第1章 第59話 序章 喪失を乗り越えて新たな旅に向かいます
──地獄を見た。ワイングラスから溢れた赤ワインのようにその血は鮮血を保ちながら滴れ落ちた。片腕はもがれ腹を裂かれ内臓は無造作に皿に盛られていた。
異様、そう言わざる負えなかった。
「うぐっ!」
異臭が更に吐き気を増幅させる。何とか耐えて深呼吸をし息を整える。
大丈夫、大丈夫、心に言い聞かせる──
「コト」
奥から何か物音がした。
「んー、もー帰ってきたのかー、意外と早かったねぇー」
その声には聞き覚えがあった。口調は違えどもその確固たる意志を持った喋り方に自分は心から賞賛し少しな間だが信頼を置いていた。
いや、俺の信頼なんて正直どうでもいい、それ以上に大切なのは──
「──嘘っ⋯⋯⋯⋯」
ここに居る誰よりもその声を知り、誰よりも長く暮らしていたシフォンの心理状態だ。
シフォンの絶句と苦悶の表情は彼に対する信頼がいかに厚いものだった事を語っている。
もう誰か分かっただろ。
「改まって自己紹介をするよー」
と言い
「黒魔道教『怠惰』の副司教アレス」
──凄惨な笑みを浮かべ彼はそう名乗った。
アレス──そう彼は名乗った。これが何を意味するのかそれはたった一つ、「俺達は裏切られた」全てにおいて、──人々も、──信頼も、──賞賛も、全てゴミ箱にまとめて投げ入れたかの如く、見事な迄に背を向けられた。
彼はそれを恥じていなかった、むしろ──
「まあ仕方がないってことじゃない? 俺が俺だったんだから」
開き直っている、いやそもそも別に悪いことをしていませんよと言わんばかりの口調だった。
「⋯⋯アレスなのか?」
「ん? その通りだよー志龍、俺はアレスだー」
間の抜けた返事を返してくれた。同一人物でありながらこいつは違う人物みたいに、これが彼の「素」であっても真反対の影のように思えてしまう。
「しっかしまあ司教様も考える事がえげつないなー、いずれ来る時迄彼女を騙し続けろなんて。俺なら考えられないぜこんな絶望を何十倍にも増幅させる行為、恐ろしくて身震いしちまうよー」
それが狙いだったのだろう、待ち受ける絶望、これが神の試練なら恐ろしすぎる。
シフォンを見る。──体は震えているのに、顔や表情は魂が抜けているように見える。精神的にこれはかなりやばい状態だ。
「てんめぇ!」
「そう怒るな志龍、もう少し冷静にいこうぜ」
「この状況で冷静にいられると思うか?」
「常人なら無理だろ、だからお前に言ってるんだよ」
「⋯⋯」
冷静に話す機会を伺う、それも一つの作戦としてはありだろう、チラッと美穂とハルを見る、コクリと頷く。
「⋯⋯質問はいいか?」
「話が早くて助かるよ志龍、君には感謝するよ」
「別に怒ってないわけじゃない、そこは理解しろよ」
「ああ、分かっているとも」
大きく息を吸う、質問の返答次第ではシフォンの心を更に壊しかけない、──でもやるしかない。
「ずっと裏切っていたんだな」
「⋯⋯まあそうなるよね、シフォンには悪いと思っているよ、これは本心さ、でもね俺にも信仰するものがある、そしてそれを守らなくちゃならないそこは分かって欲しいよ」
「ならその信仰がこの惨殺か?」
「うん、その通りさ」
彼は迷いや躊躇も無く即答した。
「ねえ、アレス」
──シフォンが震える声で尋ねるように彼の名を読んだ。
「⋯⋯なんだいシフォン」
「覚えてる? 花屋のグリーンおばさんに花飾りを作って貰ったの」
「勿論」
「二人で果物を買いに行って俺が転んで泣いたのをアレスがあやしてくれたの」
「勿論」
涙を流し、それでも続ける。
「内緒の場所から王城の庭に入って遊んで怒られたこと」
「勿論」
「草原の上で二人で寝た事」
「当たり前だ」
「それでも、しなければならなかったことなの?」
「⋯⋯そうさ」
「⋯⋯」
口を噤む、もう無理だと悟ったのか、満足っていう言葉じゃないが聞きたいことを聞き出せたのか、また一言も発しなくなった。
「⋯⋯⋯⋯お前は」
「志龍⋯⋯」
「信頼に値するって思ってた」
「すまないね」
「謝ることじゃない、こっちが勝手に期待して、勝手に裏切られたと感じているからだ」
