♯43 憧憬を抱きて(紺色鼠の奔走)
「かつてこの国に、最弱と蔑まれ、疎まれ、虐げられ続けた者達がおりました」
それは、幼き日の記憶。
晩春のゆるやかな午後。庭園を臨むテラスに僕は呼ばれ、クスハ様の語る言葉に耳を傾けていた。
「僕達ファーラットですか?」
「いいえ。その者達はあなた達のように、寒さから身を守る毛皮さえありませんでした。彼等はその弱さ故に、自らが生きていく為の土地でさえも、奪われ続けてきたのです」
おだやかな日差しを受けて黄金色に輝く髪。そこからのぞく、優しげな双眸に魅入られる。
僕の濃紺色の毛並を撫でる掌が柔らかい。
嬉しさとくすぐったさに目を瞑ると、鈴を転がすような声で、クスハ様は笑みをこぼした。
「けれど、そんな自分達の境遇に甘んじて生きる事を許さず、現実に抗い、種族としての限界に挑んだ者がいたのです。彼女は反抗者でした。己を鍛え、わずかな可能性を掴み取り、信念のままに、誰もが諦めていた道なき道を追い求めました」
「その御方は、どうなったのですか?」
「長く辛い道程の末に、自らの求むる頂へと辿り着きました。彼女は他者を救い、同胞を導き、己の成すべき事を見事に成しえたのです」
「すごいですね。僕もその御方を尊敬します」
クスハ様はあどけない僕の反応に、好ましやかに頷いてくれた。
身寄りの無い僕を手元に引き取り、育ててくれたクスハ様。僕だけではない。クスハ様は他にも大勢の子供達を引き取り、それらみんなに同じように暖かな目差しを注いでくれる。
天魔大公という、この国でも並ぶ者少なき御位にあって、クスハ様はどこまでも慈愛深き御方だった。
「私もです。彼女は、私の最も尊敬する友人の一人なのですから。私はね、アスタス。ファーラット達にとっての彼女のような存在に、あなたならなれると思っています」
「僕が、ですか?」
「ええ。あなたはとても素直で優しい子です。勤勉を美徳とし、自身で考え答えを導く力があります。ここでより多くの事を学び、より多くの経験を重ていけば、あなたならきっと」
「……はいっ! 頑張りますっ!」
「期待しています」
クスハ様の言葉を受けて胸が熱くなった。
言っている事の全てが分かった訳ではなかったけれど、それでも、クスハ様が僕の事を見ていてくれて、僕のこれからを見ていてくれるのだと分かった。
お腹のそこから何か熱いものが込み上げてきて、胸がいっぱいになる思いだった。
幼き日の昼下がりのテラス。
今もはっきりと覚えているあの場所での約束が、僕の生きる目標であり、その全てになった。
僕はひたすらに学んだ。
非力な自分達に何が出来るのかを。自分達がどうすれば良いのか、非力な身体であっても生き残る術を。
この世界の法則、魔術の根幹、他種族の特性、歴史、地理。学びうる事の出来る、出来うる限りのものを貪欲に吸収し、研鑽を重て、探究を深めていった。
クスハ様の言われた、最も尊敬する友人の一人である御方が誰なのかも、後に知り得た。
幻魔大公シキ・ヒサカ様。
さすがにシキ様と同じ事が僕に出来るとは思えなかったけど、シキ様の事を学ぶ事は、僕にこれ以上無い刺激と勇気を与えてくれた。
そして時が経ち、スンラがあらわれた。
クスハ様は最初からスンラを警戒しておられた。
その心配は的中し、スンラはその暴虐性を隠そうともせず、クスハ様のスセラギ領やシキ様のヒサカ領に対して軍勢をけしかけてきた。
僕達は懸命に戦った。
相手は魔王といえど僕達の主はクスハ様だ。
魔王の軍勢は狂気にかられた恐ろしいものだったけれど、僕達も力の限りを尽くして戦ったのだ。魔王の凶刃の、その一振りたりとてスセラギ領に踏み込ませない為に。
クスハ様はやはり強かった。
クスハ様はその身を七つの力に転身させる事が出来る。
風の力に御身を転じれば、荒れ狂う暴風となって敵陣をまるごと呑み込んで切り裂き、雷の力に御身を転じれば、千里を駆ける稲妻となって敵を貫き、焼き焦がす。
天魔大公は魔王の軍勢を前にして、その強大な力をまざまざと見せつけたのだ。
