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エルフォード探偵事務所

作者: 齊藤さや

 故郷に帰ることになった恩師から貰ったメモを頼りに、少年は郊外をさまよう。フリスストリート三番地の二階が目的地だ。恩師には特徴の無い建物だと言われた。辺り一面似たような古びたレンガ造りばかりなので、住人はよく迷わずに家に帰れるなあと、そんなことを考えながら少年は歩いていると、それらしい場所に行きついた。排気で汚れ煤けた建物は、今夜のように曇った夜空の下では誰もが暗い印象を受けるだろう。外階段から直接二階に行けるようだが、手すりは錆びてなんともみすぼらしい。


「こんな所に住む人に弟子入りするなんて……」


 汚れるのが嫌なようで手すりに触らないようにしながら、段の広い階段を踏み外さないようゆっくり上る少年の口からは、ふと本音が漏れていた。ドアには小さいながら新品同様の輝きを持った横長の表札がかかっており、『Elford Detective Agency』と書かれていた。メモの通りだと確認した少年はノックをした。しかし、二度目のノックにも反応は無く、せめて紹介状だけでもドアに挟んでおこうとした。試しにドアが開かないことを確認しようとドアノブをひねると、錠に止められることなく回った。

 空いているのなら中に居るだろうし、例え不用心にも外出中だったとしても机の上に置いて帰ろう、そう考えた少年は部屋に一歩踏み入れた。中は、椅子が向い合せにしてあるデスクが中央に配置してあり、あとはソファと壁側にある本棚だけという殺風景な部屋だった。家主はいないように思えたが、どこからか欠伸をする間の抜けた声が聞こえてきた。少年がぎくりと声の方を向くと、『Secret』と吊り看板の掛かった扉があった。内開きのその扉が開いて、目をこすりながら眠そうな顔が現れた。


「初めまして小さなレディ、探偵のご依頼かな?」

「確かによく女の子と間違えられますけれど、僕はれっきとした男の子です。それに、依頼に来たんじゃありません。レオタ先生の紹介で弟子入りさせてもらいにきました、ジェイ・コンティです」


 声変わり前のあどけなさの残る声で、少年は必死に抗議した。それが彼には面白かったのか、驚いた顔をのぞかせたがすぐに、にやにやしながら返事をした。


「あぁ、そういえばミス・レオタから手紙が届いていたような。けれど残念だったね、僕は弟子は取らないよ」

「そんな……折角五日もかけて来たのに。……黙って入ってしまったことは謝ります。だからどうか弟子入りさせてください」


 今にも泣き出しそうな顔で少年は頭を下げたが、彼は未だにやついている。


「入って来たことは気にしてないから平気だよ、早とちりさん。看板に『ご自由にお入りください』って書いてあったでしょ?」


 少年は看板を思い出そうとしたが、そんな文言が書いてあるのは記憶には無かったようで、首を傾げた。そして小声で「早とちりじゃないもん」と呟いたのを、彼は聞き逃さなかった。


「あれ、書いて無かったっけ、まあいいさ。僕は弟子は取らないんだけど、助手は募集しているのさ。前の助手が先日辞めちゃったからね。この話、探偵仲間では結構有名なはずだから、ミス・レオタが君に間違えて伝えるわけがない。よって君の勘違いで僕は、ロンドン中を迷いながらようやく辿り着いたのに年端もいかぬ少年をむげなくを追い返した悪人、というレッテルを貼られたわけだ」


 もはや言い訳しても悪化するだけと判断した少年は、頬を真っ赤に染めて最後の一噛みとばかりに尋ねた。


「で、でもなんで僕が迷ったことに気づいたんだ?」

「僕は探偵さ、このくらいどうってことないよ。ミス・レオタの地元からここまで、列車を使えば三日もかからない。なのに、君は『()()()かけた』と言っていたね」


 図星なものだから返す言葉もなく、少年はうつむいてしまった。


「さて君のその頑固な性格、気に入ったよ。ミス・レオタの頼みなら怪しい人間でもないだろうし、採用だ」

「へ? あ、ありがとうございますっ」


 レオタ先生の下を離れてから、ようやく少年に笑みが戻った。




 紅茶を出すから座って待っていて、と促されるままに、ジェイは椅子に腰かけた。改めてぐるりと部屋の中をみわたしても、本当に何もなかった。彼が入っていた部屋の扉の他にあと二つ扉はあるが、おそらく一つはお手洗いだろう。窓は分厚いカーテンでぴっちりと閉じられていた。開けてみても、眺めは歩いてきたときとさほど変わらないのだろう。


「そんなにきょろきょろするほど興味深いものなんてないよ。ここには。さて君、お砂糖はいくつ入れる?」


 マグカップを両手に、彼が台所から帰ってきていた。すでに机の上には砂糖の小瓶が置かれていたが、ジェイは声をかけられる今まで気づかなかった。


「ふたかけ下さい。この香りはベルガモットですね」

「おっ、鼻が利くね。……いやあ、冗談だよ流石に誰でもわかるよね。生憎お茶菓子は切らしているから、紅茶だけで我慢してね」


 彼はカップを持ちながら背と値段の高い椅子に優雅に座った。


「ところで」

「僕の自己紹介を聞きたいんだろ? レオタ先生は僕の事なんて説明してた?」

「捜索が得意な探偵だと聞いてます。あとはここの事務所の名前と、あなたがちょっと変わり者だということも。夜しかこの事務所は営業していないんですよね」


 ジェイは、捜索ばかり請け負うので“フリスの犬”とあだ名されていることは話さないでおいた。流石に失礼だろうと思ったからだ。


「その通りさ。僕の助手ということは、君にも少しは昼夜逆転の生活を強いるわけだけど、平気かい?」

「覚悟はできています。それでええと、なんと呼べばいいですか?」


 変わり者、というところを否定しなかったのは、ジェイにとって驚きだった。すっかり忘れていたというように、彼はカールのかかった栗色の頭を掻いた。


「僕の名前はフェルディナンド・エルフォード。呼び方は何でもいいけど、前の助手はエル先生と呼んでいたよ」

「じゃあ僕もエル先生とお呼びします」

「よろしい。では、さっそく依頼をこなしたいと思うのだが、ついて来てくれるかな。荷物はそこら辺に適当に置いていいから」


 彼――フェルは鼻高々に言い、コート掛けから皺くちゃのコートをひったくると、ジェイの返事も聞かずに階段を降りていってしまった。鍵もかけてない建物に放置するのは危ないとは思ったが、生活用品一式の揃ったトランクはさすがに仕事の邪魔になってしまうだろうと部屋の隅に置いて、フェルを見失わないうちに事務所を後にした。ジェイが階段を下りきるや否や、フェルは行き先も告げず歩き始める。


