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♯181 トラウマを超えて



 夜闇の中を一陣の風となって駆け抜ける。


 一足飛びに野を越え、林を抜けて川辺を渡るその度に、霞む輪郭が物凄い勢いで後ろへと流されていく。


 目まぐるしく移り変わる景色達。その速さに目が回ってしまわないよう、バサシバジルの手綱をしっかりと握り締め、しがみつき、身を伏せる。


 イワナガ様がこっそりと張ってくれた結界のおかげで、どうにか空気の圧力に吹き飛ばされずにいる。そうでもなければ、この勢いにしがみついてさえいられなかったと思う。


 それは本当にありがたい。

 ありがたいんだけど、……股が痛い。


 鞍に大きく跨がって密着している所為か、絶え間なくダイレクトに股関節へと伝わる振動で、……痛い。ジンジンする。


 ……これ、耐えられるんだろうか。私。

 

(辛いだろうが、今しばらくは辛抱せよ。この平原を抜けた辺りで休息を取る)


 イワナガ様の声が耳元に届く。


 私の中に入っているイワナガ様は時折こうして、気を使って声をかけてくれる。実体が無いのに何で声としてはっきり聞こえるのかはよく分からないけど、相手は女神様だ。きっと何かよく分からない方法で伝えているのかもしれない。


(直接鼓膜を振動させて伝えているに過ぎん)


 よく分かる方法だった。


 ……。


 ……。


 あれ?


(お前の中におるのだ。声に出さずとも考えてる事ぐらい分かる)


 何か一方的に筒抜けだったらしい。

 さすが女神様というか何というか。


 ……って、ちょっと待て。


 筒抜けっ!?

 マジでっ!?


(マジだ)


 あぎゃぁぁあああああああっ!?


 えっ、ちょっ、やだっ、嘘っ!?

 今まで考えてた事、全部筒抜けだったんかいっ!


(心配せずとも、股関節が限界なのは見れば分かる。そもそも鞍というものは跨がるものであって、座るものではない。愚か者が)


 ……がぅ。

 呆れ声で叱られてしまった。


 確かに。バサシバジルを駆っているというよりも、どちらかというと運んで貰ってる。うっかり落ちてしまわないように、必死でしがみついているだけだもんね、これ。


 だって生粋の農家の娘だもの。

 イノシシとかクマとかならともかく、ちゃんとした馬の乗り方なんて知るわきゃない。


(……何の疑問もなく根本から間違っておるわ)


「……へ?」


(良い。気にするな。焦る気持ちも分かるが、一週間もすれば魔王城に着けるだろう。着いたらお前にはやってもらわねばならん事がある。身体は労っておけ)


 初対面の時に比べれば、イワナガ様も随分と優しくなった気がする。確か、いきなり殺すとか言われたハズなのに。今ではそれが信じられない位に気を使ってくれてる気がする。


 思えば魔王様達には最初から優しかったか。態度と口と性格と物言いと言葉使いと話し方が悪いだけの、素直になれないヒネクレ屋さんなだけだもんね。


(……そう言えば谷底から飛び上がる時、珍妙奇天烈な叫び声と共に多少の粗相をした者がいたな)


「だぁあああああーっ!? がうぉるぁあっ!」


 ぬぅぐおぅっふ。バレてたっ!?

 そりゃバレてるか。筒抜けだもの。


 あぐっ。それだけはバレてて欲しくなかった。


(いらぬ事ばかり考えるでない)


「……ごみんなさい」


 ……がぅ。乙女の尊厳が危機だ。


 いい歳してちょっぴりゴニョゴニョしてしまっただなんて、絶対誰にも知られたくない。特にマオリやベルアドネや更にマオリや中でもマオリには、未来永劫バレたくない。


 仕方無いので魔王城につくまでは黙って……。


 ……。


 ……。


 ……魔王城?