そして、僕の求める答えがそこにあった。
それこそが、僕の求めてやまない強さそのものだった。
その軍勢にスンラはいなかった。
暴虐の魔王本人が、スセラギ領やヒサカ領を攻める軍勢の中に、その姿を見せる事は最後までなかったのだ。
そして、戦いが終わった。
供に戦った仲間達の多くも傷つき、同胞のファーラットなど、僕を残してほとんどが死んでしまったけど。戦いは終わったのだ。
同胞の亡骸を前にして僕は歯を食い縛り、ぐっと涙をこらえて胸を張り続けた。
僕達も戦ったんだと。最弱と蔑まれ続けてきた僕達ファーラットも、命をかけてこのスセラギ領を守り抜き、魔王軍と戦ったんだと。
そう自分に言い聞かせて、同胞の亡骸を前に胸を張り続けた。張り続けるしかなかった。
多くの同胞を失った悲しみに押し潰されない為にも、誇りを支えに、胸を張り続けるしかなかった。
けれど、同胞達の亡骸の上に積み上げたその小さな誇りは、領外にいた同じ同胞達によって無惨にも踏みつけられた。
いや、すでに踏みつけられていた事を、戦いの後に僕は知る事になった。
憤怒した。
今までに無いくらいに激昂した。
侮蔑の言葉を堪えきれなかった。
スセラギ領を守る為に、非力ながらも、僕達が命をかけて戦っているその向こう側で、領外にいたファーラットの同胞達が何をしていたのか。何をしてしまっていたのか。
それを知った時、僕は泣いてしまった。
あまりの事に頭痛と吐き気も治まらず、泣きながら嘔吐し続けた。
領外でのファーラットに対する報復は、その時にはすでに始まっていた。
今までは蔑まれ、疎まれ、軽んじられ続けていファーラットの同胞達は、さらに憎まれ、恨まれてしまっていた。
スンラがいなくなった混乱の最中、僕の同胞達は次々に報復を受け、その数を減らし続けていた。
自業自得だと思った。
このまま一匹もいなくなってしまえばいい。
自らの犯した罪を自ら背負い死に絶えればいい。
助けるつもりなんてまったくなかった。
見捨ててしまうつもりでいた。
同じ同胞である事がたまらなく嫌だった。
けれど僕は見捨てる事が出来なかった。
供に戦って死んでいった同胞の亡骸を、その亡骸が累々と横たわる光景を忘れられなかったから。
幼き日にクスハ様に誓った約束があったから。
僕はクスハ様に頼み込んで、領外のファーラット達をスセラギ領で保護する事を許してもらった。
犯した罪は消えない。けれども生きて、それを償う事は出来るハズだ。償っていかなければいけない。
スセラギ領やヒサカ領では供に戦って死んでいった同胞達のおかげで、領外よりもファーラットに対する感情は悪くない。僕は同胞達の亡骸に頭を下げた。
命をかけて勝ち得た小さな信頼を、明らかに罪のある領外の同胞達を助ける為に利用する。
その許しを乞う為に。
僕は奔走した。
領外の同胞達の状況は思ってた以上に酷かった。
それだけの事をしたのだと思い知らされた。
僕自身も何度も危ない目にあった。
スセラギ領内にいる間の僕はアスタスでいられるけど、領外に出た僕は、卑劣な振る舞いをしたファーラット達の一人でしかないのだから、当然だった。
分かってはいても、罵倒されるたびに僕の中で何かが少しずつ削られていくのが辛かった。
今一歩間に合わず、打ち捨てられた同胞の亡骸を目の当たりにするたび、さらに削られていく何か。
魔の国は狭いようでいて僕には広すぎた。
領外の同胞達を救うと息巻いた所で、僕の両腕は、自分が思っていたよりも小さく、頼りないものなのだと強く自覚させられ続けた。
罵倒され、叩き出され、間に合わず同胞達の晒された骸を前にし、また、恨みをぶつけられ、僕の中の何かはどんどん削られていった。
それでも歯を食い縛り、踏ん張り続けた。
魔の国中を駆け回り同胞達を探し回った。
あっという間の10年だった。
間に合わなかった同胞達の亡骸をいくつ数えただろうか。その有り様は、受けた恨みの重さを表すような状態のものも少なくなかった。
けれども助けられた同胞達もいた。