「エル先生、今回の依頼の説明をしてください」


 ジェイが背中に問いかけると、フェルは足を止めて、いたずらっこのような笑みを作りながらくるりと百八十度回転した。


「君も探偵見習いなら、そのくらい推理してごらん」

「ええ? …………情報が少なすぎます。そもそも依頼人が男か女かも分からないです」


 数分考えこんだが、降参した。依頼に関する話題や行動を『外出』以外一切していないのだから、当然の結論であった。


「はは、性別なんて二択なのに、君は正直だね。左様、分かるはずがない。でも覚えておくといいよ。僕はレディからしか依頼を受けないのさ。だから今回の依頼人も、もちろん女性。風で飛ばされた帽子を探してほしいという依頼さ」

「絵か何かはあるのですか?」

「それが、無いんだよ。この通りを歩いている時に突風で飛んでしまったという話だから、隙間にでも引っかかっていないかと思ったんだけど……ああ、これかな?」


 ふらっとさまよいながら覗いた建物の横のフェンスの上端に、確かに帽子が引っかかっていた。暗闇にぼやっと光る、真新しさの残る白いつば広の帽子だ。無くすのが惜しいという依頼人の気持ちもよくわかる、とジェイは思った。


「ものの十分もせずに見つけるなんて、ここだとわかっていたんですか?」

「探偵だからね、もちろんだよ。女性は背が低いだろう。だから高い所は見えづらい。そして依頼人は恰幅の良い方だったので狭い所は探せない。そうなるとこういった路地裏から探すのが一番だからね。加えて昨日の風はそこまで強くは無かったから、遠くまで飛ばされてないだろうと踏んだんだ」

「エル先生の得意分野、流石ですね」


 ジェイはフェルの推理過程を、目を輝かせながら聞いていた。フェルは得意げだ。


「もっと褒めていいよ。……なんで黙るんだい? まあいいさ。他に用事も無いし、冷える前に事務所に戻ろう」

「依頼人の女性に連絡はとらなくてよいのですか?」

「明日の夜までに探し出すという契約にしたからね。日没後には向こうから来てくれるハズさ。僕はいつも先に期限を決めて、次回結果を報告するというスタイルをとっているから慣れてね、助手君」

「見つかったのなら一刻も早く届けた方が依頼人も喜びそうですが」

「夜中に訪ねちゃあ迷惑でしょ? それにね、家に来てほしくない訳ありな依頼人かもしれないじゃないか。最初に断っているからね、僕の仕事の仕方が気に食わない依頼人はこちらからも願い下げさ。君が仕事に慣れて信用もでてきたら、昼の内に渡しに行ってもいいけれど」

「そもそもエル先生はなぜ夜だけ……」


 皆まで言う前に、フェルがジェイの口を押えた。もごもごと少し苦しそうだ。


「依頼人が訳ありなら、探偵もまた訳ありなのさ。僕の助手なら、質問ばかりでなく頭を使って欲しいものだね。さてと、事務所に戻ったら君に部屋の説明をしなければ」



********************************************************************************



 次の日、ジェイの言っていた通り日没後すぐに女性が事務所にやって来た。ジェイは出迎えた時に、よくここまで太れたものだと感心すらしていた。彼女には二階までの階段を上るのもきついようで、夏でもないのに大汗をかいていた。ジェイが早速見つかった帽子を見せ、本人のものだと確認をとったところで、フェルが自室から出てきた。

 ジェイは昨日聞いたことだが、彼は昼間は例の『Secret』の看板の部屋の中で過ごしていて、日没まで決して出てこないのだ。


「用事がある時も、部屋の外から呼ぶだけにして欲しい。決して起こしに来たりしてはいけないよ。この約束を破ったら、助手といえど即座に出ていってもらうからね」


 目尻をキリッと上げながら、そう脅されていたのだった。


 依頼人はフェルをみとめるなり、まだそんな力が残っていたのかとジェイが驚くような速さで一目散に駆けていった。まるで惚れているかのように。


「この帽子、夫に初めて買ってもらった物でしたの。先生、見つけてくださりありがとうございました」


 フェルはまた得意げになり、深々とお辞儀をした。


「思い入れのある物だったのですね。貴女の喜ぶ顔が見れただけでも、探した甲斐があるというものです。それで報酬の事なのですが、助手の面前で話すのもなんですし、応接間へどうぞ」


 喜ぶ顔が――などとキザなことを言っておきながら、すぐにお金の話を持ち出す辺りがめついなとジェイは思った。依頼人は、招かれるままジェイにはあれだけ入るなと言ったフェルの部屋へ易々と入っていってしまった。この男を紹介した恩師は、夜中に既婚者を自室に連れ込む人ような人だと知らなかったのだろうな、とジェイはため息をついた。


 たっぷり一時間は経ったころだろうか、部屋からやおら「助手君、温かい紅茶を淹れておいてくれないか」と聞こえた。何をしていたか想像したくも無いが、女性を労わるのは大切なことだ。ジェイはきっかり一人前のお湯を沸かして、部屋の主が扉を開けるのを待っていた。

 やがて出てきた依頼人はぐったりしており、さらに汗がすっかり冷えてしまったようで、マフラーをしているにも関わらず寒そうに震えていた。すぐに用意していた紅茶を差し出すと、一口飲んだそばから頬に血色が戻った。


「さて、僕はこの女性を家まで送ってくよ。夜も更けてしまったし、レディを一人で歩かせる訳にはいかないからね。留守番を頼む、寝てても構わないよ」


 夜中に呼んだのは自分の癖に、とジェイは思ったがグッとこらえた。帰ってきたら問いただしてやろうと意気込んでいたジェイだったが、昨日の疲れが残っていたからか椅子に座りながら眠り込んでしまっていた。


 次の朝、ジェイは外の喧騒でようやく目覚めた。彼の背中には毛布がかけてあったが、椅子で寝たせいで身体中が痛く、寝起きは悪かった。ただ、他人に当たろうにも、本人が部屋に閉じこもっているので悪態をつくくらいでしか発散できなかった。



************************************************************************



 次の日の晩、街を知らねば仕事はできない、とのことで、フェルが通りの周辺を案内してくれることになった。ちなみに今日は依頼も入っておらず、暇であった。ランタンを持って、まずはフリスストリートを端から端まで歩くことになった。