「何で魔王城に向かってるんですか? 魔王様達と合流するなら、聖都へ向かわないと駄目なんじゃ……」


 てっきり聖都へ向かってるものだと思ってた。危機的状況にあるのはアリステアで、それをどうにかする為に急いでいるハズだったんだけど……。それが何で魔王城へ向かう事になるんだろうか。


(聖都へはアスラの子らが救援に行ったのであろう? ならば心配はいらん。どれだけの大軍が相手だろうと、今の人族にアヤツらを倒せる者などおらん)


 アスラの子……、って、マオリの事か。


 確かにマオリはともかく、シキさんやクスハさん達が負ける姿は想像しにくい。さすがに多勢に無勢だとどうなのかは分からないけど、それでもやっぱり、イワナガ様の言う通りに心配はいらないんだろうとは思う。


 ……思うけど。


(そしてそれは、アレとて想定しておるだろう)


 アレ……。光の女神、コノハナサクヤか。

 アリステアを潰そうとしている、諸悪の根元。イワナガ様は何故か頑なに、その名前を口にしようとはしない。


(ならば間違いなく、スンラを出してくる)


「……スンラ」


 暴虐の魔王として様々な人達に深い傷痕を残した、光の女神の手駒。……マオリの一族を滅ぼした魔王。


 何者かの手によって滅ぼされたハズの、脅威。


「スンラは、……死んではいなかった?」


(……一度は確かに退けはした。払った代償は決して小さくはなかったがな。だが、あれは決して死なぬ。今のままではな)


「……死なない? スンラは人族だって、イワナガ様が確かそう言ったんじゃ」


(かつて人族であったのは確かだ。そして傷ついたスンラはラダレストに隠れ潜んでおった)


 ……ラダレスト。女神教の本神殿。

 光の女神はスンラを、その懐深くに保護していた?


「マオリ達では、……スンラに勝てない?」


(今のままでは、……おそらく)


 手綱を握る手に力が籠る。


 マオリは強い。成長して男の子らしくなったマオリは、かつての記憶の中にあるよりももっともっと、強くなっている。魔王になっちゃってる位、強い。


 けれどスンラは、そのマオリの一族を滅ぼした張本人でもある。

 

 一抹の不安が、胸中に過る。


(案ずるな。なればこそ、我らは魔王城へと向かうのだ。魔王城の地下迷宮へとな)


「魔王城の、地下迷宮……」


 魔王城の地下にある迷宮。そこは確か、闇の女神の迷宮だと言われていたハズで、その最深部には闇の女神の祭壇があると聞いていた。そこで闇の女神に会えると。


 でも、闇の女神であるイワナガ様は最果ての森にいた。


 イワナガ様は最果ての森で、神代の魔術具である『カグツチ』の封印を守っていた。そして最果ての森は、イワナガ様がいた影響で迷宮化が進んでいたのだという。


 それがずっと、気にはなっていた。


 最果ての森にイワナガ様がいたのなら、魔王城の地下迷宮は一体何の為にあるものなのか。


 多分それが、答えなのかもしれない。


 首筋に悪寒が走る。


(出来ればアスラの子らがスンラとぶつかる前に、何とかせねばならん。今のままでは、アスラの子らとて無事には済むまい)


 イワナガ様の言葉に、嫌な予感が拭えない。

 不安が直接形となって伝わってくる。


 マオリ達は強い。負けるハズがない。

 けれど感じるこの不安はイワナガ様も同じ。


 立ち込める暗い感触の先にあるのは、……死。

 逃れられない、死の暗示。


 ……マオリ。


「……バサシバジル。お願い」


 震える手に力を込め、手綱を強く握り締める。

 声音を鎮め、覚悟を決める。


「……飛んでっ!」


(……レフィア。お前)


「す、少しでも早く行かないとっ、こ、こんな時に飛ぶのが怖いなんてっ、……言ってられないから」


 両手でしっかりと手綱を掴む。

 奥歯を食い縛り、ぎゅっと瞼を固く閉じる。


「……コノハナサクヤに会って一つ、思い出した事があるんです」


 身体の芯からくる恐怖は、何に対するものか。

 その正体にしっかりと、向き合う。


「私、前に会った事があったんです。マリエル村にいた時にもう、コノハナサクヤに会ってたんです……」


 まだマオリと出会う前だった。


 朧気な記憶の中にあるのは、真っ赤に染まった一面の空。……私はその真っ赤な空を一人、見上げていた。


 お父さんもお母さんも側にいなかった。

 私はただ、家の中から窓の向こうを見上げていた。


 それは夕焼けだったのか朝焼けだったのか。

 ただ漠然とした不安の中で見上げる空の向こうから、それは、こちらをじっと見つめているような気がしていた。


 何かが近づいてくる。

 何かがこちらをじっと、見つめているんだと。


「……近づいちゃいけない。あれはとても恐ろしいものなんだと、……あの空の向こうからくるものに、見つかっては駄目なんだと。……身を強張らせ、震え続けていました」


 ……今なら分かる。

 あれが、そうだったのだと。


 あの時感じた言い知れぬ恐ろしさの正体こそ。


 ……あれが、光の女神の存在を初めて感じた時なんだと。


「あの時、……私は見つかったんだと」


(空を飛ぶ事に対する恐怖は、その時に植え付けられたものか……)


