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♯144 橋の上(剣聖の慟哭5)



 あってはならぬ事にござった。


 鈴森御前。

 リンフィレット殿が鬼の姿で町で暴れている。


 拙者はすぐさま大小の得物を腰に差し、ギルドの使いの者から聞いた場所へと向かったのでござる。


 道中に浮かぶのは何故、何故、何故の疑問ばかり。


 すでに町を去ったのではなかったのでござるか。

 何故鬼の姿を人前に晒してござるのか。

 二人のお子はどうしたのか。


 何故、斯様な事態になってしまったのでござるか。


 庵を閑地に立てた事を恨めしくも思いながら、募る焦燥と、納得のいかぬ戸惑いを抱えながら、拙者は全力で駆け抜けたのでござる。


『剣聖さんの所に来てから、はは様と一緒にいられる時間が増えたんです。……実はそれがちょっとだけ、嬉しいんです』


 幼いながらも我が儘を堪え、誰にも迷惑を掛けないようにとリーンシェイド殿は必死に耐えてござった。


『はは様程では無いにしても、剣聖も強い。……俺も、強くなりたい。もっともっと強くなって、今度は俺が、ちち様のように、はは様とリーンシェイドを守りたい』


 あどけなさの残る面差しに、強い意志を宿らせ、アドルファス殿は唇を噛み締めてござった。


 胸中を過るは二人の安否。


 守るべき、守られるべきもの。

 ……その命。


 ここに来て自失にて呆けていた頭が、ようやくにして醒めてきたかのようにござった。


 気付かずに見過してござったいくつもの不審な点。


 そもそもが義理堅きリンフィレット殿の事、黙って姿を消すような事などあろうハズもなかったのでござる。

 例え如何様な事があったのだとしても。

 アドルファス殿にしても、リーンシェイド殿にしても。


 それを……。

 拙者はよく分かっているハズにござる。

 分かっていたハズなのに、拙者は……。


 己の愚かさに愛想も尽きるとはこの事にござる。


『軽蔑して下さい。私は……、夫の仇を取る事よりもこの子達を守る事を、選んだんです』


 恨めしかろう。さぞ、憎かろう。

 それは一体、どれ程の歯痒さでござろうか。


 されどその夫の仇討ちさえも飲み込み、自らの身をひさいでまで二人の子を守るリンフィレット殿が、黙っていなくなったのでござる。さらには、隠れ潜んでいたハズの御身を衆目に晒して。


 ……まず、間違いなく。

 二人の身に何かが起きたのでござろう。

 拙者が愚かさ故に刻を無駄にしている間に。


 月明かりの下、いくつもの居住区画を駆け抜けて、大辻から市街を別ける通りへとただ急いだのでござる。


 不穏な空気がピリピリと湿り気を増す中、四辻を曲がる度に強くなる緊張感と血の匂い。張りつめた夜闇に潜む不穏な気配。これが現実であると、まざまざと拙者につきつけられるようにござった。


 あってはならぬ事。

 あろうハズのなき事。


 何かの間違いであって欲しい。

 何かの間違いにござる。


 一縷に込めた拙者の願いはされどしかし、目の逸らしようの無い現実の光景としてそこにござった。


 月下に佇む白き姫夜叉。


 気高き尖角は相も変わらず天を示し、夜風になびく絹のような白髪は月光を浴び、夜闇の中にてほのかに光を帯びているかのようにござった。


 ゆらりとした立ち姿に卑しき所無く。優雅にして毅然とした見姿に言葉を失うも、手に携えるはいつかの蒼槍。


 返り血にござろう。紅き飛沫でまだらに身体を染め上げたリンフィレット殿は、足元に転がる数人の骸を橋の上にて、ただ静かに見下ろしてござった。


 言葉を失くして立ち止まる拙者に、紅き双眸が一瞬向けられた時、そこにわずかな動揺を見たような気がしたのでござる。

 