「このお店は美味しいフィッシュアンドチップスを出すらしいんだけどね。あいにく夜は開いてないんだ。だから僕は食べられたことはない」


 事務所の汚れた雰囲気とはまた違う、時代を感じさせる古い建物があった。フェルに訊いてみると、首をかしげながら答えてくれた。


「ああ、この店は骨董品を扱っているそうだよ。なんでも店主も七十を超えているというね、外装も店内も古臭い店だと依頼人が話してくれた事があった」

「エル先生は来たことは無いんですか」

「ご老人の就寝は早いからね、ここも開店しているところすら見たことが無いんだ」


 どの店や家についても似たような返事や伝聞しか返って来ず、唯一フェルの感想が聞けたのは、服屋についてだ。


「ここの店主は良い人でね、僕が注文を手紙で送ると、採寸の為に夜に店を開けてくれるんだ。その分お金は割増だけれどね。今持ってる服のほとんどは彼に作ってもらったんじゃなかったっけ」


 あきれ顔のジェイが、ため息交じりに尋ねる。


「エル先生は、案内すると言っておきながら何にも知らないんですね。いったい何年フリスストリートに住んでいるのですか?」

「うーん、忘れちゃったけど十年は居るな。ごめんね、引きこもりで。さて、他に見たい場所はあるかい?」

「昼間に一人で散策した方が、分かることが多そうです」

「百聞は一見に如かずというからね、いやなに東洋の言葉さ。なんだい、僕が頼りないとでも言いたげなその目は? じゃあいいさ、帰ろう」


 完全に不貞腐れたフェルが踵を返し歩くこと数歩、彼は軒先のゴミ箱の陰に子供がいるのを見つけた。ジェイは突然走りだしたフェルを慌てて追っていった。


「エル先生、走って帰らなくてもいいじゃありませんか」

「静かに、ここで少女が眠っているんだ。下手に起こして泣かれちゃ堪らない――――っと、起きちゃったね」


 ランタンの明かりのせいもあるだろうが、起きた少女は眠そうに目をこすって、目の前の二人に気付き小さく震えた。


「怯えないで、僕達は君が心配なだけなんだ。お家はどこにあるの?」


 ジェイがしゃがんで話しかけると、小さな声で何か答えた。ジェイは聞き取れなかったがフェルには通じたようで、彼もまたしゃがんで話しかけた。


「すると迷子でも無さそうだね。僕の家にでも来るかい? 外は寒いだろう」


 少女はしばし黙って考え込んでから、申し訳なさそうに頷いた。


「歩けるかい?」


 首を横に振る少女。やれやれとフェルは自分の背を指差し、少女をおぶった。歩きながら、ジェイは話しかけてみた。


「君の名前はなんて言うんだい?」

「……リネット」

「リネットちゃんか、可愛いね」

「……」


 それきり事務所に着くまで黙ってしまった。疲れているのだろうし、起きたら色々尋ねてみよう、ジェイはそう思った。


 結局、名前以外のことは何一つ聞き出せず、事務所で共に生活するようになるのだが、この時の二人はまだ知らないことだ。



*************************************************************************



 ジェイがフェルの下に来て十数日経った頃の夕暮れ時、新聞を読んでいたジェイの耳にドアをノックする音が聞こえた。ジェイが覗き穴から様子をうかがってみると、いかつい顔の中年男性が立っていた。


「エリー、おい居るんだろう? 大事な話があるから入れてくれよ」


 依頼人以外の来客など初めてで、ジェイはどう対応するか悩んでいたが、その間にもノックの音は止まない。リネットが机の陰に隠れてしまい、さらにフェルに友と呼ぶような人がいるとは思っていなかったこともあったが、戸惑いつつも仕方なくドアを開けた。男性はジェイを見下ろしながらずかずかと入って来た。


「エリーのやつ、また助手を変えたのか。お嬢ちゃん入れてくれてありがとうな」

「僕は男です。失礼ですがどなた様です?」

「俺は、ケイトだ。さしずめエリーの敵ってやつかな。休戦中だが。おいエリー、入るぞ」


 躊躇いもなくフェルの部屋の扉を開けようとしたので、ジェイは慌てて止めに入った。自ら敵と名乗る人を、寝ている師匠の下には行かせられない。


「ああ、もうすぐ起きてくるころですから、この部屋で待っていてください」

「わかった。前の助手ちゃんも、部屋には頑なに入れてくれなかったしな。事務所に入れてくれただけありがたいと思うことにするぜ」


 この台詞で、ドアを開けない方が賢明だったと悟り、ジェイは青くなった。何と言って追い出そうか考えていると、フェルが寝ぼけ眼で現れた。しかしケイトを見るや否や、目にも止まらぬ速さで詰め寄り、彼の胸ぐらを掴んで持ち上げた。


「一体どうやってここに忍び込んだんだい? 君除けのまじないは抜かりなく掛けておいたはずだが」

「君の新入りの助手が入れてくれたんだぜ、手荒な真似は止せよ」

「おい助手、こいつの顔と声は覚えたな? 今度から絶対この事務所の敷地を跨がせるなよ」


 ジェイの方を見もせず早口でまくしたて、ひとつため息をついてから、フェルはケイトをドンと床に落とした。


「こんな大事な説明を忘れていたなんて……」


フェルはそうこぼしながら、よろよろと再び自室に戻ろうとしていた。しかし、取っ手を握ったところでケイトが引き留める。


「いやいや、お客さんを待たせておいて帰るったぁないだろ。それに生憎、今日も証拠を揃えてしょっ引きに来た訳じゃない。依頼だよ」

「はいはい非公式の依頼という名目の、警察への強制協力ですか。弱みに付け込む脅し紛いの」

「ケイトさん警官だったんですか」


 ジェイはなによりそこに驚いたようで、ケイトから一歩二歩と後退っていった。


「そうさ、どこから見ても警官にしかみえないだろ?」

「てっきりゴロツキ」

「ああ? 俺が何に見えるってぇ?」

「……はい、警官です」


 睨みをきかせてすごまれると、さすがのジェイでも本音を隠さざるをえなかった。リネットの悲鳴が小さく聞こえた。


「で、要件は一体なんだ? さっさと言って、帰ってくれないかなぁ」

「手短に話そうとは思うが、聞いて驚くなよ」

「わぉ」

「まだ何も言ってない! ここ数日で市民から不審者が出ると複数通報があった。どうやら何人かいるようで、毛深かったり、背が高かったりと内容はバラバラだ。沼地の方にも恐竜のようなものがいたとかいう信じがたい通報もあったな。ともかく一斉に市内あちこちから変な物を見ただとか言う通報が来るわけだ。しかし、大概駆けつけたところで、何も見つからない」

