♯171 勇者の剣(勇者の挑戦4)
「逃げろ……。アスタス」
恐怖に縮み上がる肝っ玉を気合いで押さえ込み、すぐ背後へと小声で伝える。目の前にいる存在がとにかくヤバ過ぎる。対面しているだけで感じる絶対的な絶望感は、かつて感じた事のあるとそれと同じか、……それ以上のもの。
背後で身じろぐ気配の中に不愉快さが籠る。
多分きっと、その端正な顔立ちを歪めて不満げにしているんだろうと思うと、どこか可笑しい気分にもなる。
とんだ間抜けでもなければ、目の前のヤツがどんだけヤバいかすぐに分かるだろうに。
素直なヤツだよな。……本当に。
「……もちろん、一緒にだよね」
「勇者の誓いは聖女を守る事にある。マリエルを置いて俺が逃げる訳にいかねぇだろ」
「何を馬鹿な事をっ……」
「外の奴らを頼む。コイツは、……ちょっと想定外だった。お前にしか頼めないんだ。聞いてくれ」
「……その言い方は卑怯だよ」
目の前のニヤケ面から視線を逸らさず、握り締めた大剣の柄にすがるようにして気勢を保つ。そうでもしないと、すぐにでも泣き出してしまいそうで困る。
以前に一度、魔王と対峙した。
あの経験が無ければ今頃、恐怖と絶望で自棄になっていたかもしれない。絶対的な彼我の力の差。圧倒的強者を目の前にした時の絶望感。……それだけの力の隔たりを強く、認めざるをえない。
「頼むぜっ!」
返事を言わせないまま、深く一歩を踏み出す。
姿勢を低く保ったまま蹴り足の勢いを膝に溜め、怯える心胆を捩じ伏せるように握り絞った柄に、気合いを込める。
余裕を見せるニヤケ面。13年前と変わらぬ、憧れた姿のままのファシアスに向けて。……その紛い物の顔面をぶち抜いてやりたくて。
鈍い金属音が低く響く。
回転の勢いをつけた渾身の斬り上げは、造作も無く持ち上げた剣の柄本で受け止められてしまった。手許に感じる衝撃の反動とは裏腹に、微動だにしないその様子が憎々しい。
だがこれでも、牽制にはなる。
「アスタスっ!」
「……ぐっ!?」
背中越しに、逡巡を見せるアスタスに叫ぶ。
この状況で一人、先に逃される事に対して不甲斐なさを感じてるのだろう。その真っ直ぐさは嫌いじゃない。けどここは、諦めて飲み込んでもらうしかない。
一瞬の戸惑いを見せた後、アスタスが横を一気に駆け抜ける。不満げではありながらも、振り返らずに行くその背中を視界の端で見送る。
……すまんな、アスタス。
牽制の為に更に力を込めて大剣を押し込む。だが目の前の化け物は走り去るアスタスに対して、一瞥をくれる事すらもしなかった。
「見逃してくれるなんて。随分とお優しい事で」
「お前を帰すなとしか、言われてないんでな」
「そりゃどうもっ、ご丁寧にっ!」
刃合わせの状態から力任せに大剣を引き抜き、体重を乗せて肩から体ごとぶちかます。踏み込み鋭く、回転の捻りを加えたぶちかましにはさすがに、似非ファシアスの体幹が揺らぐ。
更に足元から『光の槍』をぶっぱなしてやろうと思った瞬間、視界の外から迫る無機質な気配に背筋が凍り付く。
……ヤベぇっ!?