アレスの顔をまともに見れなくなった。
「お前は悪くない」
そう言い切る。
1つこの言葉が俺の中で区切りだと思っている。
撥を取り出す。
「だから今からお前にすることは八つ当たりに近いことだろう」
もう一度だけ彼を真っ直ぐ見据える。
「──怨むなら恨んでいいぞ」
「そんなお門違いな事はしないよ」
「⋯⋯そうか、ならいくぞ、「1音 打音」」
彼に近づき腹部に撥を当てる。
「うぐぅぁ!」
音は瞬く間にその衝撃を体の余す所なく伝え内臓を破壊し骨を砕いた。
血と吐瀉物が混ざって吐き出される。立つことすらままならず地に手をつき酸素を求め必死に呼吸をしていた。
「うぐぅぁ⋯⋯」
声にならない叫び声を上げ天を仰ぐ。所詮人間、痛みに耐えることなんて出来ない、なんであってもそれが人なのだから。彼も、常識から外れてるはずの彼でさえそこを超えることは出来なかった。
それを見て俺はポツリと呟く。
「サイテーな奴だよ⋯⋯」
「⋯⋯お、俺の事か?⋯⋯」
彼がそう聞くので首を横に振った。
「いーや自分がだよ、勝手にお前を理解していたつもりになって本当は何も理解していなかった、思想も、生きる意味も、少しの間にアレスを英雄だと決めつけていた。挙句の果てに俺は今八つ当たりをした。全く⋯⋯腹立たしいよ」
「所詮は人間の業、何事にも不完全はあるさ」
諭すように彼はそう嗜めた。
そして力なく指を一本立てる、その手は震えながらも芯がしっかりと通っていた。
「『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』」
「ああ、俺もそう思うよ」
「俺は君のことを言ったんだ志龍、友達であった好として忠告しておくよ、君は気づいていないだけで行き詰まっているよ、影が、君がそう訴えているのだからね」
「⋯⋯忠告承るよ」
心に刺さる一言を言われた、だがそれも心臓手前まで刺されたように致命傷とまではいかなかった、寧ろ甚だ自分はそれが何なのか疑問にまで思っているのだから。
──そこが弱いんだよ。何だか心の中を見透かされたかのように思えバツが悪くなった。
肩に手が当てられた、振り向くとシフォンがいた。何か覚悟を決めたような顔だった、ちょうど良かったのでバトンタッチする事にした。
「シフォン⋯⋯」
「アレス、私達はもう戻れないんだね」
「⋯⋯ああ」
「そう、なら私の手で貴方を殺すわ」
「その方が有難いよ。どんな友人よりシフォンに殺される方が本望だよ」
「⋯⋯私は殺したくないけどね」
「⋯⋯」
アレスは今度は逆に喋れなくなった。彼自身もまだ思う所はあるのだろう。彼女を、シフォンの事を、そうでなければあの晩、彼は本気で俺の事を止めることは無いはずだから。
「それでもっ⋯⋯」
涙を流す、それが──血の涙にも見えた。心の中が酷く濁っているのが目に見えてわかる、躊躇してしまう気持ちもわかる。俺からしたら美穂を殺せと言っているようなものだ。自分自身に問う、その勇気が心の内にあるのか? ──分からない、実際その場面に遭遇してみないと俺には想像もつかない。でも実際それがシフォンの目の前では起こっているのだ。
──想像を絶する苦痛が、苦悩が彼女を崖の端に追い込むようにのしかかる。
歯を食いしばる、揺らぐ心を無理やり押し付け取りたくもない方の決意を目を瞑って強引に取る。
「貴方を殺さなければならないのっ⋯⋯!」
言い切った。──それが使命だから。──そうするしかないから。
「⋯⋯なんで涙なんか流しているんだい⋯⋯?」
「ねぇ、涙って色が抜けた血だって知ってる?」
「⋯⋯知らなかったな」
「俺は今、血を流してるの」
誰しもが通わせ、自らの生命維持に必要な道具として持ち合わせている。
彼女は今、溢れんばかりの血を流している、それはまるで死にゆく愛する人に向かおうとする、生命の放棄にも感じられる。
──ならその涙は鈍く、不気味な鉄の味をしているのだろう。
「シフォン、君はまだ前に進むべきだよ。涙を流してもいい、それでも血は流さないでくれ。いや君の涙は血ではないよ、だって鉄の味がしないもの」