「通報されたら誰だって逃げるだろうね。特に君が駆け付けたとなると」


 ケイトは聞き飽きたからかいは無視して、咳払いをしてから続けた。ジェイは懐から手帳を取り出して、熱心にメモをしている。


「一件だけ、俺も目撃した奴がいたんだ。子供が馬に襲われてるって通報だったんだがな、見たこともない生き物だった。確かに馬みてえな姿だが、長く鋭い角が生えていたのさ。俺もおっかなくなって銃を一発撃ったら、驚いてどこかへ走り去ってったけどよ。見間違いじゃあない。角が生えていた、ありゃあ悪魔の動物だ」

「角ですか?」


 ジェイは額から角が伸びている様を想像したのか、自分の額の上辺りを掴むような動作をした。ケイトはジェイの反応が予想通りで笑顔になっていたが、フェルが驚かなかったことが若干不満なのか、すぐ仏頂面に戻った。


君たち(・・・)は何でもすぐに悪魔だと罵るね。まあ助手君もいるし、その話は置いておこう。いくつか質問するけど、まずその子供の性別は?」

「女子だ」

「泣かれた?」

「無論……待て、あれは俺が怖かったからの涙じゃなかったぞきっと」

「ふうん。で、その生物に角は何本かあったか?」

「一本だった」

「そして最後に一つ、君が打った弾は、馬のような生物にも女子にも当たらなかったんだな」

「もちろん、狙ってなかったからな。俺を誰だと思ってる?」

「偽警官?」

「わかったもういい」

「さて冗談はこの辺にして、その生物の話をしよう。他の通報が同じものとは思えないけれど、角のある馬なら知識がある。きっとユニコーンだろう。助手君は知っているかな?」


 突然話を振られたジェイは手帳から顔を上げて、小さく頷いた。


「乙女にしか懐かないという獰猛な生き物ですよね。しかし、伝説の生き物ですよ、先生。まさか実在したとでも言うのですか」


 フェルは大真面目な顔で頷いた。ジェイだけでなく、ケイトも「そりゃないぜ」とこぼしている。


「まだ想像の段階でしかないけれどね。少なくとも、ユニコーンを模した何かではあるはずだ。流石にお前でも鹿なんかと見間違えはしないだろうから。これで用は済んだかな? さあお帰りください」


 フェルは丁寧な会釈をし、執事のような仕草で手でドアの方を示した。


「待て待て、仮に俺が見た馬がユニコーンだとしよう。そうしたら、俺はどう立ち向かえばいいんだ」

「知らない、警官だろう? 皆で知恵を絞って僕たちと街を守ってくれよ」

「そう言わずさ、助けてくれよ、エリー。このままじゃ銃をぶっ放すことしか出来ないぜ」

「……やめて!」


 物騒な話がダメなのか、耐えかねたリネットが飛び出してきた。頬を膨らませて、怒っているようだ。


「撃っちゃダメ。痛い痛いでしょ?」

「僕も彼女の意見に賛成だ。銃を撃つと脅されちゃ、協力するしかないじゃないか」

「あ、有難い。ところでエリー、お前隠し子なんていたんだな」


 四人目の人物の登場に驚きを隠せないケイトは、開いた口が塞がらないようだ。


「違わい、拾ってきたんだ」

「おっと人攫ひとさらいか、余計に見損なったぞ。ちょっと署まで」

「違います。この子はリネットちゃん、通りで凍えていたところを先生が匿ってあげただけです。両親を探しているんですが、教えてくれないのです」


 リネットも恩人を罪人にさせまいと、必死になって首を振っている。ケイトはタジタジだ。


「何だよ、皆寄ってたかって。冗談に決まってるだろ、エリーが人を攫うくらいで俺が見損なうわけないじゃないか。だってよぉ」

「はいはい、雑談してる暇あるのかな? 大方、夜勤を抜け出してここに来たんだろう。僕も調査しておくから、バレる前に帰った帰った」


 フェルは何か言いかけのケイトをグイグイ押して、ドアの外に追い出してしまった。


「どんな付き合いなんですか、先生とあの警官って」


 ぐったりとしてぶつぶつ言いながらドアを閉めたフェルに、ジェイがずっと聞きたかったことをぶつけた。フェルは思い出したくもない、といった様子で、頭を抱えながら答える。


「僕が昔殺人現場近くで目撃されたからって、あいつは僕を殺人犯だと決めかかってるのさ。それからずっと付きまとってくるんだ。あいつのせいでどれほど迷惑をかけられたか、もう顔も見たく無いんだ。今後は依頼人の女性以外は絶対事務所に入れるんじゃないぞ」


 最後はジェイの胸を指差し、また怖い顔で念を押す。リネットも恐る恐るといった感じで口をはさんだ。


「せんせー、は誰かを、痛い痛いさせたの?」

「疑われただけだよ。リネットちゃん怖がらないで。もしかして、君の両親はだれかに、ころ――痛い痛いされちゃったのかい?」

「ううん、お母さん元気。だけどリネットに痛い痛いするから嫌い」


 この返答に、フェルは首をひねった。人が死ななくでも”痛い”のだとしたら、この子は虐待を受けていたから家出しただけかもしれない、そう考えた。思い出してしまったのか、泣き出しそうになったリネットをジェイが優しく撫でる。


「僕はエル先生を信用していいのでしょうか? レオタ先生の紹介が無ければとっくに別の人を頼るべきに思えてきました」

「それを本人に言っちゃうか。僕は辞めて貰っても構わないよ。助手を紹介してくれたミス・レオタには申し訳ないけれどね。リネットちゃんも僕より君に懐いているし」


 フェルの表情は苦笑しながらも、どことなく寂しそうにジェイには思えた。それに、リネットちゃんのことを出されると去りにくい。他に行くあてもなかった。


 重苦しい空気が流れるなか、今宵二度目のノックが聞こえた。ジェイが対応しようと反応したが、フェルが制した。


「今度は僕が出るよ。また変な輩が来ても、君じゃ追い返せないだろう?」


 人見知りなリネットが机の隅にまた隠れたのを確認してから、「どうぞ、お入りください」とドアを開けた。血相を変えた色白やせ型の女性だった。分厚い封筒を大事そうに抱えている。