彼等はスセラギ領に辿り着けさえすれば助かった。
辿り着く事が出来ない者もいたけれど、少なくない数の同胞達がスセラギ領で、今後を思い、どう償っていくべきかを考える事の出来る生活が、出来るようになった。
そして、新しい魔王が立った。
荒れていた国内もおさまり、秩序と平和がもたらされるのだと、誰もが喜びを口にした。
今度の魔王はスンラとは違い、慈愛深き聡明な魔王なのだと、魔の国の希望の光なのだと、誰もが諸手を挙げて喜んでいる中、……僕は両手を、地面についていた。
新しく魔王が立ち、次々に発せられる布告。
スンラの時代の法を取り消し、秩序を再構築させる為の布告。その多くは乱れた秩序や荒れた流通を回復させる為のものであり、疲弊した各種族や生きる場を失った者達を保護する為のものだった。
その中にファーラットは含まれていなかった。
新しい時代、新しい魔王になったとしても、僕達の同胞の犯した罪はこれを許される事は無いのだと、その現実を、眼前に叩きつけられた思いだった。
目の前が真っ暗になった。
辛うじて身体を支えていた足腰が立たなくなった。
慈愛深きとされる新魔王でさえ、僕達を許す事は無いのだと、布告を通じて国内に宣言したようなものだ。
今、僕達のわずかな頼みはスセラギ領だ。
共にスンラと命をかけて戦い散っていった同胞達のおかげで、僕達ファーラットはスセラギ領でわずかにでも生きる望みをつないでいられる。
そこが無くなってしまったら、どうなる。
クスハ様は天魔大公だ。
いずれは四魔大公の一柱として新しい魔王と協力して、魔の国の統治を補助しなくてはいけない。
けれども新しい魔王は僕達を許さない。
心優しいクスハ様は、それでも僕達を見捨てる事は決してしないだろう。そんなお人ではない。
けれどクスハ様が僕達を領内に抱えている事を、新しい魔王が許すだろうか。
……答えは出ている。
新しい魔王は僕達に報復を受け続けろとしたのだ。報復を受け続け、最後の一匹がいなくなるまで死に絶えろとしたのだ。当然だ。
それは、僕が同胞達のした事を知った時に思った事でもあるのだから。
このままではクスハ様が天魔大公として、新魔王に助力するどころではなくなってしまう。
新魔王は評判がいい。
すでに四魔大公の筆頭である悪魔大公の助力も得ているという。残りの四魔大公の助力を得るのも時間の問題かもしれない。
クスハ様だけがその限りに入れずに。
僕達の所為でクスハ様だけが取り残されるのだ。
スセラギ領だけが孤立してしまう。
僕達、ファーラットの所為で。
駄目だっ!
そんなのは絶対に駄目だっ!
もう、僕に同胞を助ける事なんて無理なのだろう。
新魔王はファーラットを許さなかった。
僕が何をどうした所で、それが結果だ。
もう、どうしようもないんだ。
新魔王は僕達を受け入れなかった。
ならば僕達も新魔王を受け入れる訳にはいかない。
新魔王の治世に僕達のいる場所がないのなら、僕達はその治世を認める訳にはいかないんだ。
なら、壊すしかない。
新魔王を受け入れられず、その治世を否定するのであれば、それを壊すしかないじゃないか。
僕は負けたんだ。
もう、何をどうすればいいのかも分からない。
どうすればよかったんだろうか。
何が正解だったんだろう。
僕達はこのまま殺しつくされるしかない。
なら、せめて最後に、僕達の事を忘れられなくしてやるんだ。
魔王に、魔の国に、この国のすべてに、消える事の無い深い爪痕を残してやる。
「それで亡者の行進を? 呆れてモノも言えせんわ」
僕の自分勝手な独白を、それでもじっと聞いていてくれたベルアドネは最後に、そうまとめた。
うん。自分でも呆れているさ。
自分で言ってて何だけど、ずいぶんと自分勝手な事を言っていると思う。最低だ。
「それでも、今の僕達に出来る事なんてたかが知れているんだ。このぐらいでもしなきゃ、ね」
「残った者達はどーせやすの。そんなん、より恨まれてもう取り返しもつかんよーなってまうがね」