「……嫌なんです。絶対に嫌だ」


 焦燥が込み上げる。

 焦りが形を持って、溢れ出す。


「アリステアの事とか、人族と魔族の事ももちろん大切です。なんとかしたい、それも本当なんです。でも、それより何よりも、私は、……マオリを死なせたくない」


 二度と会えないと思っていた。

 会いたくて会いたくて仕方なかった。


 何度も思いを断とうとしていた。

 一度ははっきりと、思いを断つ覚悟を決めたのに。


 それでもこうして会えた。

 こうして再び、会う事が出来たのに。


 もう二度と失いたくない。

 マオリを決して、死なせたくない。


「……自分勝手ですよね。みんなが一所懸命で、必死になってるのに。それでも私は、ただ嫌なんです。私が嫌なんです」


 救おうとした指先から、トルテくんは零れ落ちてしまった。


 伸ばした手が届かず、オルオレーナさんは燃え尽きてしまった。


 目の前で誰かが死んでいく。

 自分の意思とは裏腹に、届かないまま。


 ……嫌だ。


「もうっ、……嫌だっ! 目の前で誰かが死んでいくのなんて、もう見たくないんですっ! ただっ、ただただ嫌なんですっ!」


 自覚した思いは、もう疑わない。

 他の誰の為でもない。

 これは私だけの、私の為の願い。


 身勝手で我儘なだけの、自分だけの思い。


 けれど大切な、譲れないもの。


「後悔したく無いんです。間に合わなかったなんて言い訳にもならない。だったらこんな所で、怖さに震えてる場合なんかじゃないんですっ! バサシバジルっ、お願い」


 恐怖を押さえつけ、前だけを見据える。

 乾いた口の中で必死に奥歯を食い縛る。


(……良いのだな)


「……ぶるっほん」


 ぐっと息を飲み込み。力を込める。


「お願いしますっ!」


 これから光の女神に殴りかかって行こうっていうのに、いつまでもその相手から受けたトラウマになんて、……怯えてなんていられない。


 バサシバジルの脚が地面から離れる。

 地面を蹴って伝わる振動が消えた。


 ふわりとした浮遊感を全身に感じて、すぐさま足元から背筋へと底冷えのする恐ろしさが駆け抜けていく。


 銀色の馬体が、空を駆ける。


 ……大丈夫。大丈夫だからと、何度も自身に言い聞かせる。


 バサシバジルを信じるんだ。

 今はイワナガ様も一緒にいる。

 腰帯に差した鈴守の小太刀だって力をくれる。


 一人じゃない。

 私は決して、一人じゃない。


 更に強く、強く、強く手綱を握り締める。

 強張り、竦む手足に意地と気合いをぶちこむ。


 もう、嫌だ。


 手が届かずに、伸ばした手の先で誰かが死んでいくのは、何も出来ずにただ目の前で誰かが死んでいくのを見るのは、もう、……嫌だ。


光の女神(コノハナサクヤ)がっ、なんぼのもんだっー!」


 トラウマだろうが何だろうが、越えてやる。

 絶対、絶対、もう二度と、あんなヤツなんかに、もう何一つだって奪わせやしないっ。奪われたくないっ!


 六本脚の銀色の馬体が、夜空を駆ける。


 地上を吹き抜けた一陣の風が天高く舞い上がり、文字通り一筋の銀星となって、速度を増していく。


(間に合わせるぞ。……何としてでも)


「……はいっ」


 目が回り、気が遠くなりそうなのを必死で堪え、イワナガ様の声に気力で応える。


 絶対に間に合わせてみせる。

 ただ一つ、その覚悟を強く念じながら。







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