「ずいぶんと慌てたご様子ですね。急を要するご依頼とお見受けしましたが」


 椅子まで案内しながら、フェルはまず尋ねた。ジェイは急いでお茶の準備だ。依頼人の心を落ち着かせる為に、カモミールを淹れることにした。


「Elford事務所は失せ物は何でも見つけるという評判を聞いて、夜中になってしまいましたが、押しかけてきてしまいました」

「ここは夜しかやってないんですよ。むしろ好都合でしたね。それでは、さっそくご依頼を伺ってもよろしいですか?」


 女性はこくりとうなずいてから、人差し指を口の前でピンと立てた。


「初めに、私が来たことは内緒にしてもらいたいのです」

「匿名でも一向に構わないですし、もちろん、探偵には守秘義務がありますからね。約束しましょう」

「僕も先生の助手ですので話はご一緒にお伺いしますが、秘密は守ります」


 ジェイはどうぞとカップを差し出して、メモのためにいつもの手帳を取り出した。


「あら、ずいぶんとお若いのね。ありがとう、いただきますね」


 ハーブティーで喉を潤してから、女性は話し始めた。


「まず自己紹介した方が話が早いと思うので名乗りますが、世間にはソフィア・ホフマンで通っています」

「え、あの作家のですか?」

「はい、やはりご存知ですよね」


 ジェイはすぐさま分かったようだが、フェルは思い浮かばないようだ。そんなフェルの表情を見て、ジェイはさきほど読んでいた新聞を取って来た。


「エル先生、ほらこの広告をみてください」


 開いて見せたページには、下の方に小説の名前がいくつか連なっていた。ジェイが指差す箇所には『鏡の幻影 ソフィア・ホフマン』とあった。


「大変失礼いたしました。僕は世間の流行には疎いものでして」

「いいのよ、きっと探偵稼業は忙しいのでしょう。それで、今私の手元にあるのが最新の原稿なのですが、お手に取っていただけるでしょうか」

「拝見させていただきます」


 紐で綴じられた封筒を慎重にあけると、文字がびっしりと詰め込まれた原稿用紙の束が出てきた。世に出ていない話とあっては、ジェイも食い入るように覗いている。上から数枚眺めてみても、特に不審なところは無さそうだ。


「初めは無事なのです。後半部分をみてください」


 二人はまさか原稿用紙が盗まれて、話が穴あきになってしまっているのかと思っていたが、事は全く違っていた。後半はただの真っ白な紙だったのだ。


「もしかして、話が思い浮かばない、というご依頼なのでしょうか?」

「いや、助手君そんなことはないようだ。ほら、飛び飛びで書き込んである。周辺は削り取ったような形跡も見受けられないし、なんとも不思議な書き方だ。最初から空欄を作って書いているのでは無く、まるで文字自体が”消えてしまった”かのようだ」


 そんなことがあるものかと、ジェイが原稿から顔を上げると、その通りだと頷く作家がいた。


「その通りなのですよ、探偵さん。最初に気付いたのは二週間ほど前でしたが、だんだんと書いたはずの物語が(・・)消えていってしまったのです。そしてさらに不思議なことに、書き直しても書いたそばから消えてしまうのです」

「そんな、物語を探すだなんて、そんな突拍子もない事、引き受けるのですか?」


 ジェイは思わず口にだしてしまってから、慌てて口元を押さえた。その言葉に、予期はしていただろうが落胆を隠せないようで、ソフィアは残っていたハーブティーを飲み干した。


「助手の失言、大変失礼いたしました。ですが落ち込むのは早いですよ、レディ。確かにこの私、フェルディナンド・エルフォード、依頼をお受けしましょう。少々お時間をいただくかもしれませんが、必ずや取り戻してみせましょう」

「本当ですか」


 信じて貰えたということだけでもソフィアの顔がぱあぁと晴れやかになる。しかし、そう易々と受けるなんて、ジェイはどうも懐疑的であった。


「もちろんです。進展がありましたらこの助手が伺いますので、どうかしばしお待ちください」


 ジェイの心情をよそにフェルは立ち上がり、ドアへ案内しようとしたが、座ったままのソフィアは少し言いにくそうに心配事を告げた。


「エルフォードさん、私作家をしているのでお金の用意はあるのですが、前金などはおいくらなのでしょうか」

「解決していないと言うのに、お金を頂戴するわけにはいきません。そういったことは、すべてが終わってからお話ししましょう。それに、どうやら我が事務所の報酬金は相場に比べて大変リーズナブルということでもちょっとした噂になっているようですので」


 これを聞いてソフィアに笑みがこぼれた。ジェイは、初めてフェルの口から報酬金の額について耳にしたので、がめついと思っていただけに意外そうな顔をしていた。ソフィアはすっと立ち上がると、二人に向かって深々とお辞儀をした。


「でしたらあとはお任せするしか無いのですね。どうか、我が子のように大切にしていた物語を、探してください」

「はい、必ずや、先生が再び物語を紡げるようにいたしましょう」


 ソフィアは原稿を抱え、帰っていった。足音もすっかり聞こえなくなったところで、そもそも依頼に懐疑的なジェイが小声で尋ねた。


「文字が書けなくなるなんて話、先生は信じたのですか?」

「もちろんだとも。根拠も無いのに依頼人の話を否定なんてできないからね。それにしても、何が原因なのだろうね」

「ペンの調子が良くなかったとか」

「それは無いね。君はよく見ていなかったのかもしれないが、紙には書いた跡すら残っていなかったにも関わらず、文が虫食いになっていたのだから」

「じゃあ、虫に食べられた?」

「ほう、君も柔軟な発想ができるようになったじゃあないか。では虫に食われていたとしよう。紙が破けていたわけで無いのに、どうしてその上から書けなかったのだろうね」

「これも違いますよね。あとは……もう僕には思いつかないです」

「あれ、早々に虫食い説を放棄するのかい。虫の体液によってインクが付着しなくなっただとか考えようはあるのに」

「そうなんですか!?」

「仮にそんな虫がいるとしたら辻褄が合うということだよ。残念ながら僕は昆虫には詳しくないから、そんな事が起こりうるのかは知らないよ。虫が犯人だったら同様の話を聞いたことがあっても良さそうなのだけれどね」

「じゃあやっぱり虫でも無さそうじゃないですか。エル先生はどうお考えなのですか?」


 一瞬でも勘が冴えていると嬉しがったジェイは、頬を膨らませて不機嫌になった。


「そう怒らない。怒りの感情は我を忘れさせてしまうのだから。ただ僕はね、この依頼は常識に囚われたら一生見つからないものじゃないかと思っているんだ。適当でも案外いい線をいっているのかもしれないから、君の発想の根拠を聞いてみたかっただけさ」