咄嗟に床に手をついて身体ごと地面にへばりつくと、背中の後ろを、あり得ない圧力を伴った力の塊が横凪ぎに振り抜かれた。
直後、真上から振り下ろされる剣撃を転がりながら避け、冷たい汗が乾く間もなく、距離を取って中腰で身を起こす。
一瞬、その姿が視界から消えた。
どこにっ!? と思った瞬間、すぐ側で膨れ上がるドス黒い殺気に対して反射的に大剣を合わせる。
ガキィィイイインと激しい音をたて、辛うじて相手の剣先を阻んだ大剣の柄本に、重い衝撃が走った。
「中々良い反応をするじゃないか」
合わせた剣腹を更に押し込みながら、愉快げな囁きがかけられる。一体何を食ったらここまで重くなるのか。押し込まれる剣の重さが尋常じゃない。
「あぐっ……」
強く噛み締めた奥歯が欠ける。
押し込まれた剣圧に全身の筋肉が軋む。
まともにやってどうにかなる相手じゃねぇ。
剣腹を傾けてどうにかその体勢から逃れようと身を捻った時、脇腹に衝撃が走る。
「がふっ!?」
蹴り飛ばされたのだと瞬時に理解するも、衝撃の強さがえげつない。全身を大岩でぶち抜かれたような衝撃に堪えきれず、まるでボールか何かのように軽々と吹き飛ばされてしまった。
衝撃で呼吸もままならない中、物凄い勢いで視界が流れていく。
神殿の柱を砕き、石造りの壁をぶち抜いた先の草地の上で数回跳ね、ようやく身体が地面に接する。
叩きつけられた全身が激痛に震える。
石工のハンマーじゃねぇんだ。神殿の改築に人の身体を使うんじゃねぇよ……。
「……がはっ!」
咽ぶ息の中に血痕が混じる。
あちこち確実にヒビが入ってんな、こりゃ。
やっぱ、とんでもねぇ化け物だわ。
ふらつく視界の中でどうにか立ち上がると、ぶち抜かれた神殿の壁の穴から化け物がゆっくり顔を出した。
「……ほぉ、すぐに立ち上がるか。思ったよりは頑丈じゃないか」
「普段からちゃんと、鍛えてるんでね」
「殊勝な事だな。弱者の矜持か」
朦朧とする意識を必死で引き留め、『治癒』の魔法を構築して身体に施す。状況的に気休め程度のものしか構築する余裕は無さそうだが、とりあえず、動けるようになれればそれでいい。
ここで畳み掛けられたら正直ヤバい。
深く呼吸を整え、相手の挙動に集中する。
だが、不思議と追撃をかける気配が無い。
抵抗の意思を折らず、警戒を強めるこちら側に対して、目の前の化け物はその様子を、珍しいものを見るかのように眺めている。
……何だ、コイツは。
一体何を考えてやがる。
「げせんな」
ファシアスの顔をした化け物の表情が、歪む。
「戸惑いや躊躇が欠片も感じられない。何故そこまで思い切れる。そこまで軽い関係では無いハズだろう?」
本気で不思議がるその様子に、焦げ付くような苛立ちが募る。
「ほざけ……。偽者が」
「この俺を、偽者だと?」
何がそんなに楽しいのか、言い切った言葉に対して興味深そうに身を乗り出してきやがった。
愉悦を浮かべる面構えが忌々しい。
確かに姿形はそのまんまファシアスだ。この俺が他の誰を見間違うとも、ファシアスの姿を忘れる訳がない。
かつて憧れた勇者としての姿、外見に違いは無い。幻術がかけられている様子も無いから、そのまま、ファシアスの姿をしているんだろう。……あくまで外見だけは。
しかも、13年前から全く変わらないまま。
それがどういうカラクリなのかは知らねぇが、コイツが本物のファシアスで無い事だけは、すぐに分かる。
「……ありえねぇんだよ」
何の為にわざわざその姿で現れたのかは知らねぇが、かつて憧れた大切な姿であるだけに、苛立ちが一層深まる。
「てめぇがファシアスだってんなら、ここがラダレストだってんなら、何でてめぇの横にアイツがいねぇっ!」
同じ背中に憧れ、同時に失った。
アイツはその後、ラダレストへと戻っていったハズだ。
もしコイツが本物だってんなら、アイツが横にいない訳がねぇ。そもそもアイツがいたんなら、ファシアスの姿をしたコイツを、黙って許す訳がねぇっ!
