♯128 今、そこにあるチチ
「ふっぐぉおおおっ!?」
蹴り上げた膝が顎下をぶち抜く。
喉元まで込み上げていた悲鳴を、口一杯に頬張った鶏肉と一緒に咀嚼して飲み込みんだ。
……。
……揉まれた。
揉まれた。
揉まれた。
揉まれた。
何を?
何が?
何で?
状況を把握出来ず、確かに胸に残るおぞましい感触に頭の中が混乱する。
顎下を蹴り抜かれて仰け反るちいさなおっさんが、目の前でゆっくりと上体を無防備にさらけ出す。
……。
胸を、……揉まれた?
自分で仕出かした事とは言え、身に付けていた衣服をすべてボロボロにしてしまったが故に、今は素肌の上に薄手のブラウス一枚しか身に付けていない。
ノーブラブラウス。
何で、よりにもよってこんな時に。
ダイレクトに鷲掴みにされた感触がはっきりと伝わる。
嫌悪感とおぞましさが背筋を全力で走り抜けた。
「っいっやぁぁあああああーっ!?」
再び込み上げてきた悲鳴とともに、目を固く閉じて、渾身のローリングソバットを叩き込む。
「ごふぅぉうぉぉおおおおおっ!?」
空中で受け身の取れないまま全身全霊の一撃を食らったおっさんは、錐揉み状態にさらにツイストが加わる。
造りの荒い小屋の壁を吹き飛ばし、木片と土埃を過激に撒き散らしながら外へと吹き飛んでいった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
落ち着こう。
まずはゆっくりと落ち着こう。うん。
両手に掴んだままの鶏肉をとりあえず片付ける。
……うん。美味しい。
指先にのこった脂を嘗めとって、動揺しまくって早まる動悸に、とりあえず呼吸を調える。
揉まれた。
がっつりと両手で、鷲掴みのまま。
何を? 何が? 何で?
ゾワゾワと背筋に感じるおぞましさに身体が震え、両腕で身体をがっしと抱き込む。
初めて感じる気味の悪い恐怖に、腰と膝から力が抜けそうになるのを必死で堪えて踏ん張る。
「……拙者、今、一体何を」
小屋の外へ飛んでいったちっさいおっさんがむくりと起きあがり、頭をふって立ち上がる。
渾身のツーコンボのダメージはないっぽい。
気が動転していたとはいえ、あれを食らって何事もなく立ち上がるとは……。
このおっさん。只者じゃない。
警戒レベルをぐぃっと上げざるを得ない私と、キョトンとするおっさんの目線とが重なる。
「……なっ!?」
咄嗟に掴んで投げた椅子がおっさんの顔にクリーンヒットした。
……。
……。
ごめん。
落ち着くなんて出来ませんでした。
「いやーっ! へんったいーっ!」
涙目になりながら手当たり次第に小屋の中にあったものを投げつける。
「ちょっ、おぶっ!? ちがっ、待っ!」
飛来する雑貨から身を守りながら、ちっこいおっさんが少しずつ近付いてくる。
正直、怖いです。
今まで感じた事のない怖さに身がすくむ。
「……本物? 本物のチチでござるかっ!?」
「いやぁあーっ!」
壁に開いた大穴から、おっさんがガバッと身を乗り出して再び小屋の中へと這い戻ってきた。
……しまった。
焦りと混乱から状況判断を誤ったとしか思えない。
こんな所で物を投げつけてないで、さっさと小屋の中から外へと逃げ場を確保すべきだったのだ。
せまい小屋の中でおっさんと対峙する。
外への出口も壁の大穴も、おっさんの背中の向こうにある。
万事休す。
「来ないでくださいっ! へんたいっ!」
「ま、待つでござるっ! 誤解でござる!」
おっさんが手を前にかざして迫ってくる。
このままでは捕まってしまう!?
