♯174 聖錠門の戦い1(法主の後悔3)
見上げた空はどこまでも玲瓏として青く、慣れない甲冑から伝わる冷たさに、秋の終わりを実感する。
冬の訪れを、身近に感じる季節になった。
視線を真っ直ぐに戻して、地平線を埋め尽くす軍勢の偉容を視界に捉え、瞑目する。
出来るだけの事はした。
今はただ、自分にそう言い聞かせる。
眼前に広がる荒れ地には、サウスランドの王ガハックの率いる王国連合南域方面軍が聖都をその視野に捉え、大きく横に広がるようにして陣営を展開している。
報告によれば総勢は十万を越えるらしい。
実際に対峙してみると、書面に記されていた数字以上の重みを感じる。
十万の南域軍に対し、こちらの数は二万。
正直、兵力の差は話にもならない。
それでもここが、分岐点なのだ。
ここを乗り越えなければ、全てが無駄に終わってしまう。
「法主……」
馬上で今一度覚悟を確認していると、騎兵三千を率いる事になっているバゼラット騎士団長が馬を寄せてきた。
「予想通り、相手側の編成は混成のままのようです」
低く押さえた声から緊張が伝わってくる。
百戦錬磨の騎士団長に対して一つ頷きを返し、目と鼻の先で展開されている陣容へと視線を移す。
「やはり、参戦している各国間の連携は上手く取れてはいないと見るべきか」
十万を越える大軍勢を率いるにあたり、それらを即席で掌握する事は至難を極める。それが出来るのはロシディアの傭兵王くらいだろうと指摘した騎士団長の予測は、見事に的中していた。
相手側の陣容は騎兵と歩兵が入り雑じり、それが混成軍である事をありありと示している。
正面の中央に布陣する一番層が厚いように見える一団が、おそらくガハックのサウスランド軍なのだろう。そのサウスランド軍を中央に置き、左右両翼に大小個々の軍勢が、肩を並べるようにして配されているのが分かる。
おそらく指揮系統の統一はされていない。
功を競うように真横に並んだ陣容が、ガハックの器の限界を如実に現していた。
「どうか、ご武運を。女神の祝福あらん事を」
「互いにな。決して命を粗末にせぬよう。私にはまだ、軍事的に支えてくれる騎士団長のような存在が必要なのだから」
「光栄に思います。……ではっ」
馬首を返し、最左翼に配置された騎兵部隊へと戻る騎士団長の背中を、静かに見送る。
軍事に不慣れな私を気遣い、わざわざ声をかけにきてくれたのだろう。不甲斐無い法主で、心配させてしまう事を申し訳なく思う。
アリステア軍は聖都を後方に背負い、南側に開けた平野に、義勇兵を中心にした歩兵部隊を横に長く配置している。神官を主にした魔法兵がその左後方を支え、聖剣騎士団が中核を担う騎兵三千が最左翼を固めている。
十万を越える大軍勢に、二万で野戦に臨む。
おおよそ後世の歴史家達には無謀であったと謗られるだろう。
だが、領民の被害を出来るだけ押さえる為には、こうするより他になかった。籠城策を取るには、あまりにも相手の数が多すぎる。ならば籠城の末に打って出るよりも、兵が疲弊する前にどうしても一戦を構え、相手に打撃を与えておかねばならない。
不利は元より承知の上。
厳しい戦いになるであろう事も。
全てを覚悟して臨むこの一戦。
この一戦にこそ、勝機を見出ださねばならない。
「アリステアの勇士精鋭諸君っ! 時は来たっ!」
鐙を踏みしめ、腹の底から声を張り上げる。
着慣れぬ甲冑に動きを制限はされるが、あくまで威風堂々とした態度を崩さぬよう、下っ腹に気合いを籠める。
