らじかる Communication
突然ですが、皆さんは、「ラジオ」というメディア媒体についてどのようなイメージをお持ちでしょうか?
・昔は聞いていたなぁ
・特定の年代層が聞くもの?
・スマホ全盛で動画も見られるご時世に乗り遅れたもの
・仕事のときにはバンバン聞いていたよ
・非常時袋の中に入ってるよね(笑)
いろんな声が聞こえてきます。どちらかと言えば、職業ドライバーなどにヘビーリスナーさんが多いようなイメージがあります。
私も幼少時代の記憶で、ラジオといえば、カーラジオから流れてくるもの。当時は松田聖子さんの曲が大ヒットしていた頃でもあり、よくかかっていたという記憶。または春休み、夏休みともなると、ずっと高校野球の中継が流れているというイメージ。当時の私にとって画像がないメディアというものの魅力を感じていなかったのは確かでした。
しかし、こうして歳を重ねてきた私にとって、この「ラジオ」というものは、私の人生で欠かすことの出来ないアイテムとなってきたのです。私にとっての「ラジオ」には2つの意味を持っています。
一つ目としてはいわゆる音楽媒体であるということ。もう一つは人と人をつなぐツールとなり得るということ。
普通に考えればラジオから声が聞こえる、曲が流れるというのは当然のことです。
私がそれに目覚めたのは小学6年生のことでした。
父の仕事の関係で、今から約30年前のアメリカ、テネシー州の片田舎の小さな町に転居した私。日本人のたくさんいる大都会ではありません。もちろん、普段の学校生活はすべて英語。日本語なんてものは、週1日の日本語補習校でのみ。あとは家の中と、同じように赴任された家族で集まったときという程度。
今のようにインターネットもありません。流行りの情報などからも全て切り離され、音楽なども完全な大人向けの歌謡曲、または子供向けのアニメの曲などがほとんど。
そんな中で、私が縋ったのがいつも車の中で流れていたFM放送でした。もちろん話している内容なんて当初は全く分かりません。
今でも一つのジャンルとして残っている「80年代ロック」の真っ只中、今でもよく聞く洋楽全盛の時代。言葉は追えないけれど、好きな音楽はある。
後に知るのですが、日本のラジオ番組では新曲がリリースされて、しばらくチャートを賑わせている間はいろいろなところでオンエアされますが、その後は懐かしい曲の特集などがないと忘れ去られてしまいます。しかし、現地のFM局ではそれが10年前の曲であっても人気やリクエストがあればかかるわけです。
いつの間にかその時代にすっかり洋楽リスナーの下地ができてしまった私。それは今でも続いています。
また父方の実家より送ってもらった「短波ラジオ」の存在。現在でもNHKの国際短波放送が存在していますが、これに非常にお世話になりました。電波状況は非常にシビアで、毎回必ずクリアに受信できるわけではありません。タイムテーブルを取り寄せ、あるときはカナダ、あるときはエクアドルの中継所の周波数に合わせることもしました。条件さえ良ければ、年末の紅白歌合戦も聞くことも出来ました。これで遠距離受信リスナーの出来上がりです。
いわゆる「ながら聴き」を覚えてしまった私。確かに音質や好きな曲を聞くということでは、メディアを手持ちのデバイスで持ち歩くことに勝ることはありません。しかし、自分の手持ちの音源に飽きてしまったとき、偶然好きな曲を見つけるというのが、このような放送メディアの醍醐味でもあると考えています。
そんな私ですから、初めてウォークマンを買ったときから、チューナー付きモデルを買っていました。後にどうしてもモデルが無いときは、ポケットラジオを別に持っていたほどです。
高校時代に母校が甲子園に出場したとき、アルプスではこれが非常に威力を発揮しました。スタンドでは正直なところ試合の流れや1球ごとの内容というのは分かりにくいのですが、子供の頃に苦手だったあの試合中継はリアルタイムで解説してくれるわけですから。
同時に中学、高校時代は深夜のBGMとしても使いました。当時第二次声優ブームと言われた時代。週末の夜間帯はアニメや声優さんのラジオが数多くありました。関東地方でオンエアされていない番組もAM放送を夜間ならではの遠距離受信【受信は小山、横浜。放送局は名古屋、神戸、札幌が実績】をしたりもしました。
中学3年生のとき、そのアニメ関係のラジオの中、あるパーソナリティに出会います。「ディスクジョッキー」ではなく、言葉を操る「トークジョッキー」と彼女はご自分のことを紹介されていました。