何とか必死で逃れようとして、身を捩った所で急に視界が斜めに滑った。
「きゃあーっ!?」
「危ないでござるっ!?」
足を取られて勢いよく世界がひっくり返る。
慌てていた所為で床に散乱する食器に気がつかず、転がるカップに足を乗せてしまっていた。
ぐぃっと腰元を引っ張られるような感触があった気がするけど勢いは止まらず、そのまま床の上へと倒れ込んでしまった。
強かに打ち付けた肘が痛い。
「……いったーっ、何っ!?」
立ち上がろうとして、何かに足を引っ張られる。
一体何がと振り返り……。
思考がそこで停止した。
……。
……。
嘘……。何、これ。
振り返り見れば、膝の辺りまでずり下げられたズボンと、ぷっくりと露出した自分のお尻がそこにあった。
……。
……。
「嫌ぁぁあああーっ!」
ハッと我に返り、慌ててズボンをたくし上げる。
ちょっと待って。
ちょっと待って。
ちょっと待てぇぇぇえええええーっ!
泣きたいっ泣きたいっ泣きたいっ!
なんでこうなるっ!?
なんでこんなんなるんだーっ!?
「いや、ち、ちがっ、こ、これはっ」
生尻見られた。
生尻見られた。
生尻見られた。
「しねーっ!」
「あごっうっ!?」
あたふたとするおっさんの顎先を、蹴り上げた右足が掠める。
おっさんは目を回しながら、バターンっと仰向けに倒れて気を失ってしまった。
……。
……。
マジ、勘弁して下さい。
ぐすんっ。
「まっことっ! 申し訳ござらぬっ!」
床板をぶち抜く勢いで額をこすりつけ、正気を取り戻したおっさんはただひたすらに平謝りを続けていた。
胸を揉まれて生尻見られた私はと言えば、恥辱のあまりに顔を上げられないまま、小屋の角で丸くなって膝を抱えている。
……もうお嫁にいけない。
こんな私でも貰ってくれるんだろうか。
魔王様は。
それでも何とか場に留まったのは、ここに住んでいるならどこか戻れる場所を知ってるかもしれないからで。
ここはぐっと押し込めて堪える。
背に腹は代えられない。
おっさん曰く、こんな所に生身の女性がいるなんて全く思いもせず、幻覚かと思い触れたらそこにチチがあったのだとか。
無論、邪な考えで押し倒そうとか乱暴しようとかするつもり等は無く、不可抗力のバーゲンセールなのらしいのだけれど……。
「かような娘御どのに何とも申し訳のない事をっ! このゼン・モンド、いかなる償いであろうと全身全霊をもっていたす所存。どうか、どうか平にご容赦をっ!」
勝手に小屋に入って盗み食いした私にも非はあるのだから、実はおっさんだけが悪い訳ではない。
それは分かってはいるけど、飲み込むまでには今しばらく時間がかかりそう。
だって生尻見られたんだもん。
心の傷は奈落よりも深い。
おっさん改めゼンさんも、こうしてひたすらに謝罪を重ねてくれてるんだし、こういうのはさっさと忘れて……。
……。
……。
ゼン・モンド?
聞き覚えのある珍しい名前にふと顔を上げ、ひたすらに頭を下げるその姿をじっと見つめる。
その名前は村にいた頃からよく聞いていた。
村祭りの寸劇にもなっていた。
あの役は、確かマオリだったハズ。
お話の中のイメージとは……。
何かだいぶ違う。
でも、ゼン・モンドなんていう変わった名前が、そうポコポコほっつき歩いてるとも思えない。
知らず口からもれたのは、確認だった。
「……もしかして、剣聖ゼン?」
半信半疑で問いかけた言葉に、平伏叩頭していたゼンさんがピクリと反応し、驚いた様子で顔を上げた。
「拙者の事を、知ってるでござるか?」
……どうやら本人っぽい。
マジで、マジもん?
剣聖ゼン。
音に聞こえた剣の達人で、その逸話は様々な形でお伽噺として各地に残っている。
以前ならその名を聞けば憧れの対称でもあったのだけれど、魔王城に来て色んな出会いをした今となっては別の思いが込み上げてくる。
……剣聖ゼン。
鈴森御前。つまりはリーンシェイドのお母さんを殺したと言われている人。
この人が……。
複雑な思いが粘着質に絡まる。
私はじっと見つめながら、剣聖の姿にリーンシェイド達を重ねていた。




