♯120 泉の妖精
どこまでも青く澄み渡る空。
吸い込まれそうな程に深く重なるまっさらな青の中に、太陽の光を浴びて輝く白い雲が、わっさわっさと膨らんでいく。
鼻先を掠めて頬に当たる風が気持ちいい。
水面の下にある耳には、トクントクンと自分の鼓動だけが水を伝って聞こえてくる。
浮力に全身を投げ出して、仰向けに浮かぶ。
水の上にぷかーっと浮かんで空を眺めるのって、何か、物凄く和む。
季節も丁度夏だし。気持ちいい事この上ない。
着替えも何も無いのに。
全身ずぶ濡れだよコンチクショー。
……気鬱だ。
嫌だな……。考えたくないな……。
着替え所じゃないんだよね、実際。
食料も道具も何一つない。
まさに身一つで放り出されてしまった。
転移した先が岩の中とか地面の中でなかった分だけ良かったのかもしれない。けど、いきなり水の中にドボンと放り込まれれば、自棄でも何でも、こうして浮かんでいたくもなる。
……うーん。
何だっけか。
確か森の最深部まで来いとか言ってた気がする。
素直に言う事を聞く義理も何もないけどさ。
……そもそもどこだよ、それ。
魔王様達ともはぐれてしまったし、まったくはじめての右も左も分からない森の中。食料も荷物も何にも無い状態で、……一体どうしろと。
まずは強制的にずぶ濡れになった服から、どうにかしないといけないんだよな……。
さすがにこんな森の中で一人、真っ裸になるのは私だって御免こうむりたい。
野性の本能を解放するのは子供の頃だけで十分です。
……はぁ。
嫌だなぁ……。
このまま何もせずに浮かんでいたい。
何も考えたくなーいっ。
チーズ蒸しパンになりたい。
……。
……。
「……って言う訳にも、いかないか」
一つ盛大にため息をついて、水の中でくるっとひっくり返る。
残念ながら人は水中で生活するようには出来て無いらしいので、とりあえず岸を目指して泳ぎ進める。
うーん。気が重い。
本気でどうしよう、これから。
食料に関してだけ言えば考えはある。
聖都で覚えた『生命維持』と『体力補助』だ。
魔法で擬似的な栄養を補完して、体力を補助し続ければ、とりあえず空腹で動けなくなって飢え死にする事だけは避けられる。
死ぬほどお腹は空くだろうけど。
一番の問題は、全く地理が分からない事。
何を目指してどこへ行けば良いのかさっぱり分からん。
素直に最深部を探して向かうのも有りだけど、言われたままに従うのも正直気に食わない。
『祝福』を皮肉だとかほざいてた気がするから、嫌味をこめて最大出力で祝福かましてやって、また出てきた所をふん捕まえるのも有りかも。
いっそこのまま水の中でやってやろうかとか嫌がらせ方法を色々と考えながら、浅瀬に上がる。
水面から身体を起こすと、たっぷりと水を含んだ衣服がピトリと身体に貼り付いて、ただでさえ重い気分がさらに重くなる。
立ち上がろうとしたけど気が抜けてしまい、ペタンと座り込んでしまった。
胸元まで水に浸かって重いため息をつく。
相変わらず、綺麗な水だこと……。
……。
……。
魔王様達、大丈夫かな……。
酷い怪我とかしてなきゃいいけど……。
不安に頭を悩ませていると、何の前触れもなく目の前にドボーンっと突然、大きく水柱が立った。
「……へっ?」
タライをひっくり返したかのような大量の水を、ざっぱーんと頭から浴びせかけられてしまった。
最初からずぶ濡れだったから別にそれは構わないんだけど……。
大きくうねる波を残して水柱が消える。
その水柱の代わりに姿を現した存在を目の当たりにして、思わず言葉を失ってしまった。
……。
……。
お尻だ。
目の前に、ぷるんぷるんのお尻がある。
何と言うか、……生尻だ。
呆然としながらも、恐る恐る視線を上へずらす。
お尻の上には、はち切れんばかりにテッカテカに輝く筋肉マッチョの塊が、こちらに悠然とその背中を見せていた。
目と鼻の先でどうだと言わんばかりに手を腰にそえ、筋肉マッチョが仁王立ちしている。
……全裸で。
「っ変態だぁぁぁあああああっ!?」
たいへんだ。へんたいだ。たいへんだ。
たいへんだ。へんたいだ。たいへんだ。
へんたいだ。へんたいだ。へんたいだ。
思わず上げた絶叫に、全裸の変態が振り向いた。
「うむ?」
「いやぁぁぁあああああーっ!?」
前を見せるなあああああっ!?
見たくも無いものは見たくも無い。
ぐっと力いっぱい目を瞑って大急ぎで岸辺へと向かう。
びっくりし過ぎて腰に力が入らず、バシャバシャと盛大に水飛沫をあげながらも中々前へ進めない。
「変態となっ!? それは大変なのであるっ!」
後ろから全裸の筋肉マッチョがバシャバシャと大股で近づいてくる。
見たくも無いのに大きく揺れるソレが、自身を強く主張しながら近寄ってくる様は悪夢以外ナニものでもない。
ナニものでも無いと言うか、ナニものだけど。
……とか言ってる場合じゃない。
「変態はいずこであるかーっ!」
来るなーっ! お前だーっ!