回復した身体を気迫で前へと押し出す。
恐怖も畏怖もクソくらえっ。
今はただ、目の前の偽者を叩き潰してやりたくて仕方ねぇ。
「勇者ファシアスはなっ! 俺とアイツの目の前で戦って死んだんだっ!」
力任せに叩きつけた大剣が軽く受けられる。
まるで鉄の塊に斬りつけているような感覚を覚えるが、それでも構わず、顔面に向かって斬撃を繰り返す。
「……それは、オルオレーナの事か?」
渾身の連撃は軽くいなされ、代わりにとばかりに振り抜かれた一撃で軽々と吹き飛ばされてしまう。
大剣を盾にして自ら後ろに飛び退き、出来るだけ受ける衝撃を逃がす。軽く振り抜いただけのように見える一撃が、とんでもなく重い。
「……くっ」
逃しきれなかった衝撃が身体の芯を蝕む。
堪えきれずに片膝をつくと、頭の上からヤツの含むような笑い声が聞こえてきた。
「くっくっく。あの女の事なら、どうだろうな。今頃はどこかで野垂れ死んでいるか、さもなくば焼け死んでいるか。……まぁ、どちらにしろ生きて戻る事もあるまい」
「てめぇっ! アイツに何をしたっ!」
『光の槍』を即座に構築して足元へと撃ち込む。
けれど瞬きの間にヤツの姿がまた視界から消える。
誰もいない場所に、『光の槍』が突き刺さる。
上方に殺気を感じて慌てて空を仰ぐ。
だがその直後、目前に迫った気配の声を間近に聞いてしまう。
「ふんっ。感動の再開もお前にはあまり意味が無いらしい。わざわざこの姿を選んでやったというのに」
「がふっ」
無防備を晒してしまった胴に、抉り込むかのような拳が叩き込まれてしまった。フェイントに釣られた事を後悔するよりも早く、返す拳で地面へと強烈に叩きつけられる。
骨が軋み、衝撃で肉の千切れる音がする。
強く叩きつけられ、衝撃で息が出来ないまま跳ね上がる身体が無造作に蹴り飛ばされる。
為す術もないままに地面の上を転がりながらも、なんとか必死で大剣の柄だけは握り締める。
……想像以上に力の差がありやがる。
全身を苛む激痛のおかげでどうにか気を失わずにいられるのは、幸いなのか不幸なのか。今はとりあえず、幸いだと思っていたい。
絶望的な程の加我の実力差に心が折れかけるが、ここで諦めて恐怖に屈する訳にもいかない。
オルオレーナの事も確かにあるが、今の俺は勇者の誓いを以てここにいる。勇者の誓いとは聖女を守る事。
ここで俺が真っ先に諦める訳には、いかねぇ。
ふらつきながらもどうにか立ち上がろうとする俺の目の前に、ヤツのニヤけた面が間近に迫る。
「聖女が心配か? なら安心するがいい」
割れた奥歯を強く噛み締め、体重をかけてその顔面めがけて真っ直ぐに大剣を突き立てる。
「聖女にはまだ役目が残っている。傷一つ無い綺麗な身体のまま、大人しくしてもらっているだけだ。お前にはもう、……用は無いがな」
渾身の突きでさえも軽く身を捩るだけで避けられ、勢いを止める事が覚束無い身体が前へと流れる。身体へのダメージが許容範囲を越えて、踏ん張りが全くききやがらねぇ。
「恐怖に怯えて、……死ね」
耳元で殺気が膨れ上がる。
諦める訳にはいかねぇ。
ここで殺られる訳にはいかねぇってのに。
……届かねぇ。
……。
……。
この、化け物がっ。
命を断つ一撃に対して身構えた時、予想していたのとは全く別の方向から圧力を受け、身体が吹き飛ばされた。
目の前をかすめた斬撃が地面を抉る。
一瞬の戸惑いの後、自分の身体が大きく吹き飛ばされ、ヤツから距離を取って地面にへばりついている事に気付く。
地面を深く抉った剣をゆるりと引き抜き、化け物の双眸が苛立ちを含んでゆっくりとこちらに向けられる。
その淀んだ瞳の中には地に伏せた俺の姿と、もう一人の乱入者の姿がはっきりと写し出されていた。
深いダメージで立ち上がる事の出来ないまま、目の前に立つ背中を仰ぎ見る。
「……アスタス。お前、なんで」
そこには、先に逃がしたハズの魔の国からの青年がいた。まるで化け物から俺を庇うようにして、立ち塞がっている。
……何故、戻ってきたんだ。
アスタスは瀕死の俺を背中に庇い、化け物と対面したまま、両膝を震わせていた。