「故国の存亡をその身に背負いし強者達よっ! 聖都の正門『聖錠門』は古来より、聖都を害なさんとせし者達を一切寄せつけず、阻み続けてきたっ! 敵の数は多かれど、怖れる必要はないっ!」
二万の同胞達の気勢が高まる。
「家族を思えっ! 友人を、愛すべき同胞を思えっ! 諸君の守りし聖錠門の向こう側にいる者達を忘れるなっ! 我らは我らの意思と矜持にかけっ、必ずやこの聖錠門を守り抜くのだっ! 各自の健闘をここに願う!」
「「おおぉぉおおおおおおーっ!」」
力強く振り上げた指揮杖に、地鳴りのような雄叫びを上げて二万の同胞達が応える。
「嚆矢を放てーっ!」
己を奮い立たせる勇士達の頭上を、甲高い音を震わせながら一本の嚆矢が高々と放たれた。
時を置かずして対面の軍勢からも、同じような音を微かに響かせながら、天高く嚆矢が返される。
これで、開戦の合図が成った。
「全軍っ! 前へーっ!」
「「おおぉぉおおおおおおーっ!」」
大地が大きく揺れ、大気が震える。
兵達が大地を踏みしめながら、進む。
カラッカラに渇いた喉の奥で高鳴る鼓動が、揺れ響く同胞達の踏み鳴らす足音に掻き消されていく。
見据える正面の軍勢が迫る。
地平線を埋め尽くしていた軍勢が更に大きな地鳴りを響かせて、より近く、大きく蠢き始めた。
互いに鬨の声を高く掲げながら、彼我の距離が縮まる。
一歩踏み出す毎に、勢いが加速していく。
血管がはち切れそうな位に、高まる緊張。
……。
怯むなっ。
臆するなっ。
飛んで行きそうになる意識を必死に理性で繋ぎ止め、タイミングを見図る。
女神に勝利を。
我らの掲げる御旗とともに。
彼我の気勢が互いに交わる距離まで引きつけ、あらかじめ言い含めておいた作戦の発動を、合図する。
「白煙の合図をっ!」
側に控えていた伝令兵が弓に鏑矢をつがえ、空に向けて射ち放つ。特製の発煙筒が細工された鏑矢は秋空にはっきりと分かる白煙を細くたなびかせ、自軍後方左手より右翼前方に向けて特有の甲高い風切り音を響かせた。
「全軍っ停止っ! 転進して後退っ!」
合図を受け、横に長く展開していた歩兵が一斉に立ち止まり、一糸乱れぬ統率を見せながら後退へと転じる。
続けざまに二本目の鏑矢が後方へと放たれた。
自軍前方の空間に、閃光が破裂する。
自軍魔法兵による、目眩ましの為の『閃光』の魔法だ。
目の前で突如停止し、一斉に転進してみせた様を目の当たりした敵軍最前列の虚を突く。昼間にも眩しい光の暴力が、その視界を一瞬とはいえ、尽く奪い取った。
勢いに乗った十万の軍勢は、例えその最前列が視界を奪われようとも止まる事などありえない。
思わず立ち止まってしまった最前列の相手兵士達は、後ろから走り込んできた後続の兵士達に突き飛ばされ、倒けつ転びつ踏みつけられていく。
軽い混乱を見せる敵軍最前列の前方を目標に、魔法兵による本命の魔法が広範囲にかけて構築された。
「な、なんだっ!?」
「避けろーっ! 落とし穴だっ!」
敵兵達の間に、一気に動揺が広がる。
その反応を確認して、密かに拳を握り締めた。
……このまま、上手く嵌まってくれ。
後退する自軍の殿につくように敵軍に相対し、願いにも似た祈りを自身の内にて噛み締める。
怒声と喚声が交錯する。
その様子を見つめながらじっと堪え、待つ。
やがて、一気に混乱を見せた敵軍の中にあって、どこかの指揮官のものであろう待望の一声が、耳に届いた。
「幻覚の魔法だっ! 騙されるなっ! 前方に落とし穴などないっ! 構わず進めーっ!」
知らず握り締めた拳に更なる力が籠る。
……かかったっ!