「二人とも、けんか、ダメ」


 物音ひとつしなかったので、二人ともすっかり存在を忘れかけていたリネットが仲裁におどりでた。


「喧嘩じゃないよ、驚かせてごめんね」

「ううん、けんかよ。このお部屋の空気、ピリピリしてる」

「はは、違いないね。そうだ、リネットちゃん。君も話を聞いていたんだよね」

「うん。でもリネットわからないよ。物語さん、なんで逃げちゃったんだろうね」

「そうだね、リネットちゃんはどういう時に逃げたくなるんだい」

「いやなことあったら、お外のきれいな空気を探しにいくの」

「家出したのもいやなことがあったからなんだね」

「えっと……そうよ」


 リネットは突然自分の話を持って来られて、しまったという顔をした。罠にはめたフェルは満足げだ。


「さて、助手の二人。僕らも外に逃げてみるか」

「リネットも助手できるの?」


 小さいのに夜中に外に連れ出すなんてと言うジェイの心配をよそに、リネットはきらきらと目を輝かせながら訊く。フェルからすれば二人ともまだまだ子供でしかないので無視し、立場がとられそうなジェイをもっとからかってやろうと思った。


「ああ。期待の新人助手だよ。誰かさんが持ってきたもう一つの依頼の調査も兼ねて、街へパトロールだ」

「おー!」


 楽しそうなリネットとは対照的に、当然ながらジェイは尚の事不機嫌になった。



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 今日は一日中風が吹いていなかったのでいつにもましてスモッグが濃い。ランタンでも数歩先を照らすのがやっとである。


「これじゃ何も見えないに等しいですね」

「心の目で見れば見えないものはないさ……というのは勿論冗談だけれど、こんな天気だからこそ、何かが起こりそうだと思わないかい?」

「確かに、身を隠すには丁度いいのかもしれませんが」

「ちょっとこわ~い」


 怖いとは言いながらも、リネットはスキップなんてしている。そんな浮かれた一行は、フリスストリートを抜け、広い通りへとずんずん進んでいく。怪しい人影どころか、誰一人ともすれ違うことは無かった。リネットが疲れた、と愚痴をこぼしだしたころ、突如グオオオという地響きのような咆哮が三人を襲った。


「何かがいますね。野犬でしょうか」

「いや、違うね。二人とも、僕が見てくるから、あっちの建物の陰に身を潜めて動かないで待っているんだよ」


 小声で急いで言うと、フェルはスモッグの中へと行ってしまった。


「エル先生は大丈夫なのですか?」


 ジェイの声は届いたのか、それすらもわからない。インドア派なフェルに対処できる事ではなさそうではある。けれども、二人はフェルの言葉に従って隠れることしか出来なかった。


 一方フェルはというと、咆哮の主を推理しながら声の方へ向かっていた。相手も気づいたようで、息を荒くしながら歩みを進めていた。


「君はあいつの言っていた、毛むくじゃらの生物だね、もっとも人の言葉を理解できるのかは知らないが。僕が相手になってあげるから、人間は襲うんじゃないぞ」


 相手がフェルの姿をみとめると、その鋭い鈎爪を一振りさせた。フェルは難なく躱す。両手を交互に振りかざし、何度も狙うがスレスレのところで躱し続けるフェルはすまし顔だ。


「それしか能がないなら、僕が本気を出すまでもないようだね」


 フェルはいつの間にか長く伸ばしていた爪を、素早く毛深い生き物の首に沿わせた。これで決着はついたかと思うと、左右同時に、先ほどより一回り大きい鈎爪がフェルを襲う。別の個体の攻撃だ。流石に複数いたことは予想できず、間一髪で急所は逃れたが左腕には真っ赤な血が線を引いていた。


「そうか、そうか。リネットちゃんの手前、君たちを気絶させることまでしか出来ないけれど、僕とそんなにやりあいたいか。幸いこの天気だ、僕も思う存分暴れまわれて好都合っと」


 言い終わると、そこにフェルの姿は無かった。アオーーンという新たな咆哮を響き渡らせ、どこからともなく大都会に一匹の狼が現れていた。狼は果敢に立ち向かっていくと、足や腕などを次々に噛んでいった。鈎爪の猛攻を受けてもよろめくだけで、飛びかかるのをやめることは無い。激しい戦いの中、一匹がジェイとリネットの話し声に気が付いた。狼に見つかること無くどんどん近づいていき、ついに二人にも敵が向かってきていることがわかった。鈎爪を今にも振り下ろさんとしていたところ、二人と一匹の間に狼が飛んで入った。新たな敵に怯える二人だったが、二人を背に立った狼は顔に爪の直撃を受け苦しそうにしながらも吼えたて、毛むくじゃらを追い返していった。勝ち目がないと悟ったのか、毛むくじゃらの生き物たちは霧の中に消えていった。


 狼も消え静かになったので、どうやら終わったようだとジェイ達はフェルを探しに建物の陰から出た。相変わらず視界が悪い。


「エル先生、どこに居るのですか?」

「せんせい、どこ?」


 叫ぶが返事はない。もしかして、と最悪の事態を想像してしまったジェイは、目に涙を浮かべながら必死に探した。


「フェル、せんせいいたよ」


 フェルの名を呼ぶリネットの声を聞き、駆けていくと、顔も服もズタボロになり地面に力なく寝そべっている姿が確認できた。


「おや、助手君は泣き虫だね」

「だって先生が......」

「最近引きこもってばかりだったからね、ちょっと体が鈍っていたようだ。でも二人も無事だったし、声の正体も確かめてこれた。調査が進んで良かったじゃないか。さあもう朝になってしまう、帰ろう。というか、正直僕一人では帰れそうにない。肩を貸してくれないかい」

「もちろんです。ゆっくりでいいから立ってください」


 ジェイの肩に回されたフェルの腕はびっくりするほど冷たかった。早く帰らないと体力が危ない。焦りが通じてしまったのか、フェルもできる限り急いで足を動かして帰った。



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 瀕死の時でも自室にジェイを入れるのを拒んだフェルは、ジェイが使っている部屋のベッドに横たわった。このまま目を覚まさないのではないかと心配で、ジェイとリネットは日中ずっとフェルの側にいたが、フェルは月が上る頃、昨日が嘘のようにいたって普通に起きた。


「やあ、おはよう。昨日は僕をここまで運んできてくれて本当にありがとう。助かったよ。さあ、事件を解決させにいこう」

「ちょっと待ってください。どっちかの依頼、もう答えが見つかったんですか? なにより、まだ寝ていた方が」

「大丈夫、体中痛むけど、昨日みたいなことがまたこの国のどこかで起きてしまうとも限らないからね、さっさと解決しないと。ねえ、リネットちゃん?」

「うん、昨日怖かった。痛い痛いなる前に助けなくちゃ」

「そうだとも。ほら、助手一号君もおいで。コートはいいから」


 足を引きずりながらも歩くフェルは、事務所の椅子に座った。ジェイとリネットも促されるままに依頼人が座る椅子に腰かける。


「さて、今回の依頼だけれど、“物語を探してほしい”と“化け物をどうにかしてほしい”というものだったね。そして、昨日僕たちが見た生き物は、とてもこの世のものだとは思えなかった。まるでそう、物語から抜け出てきたかのよう。突拍子もない考えではないだろう?」