彼は笑って見せた。彼女に心から生きていて欲しい、自分と同じ道を歩んで欲しくない。そう言わんばかりの笑顔だった。
同時に涙を流した。彼は何故流したのか理由がわからなかった。それと同時にまだ自分にも人らしいものが残っているのだなと感じた。
「⋯⋯時間だ、シフォンやってくれ」
シフォンはナイフポーチからハンドナイフを取り出す。胸の中心に構える。──最後に彼女は涙混じりだが飛びっきりの笑顔を見せた。
「バイバイ」
「ああ、バイバイ」
胸にナイフを突きつける。心の奥深くまで突き刺さり絶命の一撃となった。
彼は目を閉じて安からな笑みを浮かべその生涯にケリをつけた。
──指名を果たした。彼女は成すべきものをし終えたのだ、誇るべきだ、黒魔道教の副司教を倒したのだから。だが心の中にあるのはすっぽりと空いた虚空と湧き溢れてくる彼への思い。──シフォンはアレスが好きだったのだ。誰よりも彼女を理解して、誰よりも気にかけてくれた幼馴染。そんな彼が大好きでたまらなかった。
愛する者の喪失感、目から溢れてきたものを確信した。──これは血では無く涙なのだと。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
感情が流れ落ちるように溢れ出てくる。
彼への一途な思いが胸を締め付けより一層その悲しみを倍増させたのだ。
彼は悪だ、世にいう極悪非道と言う奴なのだ。
それでも彼はシフォンの好きな人であった。
──必要悪であったのかもしれない。彼が彼女を先に進める為に必要な背中を押してくれる人であったのかもしれない。
それももう確かめることは出来ないのだ。
目を逸らす。彼の表情が余りにも安らか過ぎるので何故か2人の光景をまともに見れなくなった。
恐らくだが、彼もまた──彼女の事が好きだったのだろう。
「ちっ、しょっぺえじゃねーかお前の涙も」
俺は皆がいなくなった後に彼の元に近づいて涙を舐める。
彼もまた血の涙を流していた訳では無かった。──それとも
「もう血は枯れちまったのか?」
そう言い残して俺は出ていった。
『愛するものが死んだ時には、自殺しなきゃあなりません。けれどもそれでも、業が深くて、なおもながらうことともなったら、テンポ正しく、握手をしましょう。』──中原中也氏の詩の一節。
────気がつけば朝になっていた。プレアは体を起こす。泣き疲れいつの間にか寝てしまっまていた事を思い出す、そしてアレスの元へと駆け込む。
一種の希望から彼女は走っているのかもしれない。──いつもと変わりない日々が食堂を開ければ待っていると、昨日の事は疲れすぎて夢を見ていたと──現実は甘くは無い。
そこには安らかに短い生涯を終えたアレスの亡骸が丁重に置かれていた。
「よう、目が覚めたか?」
シフォンに声をかける。
夜どうし彼の死体が死霊にならないか守を寝ずにしていた。疲労感がマックスで今すぐ寝たい。
シフォンを見ると目元が赤く晴れ上がっていた。
泣き疲れ寝てもまた泣いていたのだろう。
「大丈夫か?」
彼女はコクリと頷く。然し依然としてその表情は曇ったままだった。
どうしたものかと少し悩んだ、そこで一つ思い浮かんだ。俺は手を前に差し出した。
シフォンはビックリして──何? と言った。
「テンポ正しく、握手をしましょう」
「⋯⋯」
「それでも前に進まなくちゃならないんだよ、血の涙を流そうが鉄の涙を流そうが、愛する者が死のうが、俺達は前を向いて握手をしなれければならないんだよ」
「⋯⋯馬鹿なの?」
「おうとも、世界一天才な馬鹿だよ」
──ほんっと馬鹿だね。と彼女はようやく笑った。また少し涙を流しながらだったけれど。
「あーあ馬鹿と天才は紙一重ってよく言うけど世界一の馬鹿は世界一の天才ってことなんだな」
「僕は馬鹿だ⋯⋯」
「てんめぇ夏目漱石馬鹿にしてんのか? シバくぞ」
お互い顔を見合わせて「プッ」と吹き出し笑いあった。
そしてシフォンも手を出して握手をした。
「俺もお前らの旅に連れてってくれ」
「いいぜ、さあいくぞ!」
俺達のパーティーに一人仲間が加わりました。