 その姿に、はにかんで照れるいつかのリンフィレット殿が拙者の中で、確かに重なったのでござる。


「これはっ、何事にござるかっ!」


 場を鎮めようと気勢一喝。


 リンフィレット殿はリンフィレット殿にござる。


 その事を改めて確認出来た拙者は我を取り戻し、柄に手をかけ、橋の上へと駆け寄ろうとしたのでござる。


 側にありて、かかる災禍よりリンフィレット殿を庇う為。もちろん拙者はそのつもりにござった。


 一瞬、リンフィレット殿が何かを言わんとして、されどそこに先じてあげられた声がござった。


「おぉっ剣聖殿っ! これは心強い味方が現れたっ! 皆、剣聖殿が来てくださったぞっ!」


 聞き覚えのある声に気をやれば、橋の向こう側にずらりと並ぶ兵士達の中、王宮付きの近衛隊長殿の姿がそこにござった。

 見れば馴染みのあるギルド仲間の顔ぶれも、そこにいくらか並んでござる。


 近衛隊長殿に合わせたかのように、周りからも期待のこもった響動めきが生まれてござった。


 されどその中で、拙者に気を取られていたリンフィレット殿がその声に反応し、剣呑な殺気をこめ、かかる男衆を睨み付けたのでござる。


 そっと頷き、敵は魔王の手に非ずと見極めは一瞬。


「近衛隊長殿とお見受けいたすっ! 斯様な有り様、一体ここで、何事があったのでござるかっ!」


「ひ、姫夜叉だっ! 以前に報告のあった『鈴森御前』がこの町に潜んでいたのを、こうやって炙り出したのだっ!」


 ……炙り出す。

 げに不思議な事に、近衛隊長殿はそのように言ったのでござる。


 拙者に取ってその言葉は不可解至極。納得のいかぬ座りの悪さを感じたのでござる。


「……一体、どうやってでござるか。そもそも何故に、近衛隊長殿はそれを知ったのでござろうか」


「私も最初に聞いた時は半信半疑であったのだがな、すでに二匹の小鬼はこちらの手にあるっ! あとはその鬼を討つだけだっ! 剣聖殿っ!」


 ……聞いた?


 そう言って、近衛隊長殿が身体をずらすその背後。後背に立つ男衆の手に抱えられる、見間違う事なき二人のお子。

 共に猿轡をかまされ、見るに痛ましい程荒縄で強く身体を縛り上げられてござる。


 驚愕と動揺に、心の臓を強く握り潰された思いにござった。


 ……何故。


 理解の及ばぬ納得の行かない状況にござれども、現状が、とても最悪な事態にある事だけは悟ったのでござる。


 一体どうやって、何故二人を捕まえる事が出来たのかまでは分からぬが、二人の子を助ける為。その為に今、リンフィレット殿が斯様に鬼気迫る姿である事だけは、……分かったのでござる。


 それが分かれば、十分にござった。


 なればこそ、拙者のやるべき事に迷いは無し。

 そこに一切の迷いなど、無かったのでござる。


 覚悟とは正に、一瞬の内に宿るもの。


 低く構えた姿勢から白刃を抜き払い、居並ぶ男達を切り捨てて二人を救いだす為、拙者はリンフィレット殿の真横を駆け抜けようとしたのでござる。


 刹那。


「駄目っ!」


 その横を通り過ぎようとしたリンフィレット殿から、思いも寄らぬ蒼槍の一撃が突き出されたのでござる。


 不意を突かれたとは言え、その一撃はあからさまに手心の加えられたものにござれば、拙者も咄嗟に刃を合わせ、受け止める事もできようもの。


 されど受ければ当然、歩みも出せず。


 ぐぐいと更に押し込まれる槍元を刀の鍔にて受け、その圧力に抗いながらも、その場に踏みとどまるより他に無し。


 リンフィレット殿は蒼槍をしかと構えてさらに押し込み、その紅き双眸の中に拙者を捉えてござった。


 何故にござるかっ!


 そう口に出そうとした拙者の言を先じて封じるかのように、リンフィレット殿は微かに首を横に振ってござった。


「……駄目です。剣聖さん」


 沸き上がる憤りを必死に堪えながらも、敢えて小さく、周りにそれと分からぬようにそう、囁いたのでござる。


「人である剣聖さんが、鬼である私達の為に人に刃を向けたら、駄目です」


 斯様な時であってさえも。

 その声は相も変わらず、鈴の音を転がしたかのように清く澄んだもののように聞こえてござった。


「されどっ!」


「お願いだからっ、……聞き分けてっ!」


「ならぬでござるっ!」


 迫る槍元からの圧力に対して軸足を入れ替えて脇へと反らし、生まれた隙から斜め上へと跳ね上げれば、行く手を阻む槍元も前に無し。

 後方へと振り抜いた刀の勢いのまま身体を捻らせ、背を流して通り抜けようとしたのでござる。


「させないっ!」


 されどやはりリンフィレット殿も流石なもの。

 流された槍先を淀みなき捌きで制すると、上体を低く構えた勢いに乗せて槍元を引き込み、かかる隙を如何程にも見せる事なく拙者の足元へと突いて見せたのでござる。


 その狙い、寸分の狂いも無き様至高の極致。


 拙者が咄嗟に後方へと飛び退けたのは一重に、その一撃が本意では無かったが故。精彩無き一撃だったからにござる。


「左様な突きで拙者を止められると思うでござるかっ!」


 斯様な時に何をとも思えばこそ、拙者もやはり一人の武人にござる。本意無き一撃には多少の憤りもまた感じるもの。

 それが、心より認めた相手であればなお然り。


 握りを深く、不退転の意思で月明かりに刃を返さば、相対せし紅き双眸にも光が宿ったのでござる。


 リンフィレット殿の心には痛み入るもの。

 されどこの剣聖。我が身の保身が為にこの場を引くなど埒の外。


「押し通ぉぉぉおおおおおるっ!」


 かかる気勢を丹田に込め、意思を通す。


「……このっ、頑固者っ」


 かすかに呟くリンフィレット殿ではあれど、構えた蒼槍を握る両拳はしかと、握り直してござった。






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