♯15 嫌いな人(姫夜叉の困惑)
魔来香。
乾燥させたヤドリヨルクサを主原料とした媚薬で、認識力と判断力を鈍らせてしまいます。香に混ぜて焚き込むのが主な使われ方ですが、直接吸引させる事でより強い効果を求める事も出来ます。
目の前で焚かれている香炉を呆然と眺めながら、これが原因だと分かりつつも動けません。
身を起こす事すら覚束無いのです。
壁にもたれ掛かりながら香炉を眺め続けて、どれだけの時間が経ったのでしょうか。
時間の感覚さえあやふやになっているようです。
頭の中の芯の部分がぼんやりとして、はっきりとしません。
バルルント卿の部屋を出たあと、私はあに様からの言伝を誰かから受けとりました。
あの近衛騎士は私に何を伝えたのでしたか。
肝心な所を覚えていません。情けないです。
あれから何をどうしたのでしたか。
気がつけば、ここでこうして座っていました。
衣服は乱れてないので、何かをされた訳ではないのでしょうが、どういうつもりなのでしょう。
駄目ですね。
考えがまとまりません。
頭の中がてんでバラバラです。
思い出せるのは、あに様の楽しげな顔ばかり。
あの厳しいあに様があのような顔をするなんて。
「あにしゃまのばか。うりゃぎりもの」
呂律も怪しいようです。
ちち様は魔族に殺されました。
はは様は人間に殺されました。
あに様と私は汚泥にまみれ、闇にまぎれるように息を潜めて生きてきました。
生きる為に少なくない命を奪ってきました。
あに様と私は、流した血に溺れないように、互いに互いを支え合って生きてきました。
剣は生きる為のモノ。殺す為のモノ。
肉を抉り命を奪うモノ。
それを、あんなに楽しそうに振るうなんて。
妬ましくて、憎らしくて、恨めしい。
なんでそんな顔をするんですか。
なんでそんなに楽しそうにするんですか。
なんでそんな目でその人を見てるんですか。
ちち様もはは様も、もういません。
魔族も人間も、どちらも私達の味方ではありませんでした。
二人で支え合って生きていくのだと、そう言ってくれたではありませんか。
二人で陛下のお力になるのだと、そう決めたではありませんか。
私では無理です。
私ではあに様にあんな顔をさせられません。
なのに、あんなに楽しそうな顔をするなんて。
「あにしゃまのばか。うりゃぎりもの」
考えなければいけない事が他にあるハズなのに、考えたくない事ばかりが脳裏を廻ります。
情けなくて惨めで卑しくて。
自分が嫌で仕方なくなります。
自分が嫌いです。
あに様が嫌いです。
レフィア様が大嫌いです。
あに様を取らないで下さい。
陛下を取らないで下さい。
人間の世界に帰って下さい。
私の世界を壊さないで下さい。
「ちがう。しょんな事思ってるわけじゃにゃい」
本当はお礼が言いたかった。
本当は嬉しかった。
誰かを殺す為だけに生きている訳じゃない。
あんなに楽しそうに、時間を忘れて剣を振る事も出来るのだと、そう教えてくれた事に。
私もなりたいです。
陛下に想われ、あに様に想われ、皆に好かれる。
私もレフィア様のようになりたいです。
「あった! ここじゃない!? ここだよきっと!」
「まだ駄目ですよ! 待って下さい!」
「のああああっ! 天井が崩れた! こっちは?」
「待って! どっちですか!?」
部屋の外が騒がしいようです。
魔来香の補充に来たにしては騒がし過ぎます。
何事か起きているのでしょうか。
「うわっ! 何この部屋! けむっ! くさっ!」
「だから! 勝手にあちこち開けないで下さい! 俺が確認しますから!」
部屋の扉が勢いよく開かれました。
部屋の中に充満していた煙が外へと逃げていきます。煙が薄れ、呼吸が少し楽になりました。
「いた! リーンシェイド! 大丈夫!?」
煙の向こうから亜麻色の髪が近づいて来ました。
その後ろに、見覚えのある顔もあります。
