわかっていたし、場合によっては半同棲みたいなことになるかもしれないと心配していた彼は、二十歳を過ぎても球団の寮からは出なかった。
ただ、期間だけで言えば、彼女と付き合った5年間は長かったが、その中身は決して濃いものではなかった。
シーズン中はほとんど二人が会うことはなく、電話やメールのやり取りだけであったし、シーズンが終了しても、彼は土曜日か日曜日のいずれかはトレーニングのためと言って、彼女を遠ざけていた。
彼女と会えば、走り込みが足りないのではないか、あるいは、もっと筋肉補強中心の食事にした方がいいとか、さらにはフォークボールを覚えた方がいい等、素人さながらの意見を大発見のように言われ、彼はいつも責められているような戸惑いの中に落ち込んでしまっていた。
私生活では優柔不断なこの秀人も、こと野球については哲学を持っていて、これまで誰もそこを犯すことはしなかった。
かつて、彼のために懸命に動いていた彩は、そのことがよくわかっていたので、決してその聖域に足を踏み入れることはなく、ただ黙々とその傍らで、できることをやっていた。
しかし、この亜美は彼に輝いて欲しいがために、平気でそこに土足で上がり込み、ずけずけと言いたいことを言ってきた。
彼にとって亜美はもう頭痛の種でしかなくなっていた。
それでも、この男は自分から別れを切り出すことができなかった。
だから、彼女が去った時、彼は心からほっとした。
と同時に思い浮かぶのはやはり彩の笑顔だった。
何かあればいつも自分のそばには彩がいてくれた。
何かあった時に思い浮かぶのはいつもその彩の笑顔だった。
亜美が去り、肩の軽くなった彼は彩へメールを入れた。
『やっと亜美と別れた。でも首になった!』
それでも彼は彩を女性として見たことは一度もなかったし、それは彩も同じだろうと思っていた。
彩は秀人が亜美と別れたことを聞いても昔のように気持ちが高ぶることはなかった。
亜美と別れたからと言って、彼が自分の所に来るとは思えないし、自分も教師としてスタートしたばかりで、大変な時期であったことも手伝って、どちらかといえば、冷めた気持ちでそれを受け止めていた。
ただ、野球については父親から
「そろそろ危ないぞ、その時は支えてやってくれ!」そう言われて、覚悟はしていたものの、それでもその時が来たことを知ると、秀人の心が心配でならなかった。
それを思うと、ここで追い打ちをかけるように迫ることはできない、だから彼女はそのことには触れなかった。
そして、1年間バッティング投手として過ごした彼が、4年ぶりに故郷に帰ってくる。
彩の思いは複雑であった。