 言われてみれば、人間に似た姿なのに動物園で展示されていそうなあの生き物は、この世の生き物では無いように思えた。狼がいることも不思議だったが、あれこそ野犬だったのかもしれない。


「物語だと考えれば、あの警官のつくり話のような話も分かる気がしますが。それで、どうすれば解決できるというのです?」


 フェルはリネットを指差した。突然指をさされたにも関わらず、予期していたような表情のリネット。


「リネットちゃん、君に初めて会ったあの日から思っていたことだけれど、君は紙の匂いがする。それも、作り立ての新しいやつだ」


 リネットは自分の腕の匂いを嗅ぎ、自分ではわからないというように小首をかしげた。ジェイは、よく昼間にリネットが本棚を漁っているのは見ていたが、本の虫というまで好きそうでも無いと思っていた。なにより、ジェイには関連がわからない。


「エル先生、依頼の話じゃあ無かったんですか?」

「そうさ、全て依頼の解決に必要な話だ。だから助手君は証人としてちょっと黙って聞いていて欲しい。そしてどうやら“死ぬこと”を恐れているね?」


 リネットは小さく頷いて、一目でわかるほどに震えた。今まで“痛い痛い”と言い換えていた単語だ。トラウマになっているのであろう。


「死ぬのが怖くないっていうの? 何も見えず聞こえず声に出せず、いずれみんながリネットのことを忘れちゃうの。その怖さがわかる?」


 そうこちらを見て声を荒げられても、ジェイは共感できない。死んだことなどあるわけがないのだから。ところが、フェルはリネットの目線に合わせて優しく語りかけた。


「そりゃあ僕だって怖かったさ。君は僕のことを知って、あの日待っていたんだろう。でもね、一度死んだ人はどんな力を借りたとて生前と同じには戻れないのさ。それがたとえ物語の中だったとしても。小説の世界から逃がしてあげたところで、皆馴染めず困惑してしまう。君も今回それがわかったと思う。それか僕のようにひっそりと生活するしかない。仕方がないんだ。見て見ぬ振りをすることは出来ても、死ぬことからは逃れられない」


 ジェイは、リネットに伝えるには厳しすぎる言葉のように思った。そして、フェルが口にするには早すぎる悟りだとも。フェルの話は半分も飲み込めていなかったが、フェルとリネットの間にはただならぬ空気が流れていた。


「でもね、一つだけ間違っている。死んでも誰かが必ず覚えている。本に書かれているであろう君の死は特にだ。どういう死に方なのかはわからないけれど、読者みんなが悲しむだろう。本があり続ける限り、君はみんなに覚えてもらえるんだ。たとえ紙が色褪せてしまったとしても、だ。とても贅沢なことだと思うよ」

「そうなの……みんな、リネットのこと、覚えていてくれる?」

「僕もリネットちゃんと過ごした日々は忘れません。安心してください」


 二人の話を聞くと、リネットは涙を流しながら「ありがとう」、と呟いた。するとどうしたことだろう、リネットを光が包み、彼女はだんだん消えていき、ついには何もなくなってしまった。ジェイがその空を掴もうとしても、何の手ごたえも無い。


「彼女は物語のところに戻ったようだね。さあ、作者に報告しよう。そろそろ来るころじゃないかな」


 ジェイは何が起こったのかさっぱり理解できていないのだが、どんどん解決に近づいていることだけはわかった。フェルの言葉通りドアがノックされ、嬉しそうな顔のソフィアが現れた。


「ありがとうございます。たったいま、原稿用紙に文字が戻って来たのです。どう解決してくれたのかわかりませんが、ありがとうございます。なんとお礼をしたらいいか」

「あなたが嬉しそうな顔をしてくれるだけで、僕は仕事のし甲斐があるというものです。さあ、こちらへどうぞ」


 他の依頼人と同じく探し物が見つかり解決すると、フェルの部屋に連れていかれた。三十分くらいたった頃だろうか、あまりに置き去りにされすぎていることに腹が立ったジェイは、ついにフェルの言いつけを破り、ドアをそおっとあけて、中を覗き見た。椅子に座りぐったりとしたソフィアの首を、恍惚とした横顔のフェルが噛んでいた。思わず息をのむと、その呼吸音でばれたのか、フェルがこちらをギロリと見た。その目は血走り、首から離した口からは二本の鋭い歯が覗いていた。唇はというと、血で濡れ、てかてかと光っていた。

 フェルはソフィアを上手く背もたれにもたれかからせると、ゆっくりとジェイに向かって歩いてきた。


「とうとう君も来てしまったか。僕は見ての通り、ヴァンパイア。さっきリネットちゃんに言った言葉から勘づいているかと思うが、一度死んでいるんだ」

「そ、そうだったんですね」

「おや、君は逃げないのかい。僕のこの姿を見た過去の助手たちは皆揃いもそろって一目散に駆け出していったよ」

「あんな優しかったエル先生が、僕を食べたりしないと信じていますので」

「嬉しいことを言ってくれるね。でも、君は男だからねぇ、食指は動かないかな。さて、君はヴァンパイアについて何を知っているのかな。ああ、ソフィアさんなら疲れて寝ているから気にしなくていいよ」


 牙が生え、血を拭いもしないおぞましい姿に変わっても、口調はいつものフェルに違いなかった。ジェイの動揺は消えはしなかったが、なるべく平静を取り戻そうとした。


「人間の血を食事として存在しているリビングデッド、生きる屍の伝承(・・)だと思っていました」

「それだけ?」

「はい。もうファーザー・クリスマスを健気に信じる子供では無いので、空想を詳しく調べようと思ったことは無くて……ええっと」

「いいさ、それが普通のことだ。鼻で笑わなかっただけ嬉しいよ。因みにあの警官がその一人さ」


 ケイトのことだろう。自分は信じなかったのに、僕たちには不思議な話を信じてもらおうとしていたのか。


「それじゃあ、僕の特性についてすこし話させてもらおうか。君のいくつかの疑問も解決するはずさ。長くなるから事務所で座って話そう」


 ドアを開け、再び椅子に座り向い合せになる二人。相変わらずフェルの髪はぼさぼさのままだが、足を優雅に組んでいる姿は、男のジェイにも綺麗と思えた。


「君が最初に疑問に思ったであろう、僕が夜行性なことから話そうか。僕はね、日光が苦手・・なんだ。正確に言うとね、日に当たるとね、土に還ってしまうんだ」

「それってつまり、死んでしまうということですか……あ、一度死んでいるんでしたっけ」

「混乱するよね、でもその通り。本来死人が起き上がるなんてあってはいけないことだろう? だからなのかな、一度カーテンの隙間から日が漏れたことがあってね、僕の足の小指は欠けている。それ以来怖くもあるんだ。だから絶対に日中は部屋を出たく無いし、扉を開けられるのも嫌なんだ」