「少しは話を聞いてください!」
「こんな密室で焚くなんて。何考えてんのよ」
部屋の空気が入れ替り、朧気ではありますが目が覚めてきたような気がします。
改めて部屋に入ってきた二人を確認し直します。
おかしいですね。
幻覚作用はなかったハズですが。
会いたくて、でも一番会いたくない人がいます。
こんな所にいてはいけないハズの人がいます。
何故ここに貴女がいるのですか。
何故私を助けになんて来てしまうんですか。
「レフィアしゃまと、……かーらいりゅ?なじぇ?」
「え。何これ。リーンシェイドが何か凄く可愛いんだけど……」
レフィア様が私を見て顔を赤らめています。
元々何を考えているのか分からない方ですが、今は何を考えているのでしょうか。
幻覚であってほしいです。
「これっ!? もしかして魔来香じゃないですか!」
「魔来香?」
「やばい薬です。レフィア様もすぐに部屋から出てください!!」
「え? え? やばい? やばいの? この煙」
「やばいです。早い話が酔い薬のようなもんです。吸いすぎると俺達も足腰が立たなくなります」
「何気にやばそう。リーンシェイド立てる? ……無理か。ごめん。ちょっと力ずくで連れてくよ」
レフィア様が私を肩に担ぎ上げました。
そんな細い身体でも担ぎ上げれちゃうんですね。
「リーンシェイド様をこちらに。煙が充満し過ぎてます。急いでここから離れますよ」
私の身体をカーライルが背負い直します。
この煙から早々に離れるつもりなのでしょう。
だいぶ煙を吸われてしまったように思えます。
レフィア様は大丈夫なのでしょうか。
レフィア様の様子を訝しんでいると、カーライルがふらついて膝をつきました。
「あー。マジですか、これ。相当ヤバい濃度ですよ。少し目が回ってます」
「大丈夫? カーライルさん。変わろうか?」
「むしろレフィア様は何で平気そうなんですか。あの部屋にがっつり入ってたじゃないですか」
「酷い臭いだったけど、特に何とも。お酒には強いからかな?」
お酒は関係無いと思います。
レフィア様が私の身体に近づいてきます。
いけません。駄目です。
「駄目でふ。わたひをおいて逃げてくだひゃい」
あの場所から逃げるだけでは駄目なんです。
魔来香は人を酔わせるだけじゃありません。
暗闇の中から殺意が膨れ上がりました。
私は咄嗟にカーライルの背中を突飛ばし、レフィア様の上に覆い被さりました。
殺意には何とか反応できましたが、未だ香が抜けきらず身体に力がはいりません。
左肩から背中にかけて酷く熱く感じました。
「リーンシェイド!」
レフィア様の叫び声が間近に聞こえますが、身体が思うように言う事を聞いてくれません。
とどめを差そうとしているのでしょう、さらに膨れ上がる殺意を背中に感じます。
鈍く激しい音がして天井が揺れました。
「迷宮トロルです! 離れて!」
突き飛ばされたカーライルが迷宮トロルに身体ごとぶつかり、壁際に押し出してくれたようです。
埃と黴が舞い上がる中、迷宮トロルがこちらを睨み付けている姿が見えました。
「魔来香は、魔物を、呼び寄へまふ」
「無理に話さなくていいから! しっかり!」
レフィア様が私の肩を強く引き起こします。
左肩はご勘弁ください。物凄く痛いです。
カーライルが抜剣して斬りかかりますが、迷宮トロルの岩のような肌に阻まれ、弾き飛ばされた剣が足元に転がってきました。
手足に力が上手く入らないのでしょう。
それでも迷宮トロルと互角に組打つ所は、さすがあに様に鍛えられている近衛です。
カーライルが迷宮トロルを投げ飛ばしました。
馬鹿ですか貴方は。
ここをどこだと思ってるんですか。
天井も壁も年代物の地下迷宮です。
轟音を立てて迷宮トロルが壁にぶつかりました。
「あ」
崩れてきた天井の瓦礫の向こうから、カーライルの間の抜けた声が聞こえた気がしました。




