♯207 夜明け前2
ひんやりとした室内に余韻が残る。
黒を基調とした意匠の多い魔王城にあって、あまり使われていないであろうこの部屋はどこか様子が違っていた。
まるで神殿にあるかのような太い柱は真っ白で、透明感のある薄い水色がかっている。壁も床も同じような色調で統一され、落ち着いた空気の中に清涼感を強く感じもする。
突き抜けるかのように張られた天井はどこまでも高く、奥の一点からなだらかに広がる流線形の梁に、まるでテントの中から見上げているような感覚さえ覚えた。
その静かな空間の中で、勢いよく張られた左頬にそっと手を添える。
びっくりする位に大きな音がしたけど、頬にそれほど痛みは残ってはいない。
脇に視線を移す。
そこには赤く腫れ上がった右手を抱えながら、ベルアドネがふるふると震えながら踞っていた。
「……手、大丈夫?」
「痛ぁないっ、全然っ、こんなん痛くも何ともあらせんがねっ!」
ベルアドネの目にはしっかりと涙が浮かび、どこか表情もひきつっているように見える。相当痛かったらしい。
はたいた方が赤く腫れるとか。
魔の国で最も虚弱であると言われる幻魔の一族。その彼女に、まさか自分の手が赤く腫れ上がる程に頬を張られた事に戸惑いを覚える。
戸惑いを覚えて直ぐ、その意味に気付いた。
「あんた、それっ、生身なんじゃ……っ」
「関係あらせんっ!」
幻魔一族はその虚弱すぎる体質を補う為、普段から生身を亜空間に隠し、幻晶体で出来た傀儡に自分の意識を移して行動しているのだと。そう、ベルアドネ本人から直接聞いたのに。
何で生身のまま。
「……まだ幻晶人形、直ってなかったんだ」
「あんなもん、材料さえあればすぐに直りやすがね」
赤く腫れ上がった手を振りながら、ベルアドネが立ち上がる。立ち上がり、何事も無かったかのように厳しい表情で再び、目の前で視線を合わせる。
その視線の中に、苦々しい蔑みの色が含まれている事に気付く。呆れているんだと、……分かった。
ぐっと何か重いものが、心に突き刺さる。
「しばらくずっと寝込んどった所為でその時間がなかったんと、気の抜けたおんしゃをひっぱたく程度には必要あらせんかった。そんだけの事でやあす」
「ごめん。……私の所為で」
真っ正面から真っ直ぐ注がれる視線が、苦しい。
その厳しい眼差しに耐える事が出来ず、逃げるようにしてうつむき、視線を逸らした。
「何が、誰の所為だって?」
問い詰める声音に険が籠る。
呆れを通り越して憤りが伝わる。
その先にいるのは、……私だ。
「……私が、私がマオリにあんな事頼んだばっかりに。私がお願いしたのに、なのに、……なのに間に合わなくてこんなっ、……っ!?」
何か言わなければと思って口を開くと、出てくるのは後悔と言い訳ばかりだった。
けれどそれも、最後まで言い切らない内にガッと勢いよく胸元を捕まれ、強引に顔を正面を向かされてしまう。
「うぬぼれんな。このっ、どたーけが」
一つ一つの言葉に静かな力をこめて、更に表情を厳しいものへと変えたベルアドネが、眼前に迫る。
今まで聞いた事もないような低い声に、激しい憤りが籠められているのが分かった。怒気が、増していく。
「だって、私が、私がもっと上手くやれてればっ」
「それがうぬぼれだがね。おんしゃはどこまで傲慢で、自分勝手でっ、周りを馬鹿にすれば気が済みやあすんかっ!」
怒鳴りつけられた言葉が刺さる。
「だってっ、だけどっ!」
違う。そんな事思ってない。
そんな風に思ってる訳じゃなくてっ、ただ私は自分に出来る事をしなくちゃって思って。
否定しようとした言葉が続かない。
そうじゃない。
そんな事、思ってる訳じゃないのに。
そんなつもりは無かったのに。
「同じ事だがねっ! おんしゃは何も分かっとらせんっ!」
必死で否定しようと、否定しなければいけないハズなのに、言葉が形にならない。
周りの人達の力になりたくて、何にも出来ないままの自分が許せなくて、何かしたかったんだと。何か出来る事をしたくて、……出来なかったんだと言おうとして。
言われた言葉が深く、突き刺さる。
……何も、分かってない。そんな事。
「陛下はっ、マオリ様は常に魔の国の未来を考えとらっせたっ、何よりも魔族の未来に責任を感じとらっせたがねっ! そのマオリ様が、例え惚れた相手の為であらっせようと、ただそれだけの理由で魔王軍を動かす訳あらせんがねっ! マオリ様を馬鹿にせやすんも大概にしやあせっ!」
「……違うっ、そんなつもりで言ったんじゃ、私はっ!」
違う。違うっ、私はただっ……。