「どうしたって、このままならもう僕達に先なんて無いんだ。取り返しも何もないよ」
「勝手に自分からあきらめとるだけでねーすかっ、このスカポンタン! クスハ様も陛下も、おかあちゃんだって、まだおんしゃ達を見捨てとらせんがねっ! 勝手に先走って、勝手に自分からあきらめてっ! そんなんっ、ただ拗ねてるだけの子供だがねっ!」
ベルアドネがまっすぐに僕を見つめる。
本当に、まっすぐに。
憧れのシキ様の末娘、ベルアドネ。
昔から君は、まっすぐだった。
目標にも、苦難にも、誰にでもまっすぐだった。
自分の欲望にもまっすぐだから、よく勘違いされる事も多いけれど。君もまた僕の憧れだったんだ。
「僕も、そう思う」
「たーけかっ! なら、こんな事早くやめやーせなっ」
「でも、もう無理なんだ。何をどうしたらいいのかさっぱり分からないんだ。僕には無理だったんだよ。僕には元々出来るハズもなかったんだ」
「自分に酔った愚痴なんて何の役にも立たせんがねっ! 自分勝手な思い込みで誰かを納得させられるとか思っとたら大間違いだてっ! はよ目を覚ましやーせ!」
「やっぱり、分かってはくれないよね。手荒な真似はしたくなかったんだけど、……仕方ないかな」
「やめっ! わんしゃに指一本ふれんなっ! 絶対許しやせんがねっ!」
ベルアドネに近づきながら魔法を構築する。
出来ればこんな真似はしたくなかったけど、力ずくでもなければ言う事を聞いてくれそうにない。
いや、力ずくでも駄目だろうね。
皆はそうは思ってないみたいだけど、根性の座った一本筋のある子だという事を、僕は知っている。なにせあのシキ様の修行に耐えて、骸姫の名を継いだのだから。
まともにやりあえば僕では歯が立たないだろう。
この場、この時でも無い限り。
「……傀儡術で抵抗してくれると、話が早くて助かるんだけど」
「くっ……。クソ意地が悪いがね」
「ここで君が術を使うと、封印が君の魔力に反応してしまうんだろう? 不安定にはなるんだろうけど、それですぐに解ける訳でもないんだ。バンバン抵抗して欲しいな」
魔法を組み上げ、手首から先を炎の塊に変えた。
原理はクスハ様のそれと同じだ。僕が憧れて追い求めた力の形。いつか見た答えの先にあったもの。
当然、規模も威力も全然敵わないけれど。
炎の指先をベルアドネに向ける。
いかに強大な術を操ろうとも、その生身はどの種族よりも脆弱な幻魔一族だ。この手で掴めばたちどころに皮膚が焼けただれ、苦痛にのたうちまわる事になるだろう。
なのに、ベルアドネは僕を睨みつけたままで、一向に魔力を練り上げようとしない。
たいしたもんだと思う。けど、僕も残念だ。
出来れば君を傷つけたくはなかったのに。
意を決してベルアドネの喉元を掴みにかかって……弾かれた。
いつのまにか光の障壁が僕とベルアドネの間に表れて、僕の手を弾いていた。
「その子から離れなさいっ!」
入口から身を踊り出してきた女性が大声で叫ぶ。
これは、……魔の国では珍しい神聖魔法だ。
咄嗟にこの強度の魔法障壁を、この距離でここまで正確に組み上げるとはただもんじゃない。
魔王城からの追手が追い付いたか。ずいぶんと早い。思った以上に余裕がなかったみたいだ。
「邪魔をするなぁぁあああ!!」
全身を炎に変え、その女性をうちすえる。
彼女はさらに魔法障壁を重ね、炎の塊となった僕の攻撃を見事に防いだ。
そうとう強度のある魔法障壁だ。
「ただのファーラットって訳ではなさそうね。さすが魔の国って所かしら。でもこのくらいならっ! 私だって、伊達に聖女やってる訳じゃないんですのよ!」
気合とともに魔法障壁に押し込まれる。
構築した場所から維持したままで位相を変えれるのかっ!? こんな魔法障壁の使い方なんて、見た事がない。
……聖女?
今、この女。聖女と言ったのか!?
一度身体をバラけさせて魔法障壁をかいくぐる。
炎の塊となった僕の身体を押し退けるとは、……やってくれる。
身体の熱をさらに高温域にあげ、僕は聖女と名乗る女と対峙した。