お前がその変態だーっ!
嫌だぁぁぁあああああっ!
涙目になって必死で逃げていると、変態全裸マッチョがピタリとその動きを止め、立ち止まった。
大きく胸を張りながら顔つきを険しくさせ、何やら遠くを睨み付けている。
「……風が泣いておる。邪悪な気配であるな」
いや、邪悪なのはむしろあなたの自身と言うか。
……。
乙女に変な事言わせるなーっ!
言ってないけどっ!
口に出して言ってないからっ!
まだっ!
何だか知らないけど、今の内に逃げるしかない。
逃げるったら逃げる。絶対逃げる。
「フンッ! ハーッ!」
ザッパーンと大きな水飛沫を上げて、気合いのこもったかけ声とともに全裸マッチョが跳び立つ。
どこまで遠く跳んだのかは知らないし、知りたくもないけど、瞬く間に森の木立の中へと消えていってしまった。
あまりの衝撃に心臓がバクンバクンと大きく波打つ。
「はぁ、はぁ、はぁ、……何、あれ」
何かは知らないけど、絶対ヤバいもんだ。
間違いない。絶対ヤバい。
下手したらまた戻ってくるかもしれない。
慌てて水の中から這い上がる。
迷いこんだ森の中で、泉の妖精に出会って助けられるという話はよくお伽噺の中に出てくるけど、あれは違う。絶対に違う。
……違ってて欲しい。
ぐしょ濡れの服を引き摺って泉を離れる。
……重い。濡れた服って、何でこんなに重いんだ。
ふと、聖都で何度も見た魔法を思い付く。
あれは神聖魔法じゃなくて生活魔法だったけど、構築式はばっちりと覚えている。要は魔力を込めれば、……いいハズ。
神聖魔法以外の魔法の適性は低いって言われたけど、魔力を込めて構築する事に変わりはない。
……むしろ、やるなら今でしょ!
やった事ないけど、必要は成功の母だ。
『乾燥』の魔法を構築して、魔力を込める。
構築自体は神聖魔法よりは簡単に出来る。
適性が低かったとしても、何とかなるハズ。
構築された『乾燥』の魔法は魔力に反応し、思った通りに発動してくれた。
「……よしっ! やれば出来るじゃん」
『乾燥』がかけられた服がみるみる内に乾いていく。
さすが生活魔法。便利で頼りになる。
適性が低くても何とかなるもんだ。
ずぶ濡れだった服が湿り気を失い、どんどん乾いていくのが分かる。
これなら何とかなるかもと思いはじめて、どこか様子がおかしい事に気づく。
乾いても乾いても乾いていく服。
さらに乾いても乾いて……。
さらにどんどん、乾いて……。
……。
……。
いや、待って。
さらにどんどんカラカラに。
「ちょっ、あれ? 嘘っ!? 待って!」
カラッカラに乾いた服がさらに乾き続けていく。
「嫌っ! 嘘だーっ! 待てーっ!?」
乾き過ぎて風化し始めた服の裾を押さえると、押さえた所から粉々になって風の中に消えて行く。
慌てて身動ぎしようものなら、さらに服が粉々になってボロボロと崩れはじめてしまった。
嘘だーっ!
ありっえないっ!?
あっという間に身に着けていた服がすべて粉々になって崩れ去り、一糸まとわぬ姿になってしまった。
「嫌ぁぁぁあああああっ!」
嘘でしょっ!?
マジでかっ!?
身体を隠してその場にしゃがみ込む。
ないないないない、絶対ありえないっ!
何でこんな森の奥深くで、全裸を晒してるんだ!?
野性に戻って解放感?
いやいやいやいやーっ! とんでもない。
ただただ不安で不安でしょうがない。
隠す所隠せるって、とても安心する事なんだね!
ちっがーう! そんな事を再確認してる場合じゃない。
どうする!?
どうしよう、これ!
どうしたらいいんだーっ!?
森の真っ只中で全裸になってしまうという、端から見たら変態以外何者でもない事態に混乱していると、側の繁みがカサカサと揺れ、何者かの気配を感じた。
嘘っ!? 戻ってきた!?
慌てて泉の中へと飛び込む。
生憎と澄みきった水は何も隠してはくれない。
素っ裸でうろついているよりはマシだけど、これじゃあさっきの変態と一緒だ……。
必死で身体を隠そうとする努力も虚しく、繁みを掻き分けて気配の主が姿を現した。
……誰か嘘だと言って欲しい。
もしかしたら森の動物か何かだったらいいなぁと言う仄かな期待は、無惨にも消え去る。
青いジュストコールを着た、……軍人さんだろうか。その驚いたような目線と、ばっちり目が合ってしまった。
じぃっと凝視するその目線が辛い。
中々のイケメンさんのようで……。
……。
……ぐっ。……見られた。
これはもうばっちり見られてしまっている。
何でこんな所で真っ裸でいるんだと疑問に思ってるんだろうけど、ごめん。私も同じ事を疑問に思っていますともさ。
泣くに泣けないけど、泣きたい……。
しばらく無言のままだったその軍人さんっぽい人が、ふと我に返ったのかポツリと呟いた。
「……泉の、妖精?」
……あれ?
思ったよりも甲高いその声に、一瞬耳を疑う。
見た目よりも、声のトーンが高い?
……もしかして、この人。
「……女の、……人?」