「違わせんっ! 人族と魔族の諍いを終らせる。魔族の未来の為にはそれが不可欠で、その為にも魔の国と友好を結ぼうとしていた聖教国の存続はわんしゃらにとっても大切でっ、だからこそマオリ様はっ、聖教国への援軍を躊躇わずに決断しやっせたんだがねっ。スンラにしてもそうっ、マオリ様が自らスンラと決着をつけたんも、その結果だって、マオリ様自身で選んだ事っ、それが自分の為? すべて自分の所為? どこまでうぬぼれが過ぎればそこまで言い切れるんだかっ! いい加減目を覚ましやあせなっ!」
「……っだけど!」
「おんしゃ一人で何もかも背負おうとかっ、このっ、どたーけがぁっ!」
「……ぐっ!?」
更に言い募ろうとした所で突然、目の前が暗くなってオデコに微かな衝撃を感じた。
思わず目を閉じて身を強張らせてしまったけれど、やっぱりあんまり痛くない。
拘束されていた胸元が解放されて腰が抜けたようにその場にへたりこむと、再びベルアドネが背中を向けて、額を押さえて踞っていた。
「痛くあらせん。こんなん、全然痛くあらせんがね」
「……ベルアドネ」
「……情けないわ。情けなさ過ぎる。こんなんじゃ、頼られせんのも当然だがね」
肩と声を酷くくぐもらせながら、向けられた背中の向こうから、言い聞かせるような呟きが届く。
「……ほんでもまだ、まだ諦めたらかん。まだ諦めたらかんて」
顔を背けたまま、語尾に力が籠っていく。
「マオリ様が望んだ未来を。人族と魔族が仲良う隣り合える世界の為に、ここで諦めたらかん」
ずきんっと、胸の奥に重い衝撃を感じて大きな鼓動が一つ、すぐ耳元で激しく打ち鳴らされた。
マオリが望んだ世界。
マオリが、願っていたもの。
「この一週間、リーンシェイドは魔王代理としてどうにか魔の国の者達をまとめ、今最後の説得をしとる。リーンシェイドだけやあらせん。他の皆もリーンシェイドを支えながら、マオリ様の意思を繋ごうとしとるんだがねっ!」
ぐっと強く、唇を噛み締める。
知らされる現状に言葉が無かった。
何も言う言葉が、無い。
「なのに、なのにっおんしゃは、おんしゃだけこんな所でいつまでもめそめそめそめそとっ」
情けなさに俯いていると、突然そこでベルアドネが勢いよく振り返った。
背中を見せていたベルアドネが突然そこで振り返り、その細い両腕に強く、深く抱き締められる。
「おんしゃはマオリ様がっ、強欲の名を持つ最強の魔王様がこの世界で唯一人望んだ花嫁だがねっ!」
マオリの……。魔王の花嫁。
「そのおんしゃがっ、いつまでもこんな所で踞っとってええ訳あらせんっ! そんなんわんしゃが許さんがねっ! ……しっかりせなかん。しっかりしやあせ、レフィア」
強く引き寄せられた肩が、熱い。
抱き締められた両腕から伝わる熱さが、胸の奥に染み込んでいくのが分かった。
全身で感じるベルアドネが、……暖かい。
一瞬だけ見えた横顔は、今にも泣き出しそうな、辛そうな、そんな風にも思えた。そんな顔を、させてしまったんだと深く、思い至る。
重ね合わさる背中にそっと、手を添える。
幻晶体ではない、その暖かく柔らかな感触に、大切な友人の、優しさの深さを感じたような気がした。
「人族と魔族との絆はわんしゃらで結ばなかん。……何か違わすか」
「……違わない」
「マオリ様の意思をこんな所で絶ち切って、それで良いんか」
「良くない」
静かに言い聞かせるようなベルアドネからの問い掛けに、ただ短く、答えを返す。
伝わる思いが、別の熱さを持って込み上げてくる。
言葉が、詰まる。
込み上げる熱が視界を滲ませ、目元から零れて頬を伝っていくのが分かった。
「……だったら、立たなかん。どんだけ辛くても、苦しくても、わんしゃらが立たな、……踏ん張らなかんて」
「……うん」
小さく耳元で囁くベルアドネの声はいつになく優しげで、その中にどこか心地よさが、ゆっくりと広がっていくようにも思えた。
「……ごめん。ごめんね。……情けなくて、ごめん」
知らず、思いが零れる。
情けなくて。格好悪くて。
けれどベルアドネはそんな私には何も言わず、抱き締める腕にぐっと力が込められた。
込められた力に、思いが籠る。
そして小さく、囁きが漏れた。
「……ありがとな」
嗚咽まじりの囁きが、心に響く。
申し訳なさそうに、消え入りそうな程にか細く、それでも深い感情の籠ったとても小さな囁きが耳元に、届く。
知らず、抱き返す手に力が籠った。
「……おかあちゃんを助けてくれて、本当にっ、ありがとう。……ありがとな」
そう小さく囁いたベルアドネに、私は深く、頷きを返した。