戸惑いを見せつつあった敵兵達が再び、怒声を張り上げて走り出す。速度を上げ、一気呵成に取り付こうとその勢いを増す。
そして、その走り出した敵兵達の足元が大きく陥没し、一斉に沈み込む。
あらかじめ仕掛けておいた大穴の中へ、次々に自ら飛び込んでいく敵兵達。
「後退止めっ! 弓を構えっ! 眼下に向けて斉射ーっ!」
三本目の鏑矢が射ち放たれた。
落とし穴の底にはまり身動きが取れなくなった敵兵に対して、容赦のない矢の雨がふり注ぐ。
落とし穴は実際そこに、存在している。
ただ、そのまま敵兵が落とし穴にはまるのを待っているだけでは、効果は一時的なものでしかない。彼我の戦力差を埋める為にも、その効果を最大に生かす為の細工が必要となってくる。
それが先程の閃光による目眩ましと、味方が落とし穴にはまって落ちていく姿を見せた、幻覚の魔法だった。
戦場において幻覚の魔法は多大な効果を見せる。
だからこそ古来より、戦場では何度も使われ、その対処方法も様々に工夫されてきた。今では、一時的な目眩ましの用途でしか使われなくなってしまって久しいのだという。
それを逆手に取ったこの作戦は、見破られる事を前提とした幻覚を見せる事こそが、その目的だった。
落とし穴にはまる友軍の姿を幻覚だと判断した敵兵達は、そこに本当は落とし穴など無いのだと思い込み、実際に仕掛けられた落とし穴の中へと自ら飛び込んでいく。
前を行く友軍が実際に落とし穴にはまっていく姿を目の当たりにしても、それを幻覚だと思い込んでいる後続の兵士達は構わず、被害を更に広げていく。
そして矢の続く限り続く、一方的な攻撃。
作戦の第一段階は、見事に功を成した。
「聖錠門に向けて白煙の合図をっ!」
さらに次の段階へ移行する為の合図を示す。
聖錠門に向けて鏑矢が放たれ、白煙がまっすぐにその軌跡を残した。
一呼吸ほどの間を置き、聖錠門の上で待機していた伝令兵から返答の煙矢が放たれる。
「煙の色はっ!?」
「煙の色は白っ! 敵後方へ回り込む事に成功したようですっ!」
「よしっ!」
歩兵部隊の前進に合わせて騎兵部隊も同じように前進し、最初の鏑矢が放たれると同時に戦線を離脱している。
離脱した騎兵部隊は敵兵が混乱している間に敵陣中央部、サウスランド軍の後方にいるであろうガハックを直接急襲する為、大きく敵右翼を回り込む。
聖錠門からの白煙の合図は無事、バゼラット騎士団長率いる騎兵三千が敵陣後方へ回り込み、サウスランド軍へ突撃出来たのを確認した事を示している。
ここからは時間との戦いになる。
今は自軍優勢な状況ではあるが、それもいつまで続くかは分からない。混乱が収まった後には、圧倒的な兵力差という現実が待っている。その絶対的な数の力を覆す為には、短期決戦で大将首であるガハックを討ち取る以外にない。
次いで聖錠門より放たれる合図を待つ。
首尾よくガハックを討ち取る事が出来た場合は赤煙が放たれ、逃げられた場合には黄煙が放たれる。
もし何らかの事情で一時離脱を余儀なくされた場合には緑煙になり、追撃の余地あらば青煙で報せる事になっている。
赤か黄色か、……それとも緑か。
目の前では未だ、次々と敵兵達が落とし穴にむかって飛び込み続けてはいる。だが、それでも尚続く敵兵の数の多さに、底知れぬ恐ろしさを感じずにはいられない。
十分な量を用意してはあるが、こちらの矢も、いつ底を尽きるのか。矢が尽きてしまえば、こちらも攻撃の手段を失ってしまう事になる。
冷たい汗が首元を伝う。
妙に醒めた感覚の中で、祈る。
赤か、黄色か。
緑か、……青か。
一秒の間がとてつもなく長い。
ただひたすらに聖錠門からの報せを待つ。
鼓膜が痺れてしまうかのような地鳴りが続く中、見つめる前方、幻覚の向こう側にたなびく軍旗に気付く。
混乱の渦中にあるのであろう、未だ飛び込み続ける敵兵がいる中で、その軍旗はその場で立ち往生しているかのように見えた。
横に長くたなびく深紅の三角旗。
中央に記される、太陽を模した黄金紋様。
紛れもなくそれは、サウスランドの軍旗。
その頂上に掲げられている、……御印。
軍旗の棹端に飾られた金細工。
王冠を意味する金飾りの付けられた軍旗。
御印のついた軍旗は、その旗の下に王がいる印。
一瞬にして、背筋が凍り付く。
何故、こんな所に王旗が……。
サウスランドの王、ガハック。
王国連合南域方面軍、総司令官。
何故。
何故お前がこんな最前列近くにっ……。
「聖錠門より煙矢を確認っ!」
驚愕に言葉を失いそうな所へ、伝令兵が叫ぶ。
「煙の色はっ!?」
ハッと我に返り、軌跡を残す空を見上げる。
赤かっ!? それともっ……。
晩秋の空に残る煙の軌跡が視界に入る。
その色を確認して、一瞬、思考が止まる。
「煙の色は、……黒です」
急襲に成功すれば赤、逃げられれば黄色。
一時離脱は緑で、追撃ならば青。
だが、放たれた煙の色は、……黒。
見上げた青空に、はっきりと残る一筋の黒煙。
聖錠門が確認した結果は、黒。
それは、すなわち……。
「……騎兵部隊が。壊滅しました」
伝令兵が静かに噛み締めながら溢す一言が、轟く騒音の中でも何故かはっきりと、耳に届いていた。