毎週日曜日の夜、関東地方ではネットされていない僅か30分の番組の中で、届く葉書の内容に笑って泣いて、ガチンコでリスナーと向き合う番組とトークジョッキー・Mさんにあっと言う間に引き込まれていきました。
その番組を聞き続けて4年、自らの失恋が原因で全てが辛くなり「消えてしまいたい」と番組に手紙を書いてしまったことがあります。放送しなくていいとは書きました。でも、毎週全ての葉書や手紙をご本人が読んでいることは知っていましたし、その番組にとって「リスナーが自ら死を選ぶ」というのはトラウマであり、別の方のケースではそんな内容を励ますためにあえてオンエアとして乗ることもあったのです。
しばらくして、1枚の葉書が届きました。「今終わりにしてはいけない。こんどは誰かに振り向いてもらえる人になればいいのだから」電波には乗らなかったけれど、Mさんは直筆の手紙で教えてくれました。今でもその葉書は私にとってお守りです。
その夏から、心配をかけたお詫びと恩返しのようにイベントにも行き、たくさんの仲間と思い出を作ってきました。毎年夏休みにイベントが行われる名古屋に出向き、1年ぶりの再会を喜ぶ仲間も出来ました。それにあわせて敢行される「東京~名古屋往復ツアー」の主催も前任の方から引き継ぎ2年間行わせていただきました。これはエリア外の関東リスナーにとって非常に重い主催で、名だたる有名先輩リスナーが代々繋いでくださったものです。それを降りた後は、当時男性が大勢だったイベント会場に「行きたいけれど不安で行けない」という女性若年層リスナーのために奔走したりもしました(今では当たり前の光景になっていますが、当時は高校生以下の参加は非常にハードルが高かった)。いつの間にか私はもはや独りではなく、Mリスナーの皆さんの中にガッチリと迎え入れてもらっていたんです。
その数年後、私は大学の図書館で1通の手紙を書いていました。
宛先はMさんが持っていた別の番組の中で『高校で1年が過ぎ、なかなか友達が出来なくて独りぼっちで寂しい』と投書をしてきたHPちゃんという女の子でした。彼女の番組ではこういった悩みに対しリスナーが応えて、それをご本人に届けてくれるというやり取りは何度も経験していました。
『学校だけじゃない。HPちゃんはもうMリスナーという仲間、大切な友達だよ』という内容を書いたと記憶しています。
しばらくして、そのHPちゃんからお礼の手紙が届きました。後で聞けば、本当に嬉しくてみんなに返事を出していたそうです。
『次のイベントで絶対に会いましょうね』
可愛い便せんにそう手紙に書いてくれたHPちゃん。文通から始まり長い時間を経てその女の子は私の隣にいてくれる大切な存在になってくれました。
彼女のラジオのリスナー同士の結婚話は当時からよくありましたし、それはMリスナーが憧れる夢でもありました。
2009年夏、放送開始から25年に渡る番組が終了されると発表されて、最後のイベントにHPちゃんと夫婦として初めて二人で名古屋に行きました。当時のHPちゃん手紙のエピソードをMリスナーみんなが覚えていました。あのとき嬉し泣きしていた女の子がリスナー結婚したという報告を間に合わせることが出来ました。
私の青春そのものと言ってもいいくらいのラジオリスナー生活が2009年10月4日に一段落して既に8年。そのあとも地元のFM局のリスナーさんたちとパーティーを開いたこともあり、今でも連絡を取り合っている方もいます。
今でこそ、私の出会いは「なろう」のような文章を通じたものに変わっています。
それでも私は作品を書くとき、大抵はラジオをつけっぱなしにして流しています。それがインターネットラジオで海外の放送を気軽に聴けるようになった現在ですから、国内外の放送を問わず聞いています。それこそエリア外ということも考えずに済む時代になりました。
『全然違う場所にいる、会ったことのない誰かだけど、同じ電波を聞いて同じ星を見上げている。それがリスナーの繋がり、素敵なことだと思いませんか?』
あのトークジョッキーが教えてくれた言葉の意味、当時は言葉どおりでしか理解できませんでしたが、今ではもっと深く掘り下げている気がします。
私にはラジオという媒体が人生の中で何度も出てきていますが、もしかしたらそれは『なろう』でも同じ事が言えるのかもしれません。
もし息詰まってしまったときも、誰かは見ていてくれる。そして自分が助けてもらったあとは、誰かを助ける側に回ることが出来る。
コミュニケーションというものは、本来こうやって広がっていくものなのかもしれませんね。