「ああ、だから開けるなとあんなに怖い顔で言っていたんですね」

「うん。ただプライベートな空間だから入ってきて欲しくないってこともあるけど。いやあ、この姿で普通に会話できる日が来るとは思わなかった」


 フェルは満足そうな表情を浮かべている。今まで何人の助手が彼の下を去ったのか、ジェイには想像つかなかったが、この幸せそうな顔を見られたのは自分しかいないと思うと誇らしかった。


「姿が変わっても、中身はいつものエル先生ですからね」

「泣かせても何も出ないよ。姿ねぇ、そうそう、君たちは昨日霧の中で狼の姿を見たんじゃないかな」

「見ました。まさかあの狼も」


 襲われるかと思ったが、結果として化け物を追い払ってくれたことを思い出した。


「そのまさかだよ。二人して僕のこと警戒していたのも感じていたんだからね。他にも、蝙蝠を使役できたりするんだ。さっきソフィアさんをここまで来させたのは蝙蝠に言伝を運ばせたからなのさ。僕自身も蝙蝠に変身できるしね」

「何でもできるんですね」

「そんな事はない。昼間動けないから、尾行も情報収集も儘ならない。だから捜索なんて小さいことしか出来ないんだ。それも、長者の知恵と嗅覚が頼りという、偽りの探偵さ」

「僕が初めて先生の依頼にご一緒したときには、見事な推理で帽子を発見していたじゃないですか」


 弱気になったフェルを見たのが初めてで、どうにかジェイはいつもの明るさを取り戻してほしいと思い言った。しかしフェルは力なく、ははは、と笑っただけだった。


「あれが演技だったのに君は気づかなかったんだ。助手君もまだまだだね。依頼人独特の匂いを元に、辿って行っただけだったんだよ。あの推理もどきは後付け」

「でも、ちゃんと筋は通っていたような」

「答えから方法を逆に考えていっているからね。推理っぽくはなるように言ったさ。さて、これで僕が頑なに“弟子”を取らない理由もわかったね? 僕の探し方は他人に教えられるものじゃないからなんだ。ここまで聞いたうえで、君はどうするかい? 僕の助手を引き続き担ってくれてもいいし、どこか別の人を頼ってもいい。何しろ、逃げない助手は初めてだからね。選択は君に任せるよ」


 フェルは手元にあった書物を見てペラペラとめくっている。そのままジェイの返答を待つようだ。

 ジェイは静かに悩んだ。以前男に興味はないとは言っていたが、このままエル先生の下に一人でいて、身の安全は大丈夫なのか。短い間だったけれども、師として仰いできたからには信用したいが、彼の嘘を見破れなかった事実がある。

熟考の末、選んだ道を伝えるためにフェルの方を向く。長い爪をものともせず、器用にページをめくるフェルだったが、視線に気づきパタリと本を閉じた。


「エル先生。僕は……」

「そうだ、君宛にこんな手紙が届いていたんだった。いま読んでみたらどうかな」


 忘れていたとでも言いたげな口調でジェイの言葉を遮り、読んでいた本の間から封筒を取り出した。『ジェイ・コンティ様』と書かれたその印刷されたかのように整った宛名は、ジェイの恩師、レオタの筆跡であった。封を切り、手紙に目を通した。



『ジェイ君、エルフォードさんには迷惑かけてないかしら。私の実家の事は妹が面倒をみてくれることになったので、落ち着いたら我が家に戻ろうと思っています。この手紙が届く頃には、実家を出ているはずですから、読んですぐ帰ってきてもいいですよ。成長したジェイ君に会えるのを楽しみに待っているわね』



 ざっとこのようなことが書かれていた。手紙から顔をあげ、フェルの顔を見上げる。


「どうしたんだい、君の信頼するミス・レオタからの手紙だろう? 悲しいことでも書かれていたのかい」


 ジェイはかぶりを振って、フェルに手紙を渡した。フェルは所々頷きながら読むと、口を開いた。


「なるほどそうか、これで僕が君の面倒を見るのも終わりなのだね。別れを悲しんでくれる助手なんて初めてだ。あぁ、リネットちゃんを除いてね。明日の日中にでも発つかい?」


 なんだかさっぱりしているフェルにどことなく戸惑ったジェイ。開けた形跡はなかったけれどもしかして、先に手紙の内容を読んでいたのではないかなどと疑いたくなった。手紙を渡すのがあまりにも出来過ぎているタイミングなように思えてならなかったからだ。助手と言いながら、あまり仕事を手伝うこともできなかったし、早く恩師のもとへ帰るべきなのかもしれないと、ジェイは考えた。


「そうします。今日までお世話になりました」

「そうだ、僕に訊き残したことは何かないかい? もう会うことも無いかもしれないからね」

「ひとつだけ。ケイトさんが追ってる事件って、エル先生は当然冤罪なんですよね」


 フェルは目を細め片方の口の端を上げて、怪しげに笑った。


「ふふ、さてどうだろうね。君も探偵見習いなら、容疑者の主張ほど信じられないものは無いと思ったことはないかい」

「見習いなんかじゃないです! 僕も立派な探偵です。でも、エル先生の言うことは信用します」

「本当かい? さっきはあんなに僕を疑いの目で見ていたのにかい」


 目の端でもわかるほどの表情をしていたのだろう、フェルの追求にジェイは返す言葉が無かった。


「うっ……。でも、僕はエル先生を信用したいんです。だから先生の口から聞きたいんです」

「わかったよ、頑固だな。君の言う通りだ、冤罪なんだよ。さて、夜明けが近づいてきたようだから、僕は部屋に戻ろう。君と過ごせて楽しかったよ。気を付けて帰ってね。そうだ、駅までの地図を渡そう」


 そう言って、部屋に地図を探しに行きかけたところを、ジェイが呼び止めた。


「大丈夫です。一度来た道は忘れてませんから。ではエル先生、お元気で。手紙、書きますね」

「手紙か、待ってるよ。じゃあおやすみ」

「おやすみなさい」


 別れの言葉がおやすみだなんて、おかしいや。ジェイはそう思ったが、出てきたものは笑いではなく、涙であった。フェルが部屋に戻ったのを確認し、分厚いカーテンを少し開ける。空の端が橙色に色づいていた。


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